カテゴリ:人権・自由権( 62 )

この国の民主主義のレベルを。

 ごく当たり前のことではある。
 何故なら、自分の周りの議員を見ると気がつくはずであるから。
 「それでも」、と琉球新報(以下、「新報」)は2019年9月24日、「宮古島市副市長発言 民主主義履き違えている」、と社説で論評した。
「民主主義の本旨を履き違えている。長濱政治宮古島市副市長の発言のことである。」、と「新報」は断じる。
 この根拠を、「新報」は示す。


(1)不法投棄ごみ撤去事業の住民訴訟を巡り、市が原告市民から名誉毀損(きそん)を受けたとして提訴を市議会に提案した件で、長濱副市長は「被害者の市に対して訴えの提起を抑制するのは反民主主義だ」と述べた。市民に損害賠償を求め提訴する議案について市は内容を精査するとして撤回したが、再提出を示唆している。
(2)副市長は民主主義の基本についての認識を大きく欠いている。下地敏彦市長にも認識を問いたい。市は本来、保障された市民の権利を妨げてはならず、むしろ保障すべき立場にあるということだ。
(3)今回の住民訴訟は公権力である自治体を監視するために地方自治法で認められた権利である。市民はその権利を行使したまでだ。裁判所は市民の訴えを認めなかったが、市民が訴える権利を否定したわけではない。この保障された権利の行使を自治体が妨げることがあってはならない。


 次も、当たり前の指摘。また、押さえ。


(1)自治体などの公人と一般私人の関係は一般私人同士とは異なる。公人の名誉権は一般私人よりも非常に狭い。権力を持つ公人が、ある市民の表現を名誉毀損だとして都合の悪い意見や考えを排除すれば、民主主義が成立しないからだ。国家権力の不当な行使から国民の権利・自由を守るのが憲法の本旨だ。自治体はその権利を守る責務がある。
(2)識者は、自治体の名誉毀損が成立するのは極めて例外で、財産的損害が発生しない限り認められないと指摘する。それがない以上、今回、名誉毀損は成立しないとする。市が被害者と言うのなら、具体的にどのような被害が生じたか明示する責任がある。
(3)憲法15条は全ての公務員は全体の奉仕者だと定めている。名誉を毀損されたとして市民を訴える行為は市民全体の利益にかなうことか。そもそも全体の奉仕者という自覚があれば、市民を訴えるという発想は思い浮かばないはずだ。


 琉球新報の主張は、「そもそも全体の奉仕者という自覚があれば、市民を訴えるという発想は思い浮かばないはずだ。」、ということにあるから、今回のことについて、次のように結論づける。


(1)形式的に可能でも、自治体が市民を提訴することは本来あってはならない。争いの解決に向けて原因を是正するか、説明責任を果たすことが行政の責務である。提訴はその責務を放棄するに等しい。
(2)今回の場合、市がいくら意図はないと言っても、訴えられる恐怖を抱かせ市民を萎縮させるスラップ訴訟の性格は否めない。スラップ訴訟は国民の権利を恫喝で抑え付けるものだ。それこそ反民主主義的行為であって、市は被害者ではなくむしろ加害者だ。
(3)市が再提案する可能性があるが、いくら形式論を取り繕っても訴訟の正当性を見いだせるはずがない。国民の権利・自由を守る憲法の理念に従い、提訴を断念すべきだ。どうしても再提案するのなら暴走と言うほかない。それを止めるのが市議会の本来の役割だ。議会も民主主義の基本を再確認し、再提案の断念を市に促すべきだ。


 確かに、宮古市及び宮古市議会は民主主義の基本に立ち返るべきだ。



by asyagi-df-2014 | 2019-10-04 07:10 | 人権・自由権 | Comments(0)

住民訴訟を提起した市民を提訴すること。

 琉球新報(以下、「新報」)は、「健全な民主主義が機能するためには言論、表現の自由の保障は欠かせない。こうした自由を、まがりなりにも為政者ら優越的地位に立つ者が威嚇し萎縮させるなど、あってはならない行為だ。厳に慎むべきである。」、と断じる。
 この見解に全く異論はない。
「新報」は2019年9月4日、「宮古島市の提訴方針 市民の言論の自由脅かす」、と社説で論評した。
どういうことか。
「宮古島市議会9月定例会が3日、開会し、市の不法投棄ごみ事業についての住民訴訟を巡り、市は市民6人を訴えるための議案を提案した。」(「新報」)、というのである。
 このことについて、「新報」は、次のように指摘する。


(1)2014年度に市が実施した不法投棄ごみ撤去事業を巡る住民訴訟が今回の提訴方針の発端だ。市民が市長に事業費の返還を求めたが、市民側の請求はいずれも棄却され、最高裁で判決が確定した。
(2)市側は「住民訴訟の原告は、自分たちの訴えが最高裁まで全て棄却されたにもかかわらず、報告会や報道などを通じて誤った主張を繰り返してきた」と主張している。損害賠償の請求額は1100万円だ。内訳は640万円が訴訟費用、460万円が賠償金となっている。
(3)訴えを提起するには地方自治法に基づき、議会の議決が必要だ。
(4)市議会へ提出した議案書を見ると、名誉を毀損された事実とは住民側が法廷などで公然と「曲解して誤った主張」を繰り返したことだという。もちろん宮古島市など地方公共団体にも名誉権は保障される。そうだとしても市側は裁判で、住民側の「曲解した」事実の誤りをただす機会があったはずだ。
(5)宮古島市は人的にも資金的にも一住民とは比較にならないほど優位な立場にある。広報体制も整っている。名誉を毀損されたというのなら市民に事実関係をきちんと説明すれば済む。


 今回の宮古市の行為は、明らかにスラップ訴訟そのものである。
 このことについて、「新報」は、次のように押さえる。


(1)市民の請願行為や行政への苦情、環境問題、開発行為などを批判する発言に対し、企業や政治家、公務員などが提起する民事の不法行為訴訟はスラップ訴訟と呼ばれる。
(2)市民に過度な負担をかけることが目的で、訴訟の勝敗に関係なく起こされるケースもあるという。
(3)こうした訴訟行為は言論、表現活動に対する報復に等しく、看過できない。
 宮古島市が提訴に至れば、言論の自由の萎縮を招き、影響は計り知れない。市民への訴訟は見合わせるべきだ。


 「新報」は、次のようにまとめる。


(1) 宮古島市の不法投棄ごみ事業の訴訟で市民側の代理人を務めた弁護士は、市の提訴方針に対し「政策に異議を述べる住民に対し、どう喝をする目的で提起する訴訟と考えざるを得ない」と指摘する。
(2)物量に劣る市民側が訴訟に対応する費用、時間などで消耗を強いられるのは明らかだろう。住民側が「曲解」していると市は主張するが、市民の誤解を招かないよう説明を尽くす責任が市にはある。
(3)自由な言論や表現によって地方自治は活性化する。公権力を背景に、住民の口封じを図るかのような訴訟を起こすことは地方自治の自殺行為に等しい。


 このまま宮古市が突き進むなら、確かに、地方自治の自殺行為である。



by asyagi-df-2014 | 2019-09-14 08:51 | 人権・自由権 | Comments(0)

今、学校で起こっていること。-なぜ「無言」で清掃・給食なのか?―「対話」より「無言」を重視する教育のおかしさ-

 YAHOOニュ-スは、2019年8月30日、「なぜ「無言」で清掃・給食なのか?―「対話」より「無言」を重視する教育のおかしさ」(苫野一徳熊本大学教育学部准教授・軽井沢風越学園設立準備財団理事)、と配信した。


 どういうことなのか。
全国に広がる『無言清掃』についてです。
 苫野一徳さん(以下、「苫野」)の指摘は、「先日、N H Kスペシャル『“不登校”44 万人の衝撃』という番組が放送されました。番組内では、中学生の4~ 8 人に1人が、不登校もしくは不登校傾向にあるという、衝撃の調査結果が明らかにされました。この問題について、言いたいこと、言うべきことはたくさんありますが、今回取り上げたいのは、この番組でも取り上げられていたまた別の事柄、すなわち『無言清掃』についてです。『黙働流汗清掃』などとも言われます。この十数年で、全国の多くの学校に急速に広がっています。」、と始められます。

(1)先のN H K スペシャルの生放送には私も出演していましたが、この「黙働流汗清掃」が V T R で紹介された瞬間、L I N E で番組参加してくれていた不登校経験者の皆さんからは、「何だこれは、軍隊か!」といった声が一気に寄せられました。ツイッターにも、同じような反応が多数見られました。学校関係者にはよく知られた「無言清掃」ですが、それが世間からすれば異様な光景に見えたのは、当然のことだったと私は思います。
(2)ずいぶん有名になり、また問題視もされるようになった運動会の巨大ピラミッドなども、世間から見れば驚くべき異様な取り組みです。
(3)工事現場では、2メートルを超える高さで作業する場合は安全帯をつけることが法律で定められています(作業床のない場合)。一方、運動会で行われるピラミッドは、6段で3メートル。10 段だと7メートル。一番下の生徒には、男子中学生の場合約200キロもの負荷がかかります。
(4)件もの重大な事故が相次ぎました。にもかかわらず、「感動」とか「我慢」とか「一致団結」とかいったかけ声のもとに、巨大組体操は今もなお少なくない学校で続けられているのです。そもそも、「感動」や「一致団結」が、安全とトレードオフにしてまで教育にとって必要なものなのか、私たちは改めて本気で考え直す必要があるでしょう。全く必要ないと言いたいわけではありません。ただ、「感動」や「一致団結」を、学校が生徒を統率するための都合のいい合言葉にしてしまってはいないかどうか、改めて考え合いたいと思うのです。
(5)下着は白に統一だとか、髪の毛が茶色い生徒には「地毛証明」を出させるだとか、持ち物を統一するとか、机の上の筆記具の配置を統一するとか、そういった細かなルールも同様です。学校関係者は、それが「当たり前」の環境の中で時間を過ごすうちに、いつのまにかそうした世間の目から見れば異様な光景に、いくらか鈍感になってしまっているところもあるのではないかと思います。


 「苫野」は、『無言清掃・給食』の問題を含め、「学校」について指摘を行います。


(1)その意味で、無言清掃や無言給食も、やはりおかしな活動と言うべきです。分刻みで動かなければならない学校の先生にとって、子どもたちが掃除や給食の時間にダラダラおしゃべりして過ごしていては、時間がいくらあっても足りないという本音は分かります。
(2)でもそんな理由で、ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの機会を学校が奪ってしまってもいいのでしょうか。「ただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーション」と言いました。これについては、「本当かな?」と思われた方もいるかと思います。確かに、学校をのぞいてみると、いたるところから子どもたちの声が聞こえてきます。一見、豊富なコミュニケーションがなされているように思います。
(3でも、皆さんもちょっと思い出してみてください。学校に行った時、コミュニケーションをとるのは、クラスの中の実はごく一部の友達だけだったのではないでしょうか? 「黙って、座って、先生の話を聞いて、ノートをとる」のが主流で、「協同的な学び」や「探究(プロジェクト)型の学び」がまだ十分になされていない学校では、こうしたことが起こります。友達とコミュニケーションができるのは、休み時間や部活の時間などに限られます。「仲よしグループ」(ただし、時に上辺だけの)だけでそのほとんどを過ごすことになるのは、ある意味では当然のことなのです。
(4)「無言清掃」は、黙って精神を統一し、自分と向き合う時間、という側面もあるそうです。それはそれでいいでしょう。でも、繰り返しますがただでさえ少ない子どもたち同士のコミュニケーションの時間を奪ってまで、そのような時間を設ける必要があるのかどうか、私たちはやっぱり、定期的に問い直す必要があるのではないかと思います。
(5)時間に余裕がないのであれば、どうすれば余裕を作れるかを考えたいものです。もしかしたら、掃除をする日を減らしてみてもいいかもしれません。別の余計な時間を見つけて、そちらを削ってみる必要もあるかもしれません。


 さらに、「苫野」は、「法律に抵触する可能性も」、と指摘を続けます。


(1)実は、給食や清掃を含む「特別活動」の目標について、新学習指導要領には「多様な他者との協働」が挙げられています。給食については、学校給食法に「明るい社交性及び協同の精神を養う」とあります。無言清掃・無言給食は、少し大げさに言えば、これらに抵触する可能性もあるかもしれません。
(2)熊本市教育長の遠藤洋路さんは次のように言っています。「新指導要領では、学校活動の前提が『同質の集団』ではなく『多様な他者』であることがより明確になった。無言清掃・無言給食に限らず、学校活動全体が、同質集団を前提とした『無言の圧力』を助長するものになっていないか厳しく見直す必要がある」と(熊本日日新聞2018 年12 月12 日夕刊)。


 最後に、「苫野」は、こう結んでいます。


 「学校教育の最大の目的は、お互いの存在を認め合う、そしてこの社会で自立して生きられる個人を育むことです。この目的に照らして、私たちが本当にやるべきことは何なのか、また何をやらないべきなのか、学校関係者は、子どもたちも一緒に、そんな議論・対話をもっと頻繁に重ねていく必要があるだろうと考えています。」


 「学校の常識は世間の非常識?」(「苫野」)。
 確かに、そこには、大人の側からの管理統制という問題が絡む。
 「そもそも、『感動』や『一致団結』が、安全とトレードオフにしてまで教育にとって必要なものなのか」や「学校関係者は、それが『当たり前』の環境の中で時間を過ごすうちに、いつのまにかそうした世間の目から見れば異様な光景に、いくらか鈍感になってしまっているところもあるのではないかと思います。」、との(「苫野」)の指摘は、管理統制に馴染む学校現場の現実の姿です。
これまでも、少年法の厳罰化などに対して明確に対応できないのが学校現場であった。
自戒を込めて。



by asyagi-df-2014 | 2019-09-10 07:11 | 人権・自由権 | Comments(0)

琉球新報は、「ピンクドット沖縄 人権守る社会を目指そう」、と。

 2019年9月1日の琉球新報の社説(「ピンクドット沖縄 人権守る社会を目指そう」)は、「LGBTなど性的マイノリティーを含む全ての人を受け入れ、差別や偏見にさらされずに暮らせる環境をつくろうという機運が高まってきたと言える。」、と始められる。
 例えば、那覇市は、「那覇市パートナーシップ登録」制度ついて、次の表に示している。


 那覇市総合計画及び「性の多様性を尊重する都市・なは」宣言の理念に基づき、人がその多様な性を生きることは人権として尊重されるものであり、その中で築かれるパートナーシップもまた尊重されるべきものであることから、誰もが差別や偏見にさらされることなく、安心して暮らすことのできるまちづくりを目指し、「那覇市パートナーシップ登録の取扱いに関する要綱」を策定しました。
 市では申請に基づき、「戸籍上の性別が同じである2人」が互いを人生のパートナーとするパートナーシップ登録を行い、証明書を交付いたします。
 この制度は、法的な効力を有しませんが、市営住宅の入居申し込みや医療機関での手続き等での活用について、関係機関と調整を進めていきます。市民の皆様におかれましては、誰もが差別や偏見にさらされることなく、安心して暮らすことのできるまちづくりのため、ご理解とご協力をくださいますよう、お願いいたします。


 この「那覇市パートナーシップ登録の取扱いに関する要綱』に基づいて、この制度は 2016年7月8日から施行されている。
 こうした一連の動きに関して、「新報」は、次のように見解を示している。


(1)本紙が実施した県内41市町村へのアンケートで、性的少数者に関する施策、行政サービスの必要性について「感じる」「ある程度感じる」との回答が合わせて28自治体となり、約7割となった。那覇市が導入する同性パートナーシップについては石垣、浦添など7市町村が「検討している」と答えた。県内自治体で関心が高まっている様子がうかがえる結果となった。
(2)県内では那覇市が先駆的な取り組みを進める。2015年に全国で2番目の「性の多様性を尊重する都市・なは宣言」(レインボーなは宣言)を出し、16年に戸籍上の性別が同じカップルを結婚相当の関係と認める「同性パートナーシップ制度」を導入した。浦添市は「性の多様性を認め合うまち」を宣言した。性的少数者の人権を尊重する動きは広がりつつある。
(3)ただ、当事者にとっては今も社会に差別や偏見が残り、カミングアウト(告白)しにくい現状がある。国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチが行った日本の学校でのLGBTの子どもに対するいじめ調査では、当事者の86%が「オカマ」といったLGBTへの暴言を、教師や児童・生徒が言うのを聞いたことがあると回答した。中でも「教師が言うのを聞いた」は29%に上った。
(4)子どもの頃から周囲との違いに悩み、侮蔑的な言葉を吐かれることがどれほど心を傷つけるか。長じても就職などで差別を受け、愛し合っていても同性パートナーとの結婚は認められない。
(5)差別や偏見は、それをなくすべき国会議員からも頻発する。決定的なのは昨年、自民党の杉田水脈(みお)衆院議員による月刊誌「新潮45」への寄稿であった。杉田氏は「『LGBT』へ支援の度が過ぎる」と題し、LGBTのカップルについて「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と切り捨て、行政が支援策を取ることを批判した。その後も自民党の国会議員からLGBTへの差別発言が相次いだことを考えると、社会の差別や偏見は根強く、この状況を変える道のりは遠いと言える。


 「新報」は、この問題について、「LGBTの人たちが生きやすい社会とは、障がいのある人や外国人など少数派と言われる人を含め、全ての人の人権が守られる社会ということだろう。誰もが生きやすい社会を目指す『ピンクドット沖縄2019』が1日、那覇市で開かれる。09年にシンガポールで始まったピンクドットは13年に日本で初めて沖縄で開催され、企業や団体の輪が広がっている。人が個性と能力を十分発揮し、互いを認め合う社会へ。身近な問題として考え、思いを共有したい。」、と訴える。


 確かに、日本の安倍晋三政権の人権感覚のない強引な手法を見る時、LGBTを始めとする性的マイノリティーを含む全ての人を受け入れ、差別や偏見にさらされずに暮らせる環境をつくることが、すべての人にとって、目指す世界であると痛切に感じる。




by asyagi-df-2014 | 2019-09-09 07:14 | 人権・自由権 | Comments(0)

表現の自由を考える。

 「騒動は収まる気配をみせていない。愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」である。この中で開催されていた企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった問題だ。」。
2019年8月25日付けの信濃毎日新聞(以下、「信毎」)の社説は、このように始める。
この「「信毎」」の社説で、「表現の不自由展・その後」の顛末と表現の自由を考える。
 「信毎」は、この問題を次のように捉える。


(1)元従軍慰安婦をモチーフとした「平和の少女像」や、昭和天皇とみられる人物を扱った作品などに電話やメールで抗議が殺到したことが影響した。
(2)中止は「表現の自由」を侵害する問題をはらんでいる。
(3)中止に抗議するため、企画展以外に出展していた外国人作家8人が20日から展示をとりやめた。日本ペンクラブ、日本美術会、日本劇作家協会、美術評論家連盟、憲法学者なども声明を出している。「政治的圧力で検閲」「社会から表現や言論の自由が失われる」「圧力や脅迫への屈服は表現の自由に対する重大な侵害」。いずれも深刻な危機感を示している。考えなければならないことは多い。


 「信毎」は、「多様な声の大切さ」からの視点で、「問題を整理したい。」と次のように指摘する。

 
(1)まず中止の判断についてだ。実行委員会の会長を務める大村秀章・愛知県知事は、テロの予告や脅迫とも受け取れる内容があったことから、「安全な運営」を優先して中止を決めたとしている。
(2)表現を暴力でやめさせようとする行為は看過できない。愛知県は「ガソリンを散布して着火する」といった770通のメールについて、威力業務妨害容疑で警察に被害届を提出している。
(3)企画展はほかの公立美術館などで展示を拒否された作品などを集めた。抗議は想定されていた。作者が作品をみる人に何を訴えて、考えてほしいのか―。十分に説明することが必要だったはずだ。
(4)芸術監督を務めるジャーナリスト津田大介氏らの準備不足は否めない。結果的に作品のイメージだけが伝えられて言葉の暴力を招き、冷静な論議の妨げになった。企画展の中止は、出品していたほかの作品の表現の場も奪った。
(5)同様の失敗を繰り返さないために客観的な検証が欠かせない。


 次に、「政治家の介入の問題」から「河村市長らの主張や中止要請は容認できない。」、と指摘する。


(1)次に政治家の介入だ。河村たかし名古屋市長は慰安婦問題が「事実でなかった可能性がある。日本の主張とは明らかに違う」などとして展示中止を要求した。菅義偉官房長官は文化庁の補助金交付を慎重に判断する考えを示した。政治家が自身の考えに合わない表現を規制すれば自由は失われる。憲法で禁じられている検閲にもつながりかねない。
(2)税金を負担している国民の中には多様な考えがある。国の主張に賛同する人も批判する人もいる。公金支出の展示会だからこそ、あらゆる意見を反映したものでなければならない。河村市長らの主張や中止要請は容認できない。


 さらに、「意見交換の意義」の視点から、次のように指摘する。


(1)「表現の自由」の本質を示す有名な言葉がある。「私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」―。フランスの思想家ヴォルテールのものとして広まっている。
(2)多様な意見を持つ人々が論議し、少数意見に目を配りながら、より適切な施策をつくりあげていく。これが民主主義である。
(3)今回は刑法に触れないまでも、展示の中止を強固に求める電話やファクスが大量に寄せられた。このことをどう考えるのか。
(4)阪口正二郎・一橋大教授は「抗議した人は表現の自由を行使しながら、相手には表現の自由の行使を認めない。こんな不寛容な行為がまかり通れば、自由や民主主義は失われる」と指摘する。
(5)従軍慰安婦問題や元徴用工訴訟などで悪化する日韓関係の影響を受け、韓国の主張に不愉快さや怒りを感じる人も少なくないだろう。一方で主張を聞き、問題を考えたい人もいる。展示会は、そうした契機にもなったはずだ。
(6)憲法学者の故奥平康弘さんは著作「なぜ『表現の自由』か」の中で、海外の論文を引用しながら表現の自由の意義を説いている。「情報の交換が確保されていることが(個人が)知識を高め真理を発見するのに不可欠である」と。意見交換が抑圧されると「理性的判断がむずかしくなり、不安的になり愚鈍化し、新しい物の考え方が出てこなくなる」と。


 最後に、「信毎」は、「今回の問題を巡っては、芸術祭芸術監督の津田氏が出席して、神戸市で開かれる予定だったシンポジウムが中止された。シンポは企画展とは関係ないのに、津田氏が出席することに対して抗議が相次いだためだ。気に入らない表現を圧力で封殺する風潮が広がれば、抗議を受けないことを最優先にした穏当な表現が優先されかねないだろう。表現の自由があることが個人を成長させ、互いに議論を深めることで社会を成熟させていく。私たちは『表現の自由』を守り続けなくてはならない。」、と断じる。


 「表現の不自由展・その後」の顛末を見る時、改めて「不寛容」ということについて考えさせられた。
もちろん、この「不寛容」は、政治が意図的に作り上げてきたものではある。
「情報の交換が確保されていることが(個人が)知識を高め真理を発見するのに不可欠である」(奥平康弘)との言葉が示す地平とは真逆な世界が、意図的に作り上げられてきている。
まずは、表現の自由とは、一つには寛容であるということを肝に銘じる。




by asyagi-df-2014 | 2019-09-04 05:32 | 人権・自由権 | Comments(0)

国民一人一人が人種差別撤廃条約などの趣旨に理解を深め、差別を断固許さない社会を。

 琉球新報は毅然として、「弁護士に対する懲戒請求制度を、差別の手段として悪用、乱用する行為は許されない。」、と世に問う。
琉球新報(以下、「新報」)は2019年7月31日、「弁護士への懲戒請求 差別許さぬ社会築きたい」、社説で訴えた。
弁護士に対する懲戒請求制度を、差別の手段として悪用した事件についてである。
 「新報」は、事実関係を次のように指摘する。


(1)全国各地の弁護士が2017年、インターネット上の特定のブログの呼び掛けに賛同した人々から、計約13万件に上る懲戒請求を受けた。発端は日本弁護士連合会や各地の弁護士会が16年に発表した朝鮮学校への補助金停止に反対する声明にあったという。等しく教育を受ける権利の保障を訴えた声明が懲戒対象になるとは、あぜんとするほかない。」
(2)異様なのは声明に関わった弁護士以外にも懲戒請求が出されたことだ。名前だけで出自を推測して請求したケースがある。自己の意思で変えられない出自を理由に攻撃対象とする卑劣な差別意識の表れである。
(3)弁護士は人権擁護と社会正義の実現を使命とし、弁護士会には自治権がある。資格審査、組織運営、弁護士の懲戒権と幅広い権限を有する。いかなる権力にも屈しないために自由で独立した職権の行使が保障されるのは自治権あるがゆえだ。
(4)懲戒請求は相談者や依頼人、関係者に限らず、誰でも請求できる。『品位を失うべき非行』が対象だ。強制加入団体である弁護士会で、最も重い除名処分となれば弁護士活動はできなくなる。」
(5)懲戒請求を呼び掛けたブログには書式が用意され、これに応じた読者が、見ず知らずの弁護士名が記載された書面に記名、押印するケースが多かった。制度が安易に悪用され、大量の懲戒請求に至ったようだ。」
(6)沖縄弁護士会も昨年7月、961件の懲戒請求が出されたことを明らかにしている。「事実に基づかない不当な請求。懲戒請求制度の乱用」と抗議する会長声明を発表した。


 また、「新報」の指摘は続く。


(1)全国では、根拠もなく懲戒請求を送りつけた人に対する訴訟が起きている。
(2)札幌弁護士会の弁護士3人の元にも全国の960人から同一文面で懲戒請求が届いた。「違法である朝鮮人学校補助金支給要求声明に賛同し、推進する行為は確信犯的犯罪行為」などと記されていた。3人は8月中にも北海道内の請求者52人を相手に損害賠償を求める訴訟を起こす。
(3)出自を理由として懲戒請求された弁護士の訴訟では東京高裁が5月に「人種差別」性を認定し賠償を命じた。幸福追求権や平等原則などあらゆる憲法秩序を破壊するにも等しい請求である。当然の判決と言えよう。


 「新報」は、最後に、「東京地裁の6月の判決では人種差別撤廃条約を初適用し差別を認定した。同条約は国連総会で1965年に採択され、日本も95年に加入した。弁護士だけの問題ではない。社会を差別などによって分断するような動きはネット上をはじめ、常に潜んでいる。国民一人一人が人種差別撤廃条約などの趣旨に理解を深め、差別を断固許さない社会を築きたい。」、と世に訴えるのである。


 確かに、世界を覆うのは、基本的人権の尊重を脅かす事例ばかりである。
 しかし、だからこそ、闘うことの意味は確実にある。



by asyagi-df-2014 | 2019-08-05 07:00 | 人権・自由権 | Comments(0)

問われているのは、基本的人権の尊重を唱えてきた側ではないか。

 今、問われているのは、基本的人権の尊重を唱えてきた側の質の問題ではないか。
試されているのは間違いない。
朝日新聞(以下、「朝日」)は2019年7月19日、「トランプ発言 差別・排斥、看過できぬ」、とその社説で言明した。
 それは、「これがいまの米国の大統領の言葉であるという事実があまりに重く、暗澹(あんたん)たる思いに沈まざるをえない。」、と始められる。
 どういうことなのか。
 「朝日」は、次のように指摘する。


(1)トランプ氏の放言である。非白人の女性野党議員4人を念頭に、「元々いた国に帰り、壊れた国を立て直すのを手伝ったらどうか」とツイートした。4人のうち3人は、難民か、あるいは移民の親を持つ人たちだ。政権の移民政策が排他的だと批判されたことに立腹してのトランプ氏の表明だった。米国では、奴隷の歴史をもつアフリカ系の人々に対する差別表現として「アフリカへ帰れ」という中傷が使われてきた。そうした歴史を顧みない大統領の差別意識は深刻である。
(2)トランプ氏の一連の言動は、人種問題にとどまらない。「誰かが我々の国に問題があるといい、国を愛していないのなら、出て行くべきだ」と発言した。そもそも4人は米国市民であり、選挙を経た国民の代表だ。国の問題や政策について批判する当然の政治活動を、「愛国」問題にすり替えて排除するのは民主主義の否定に等しい。
(3)背景にあるのは、自分の支持層だけを意識し、政敵との分断をあおることが政治的得点を稼ぐという打算だろう。トランプ氏の与党議員たちも、発言を非難する下院決議で賛成に回ったのはごくわずかだった。
(4)分断と党派対立が激化し、政治全体のモラルが低下する流れは、米国だけの問題ではない。欧州連合からの離脱をめぐり揺れる英国をはじめ、欧州など各地で差別や排斥を訴える運動が勢いを保っている。
(5)トランプ発言に対し、メイ英首相が「まったく受け入れられない」と表明したほか、ニュージーランドやカナダの首相らも次々に非難したのは、共通する危機感があるからだ。
(6)グローバル化が進む時代、国民の統合はどの国にも重い課題である。考え方や価値観、背景が多様化する国民をどう包摂するか。多元主義を看板としてきた米国の政治がその重責を放棄するならば、国際社会の規範も崩れてしまう。
(7)グテーレス国連事務総長は今春、「憎悪のメッセージ」や「人種的優越性という有毒な考えをまき散らす指導者たち」に立ち向かうよう訴えた。


 さて、問題は日本政治家達だ。
 「朝日」は、日本の政治家立ち見向けて、次のように警告する。


「日本の政治家も、等閑視している時ではあるまい。日本社会にとっても、多文化共生は逃れようのない課題だ。在日コリアンやLGBTといった少数派や、政治的な見解が異なる相手を「反日」「出て行け」と攻撃する言動はネットなどで日常的に横行している。排斥を黙認する社会は、決して持続可能な未来を描けない。」


 日本において、「『反日』『出て行け』と攻撃する言動はネットなどで日常的に横行している」(「朝日」)のは確かだ。
だとしたら、毅然と闘わなければならない。



by asyagi-df-2014 | 2019-07-26 06:14 | 人権・自由権 | Comments(0)

この国から出て行け。とても許されるものではない。

 またかと、記憶の奥深くに忘れようとしているのではないか。
トランプ米国大統領の発言である。
朝日新聞(以下、「朝日」)の天声人語は、このことを取りあげてくれた。
「朝日」は、このことの経過をまずは示す。


(1)米国の下院議員イルハン・オマールさん(36)は、8歳で難民になった。内戦の続く祖国ソマリアを家族とともに離れ、難民キャンプへ。米国の地に立ったときには、ソマリ語しか話せなかったと米メディアにある
(2)英語をおぼえ政治集会で祖父の通訳をしたことで、政治への関心が芽生えた。州の議員から昨年の選挙で連邦の議員に。彼女の歩みは、アメリカンドリームがまだ死んではいないことを示す。いまや大統領の移民政策を批判する急先鋒(きゅうせんぽう)である(3)オマールさんら、批判で歩調をそろえる4人の民主党女性議員が、トランプ氏の標的になっている。最近のツイッターで「米国にいるのが嫌なら、出て行って構わない」と攻撃された


 「朝日」は、「慣れっこになっている」ことで、どうやら、記憶の奥深くに忘れようとしている状況に、次のように指摘をする。


(1)オマールさんの他は米国生まれで、プエルトリコ系やアフリカ系などのルーツを持つ。「もともといた国に帰って、犯罪まみれの国を直すのを手伝ったらどうか」。そう述べるのが極右の活動家ではなく大統領であることに、慣れっこになってはいけない
(2)大統領再選に向けた白人票目当ての発言、との見方がもっぱらである。それにしても差別意識を丸出しにすることで固められる票とは、いったい何なのか。外国人の受け入れを広げる日本も戒めとしたい


 「朝日」は、「いいニュースがある。与党共和党内に異論が出ていることだ。ある上院議員は『トランプ氏は間違っている。彼女たちは自分の意見を言う権利がある』と苦言を呈した。悪いニュースは、そうした動きが党内のごく一部にとどまることだ。」、と最後を締める。


 いつから、このような差別に黙ってしまうようになったのか。
 米国の政治に従うことを国是にしているこの国の政権がもたらしてしまったものは、同じ世界が目の前にすでに広がっているということではないのか。



by asyagi-df-2014 | 2019-07-21 06:41 | 人権・自由権 | Comments(0)

最高裁第一小法廷は、大崎事件の第三次再審請求審で、福岡高裁宮崎支部と鹿児島地裁の決定を取り消し、再審請求を棄却する決定。

 東京新聞は2019年6月27日、「大崎事件 再審取り消し 最高裁 鑑定の証明力否定」、と次のように報じた。


(1)鹿児島県大崎町で一九七九年に男性の遺体が見つかった「大崎事件」で、殺人罪などで服役した義姉の原口アヤ子さん(92)が裁判のやり直しを求めた第三次再審請求審で、最高裁第一小法廷(小池裕裁判長)は、再審開始を認めた福岡高裁宮崎支部と鹿児島地裁の決定を取り消し、再審請求を棄却する決定をした。再審を認めない判断が確定した。二十五日付。裁判官五人全員一致の意見。 
(2)最高裁は、一、二審が重視した弁護側が新証拠として提出した法医学鑑定を検討。鑑定は、確定判決が「窒息死と推定される」とした男性の死因について、「転落事故による出血性ショックの可能性が極めて高い」と指摘していた。
(3)最高裁は鑑定について、写真だけでしか遺体の情報を把握できていないことなどを挙げ、「死因または死亡時期の認定に、決定的な証明力を有するとまではいえない」と判断した。
(4)有罪の根拠となった「タオルで首を絞めた」などとする元夫ら親族三人の自白については、「三人の知的能力や供述の変遷に問題があることを考慮しても、信用性は強固だといえる」と評価。「法医学鑑定に問題があることを踏まえると、自白に疑義が生じたというには無理がある」とした。
(5)最高裁は「鑑定を『無罪を言い渡すべき明らかな証拠』とした高裁支部と地裁の決定を取り消さなければ著しく正義に反する」と結論づけた。
(6)弁護団は二十六日、東京都内で記者会見し、「許し難い決定だ」と批判。第四次再審請求を検討するとした。
(7)第三次再審請求審では、鹿児島地裁が二〇一七年六月、目撃証言の信用性を否定する心理学者の鑑定や法医学鑑定を基に、再審開始を認めた。一八年三月の福岡高裁宮崎支部決定は、心理鑑定の証拠価値は認めなかったが、「法医学鑑定と整合せず不自然」などとして親族らの自白の信用性を否定し、再審開始決定を維持した。


 この最高裁の判断について、朝日新聞(以下、「朝日」)は2019年6月28日、「大崎事件 再審の門を狭めるな」、と社説で論評した。
 「朝日」は、「冤罪はあってはならないという観点から事件を見直すことよりも、法的安定性を優先した決定と言わざるを得ない。」、との主張の根拠を次のように示す。


(1)40年前に鹿児島県大崎町で男性が遺体で見つかった事件で、最高裁が、裁判のやり直しを認めた地裁と高裁の判断をいずれも取り消し、再審を求めていた女性の訴えを退けた。極めて異例な事態である。
(2)もちろん確定した判決が簡単にひっくり返ってしまっては司法への信頼はゆらぎ、社会に悪影響を及ぼす。だが事件の経緯を振り返ると、最高裁の結論には釈然としない思いが残る。
(3)最大の争点は男性の死因だった。確定判決は「窒息死」としていたが、再審請求審で弁護側は、転倒事故による「出血性ショック死」の可能性が高いとする法医学者の新鑑定を提出。高裁は、これを踏まえると確定判決には様々な矛盾や不合理が生じるとして、裁判のやり直しを決めた。
(4)しかし最高裁は、遺体そのものではなく写真を基にしているなど、新鑑定がかかえる問題点を複数指摘し、「高裁の評価は間違っている」と述べた。
(5)この事件では、窒息死させる際に使ったというタオルが見つかっておらず、また、女性の共犯とされた関係者3人の供述は不自然に変遷していた。3人には知的障害があり、捜査員による誘導が生じやすいケースだ。そもそも窒息死という所見も、すでに腐敗していた遺体を解剖した医師が「消去法」で推定したものだと、当の医師が認め、後に見解を変えている。
(6)そんな脆弱(ぜいじゃく)な証拠構造の上にある判決であっても、いったん確定した以上は、よほど明白な事情がなければ覆すべきではない――。それが棄却決定を通して見える最高裁の考えだ。「疑わしきは被告人の利益に」という、再審にも適用される鉄則に照らし、妥当だろうか。
(7)女性が再審を請求したのは3回目で、1回目でも死因に疑問が呈され、地裁が開始決定を出している(後に取り消し)。つまり今回の最高裁決定以前に事件に関与した八つの裁判体のうち三つが、有罪としたことに疑問を抱いているのだ。


 最後に、「朝日」は、「近年、DNA型鑑定をはじめとする科学技術の進展や、検察の手持ち証拠の開示の拡大により、冤罪が晴れる例が続く。再審開始決定に従わず、上訴を繰り返す検察に疑問が寄せられ、そのあり方も含めて、再審に関する法制度を整備しようという機運が盛りあがっている。今回の決定で、こうした流れが逆行することは許されない。裁判に誤りがあった場合は速やかに正す。そのための最善の方策を追求し続けねばならない。」、と断じる。


 今回の最高裁の決定では、最高裁の考え方には、脆弱な証拠構造の上にある判決であるにもかかわらず、最高裁がいちど確定した以上、よほど明白な事情がなければ覆すべきではない、という強い意志が窺える。
 つまり、「冤罪はあってはならないという観点から事件を見直すことよりも、法的安定性を優先した決定と言わざるを得ない」(「朝日」)ということになる。
 また、「『疑わしきは被告人の利益に』という、再審にも適用される鉄則に照らし、妥当だろうか。」(「朝日」)という観点からすれば、この鉄則を大きく逸脱している。



by asyagi-df-2014 | 2019-07-14 07:00 | 人権・自由権 | Comments(0)

ハンセン病家族訴訟で、国の責任認める初の判決。(2)

 毎日新聞は2019年6月28日、ハンセン病家族訴訟について、「約90年に及んだハンセン病患者への隔離政策により家族も深刻な差別を受けたとして、元患者家族561人が、国に1人当たり550万円の損害賠償と謝罪を求めた集団訴訟の判決で、熊本地裁は28日、国の責任を認め、原告541人に対し、1人当たり33万~110万円(総額3億7675万円)を支払うよう命じた。元患者の家族による集団訴訟の判決は初めて。」、と報じた。


 「裁判官は初めて聞かれる話ばかりだったかもしれないが、懸命に聞いておられた。ぜひ素直に受け止めてほしい」(朝日新聞)との原告の声に、裁判所はどのように立ち向かうことができたのか。
ハンセン病家族訴訟弁護団(以下、「弁護団」)は2019年6月28日、「声明」を発表した。
 この「声明」からこの判決の意味を考える。
 「弁護団」は、「本日、熊本地方裁判所は、ハンセン病であった者の『家族』ら561名が原 告となり提起した訴訟において、ハンセン病隔離政策が病歴者本人のみならず その家族らに対しても違法な人権侵害であったことを認める判決を言い渡した。」、と判決の意味を押さえる。
また、判決内容そのもについて、次のように把握する。


(1)本判決は、らい予防法及びそれに基づく隔離政策が、病歴者の家族に対して も違法であったとして、厚生大臣及び国会議員の責任を認めたのみならず、らい予防法廃止後にも厚生及び厚生労働大臣、法務大臣、文部及び文部科学大臣に対し、家族に対する差別偏見を除去すべき義務に反した責任を認めた画期的判決である。
(2)その一方で、平成14年以降の国の違法行為を認めず、一部の原告の請求を 棄却した点は不当と評価せざるを得ない。
(3)しかし、違法行為の終期に関する法的評価にかかわらず、いまだ社会的に無視できない程度のハンセン病患者家族に対する差別被害が残っていることは裁判所も認めたとおりであり、その解消に国が責任を負うべきことに変わりはない。
(4)家族らは、誤った強制隔離政策が実行されていた当時はもちろんのこと、同政策が廃止された後も、その多くが病歴者と切り離され続け、誰にも打ち明けることができず、孤立させられていたために、被害の実態を自ら明らかにし難かった。しかし、国の隔離政策により作出され助長されたハンセン病に対する差別偏見は、患者本人だけでなく、家族らも確実にその渦中に陥れてきたのであり、家族らは、偏見差別をおそれるあまり秘密を抱えて生きることをも強いられ、まさに人生の有り様を変えられてしまう「人生被害」を受けてきた。


 「弁護団」は、「声明」の最後に、日本政府への要求と自らの決意を、次のように表明する。


(1)本訴訟は、当初59名の原告で始まった第1次提訴後、裁判の存在を知った多くの家族から声が上がり、わずか数カ月で500名を超える原告による第2次提訴となった。この原告数こそ、家族被害の深刻さと現在性、ひいては社会内におけるハンセン病問題が全面解決に至っていないことを如実に示すものである。 国は、本判決を真摯に受け止め、控訴することなく直ちに同判決の内容を履 行するとともに、差別・偏見の解消、家族関係の回復に向けて、直ちに我々と協議を開始すべきである。
(2)我々は、ハンセン病問題の真の解決に向けて、なお一層の力を尽くす所存である。本訴訟を支援していただいた市民の方々に、心から御礼を申し上げるとともに、真の全面解決まで、一層のご理解とご支援をお願いする次第である。  


 真の全面解決まで、ともにあることを誓う。




by asyagi-df-2014 | 2019-07-09 07:59 | 人権・自由権 | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
画像一覧
更新通知を受け取る