2019年 07月 01日 ( 2 )

沖縄-辺野古-沖縄 高江から-2019年7月1日

 遺族会と石川・宮森630会が主催として、宮森小学校米軍ジェット機墜落事故の60年慰霊祭が開かれた。
その中でのあいあつの言葉。
「630会の久高政治会長は『沖縄の基地問題の象徴のような出来事だった。遺族の中には今でも涙を流す人がいる。県民の願いは米軍の事件事故がなくなることだ』とあいさつした。」(琉球新報)。
 せめて、「学校の上は飛ばないでほしい。なぜ沖縄の基地はなくならないのか」(琉球新報)との声を肝に銘じよう。


 沖縄で起こっていること、その現場の事実をきちんと確認すること。
 2019年も、琉球新報と沖縄タイムスの記事を、「沖縄-辺野古-高江-から」を、報告します。
 2019年7月1日、沖縄-辺野古-高江の今を、沖縄タイムス、琉球新報は次のように表した。


(1)琉球新報-「空、オレンジに」「戦争か」 宮森小墜落きょう60年 4姉妹、紡ぐ記憶-2019年6月30日 05:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「1959年6月30日、沖縄県うるま市(旧石川市)の宮森小学校に米軍ジェット機が墜落した事故に遭った4姉妹がいる。同小6年生だった長女佐敷美枝子さん(71)、4年生だった次女浦崎米子さん(69)、3年生の三女福原節子さん(68)、小学校併設の幼稚園生だった四女喜納由美子さん(66)だ。姉妹は、あの日のことを忘れたことはない。「4人が持つ記憶はそれぞれ異なる。私たちが語ることで、あの悲惨な事故の記録になるならば」と、欠けていたパズルのピースを埋めるように事故の記憶を初めて証言した。」
②「あの日、美枝子さんがいた6年3組の教室は図工の時間だった。後ろの席の男児がジェット機の絵を黒く塗りつぶしているのを眺めていた。『これからは人工衛星の時代だから』と男児がつぶやいた瞬間、空がオレンジ色に変わった。」
③「3年生の節子さんは給食のミルクを飲もうとした瞬間に響く地響きに『戦争が始まったんだ』と思った。」
④「隣の教室の児童らが走って行く様子を見て、美枝子さんが慌てて廊下に飛び出すと階段は火の海だった。2階の窓から飛び降りて中庭に逃げ、米子さん、節子さんを見つけた。」
⑤「『お母さんが心配している』。美枝子さんは妹2人の手を強く握りしめて必死に家まで走った。服が燃え、ズボンのゴム部分しかない焼けただれた男児が『かあちゃんかあちゃん』と叫びながら走る姿を見た。門の近くで『うちの子、知らない?』と、泣きながら尋ねる女性に声を掛けられた。誰の声にも応える余裕はなかった。」
⑥「幼稚園生だった由美子さんは校舎裏の畑に逃げ、迎えに来た母芳子さんと共に家に戻った。4人全員、大きなけがを負うことなく無事だった。美枝子さんは『みんな無事でありがたい半面、そんな私たちが事故を語っていいのかという戸惑いもある』と明かす。」
⑦「事故は4人の心に傷を残した。節子さんは事故当時、転んでいる同級生を飛び越えて逃げたことを今も悔やむ。由美子さんは同級生の手に残る大きなケロイドを見て、申し訳なさから事故のことを話せなかった。」
⑧「当時は事故を起こした米軍を憎む気持ちもなかった4人。米子さんは『幼すぎて基地があるが故に起きた事故だなんて分からなかった』と語る。ただ、今ははっきりと分かる。宮森小の事故から60年たつ今も事件事故は相次ぐ。2017年には米子さんの孫が通う普天間第二小に米軍機の窓が落下した。基地があるが故の事故。『またか…』と怒りがこみ上げた。『わたしたちの記憶を語り継いでほしいとは言わない。ただ事故を忘れてほしくない』。美枝子さんがそう語ると、3人も深くうなずいた。」 
(新垣若菜)


(2)沖縄タイムス-あす浦添で不発弾処理 避難対象1170人 午前10時から-2019年6月29日 18:01


 沖縄タイムスは、「【浦添】浦添市経塚で発見された米軍製5インチ艦砲弾1発の不発弾処理が30日午前10時からある。周辺の交通規制は同9時55分から処理終了予定の同11時ごろまでの予定だ。処理現場から半径230メートルが立ち入り禁止で、避難対象は532世帯約1170人、59事務所。路線バスも迂回(うかい)する。現地対策本部は市前田の浦添グリーンハイツ公民館、避難所は市前田の国際協力機構沖縄センター(JICA沖縄)体育館に置く。」、と報じた。


(3)琉球新報-60年前の惨劇思い涙 宮森小で慰霊祭 米軍ジェット機墜落-2019年7月1日 05:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「【うるま】児童ら18人が犠牲になったうるま市石川(旧石川市)の宮森小学校米軍ジェット機墜落事故から30日で60年を迎えた。この日、同校では午前9時半から遺族会と石川・宮森630会主催の60年慰霊祭が開かれた。県内各地から多くの人が足を運び、犠牲者に哀悼の意を表した。」
②「第1部では同校中庭の慰霊碑『仲よし地蔵』前で献花や焼香が行われた。遺族や地域住民、うるま市や県の関係者が参列し、黙とうをささげた。参列者は同じような事故が繰り返されぬよう、平和な社会実現を犠牲者に誓った。」
③「第2部は同校体育館に場所を移し、式典が開かれた。事故が発生した午前10時40分ごろに全員で再度黙とうした。宮森小6年生による平和を願う歌『ふくぎの木』の合唱などもあった。」
④「630会の久高政治会長は『沖縄の基地問題の象徴のような出来事だった。遺族の中には今でも涙を流す人がいる。県民の願いは米軍の事件事故がなくなることだ』とあいさつした。」


(4)琉球新報-「光景忘れられない」 慰霊祭に毎年参列する漢那宗雄さん 宮森小米軍機墜落-2019年7月1日 06:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「宮森小学校米軍ジェット機墜落事故で当時小学5年生で放送部だった漢那宗雄さん(70)は、部長の照屋菊江さん=同6年=の追悼のため、慰霊祭に毎年通い続けている。『何もできなかった』と悔やむ漢那さん。脳梗塞による後遺症で足を引きずりながらも参列し、犠牲者に祈りをささげた。」
②「事故の瞬間、漢那さんは教室の黒板に何かを書いていた記憶がある。ジェット機の衝突音を聞き、すぐに校内から逃げ出した。6年3組だった照屋さんの教室に機首とタイヤが激突。漢那さんが照屋さんを見つけた時には、やけどで顔が分からない状態だったという。『あの時の光景を忘れることはできない』。視線を落とし、つぶやいた。」
③「放送部は下校を促す夕刻の放送を毎日欠かさなかったが、事故後しばらく放送できなかった。漢那さんは事故を思い出さないよう、新聞配達のアルバイトに没頭した。『何かしていないと落ち着かなかった』と振り返る。」
④「今でも米軍機が上空を飛ぶたびに『落ち着かない』という。60年たった現在も米軍機による事故が相次いでいることに『せめて学校の上は飛ばないでほしい。なぜ沖縄の基地はなくならないのか』と訴えた。」


(5)琉球新報-60年前の米軍機墜落事故を取材した記者が今伝えたいこと 「沖縄の異常さ気付いて」-2019年6月30日 10:14


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「【うるま】1959年6月30日に起きた石川・宮森小米軍ジェット機墜落事故の際、琉球新報の社会部記者として現場に駆け付け、取材に奔走した森口豁さん(81)=千葉県=が、事故から60年を迎えるにあたり当時の様子や自身の心境を語った。今年2月には、がんで余命1年と宣告された。揺れ動く沖縄をつぶさに見てきたからこそ、今の若者に伝えたいこともあるという。」
②「森口さんは入社2年目の21歳で、同僚と那覇市の泊港にいた。その際、緊急車両が国道58号(旧軍道1号線)をサイレンを鳴らしながら北上するのが見えた。『ただごとではない』と感じ、走っていたパトカーを止め、現場まで乗せてもらった。上司からは『コザにいる記者が取材する。お前は行かなくていい』と言われたが、構わず向かった。」
③「着いた現場は宮森小だった。付近の住宅や校舎からは黒煙が上がり、負傷した子どもたちが担架で運び出されていた。父母もたくさんおり『あいえなー』と叫び声を上げていた。中には米兵に向かって石を投げる人もいた。駆け出しの記者だった森口さんは初めて見る惨状を前にし、当初『どうしたらいいのか分からなかった』と言う。」
④「とにかく今、目の前で起きている現実を伝えるためカメラのシャッターを切り、原稿を書いた。」
⑤「米兵に『フィルムをよこせ』と言われたが、絶対に渡さなかった。事故を語り継ぐ石川・宮森630会の資料集には、そのときの写真が随所で使われている。当時の取材について『ずっと記憶に残り続けている。記者人生の原点だ』と回顧する。」
⑥「事故から60年を迎えた今、若い世代に伝えておきたいことがあるといい、森口さんはこう口にした。『目の前に広がる沖縄の姿が異常だということにどうか気付いてほしい。そのためにも、この島が歩んできた歴史をきちんと勉強してほしい』。しっかりと前を見据えながら、力強くそう語った。」
 (砂川博範)


(6)沖縄タイムス-危険な空「60年前と変わらぬ」 同級生の遺影に涙 宮森小米軍機事故で追悼慰霊祭-2019年7月1日 05:00


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「【うるま】米軍の戦闘機が墜落し住宅や宮森小学校を破壊、18人が犠牲になった戦後最悪の米軍機事故から60年。11人の幼い命が失われた学びやで営まれた追悼慰霊祭では、事故への怒りと、悲しみの声があふれた。」                 (中部報道部・宮城一彰、大城志織、平島夏実、勝浦大輔)
②「事故当時宮森小2年生で、同窓生代表あいさつに立った島袋力夫さん(67)は『復帰後も重大事故や部品落下が多数報告されている沖縄の空は60年前と何も変わっていない。それどころか辺野古に新たな基地を建設しようとしている』と危機感を募らせた。」
③「島袋さんは『安全保障の観点から米軍基地が必要だというのであれば、沖縄の基地の半分でもいいから県外で引き取ってほしい』と語気を強めた。」
④「式典終了後、犠牲者の遺影に駆け寄った伊波光枝さん(72)は当時、戦闘機の一部が突っ込んだ6年3組の教室にいた。全身をやけどした2年生の女の子が『お母ちゃん、お水がほしい』と歩いていた光景が目に焼き付いている。」
⑤「同じ学級の3人が命を落とした。遺影を見つめながら『生きていたら子どもや孫がいて、楽しいこともいっぱいあったはずなのに』と目に涙を浮かべた。」


(7)沖縄タイムス-辺野古の埋め立て事業、きょうで5年 辺野古問題、新たな局面へ-2019年7月1日 05:00


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「名護市辺野古の新基地建設を巡り、沖縄防衛局が埋め立て事業に着手して1日で5年を迎える。当初の工程表では着手から5年以内に埋め立て完了を想定していたが、現時点で埋め立て全体の4分の1に当たる辺野古側の埋め立て区域の半分も埋まらず工事は遅れている。」
②「政府は現在、名護市安和の琉球セメント桟橋と本部港塩川地区の2カ所から土砂を船で搬出。土砂は海上輸送され、辺野古の護岸2カ所から陸揚げして埋め立て区域に投入されている。」
③「県は、埋め立て区域を区切るための護岸に当初はなかった船の係留機能を加えて陸揚げをすることは違法などと指摘し、行政指導で工事の中止を求めている。」
④「翁長雄志前県政は昨年8月に埋め立て承認を撤回したが、国土交通相が撤回取り消しを裁決。玉城デニー県政は裁決の取り消しを求める二つの訴訟を7月に提起する予定で、辺野古問題は新たな局面に入る。」


(8)琉球新報-自民党議員に野党攻撃の冊子配布 出所不明、身内からも批判や困惑-2019年7月1日 16:49


 琉球新報は、「自民党本部が参院選を前に、党所属の全国会議員に演説資料として配布した冊子が話題になっている。野党やメディアを『攻撃』するインターネット上のコラムをまとめたもので、サイトの運営組織や執筆者は不明。所属議員からも批判や困惑の声が上がっている。党本部は6月11日、『野党や一部メディアで誤った情報を発信することが度々見受けられる。報道では語られていない真実を伝える内容』との文書を添付し、各議員事務所に配布した。約140ページの冊子は『フェイク情報が蝕むニッポン トンデモ野党とメディアの非常識』とのタイトルで、ネットメディア『テラスプレス』が編集している。」、と報じた。


(9)琉球新報-東京・国立市議会が辺野古新基地建設中止を求める意見書可決-2019年7月1日 11:26


 琉球新報は、「【東京】東京都の国立市議会(石井伸之議長)は25日の2019年第2回定例会最終本会議で『沖縄県民投票の結果を尊重し、辺野古新基地建設の即時中止と、普天間基地の沖縄県外・国外移転について、国民的議論により、民主主義および憲法に基づき公正に解決することを求める意見書』案を賛成多数で可決した。県民投票を尊重し、辺野古新基地建設の中止と普天間飛行場の県外・国外移転について国民的議論で解決すべきだとの意見書採択を求める元山仁士郎さんらの陳情を受けて議員提案された。自民党と公明党、新しい議会の3会派8人が反対し、ほかの6会派11人が賛成した。1人は早退した。」、と報じた。




by asyagi-df-2014 | 2019-07-01 17:37 | 沖縄から | Comments(0)

2019年6月23日、沖縄慰霊の日を迎えて。(1)

 6月23日、沖縄は、慰霊の日を迎えた。
 私たちは、この日をどのように迎えることができたのか。
 じっくりと考えてみたい。

 沖縄タイムス(以下、「タイムス」)は2019年6月23日、「[きょう慰霊の日]埋もれた声に思い寄せ」、と社説で訴えた。
「タイムス」の語りかけは、次のように始まる。


「『十・十空襲』の後、北部への避難を決めた家族に向かって、視覚障がいの女性が『自分を置いて早く逃げて』と言った、その言葉が心に刺さったという。周りに迷惑をかけたくないとの思いが痛いくらい分かったからだ。『僕だったらどうしただろう』。南風原町に住む上間祥之介さん(23)は、障がいのある当事者として障がい者の沖縄戦について調査を続けている。発刊されたばかりの『沖縄戦を知る事典』(吉川弘文館)では『障がい者』の項を担当。母親が障がいのある子を『毒殺する光景を目の当たりにした』という証言や、自身と同じ肢体不自由者が『戦場に放置されて亡くなった』ことなどを伝える。」


「タイムス」は同日、「無音の戦火、母のサインだけが頼り 耳の聞こえぬ少女が見た“地獄” 初めて語る沖縄戦」、と沖縄戦を障がい者として語り始めた友寄(旧姓・上原)美代子さん(85)の声を伝えている。


「指で眉間から鼻の頭をなぞり、高い鼻を表現するサインは『米兵』、歯を指せば『白人』、髪を指すのは『黒人』−。無音の中、母の身ぶりを頼りに沖縄戦下の南部一帯を逃げた。聴覚障がいのある友寄(旧姓・上原)美代子さん(85)=沖縄県浦添市=は今年5月、初めて戦争体験について証言した。『ずっと若い世代に戦争のことを伝えたかった。でも話すすべがなかった』。74年間抱え込んだ記憶を、信頼する聴覚障がい者の知人と手話通訳士の力を借りていま語る。」                       


 6月23日慰霊の日とは、改めて、沖縄戦のあの日の沖縄の声群れにじっと心を傾ける日なのだ。
 そして、魂とともに見れるものは、すべてその声群れとともに刻み込む日なのだと。

 「タイムス」の声もまた聞こえてくる。


(1)国家への献身奉公が強調され、障がい者が「ごくつぶし」とさげすまれた時代。これまでの聞き取りで浮き上がってきたのは、家族や周囲の手助けが生死を大きく分けたという事実である。
(2)「戦争では皆、自分が逃げるのに精いっぱい。真っ先に犠牲になるのは障がい者や子どもやお年寄り」
(3)沖縄戦における障がい者の犠牲は、はっきりしていない。当時の資料も証言も少ない。話すこと、書くことが難しかったという事情はあっただろうが、沈黙を強いているのはその体験の過酷さである。
(4)優生思想は決して過去のものではない。もし今、自分の住む町が戦場になったら…。上間さんは戦争と差別という二重の暴力の中で「語られなかった体験」の意味を考え続けている。

    ■    ■

(1)沖縄盲学校の教師を長く勤め、視覚障がい者教育に尽くした故中村文さんは、戦後、盲学校が再建されるまでの苦労を講演などでよく語った。
(2)中村さんが盲教育に情熱を傾けるようになったのは、戦地で失明した弟の帰郷がきっかけである。盲唖学校再建の陳情書を作成し、軍政府や民政府に再三足を運ぶが、なかなか取り合ってもらえず、設立の許可が下りたのは1951年のこと。普通学校より6年遅れての再開だった。
(3)戦時中の障がい者の苦労を知っていたからだろう。開校1周年に合わせ中村さんが作詞した校歌には「平和の鐘を聞く時ぞ」のくだりがある。当時の思いを自著で「集まった生徒、父兄、職員は、鉄の暴風の吹きあれる中を生きのびてきた者たち。平和の鐘を聞くことのできる喜びは例えようもありませんでした」とつづっている。
(4)おととし43年ぶりに刊行された『県史 沖縄戦』は、これまで取り上げられることの少なかった「障がい者」や「ハンセン病」「戦争孤児」などにまなざしを向けた。体験を語れなかった、語ろうとしなかった人たち。戦場に放り出され、十分な保護を受けることができなかった人たち。彼ら、彼女らの戦中・戦後の苦難に触れることによって、私たちは沖縄戦の多様な実相を学ぶことができる。それは今も残る差別の問題を学び直すことでもある。


 「きょうは『慰霊の日』。」。
 「タイムス」のこの呼びかけは、私たちに、響く。
 

「体験を語れなかった、語ろうとしなかった人たち。戦場に放り出され、十分な保護を受けることができなかった人たち。彼ら、彼女らの戦中・戦後の苦難に触れることによって、私たちは沖縄戦の多様な実相を学ぶことができる。それは今も残る差別の問題を学び直すことでもある。」


 「6.23慰霊の日」を考えるということは、「優生思想は決して過去のものではない。もし今、自分の住む町が戦場になったら…。上間さんは戦争と差別という二重の暴力の中で「語られなかった体験」の意味を考え続けている。」、との声群れを自分自身に問いかけることである。



by asyagi-df-2014 | 2019-07-01 06:48 | 書くことから-いろいろ | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
画像一覧
更新通知を受け取る