2019年 08月 22日 ( 2 )

沖縄-辺野古-沖縄 高江から-2019年8月22日

沖縄県竹富島からの挑戦。
「【竹富島=竹富】年間約50万人の観光客が訪れる沖縄県竹富町竹富島で、1人300円の入島料が9月1日から導入される。主に観光客が対象で、支払いは任意。支払われた入島料は主に島の景観や自然を維持・保全する活動に使われるほか、一部は外部資本に買い占められた土地の買い戻し運動(トラスト活動)にも充てられる。」、と琉球新報。
このトラスト活動については、「島の無秩序な開発を防ぐために行われ、主な資金は全国から募る寄付金で賄う。必要に応じて入島料の3分の1以内がトラスト活動に充当される仕組みだ。」(琉球新報)と。
 また、その挑戦の意味を、「21日に町役場で開かれた会見で、財団の上勢頭篤理事長は『支払った入島料が島の自然や環境につながっていると実感してもらえるように頑張りたい』と語った。西大舛高旬町長は『竹富島の動きを見ながら、将来的には町内の他の島にも広げていければ』と述べた。」(琉球新報)、とも。


 沖縄で起こっていること、その現場の事実をきちんと確認すること。
 2019年も、琉球新報と沖縄タイムスの記事を、「沖縄-辺野古-高江-から」を、報告します。
 2019年8月22日、沖縄-辺野古-高江の今を、沖縄タイムス、琉球新報は次のように表した。


(1)琉球新報-教科書、2人の遺骨代わり 対馬丸撃沈で姉と兄犠牲・久保さん、記念館に寄贈-2019年8月22日 07:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「児童や一般の疎開者を乗せた『対馬丸』が米潜水艦の魚雷に沈められて22日で75年を迎える。姉と兄が犠牲になった鹿児島県姶良市の久保光子さん(81)=那覇市出身=は今年6月、遺骨代わりに大切に保管してきた遺品の教科書を対馬丸記念館(那覇市)に寄贈した。教科書は22日から始まる特別展で展示される。久保さんは『子どもたちに犠牲になった姉たちが使っていた教科書を見てもらい、平和のありがたさを感じてほしい』と願う。」
②「犠牲になった2人は岩城初枝さん=当時(11)=と宗英さん=同(8)。当時5歳だった久保さんは、初枝さんと駄菓子を買いに行ったり宗英さんとセミ捕りしたりした日々を懐かしむ。年が近かった宗英さんとは、よく遠出して家に帰るのが遅くなり、父に怒られたことが思い出だ。 久保さん一家は対馬丸撃沈の直後、憲兵だった親族から『日本は戦争に負ける。沖縄は危ないから病院船に乗って逃げなさい』と助言され、那覇から鹿児島県に移った。久保さんは対馬丸が撃沈されたことは聞かされておらず『九州に行けば会えるだろうと思っていた』という。」
③「鹿児島に移った2年後、2人の名前が記された柳ごうりが熊本県内の海岸に打ち上げられている、と警察から連絡があった。柳ごうりには、対馬丸乗船時に持たせた衣類や教科書が入っていた。父がそれらを熊本から持ち帰り、久保さんら残ったきょうだいに2人の死を打ち明けたという。さらに、母から聞かされて驚いたことがある。母は久保さんも一緒に疎開させようとしていた。ただ、幼い久保さんは『船内で泣くだろうから迷惑』と、姉が拒否したのだという。久保さんは『今考えれば、姉が私の命を救ってくれたんですね』と涙する。」
④「戦後、教科書は風呂敷に包んで花と共に棚に供え、家族で手を合わせてきた。『2人の遺骨の代わりに、大切にしてきた』。両親の死後は残ったきょうだいで大切に保管してきたが、年齢を考えて今年6月末、記念館に寄贈したのだという。久保さんは『記念館で活用していただければ、2人の供養にもなると思う』と話している。」(高田佳典)
⑤「対馬丸記念会(高良政勝理事長)は22日午前11時から、那覇市若狭の旭ケ丘公園にある小桜の塔で慰霊祭を行う。午後10時からは公園内にある対馬丸記念館の屋上で追悼集会を開き、攻撃を受けた午後10時12分に合わせて関係者が祈りをささげる。」
⑥「対馬丸には児童や一般の疎開者ら1661人を含む1788人が乗船したとされ、名前が確認された犠牲者は1484人に上る。開館15年を迎える記念館では22日から9月29日まで特別展『対馬丸75年の想い』が催される。遺族が寄贈した教科書や直筆のはがきなどの、初公開の資料が展示される。」
⑦「太平洋戦争時、日本政府は南西諸島での戦闘の『足手まとい』になる住民を移動し、軍の食料を確保することを主な目的として、県民を九州や台湾に疎開させることを決めた。県内の国民学校から集められた児童らを中心に、『対馬丸』には疎開児童や船員ら計1788人が乗船。撃沈で児童784人を含む1484人(氏名判別者数、2019年8月21日時点)が犠牲になった。県関係の戦時遭難船舶は26隻あるが、対馬丸は最も多くの犠牲が出たとみられる。」
⑧「県外への疎開には、日本軍の兵士らを沖縄に乗せてきた貨物船や軍艦が利用された。1944年8月19日に対馬丸、暁空(ぎょうくう)丸、和浦(かずうら)丸の貨物船3隻で中国から数千人の兵士を運んで那覇港へ入港。この時、既に米潜水艦ボーフィン号に追跡されていた。同21日には疎開する児童らが対馬丸に乗り込み、午後6時35分に長崎へ向けて那覇港を出港した。途中、米軍のレーダーを探知した船団は、潜水艦の魚雷を避けるため蛇行航行して九州へ向かおうと試みる。だが対馬丸は老朽船で、船団の中で速度が最も遅く、潜水艦の格好の標的となった。」
⑨「米軍は日本側が使用していた暗号の解読に成功しており、ボーフィン号は船団が通過する悪石島海域に先回りして待ち伏せた。22日午後10時12分、対馬丸に向けて発射した魚雷攻撃が命中し、黒煙を上げて同10時23分、沈没した。10分足らずで沈没して、船内から逃げ出せなかった児童らの多くが犠牲になった。生存者は、漁船や哨戒船に救助されたり、周辺の島に漂流したりした約280人だけだった。」


(2)琉球新報-竹富、来月から入島料 環境保全活用 島民外、任意で一人300円-2019年8月22日 07:30


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「【竹富島=竹富】年間約50万人の観光客が訪れる沖縄県竹富町竹富島で、1人300円の入島料が9月1日から導入される。主に観光客が対象で、支払いは任意。支払われた入島料は主に島の景観や自然を維持・保全する活動に使われるほか、一部は外部資本に買い占められた土地の買い戻し運動(トラスト活動)にも充てられる。」
②「竹富町によると今回の入島料導入は、地域自然資産法に基づく全国初のケース。県内自治体では法定外目的税として伊是名村や伊平屋村、渡嘉敷村、座間味村が住民も対象とした制度を導入しているが、同法に基づくことで島民らを支払い対象外とした。」
③「入島料は石垣島の石垣港離島ターミナルと竹富島の竹富港ターミナルに設置される券売機で支払う。活動主体となる竹富島地域自然資産財団は、当面の収受率の目標を40%に設定する。観光事業所などでは入島料支払者への特典提供を検討する動きもあるという。」
④「トラスト活動については、島の無秩序な開発を防ぐために行われ、主な資金は全国から募る寄付金で賄う。必要に応じて入島料の3分の1以内がトラスト活動に充当される仕組みだ。」
⑤「21日に町役場で開かれた会見で、財団の上勢頭篤理事長は『支払った入島料が島の自然や環境につながっていると実感してもらえるように頑張りたい』と語った。西大舛高旬町長は『竹富島の動きを見ながら、将来的には町内の他の島にも広げていければ』と述べた。」


(3)琉球新報-横田オスプレイ 嘉手納飛来で抗議 三連協、日米に文書で-2019年8月22日 08:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「【中部】嘉手納飛行場に関する三市町連絡協議会(三連協、会長・當山宏嘉手納町長)は19日、米軍横田基地から17日にCV22オスプレイが飛来したことについて文書で抗議した。同機を嘉手納基地で運用しないよう求めた。」
②「抗議文で、既に外来機の暫定配備などで騒音が増大していることなどを挙げて『安全性に不安のあるCV22オスプレイの運用が常態化することで、周辺住民の基地負担が一層増大することが危惧される』と指摘した。」
③「抗議文は米空軍嘉手納基地第18航空団、沖縄防衛局、外務省沖縄事務所、在沖米国総領事館に郵送した。」


(4)沖縄タイムス-長崎へ向かう途中だった 1484人が犠牲になった「対馬丸」、うち半数が子ども-2019年8月22日 09:28


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「アジア・太平洋戦争の最中の1944年8月22日、国の疎開命令で学童ら1788人が乗船した疎開船『対馬丸』が、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃で沈められた日から22日で75年を迎える。44年7月、サイパン島で日本軍が玉砕し米軍の沖縄上陸が必至と判断した政府は、沖縄本島などから本土へ8万人、台湾へ2万人を送る疎開命令を沖縄県へ伝えた。疎開は軍の食料を確保し、戦略の足手まといになる女性や子どもらを立ち退かせるのが目的だった。」
②「対馬丸事件の以前にも、沖縄関係者を乗せた船が周辺海域で17隻沈められていたが、軍事機密としてかん口令が敷かれ、県民へ正確な情報は伝わっていなかった。」
③「対馬丸は44年8月21日午後6時35分、学童らを乗せて那覇から長崎へ出発。だが、南西諸島の海域は既に日本の補給路を断とうとする米潜水艦の動きが活発化。日本側の軍事情報は米軍に傍受され、対馬丸の船団もボーフィン号に追跡を受けていた。当時、建造から30年がたった老朽船は速度が遅く、翌22日午後10時12分、鹿児島県悪石島の北西約10キロで魚雷を受け、11分後の同23分に沈没した。」
④「対馬丸記念館によると、乗船者のうち氏名が判明している1484人(2019年8月22日現在)が犠牲になった。うち半数以上の784人が学童だった。」
⑤「自らの体験を描いた上原清さん(85)=対馬丸記念会評議員・対馬丸語り部の会会員=の話 戦争で真っ先に犠牲になるのは子どもたちだ。今まで120~130枚の絵を描いてきた。文字だけではなかなか伝わらないこともある。多くの世代の人に絵と対話し、いろんなことを感じてほしい。」
⑥「対馬丸記念会理事長 高良政勝さん(79):『当時私は4歳で、対馬丸には両親やきょうだいら計11人が乗っていたが、生き残ったのは17歳の姉と私だけだ。私の記憶は、とても大きな船だったこと、(沈没後に)1人でいかだにつかまって海に浮いていたこと、塩水が何度も顔にかかって顔を拭きたいが、手を放すと海に落ちてしまうからそれもできずにとても苦しかったことぐらいだ。しかしその後、乗船していなかった兄が祖父母に送った手紙で、実は私は海に1人で浮いていたのではなく、父が抱えていたことが分かった。父は3日間、命懸けで僕を抱きかかえ、いかだにしがみついていたのだと思う。船員に引き上げられて僕は助かったが、父は海に沈み、帰らぬ人となった。父がいなければ今の自分はいない。』『対馬丸の犠牲者は、一般や軍人、船員と比べて学童の割合が高い。乗船者の生存率は引率・一般で約14%、軍人で約49%、船員は約72%だが、学童はわずか約7%だ。戦争は軍人だけではなく、むしろ子どもたちの犠牲が多い。対馬丸記念館は日本でも唯一の子どもの戦争記念館だ。ぜひ残していきたい。継承に向けて、記念館は那覇市教育委員会と共催で、市内小中学校の平和教育担当の教職員を対象にした研修会を毎年実施しており今後も継続していきたい。生存者も高齢化する中、語り部も育てていきたい。」                                 (社会部・伊集竜太郎)
⑦「芥川賞作家「悪石島」著 大城立裕さん(93):『1960年、対馬丸のノンフィクションについて書いてほしいと遺族会から頼まれ、親や生存者を訪ね歩き、共著で【悪石島-疎開船学童死のドキュメント】(61年)を出した。今でも悔しく思うのは、溺れ死にゆく最中の子どもたちの意識を書ききれなかったこと。いくら想像しても書くことはできなかった。ただ、対馬丸を考える時、われわれは悲しい悲劇だと捉えることに留まってはいけない。対馬丸について、私は著書で【行くも地獄、残るも地獄】と表現した。44年7月にサイパンが玉砕した後、次は沖縄が戦場になろうとしていた。軍は沖縄戦に備え、戦場では足手まといになる女性や子どもらを疎開させたが、海もすでに戦争状態だった。もう引き返しのできない時代であり、その【時代精神】の犠牲が、対馬丸の撃沈だったと言える。来年で終戦から75年を迎え、メディアで戦後75年という言葉が増えるだろう。だが、地上戦の前年に起きた対馬丸を考えた時、区切ることのできない時代の流れを意識できるはずだ。戦争はいきなりはやって来ず、何年もかけて、戦争へ向かう精神が国全体に育っていく。対馬丸がなぜ起きたのかを見つめ直して今の時代に重ね、今がどういう時代なのか気付いていくことが私たちに求められている。』」          (社会部・國吉美香)


(5)沖縄タイムス-「忘れない」吉永小百合さんがメッセージ 対馬丸撃沈から75年、那覇市で慰霊祭-2019年8月22日 11:49


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「子どもら1788人を乗せた学童疎開船『対馬丸』が米軍の魚雷で撃沈してから75年を迎えた22日、那覇市若狭の慰霊碑『小桜の塔』で慰霊祭が開かれ、遺族ら約400人以上が家族への思いを胸に集まった。」
②「対馬丸記念館によると、対馬丸の正確な犠牲者数は明らかになっておらず、氏名が判明しているだけで1484人、うち学童784人(22日時点)の犠牲が確認されている。記念館では犠牲者の申請も受け付けているが、昨年の慰霊祭から今年まで新たな申し出はなかった。一方、これまで遺影がなかった学童4人、船員1人の計5人について、遺族から提供を受け追加展示した。遺影は犠牲者の約4分の1に当たる387人分、340枚になった。」
③「22日の慰霊祭では冒頭、場内に船の汽笛が流され、参加者が黙とうをささげた。」
④「主催する対馬丸記念会の高良政勝理事長(79)は『皆さまの帰りをひたすら待ち続けていたご遺族も年を追うごとに少なくなりましたが、慰霊祭への参加は子、孫へと引き継がれてたくさんの人にご参列いただきました』と語り掛け、『争いや戦争のない世界を希求し、安らかなご冥福を祈ります』とあいさつ。」
④「玉城デニー県知事は『遺影を見るたびに、胸が張り裂けそうな思いに駆られます。このような痛ましい悲劇が二度と繰り返されることのないよう、教訓を次の世代へ正しく語り継ぎ、世界の恒久平和の実現に向けて全身全霊をささげていくことをお誓い申し上げます』とメッセージを寄せた。」
⑤「また、記念館のプロモーションビデオにナレーションを吹き込んだ女優の吉永小百合さんのメッセージも紹介された。」
⑥「22日夜には、対馬丸が沈んだ午後10時12分に合わせて遺族らが記念館に集い、追悼式を開く予定。例年は昼の慰霊祭のみだが、今年は撃沈から75年の節目に当たるため、夜の追悼式を開く。」


(6)琉球新報-新基地建設現場上空をオスプレイ旋回 市民、海上作業に抗議-2019年8月22日 15:06


 琉球新報は、「【辺野古問題取材班】米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古での新基地建設で、沖縄防衛局は22日、大浦湾側にあるK9護岸で埋め立て用土砂をトラックに積み替える作業を続けた。海上で作業が続けられる中、上空ではオスプレイが旋回していた。新基地建設に反対しようと、抗議船1隻とカヌー3艇が海に繰り出して抗議した。名護市辺野古の米軍キャンプシュワブゲート前では、強い日差しが照りつける中、新基地建設に反対する市民が座り込んで抗議した。」、と報じた。




by asyagi-df-2014 | 2019-08-22 17:03 | 沖縄から | Comments(0)

目をこらし、耳をすませること。

 目をこらし、耳をすませること。

朝日新聞(以下、「朝日」)はハンセン病家族訴訟がもたらしたものについて、このように説く。
「朝日」の社説、「ハンセン病と差別 理解と克服への道を探る」を考える。
「朝日」は、次のように示す。


(1)ハンセン病の元患者を隔離した国策をめぐり、政府はその家族も差別と偏見にさらされてきたことを認め、補償と名誉の回復に取り組むことになった。隔離政策の開始から110年余。2001年に過ちを認め、元患者への補償に乗り出してからも18年が過ぎた。なぜこんなにも長い年月を要したのか。
(2)愚かな政策の転換と償いが遅れた国を責めるだけでは、十分な解はみつかるまい。それを受け入れてきた社会のありようも問われている。


 だから、「元患者らが、そしてその声を受け止めた人たちが、さまざまに発信を続けている。目をこらし、耳をすませたい。」、と。
一つには、「芸術家とともに」。


(1)一周7キロ、高松市沖の大島は、療養所がある「隔離の島」として知られる。いまは3年に1度の現代アートの祭典、瀬戸内国際芸術祭のまっただ中だ。
(2)かつて元患者がつかっていた家屋に、11の作品が点在する。
(3)『Nさんの人生・大島七十年』は、絵本作家の田島征三さんの作。16歳での離郷、療養所で重症者の看護を命じられた強制労働、同じ病の女性との結婚と妊娠、中絶……。廊下を進むと、部屋ごとにNさんの苦難の歩みが絵巻物風に示される。
(4)美術家の山川冬樹さんが出品したのは「海峡の歌」だ。島外に出ることを禁じられた人々は、自由を求めて対岸へ泳いで渡ろうとした。山川さんは同じ海を泳ぎ、その姿を撮った映像を見せながら、子どもたちが朗読する短歌を流す。「飼い殺しなどと言はれて枠の中に生きて死にたる者ら甦(よみがえ)れ」
(5)社会から排除されてきた島に転機が訪れたのは、10年ほど前のことだった。瀬戸内一帯の島々で芸術祭が催されることになり、大島も参加を打診された。「人間を棄(す)ててきた島に価値はない。誰も来ない」。そんな声が強かったが、療養所自治会の森和男さんは「何があったか知ってもらうためにも、できるだけ多くの人に来てほしい」と考え、島の「開放」を進めた。
(6)芸術祭の作品には、隔離政策の告発のほか、人間としての誇りやつながりの再生を願う思いなどが様々に込められている。孤絶の世界で何を希望に生きてきたのか――。そう考えさせるような展示は、元患者との交流と対話を重ねた結晶だ。


  一つには、「『共感』促す試み」。


(1)次々と訪れる観光客には、隔離の記憶を刻む島だと知らない人も多い。だが元患者の人生を映した作品に触れ、故郷を失った人の納骨堂や強制中絶で命を奪われた胎児を悼む碑をガイドと歩き、共感が生まれる。「選択肢のない人生ってどういうものか考えた」(東京都の32歳男性)。「支え合い、生き抜いた人を尊敬する」(兵庫県の31歳男性)。何度も足を運ぶ大阪市の女性(41)は自宅近くで「語る会」を開き、岡山市の男性(49)はボランティアでガイドを務めるようになった。
(2)大島以外でも、垣根を越えていく、さまざまな試みがある。
(3)岡山県では、療養所がある長島などの島々をめぐるクルージングツアーが催されている。高齢化が進む元患者らが、問題を風化させまいと主催する。長島に残る収容施設や監房跡などを学芸員とまわる。構えずに参加してもらおうと牡蠣(かき)で知られる人気の港を発着場所にした。9月までに7回あるツアーは、すでに予約でいっぱいだ。
(4)全国に13ある国立療養所の大半には資料館がある。その中心が、東京都東村山市の国立ハンセン病資料館だ。関連する映画や絵画、小説、音楽などがつくられてきたことを意識し、それぞれの分野の愛好家を呼び込む企画展やワークショップを開く。今春には元患者らの話を動画投稿サイトで配信し始めた。


 一つには、「一人ひとりが動く」。


(1)ハンセン病をめぐっては、特効薬の開発と普及などで1960年ごろには隔離は不要とされていたのに、打ち切りは96年まで遅れた。元患者への補償へと舵(かじ)を切った01年以降、人権に関する学習活動や啓発事業が行われてきたが、家族は置き去りにされた。
(2)6月末の熊本地裁判決が元患者の家族への賠償を命じた後、安倍首相は控訴を断念し、家族に謝罪した。今後、元患者への補償金支給と名誉回復を掲げる二つの法律が改正され、家族も被害者だと位置づけられる見通しだ。
(3)ただ、それだけで差別と偏見がなくなるわけではない。元患者は隔離によって個人の尊厳を著しく傷つけられた。その家族は就学や就職、結婚などを妨げられた。そうした「人生被害」は想像を絶する。
(4)隔離政策を推進した国が厳しく批判されるのは当然だが、元患者と家族を追い込んだのは地域の住民だったことを忘れてはならない。


 「朝日」は、最後に、「目をこらし、耳をすませること。」とは、「ハンセン病にまつわる歴史を知ろうと、一歩を踏み出す。差別や偏見について考え、自らに問う。一人ひとりのそうした取り組みが、過ちを繰り返さないための礎となる。」、ということだよと。



by asyagi-df-2014 | 2019-08-22 09:51 | ハンセン病 | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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