2019年 05月 15日 ( 2 )

沖縄-辺野古-沖縄 高江から-2019年5月15日

 日本復帰から47年目の朝を迎えた。
 琉球新報は、日本政府の不作為の歴史を突きつける。
「沖縄が日本に復帰する前年の1971年、在沖米軍基地の返還に関して米側と協議していた日本政府が、米軍北部訓練場の大幅な返還が可能だとの認識を示していたことが分かった。琉球大学の山本章子講師が外務省外交史料館で確認した解禁済みの機密文書によると、当時の外務省は『北部演習地の70%はほとんど使用されていないので返還を求めるべきだ』との農林水産省の見解を明らかにしている。別の外務省文書は『海兵隊の訓練地域はかなりの面積を減じ得る』との認識を示していた。ただ北部訓練場は復帰後も長く大幅には返還されず、復帰44年後の2016年になって過半が返還された。」「山本氏は16年の北部訓練場の過半の返還について『沖縄返還交渉当時を読み解けば、(過半の返還は)半世紀遅かった』と指摘。復帰前には北部訓練場や周辺の訓練場を林業を営む住民が活用していた経緯に触れ『復帰後には地位協定に基づく提供施設となったことで、林業者のアクセスがさらに規制され、生活の場を奪った』とも。」、と。
 肝に銘じなければならないのは、「復帰後には地位協定に基づく提供施設となったことで、林業者のアクセスがさらに規制され、生活の場を奪った」(琉球新報)ということ。
 もう一つ大事なことは、「国土面積0・6%の沖縄に米軍専用施設の70・3%が集中しており、過重な基地負担が強いられた現状は変わらない」(琉球新報)ということ。


 沖縄で起こっていること、その現場の事実をきちんと確認すること。
 2019年も、琉球新報と沖縄タイムスの記事を、「沖縄-辺野古-高江-から」を、報告します。
 2019年5月15日、沖縄-辺野古-高江の今を、沖縄タイムス、琉球新報は次のように表した。


(1)琉球新報-北部訓練場「7割遊休」 日本政府、71年に認識 「大幅返還可能」も言及-2019年5月15日 06:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「沖縄が日本に復帰する前年の1971年、在沖米軍基地の返還に関して米側と協議していた日本政府が、米軍北部訓練場の大幅な返還が可能だとの認識を示していたことが分かった。琉球大学の山本章子講師が外務省外交史料館で確認した解禁済みの機密文書によると、当時の外務省は『北部演習地の70%はほとんど使用されていないので返還を求めるべきだ』との農林水産省の見解を明らかにしている。別の外務省文書は『海兵隊の訓練地域はかなりの面積を減じ得る』との認識を示していた。ただ北部訓練場は復帰後も長く大幅には返還されず、復帰44年後の2016年になって過半が返還された。」
②「山本氏は16年の北部訓練場の過半の返還について『沖縄返還交渉当時を読み解けば、(過半の返還は)半世紀遅かった』と指摘。復帰前には北部訓練場や周辺の訓練場を林業を営む住民が活用していた経緯に触れ『復帰後には地位協定に基づく提供施設となったことで、林業者のアクセスがさらに規制され、生活の場を奪った』とも。」
③「外務省安全保障課が71年4月1日に作成した『秘』扱いの文書『沖縄海兵訓練地域の縮小の可能性についての内話』は、北部訓練場について『外辺部分は実際の訓練区域へのアクセスのために確保している』という駐日米大使館の見解を報告。それに対し日本側は『(日米)地位協定5条で施設区域へのアクセスは確保されているのだから、訓練に全く使用することなく、ただ通過のためにのみ必要な部分を施設区域とすることは適当でないと主張した』と記している。」
④「米軍が復帰前に地元国頭村との契約に基づき、使用条件を定めて使っていた安波訓練場などの『臨時訓練地』について、外務省条約課による71年3月8日付の『極秘』扱いの文書『復帰に際しての施設・区域提供問題』は使用の正当性を疑問視。『臨時使用は提供しないとの方針で臨むべきだ』としていた。」
⑤「しかし、安波訓練場は復帰後、日米地位協定に基づく提供区域に位置付けられた。98年まで米側に提供された。」
⑥「米海兵隊が13年に作成した文書『戦略展望2025』は、16年の北部訓練場の部分返還について『訓練場の51%の使えない土地が日本政府に返還される』とし、対象地が遊休化していた実態を認めている。」
(島袋良太)


(2)琉球新報-きょう日本復帰47年 沖縄、基地負担減遠く-2019年5月15日 05:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「米国統治下にあった沖縄が1972年に日本に復帰してから15日で47年を迎えた。米国施政下で著しく遅れていた社会生活基盤の整備は進み、観光産業や情報通信関連産業などは発展したが、国土面積0・6%の沖縄に米軍専用施設の70・3%が集中しており、過重な基地負担が強いられた現状は変わらない。」
②「米軍普天間飛行場の移設を巡り、県民は知事選や国政選挙などで辺野古新基地建設に反対する民意を示してきた。今年2月の県民投票では投票総数の7割が反対票を投じたが、こうした民意は尊重されず、政府は工事を続けている。」
③「現在の沖縄振興特別措置法は2021年度に期限が切れる。県は施策を総点検し22年度以降の新振興計画策定に着手する。次の10年でさまざまな課題を解決し、平和で豊かな新時代の沖縄をどう描くか、玉城知事の手腕が問われている。」


(3)琉球新報-27年で5回も通貨が変わった沖縄 つくられた基地依存経済と3次産業の拡大 復帰前の沖縄と通貨変更を振り返る-2019年5月15日 05:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「去年まで使えた通貨が今年からドルに。その14年後には円に―。こんなふうに頻繁に通貨が変わったらどうなるだろう。沖縄には、アメリカ統治下の27年で通貨が5回も変わった、いや“変えさせられた”歴史がある。それが基地依存経済をつくり、いまだに所得水準が全国に比べて低い要因である第3次産業の割合の高さにもつながっている。沖縄が日本に復帰して47年になる5月15日。当時の県民の暮らしを直撃し、今の沖縄経済にもつながる通貨切り替えの変遷を改めて振り返ってみたい。」           (田吹遥子)
○戦後の混乱で無通貨から複数通貨(第1次、第2次法定通貨の変更 1945~48年)
②「米軍が本島に上陸し、軍政府を樹立した1945年4月1日から46年4月15日までの1年間、沖縄には通貨がなかった。戦後の生活を収容所からスタートさせた住民は、着の身着のままの状態。米軍から無償で支給された食糧や衣類で生活し、軍作業に駆り出された。必要なものは住民同士で物々交換していたが、主に米国製のたばこが価値尺度として利用されていたようだ。」
③「通貨が復活したのは46年4月15日。当時は米軍が発行したB型軍票紙幣(B円)、新発行日本銀行券、5円以上の証紙貼付旧日本銀行券、5円未満の旧日本銀行券および同硬貨―が法定貨幣とされ、4月28日までの13日間でいずれかに交換するよう米軍から布告が出された。住民が戦時中から持っていた旧日本円は回収された。これが戦後最初の通貨交換(第1次法定通貨の変更)だ。」
④「しかしそれからわずか4カ月後。米軍は46年8月5~25日にB円を新日本円に交換するよう命じ、9月1日に新日本円を法定通貨にするとの布告を発表した(第2次法定通貨の変更)。この交換は対等の両替率だったので、交換による価値の変更は起きなかったが、本土からの引き揚げ者が円を大量に持ち込んだ。まだ生産力がなく物がない沖縄に円があふれてインフレが激化。物価が上昇してしまった。
⑤「それにしてもなぜ4カ月という短期間で通貨が変わったのだろうか。元琉球銀行取締役調査部長で戦後沖縄経済史をまとめた元副知事の牧野浩隆さんは『当初米軍は新日本銀行券を唯一の法定通貨にしようとしていたが、印刷不足で代用としてB円を発行したのではないか。それを円に戻したということで1次と2次はセットのようなもの』とみている。ちなみに本土でB円は、米軍基地周辺の地域に限定された。」
○基地建設優先のB円時代(第3次法定通貨の変更 1948~1958年)
⑥「それから1947年に再びB円が法定通貨に復活し、48年に法定通貨がB円に統一された(第3次法定通貨の変更)。49年5月に米軍による沖縄統治が正式に決定。沖縄は通貨面で日本経済から切り離され、沖縄と本土が別の道を歩むことになる。」
⑦「米軍が沖縄で真っ先に取り組んだことは米軍基地の建設だった。戦争で何もかもを失った沖縄。いち早く、安く、資材を調達するため、米軍は為替レートを1ドル=120B円とB円高に設定し、輸入を促進した。一方、日本本土では経済発展のために製造業の復興が優先された。こちらでは1ドル=360円と円安で輸出型の政策をとった。」
⑧「当時沖縄で基地建設に携わったのは清水建設や大林組など今でも大手として名を連ねる日本本土のゼネコンだった。資材を本土から輸入し、沖縄県民が労働力として雇われてドルを稼ぎ、また海外や日本本土の安価な輸入品を購入する。牧野さんは『米軍は戦後復興の初期条件とされた日本と沖縄の経済復興と基地建設を【ドルの二重使用】で一気に進めた』と説明する。ちなみに、当時の日本の外貨保有高の約3分の1が沖縄で稼いだドルだったとも言われている。」
⑨「米軍がB円に統一したもう一つの理由が沖縄の経済復興だった。B円高にすることで食料品や生活用品の輸入も進み、安価な輸入品が広まった。B円高が住民の生活を助けた一方で、安い輸入品に沖縄産の商品は勝てない。沖縄の起業家たちは輸入品を仕入れて販売する第3次産業へと流れ、製造業をはじめとする第2次産業は育たなかった。第3次産業の割合が高い経済状況を生み出した。」
○外資導入を狙ったドル時代(第4次法定通貨の変更 1958~72年)
⑩「基地建設が一段落したこの頃、米軍による強制接収で土地を取られた農民や、基地建設が一段落して仕事を失った人たちであふれた。さて、これからどうやって沖縄経済を復興させるか。米軍が考えたのは外資導入と外資系企業の誘致だった。そのために通貨をドルに切り替え(第4次法定通貨の変更)、沖縄で稼いだ分を自国に持ち出せるように貿易や為替を自由化した。」
⑪「ドルの切り替えが始まる58年9月15日の琉球新報では当時の当間重剛主席が『世界第一の価値を持つ米ドルを通貨として使用することに基本的な利益をみとめております』との声明を掲載している。切り替え期間が終わった21日の社説でも『ドルを通貨として使用することにより利点が大きいことは言うまでもないし、通貨切り替えに伴う自由貿易地域の設定とも相まって琉球経済の発展も期待されている』とし、県民の期待が高かったことが伺える。
⑫「1ドルの価値の高さを記憶する人は多い。古美術店『なるみ堂』を営む翁長良明さん(70)は『1ドルさえあれば7人家族で3食をまかなえたよ』と振り返る。一方で『ドルになって物価はどんどん上がった』という感触がある。」
⑬「那覇市で平田漬物店を営む玉城鷹雄さん(68)も『1ドルあれば映画を見てそばを食べてもおつりが出たね』と思い出す。しかし、沖縄の企業の給料は高くはなかった。60年代、沖縄の企業で働いても月28ドルだったが、玉城さんが勤めた本土の土建業者では11万円で円安を考慮しても高い。ただし沖縄でも軍関係の仕事だと300ドルだったこともあったという。『軍の仕事だったら高かったな』。」
⑭「玉城さんの言葉を裏付けるのが、当時の沖縄経済だ。ドルに切り替えた当初の米軍の思惑や県民の期待は外れた。外資系企業の誘致は促進されず、これまでの輸入型経済を助長し、沖縄の産業育成はさらに遠のいた。追い打ちを掛けたのが、県内の通貨流通量のコントロールだ。」
⑮「ドルは米国で発行されているため、沖縄で通貨の流通量の調整ができない。貿易収支で黒字になった時のみ、沖縄でドルが増える仕組みだが、そもそも沖縄では産業が育っていないために輸出する物がなく、貿易収支は赤字。資金不足で企業を興すことができず、負のスパイラルに陥った。逼迫した沖縄経済を補てんしたのが米軍基地からの収入と日米の財政援助だ。それが基地依存経済を招いた。一方、60年代の日本本土は高度経済成長時代。所得倍増計画が打ち出され、本土と沖縄の経済格差はさらに開いた。」
○日本復帰で円へ(第5次法定通貨の変更 1972年~)
⑯「72年5月15日の日本復帰に伴い、通貨はドルから円へと切り替わった。これが第5次法定通貨の変更になる。ドルから円へと切り替わる前年、住民生活に大きな影響を与えたのが、71年のニクソン・ショックに端を発した円の変動相場制への移行だ。1ドル=360円が担保されていた固定相場が変動することでドルの切り下げにつながり、ドルを通貨としていた県民の実質収入が減少した。」
⑰「変動相場制で物価が高騰し、県民生活を直撃した。県労働組合協議会婦人部が実施した県内物価調査によると、那覇地区税関で煎茶は71年8月から72年1月で1・7倍に値上がり、豚肉は1・3倍に高騰。輸入品の『ハーシーズチョコレート』が名護で2倍、宮古で4倍に上がった。」
⑱「円への通貨交換にも影響を与えた。琉球政府は日本政府に対し、復帰前に前倒しして1ドル=360円で円に切り替えるよう求めた。日本政府は復帰前の切り替えこそ応じなかったが、ドル安円高で目減りした県民の資産を補てんするための『通貨確認緊急措置』をとると決定。」
⑲「当時の交換レートは1ドル=305円だったが事前に確認された通貨は1ドル=360円の差額補償があった。通貨確認は71年10月9日に全県一斉に行われた。金融機関や公民館など県内357カ所で長蛇の列ができた。」
⑳「復帰後も値上げの余波があった。沖縄婦人団体連絡協議会は復帰から2日後の17日に三越前に集まり『値上がりにストップをかけよう』と呼び掛けた。訴えを聞いていた住民は当時の本紙の取材に『生活必需品は共同購入して、便乗値上げをしている小売店のボイコットと生活協同組合の設立しかない』と話している。」
○復帰後は「格差是正」から「フロントランナー」へ
㉑「日本との格差を縮めるため、インフラの整備や産業振興を目的とした中長期的な計画「沖縄振興開発計画」が始まった。高い補助率を適用したインフラ整備に伴う公共事業や、これまでの基地収入のほか、徐々に観光業も伸び、県民の暮らしは復帰前と比べて豊かになった。」
㉒「牧野さんによると、復帰に伴い本土への人口流出が想定されていたが、逆に沖縄の人口は復帰当時から約50万人増。基地依存度もピークだった57年の44%から13年度は5%と激減。今年2月の完全失業率(原数値)は2・1%で最低値を更新するなど改善し、観光客は18年度で999万人にも上り1千万人を目前にした。常に本土との格差是正が課題だった沖縄が『日本経済のフロントランナー』と呼ばれるまでに成長した。」
㉓「副知事時代、2002年の沖縄振興計画を担当した牧野さん。これまで本土との格差是正が中心だった同計画を『優位性の発揮』と発想を大きく転換した。その考え方は今の県計画にも通じている。牧野さんは『中央との違いが強みになると考えると、沖縄はこれまでの47分の1から1対46になる。本土のどこの地域とも異なる歴史や文化、風土、特殊性こそがこれから県経済の強みとなる』。期待を込めてこれからの沖縄を見つめている。」



(4)琉球新報-沖縄復帰47年 県民の要求は「核抜き、本土並み」ではなかった…-2019年5月15日 05:05


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「1969年11月22日、沖縄教職員会の文化部副部長だった石川元平さん(81)は失意のどん底にあった。この日未明の日米首脳会談は米軍基地を残したままの『72年沖縄返還』に合意した。新聞紙面に載った日米共同声明を幾度も読み返した。『基地は残して返還される。懸念した通りだ』。」
②「前日深夜、那覇市松尾の八汐荘で、琉球政府幹部と共に共同声明の発表をテレビで見た屋良朝苗行政主席は失意の表情を隠せなかった。隣席の知念朝功副主席も大きく首を振った。翌朝の会見で屋良主席は『共同宣言の内容に満足するものではない』『平和な島を建設したいという県民の願いと相いれない』と苦しい胸中を明かした。」
③「石川さんは屋良主席の側近として復帰運動に力を注いだ。68年11月の主席公選でも秘書として選挙戦を支えた。屋良さんの公約は『即時無条件全面返還』だった。『【核も基地もない平和な沖縄】と分かりやすく訴えていた』と石川さんは振り返る。」
④「それから約1年。屋良主席誕生で示した沖縄の明確な意思を日米両政府が顧みることはなかった。日米共同声明は『核抜き、本土並み』を強く宣伝する内容だった。しかし、佐藤栄作首相とニクソン米大統領の間で有事における核持ち込みの密約を交わしていたことが後年明らかになった。石川さんは今も『欺瞞(ぎまん)的な復帰だった』との憤りをぬぐえない。」

石川元平さん
⑤「それから約半世紀の時が過ぎた。若い女性や子どもたちが犠牲になった米軍犯罪が続いた。平成の30年余の間にも沖縄国際大の米軍ヘリ墜落など重大事故が後を絶たない。県民は幾度も民意を表明したにもかかわらず、日米両政府は辺野古新基地建設をやめない。石川さんは『われわれが願った復帰ではない。今の状態は軍事植民地だ』と怒りをあらわにする。69年当時の記憶が人々から薄れていく中で危惧することもある。歴史の専門家や一部マスコミが『【核抜き、本土並み】が県民要求であったかのような表現がある』と指摘する。しかし、復帰運動で掲げた県民要求は『即時無条件全面返還』だった。日米両政府の『欺瞞』に地元が加担し、歴史の改変につながりかねない状況に警鐘を鳴らす。」
⑥「危機感を募らせながらも希望も抱く。若者の中にも基地問題や歴史に関心を寄せて活動する人がいる。米国で署名活動を展開するなど世界のウチナーンチュのネットワークもあり『これは沖縄の財産だ』と語る。」
⑦「屋良さんは最晩年、『沖縄は二度と国家権力の手段として利用され、犠牲を被ることがあってはならない』と遺言のような言葉を石川さんに残した。『今、沖縄の民意が無視され続けている。この国はいったいどんな国なのか』と石川さんは問い掛け、屋良さんの言葉を反すうしながら復帰の記憶をたどり続けている。」
(仲村良太)


(5)沖縄タイムス-[解説]なぜ住民投票条例案は一度も審議入りしないまま否決されたのか-2019年5月15日 13:00


①石垣市平得大俣への陸上自衛隊配備計画の賛否を問う住民投票条例案が、石垣市議会の特別委員会で一度も審議入りしないまま否決された。同条例案を公正公平に審議する目的で設置された委員会だが、過去2回の会合では与党側が『そもそも住民投票が必要とは思わない』と入り口で突っぱねた経緯もある。」
②「今回の参考人招致も意見陳述後の質疑を認めなかったことで議論の広がりを欠いた。野党側が『やったという既成事実とアリバイづくりにしかみえない』と批判するように、与党側の責任は重い。」
③「住民投票の希望が突然閉ざされた住民からは『議論しない議会とは何なのか』と落胆の声が漏れた。与党は、住民投票を不要とする理由としてしばしば二元代表制を挙げた。推薦した参考人の一人も『市民が(住民投票を)するのではなく市長や市議がしっかり働いてくれたらいい』と、与党側の立場に沿った主張をした。だが、住民投票を求める側の住民らは、間接民主主義を補完する形の直接民主主義の実現を求め、住民投票の意義を訴えてきた。実質的な審議をすることなく形だけの委員会を開催しただけでは議会の役割を果たしているとはいえない。」
 (八重山支局・粟国祥輔)


(6)沖縄タイムス-復帰47年「沖縄には平和憲法が適用されていない」 前名護市長ら辺野古工事に抗議-2019年5月15日 12:02


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「名護市辺野古の新基地建設を巡り、埋め立て用土砂の搬出場所である名護市安和の琉球セメントの桟橋入り口や周辺では15日、新基地建設に反対する市民らが抗議活動をした。午前11時には約70人が集まり、土砂を搬入するダンプカーに向かって『もう基地はいらない!』『埋め立てNO』などと書かれたプラカードを掲げて抗議の意志を示した。」
②「15日で沖縄の日本復帰から47年を迎える。マイクを握ったオール沖縄会議共同代表の稲嶺進前名護市長は『復帰から47年だが、沖縄には平和憲法が全く適用されていない状況が今なお続いていることに怒りを禁じ得ない』と強調。2月の県民投票で示された新基地反対の民意を顧みない政府を批判し『この国に民主主義や地方自治はあるのか。辺野古を止めるためにこれからも頑張っていこう』と訴えた。」


(7)沖縄タイムス-[解説]沖縄振興アンケート 「復帰60年」を見据え議論を-2019年5月15日 10:00


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「沖縄振興のあり方に関するアンケートでは、県議や沖縄関係国会議員の多くが高率補助や内閣府への沖縄関係予算の一括計上方式、一括交付金を評価し継続を求めた。これらの制度が『民間主導の自立型経済の構築』という沖縄振興計画の目標を達成するために、欠かせないツールであるとの認識が改めて示された。」
②「復帰時の沖縄の社会資本整備は他県と比較して大きく遅れていた。高率補助や一括計上という特別なツールによって推進され、社会資本の面では全国水準に近づいた。一方、復帰から47年たっても、1人当たりの県民所得は国民所得の7割にとどまり、子どもの貧困率が全国平均の約2倍などの課題は残る。歴史的背景や地理的、自然的、社会的な特殊事情に起因する条件の不利性は続く。」
③「沖縄振興特別措置法は地域振興法の一つで、北海道や奄美群島、小笠原諸島などにも同様の仕組みがあり、2021年度末に期限が切れた後も改正を求めることは説得力を持つ。自立型経済の構築は道半ばで、実現に向けて高率補助や一括交付金制度が有効な手段であることは事実だ。だが、県が時代の変化による新たな課題として挙げる人口減少や人手不足は他県も同様に深刻だ。」
④「復帰から半世紀を経てもなお、成果が出ているという理由だけで、沖縄独自の制度の延長を求めることに理解が得られるとは限らない。」
⑤「県は次期振計に向け、現行計画の総点検と『新沖縄発展戦略』の反映に向けた調査を行っている。議員らも党派や県政へのスタンスにかかわらず、復帰50年からさらに10年後の沖縄振興のあり方に関し、制度の功罪を検証することが求められる。なぜ必要なのか、役割を終えた制度や新設または発展させる制度など、県と共に理論構築を進めるべきだろう。」                                   (政経部・上地一姫)


(8)琉球新報-沖縄復帰47年 変わらない過重な基地負担 声を上げ続ける市民たち-2019年5月15日 12:34


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「【辺野古問題取材班】日本復帰から47年を迎えた15日、米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設で、埋め立て用土砂の搬出に使われている同市安和の琉球セメント前には約60人の市民が集まり、移設工事反対の声を上げた。」
②「強い日差しが照りつける中、市民らはプラカードを手に『民意を無視するな』『国に負けないぞ』と抗議した。オール沖縄会議共同代表の稲嶺進前名護市長もマイクを握り『47年たっても憲法の基本理念である平和主義、基本的人権から沖縄は除外されている』と憤り、『明日もあさっても行動を続ける。強い心で闘っていく』と声を張り上げた。」
③「15日は午前7時半ごろから琉球セメントの敷地に、ダンプカーが土砂を運び入れた。」



by asyagi-df-2014 | 2019-05-15 18:07 | 沖縄から | Comments(0)

整合性のない強弁は、未来を貶めることになる。

 「在沖米海兵隊の米領グアムへの移転が2024年秋にも始まる。米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設に必然性がないことを示すものだと言える。」、と社説は始まられる。
 どういうことなのか。
 琉球新報(以下、「新報」)は2019年5月6日、「海兵隊グアム移転 辺野古新基地は必要ない」、と論評した。
 「新報」の指摘は、次のものである。


(1)日米両政府は12年4月、在沖海兵隊約9千人を国外に移転しグアムなどに分散する在日米軍再編見直しに合意した。06年の合意ではグアムに在沖海兵隊の司令部を移す計画だったが、12年の見直しで司令部を沖縄に残し、在沖海兵隊の主力歩兵部隊である第4連隊をグアムに移すことに変更された経緯がある。
(2)米の軍事専門家は従来から中国のミサイル射程内にある沖縄の米軍基地の「脆(ぜい)弱(じゃく)性」に懸念を示していた。国防予算削減の動きもあり、米政府が中国を過度に刺激せずに周辺同盟国との連携を強化して遠巻きににらみを利かす戦略に変化した背景もある。
(3)沖縄の海兵隊がハワイやフィリピン、オーストラリアなども含めたアジア太平洋各地域への分散配置を進めているのはその表れだ。


 確かに、こうした在沖米海兵隊の米領グアムへの移転の意味するものは、「主力の実戦部隊がグアムに移転するのなら、海兵隊の航空基地である普天間飛行場の代わりの基地を沖縄に造る必然性に乏しいことも明らかだろう。」(「新報」)、ということになる。


 「新報」は、この根拠を次のように指摘する。


(1)米軍再編後に沖縄に残る海兵隊の緊急展開用実戦部隊は2千人程度とみられている。これでは大規模紛争への対応は困難だ。さらに実戦部隊は1年の半分以上、沖縄を留守にして東南アジアなどを訓練で巡回しているという。
(2)ミサイル戦争の時代、仮に朝鮮半島や東シナ海で紛争が起きても最初に対処に当たるのは空軍や海軍だという指摘もある。
(3)日本政府はこれまで沖縄の地理的優位性と在沖米海兵隊の抑止力などを強調し、辺野古への新基地建設が普天間飛行場返還の唯一の選択肢だと繰り返してきたが、虚構に基づく「優位性」や「抑止力」の説明はもう限界だ。


 「新報」は、こうした明確な状況を基に、「辺野古の新基地建設は現在、埋め立て予定海域にある軟弱地盤の問題で完成が見通せない状況だ。県の試算によると総工費は最大2兆6500億円に膨らみ、完成に13年かかる。これでは、政府も「世界一危険」だと認める普天間飛行場の返還がさらに遅れてしまう。昨秋の知事選や今年2月の県民投票など何度となく示された新基地反対の民意を持ち出すまでもなく、道理の通らない事業なのである。」、と断じる。


 さらに、「新報」は最後に、安倍晋三政権に突きつける。


(1)グアム移転について米軍は25米会計年度の前半(24年10月~25年3月)に移転を始め、約1年半で完了させる方針だという。日米はグアム移転を普天間飛行場の辺野古移設の進展とは切り離して進めることにも合意しているが、菅義偉官房長官は昨年10月、両者は「結果的にリンクしている」と発言している。
(2)沖縄基地負担軽減担当相も兼ねているはずの菅氏の認識は全く理解できないが、グアム移転を早期に完了させるという米側の方針について、少なくとも自身の発言との整合性を説明すべきだろう。


 確かに、整合性のない強弁は、未来を貶めることになる。



by asyagi-df-2014 | 2019-05-15 05:59 | 書くことから-いろいろ | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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