2019年 04月 05日 ( 2 )

沖縄-辺野古-沖縄 高江から-2019年4月5日

「名護市辺野古の新基地建設に伴う沖縄県の埋め立て承認撤回を巡り、石井啓一国土交通相は5日午前の会見で、撤回処分を不服として防衛省沖縄防衛局が求めた審査請求について、撤回を取り消す裁決を下したと発表した。石井大臣は、県が指摘した軟弱地盤の存在について所用の安定性を確保して工事が可能だと指摘。サンゴ類の保全についても環境監視等委員会の指導助言を受けており、配慮されていると判断した。」、と琉球新報。
結局、安倍晋三政権は、防衛省沖縄防衛局の審査請求を国交省が判断するといういかにも安易な方法でしか、裁決できない歪でかつ法を無視した独断的な手法に頼るしかない。


 沖縄で起こっていること、その現場の事実をきちんと確認すること。
 2019年も、琉球新報と沖縄タイムスの記事を、「沖縄-辺野古-高江-から」を、報告します。
 2019年4月5日、沖縄-辺野古-高江の今を、沖縄タイムス、琉球新報は次のように表した。


(1)沖縄タイムス-沖縄の米海兵隊、外泊禁止を解いていた 「地域文化を楽しむために」-2019年4月5日 05:00

 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「在沖縄海兵隊が2016年の米兵による暴行事件を受けて那覇市などでの外泊を禁止していた規制を、今年2月に解除していたことが3日分かった。また、これまで一部の兵士に限られていた自動車の運転免許の取得が、階級にかかわらず上司の許可を得て試験を受ければ取得できる制度変更も実施している。」
②「海兵隊は外泊や免許取得の制度を変更した理由について「海兵隊員と家族がこの地域の文化を楽しむ機会を得られるようにするため」と説明。在沖米軍トップの四軍調整官を務めるエリック・スミス中将は今年2月26日に制度を改定し、海兵隊のホームページに掲載されている動画で制度変更を説明している。」
③「海兵隊は勤務外の行動指針『リバティー制度』で基地の外で飲酒する際は午前0時までに店を出て、午前1時までに自宅に戻ることなどを規定している。」
④「16年に那覇市内のホテルで海兵隊員が女性を暴行した事件が発生し、海兵隊はリバティー制度に浦添市の牧港補給地区(キャンプ・キンザー)より南の地域での外泊を禁止する規制を加えていた。」


(2)沖縄タイムス-「イデオロギーよりサーターアンダギー」 沖縄で広がる言葉とデニー知事の半年-2019年4月5日 05:30

 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「誰が言い出したか、『イデオロギーよりサーターアンダギー』という言葉が、若者を中心にじわりと広がりつつある。語感が面白いだけで、意味はない。もちろん翁長雄志前知事の代名詞『イデオロギーよりアイデンティティー』にかけている。『辺野古』問題で国との対立が続く重苦しい雰囲気を、笑いと明るさで乗り越えてほしい−。玉城デニー知事への期待を込めた、新時代沖縄を象徴する言葉なのかもしれない。」
②「玉城知事は就任から半年間、従来とは違った『知事像』を見せている。真っ先に思い出すのが、沖縄防衛局が辺野古の海に初めて埋め立て土砂を投入した昨年12月14日の翌朝だ。知事は新基地建設の抗議行動が続くキャンプ・シュワブのゲート前を就任後初めて訪れた。『いくら反対しても無駄だ』といわんばかりの政府に対し、『世界一有名な悪役』といわれる映画スターウォーズの『ダース・ベイダー』がデザインされたパーカに身を包み、『私たちはひるんだり、恐れたり、くじけたりしない。諦めない』と拳を振り上げた。」
③「翁長前知事は『行政と市民運動の役割は違う』と、辺野古の現場へは行かなかった。玉城知事は、その線引きを取っ払った。」
④「就任直後の訪米も、県民投票に不参加を表明した市長の説得も、タイミングを見計らう周囲をよそに、知事はすぐに動いた。『軽いと言いたいかもしれないが、それも僕の取りえ』と狙いを聞いたことがある。」
⑤「県が国を訴えた裁判の取り下げを条件に付けるなど、何とか協議の場へ引き込もうと模索するものの、政府に応じる気配はない。『決め手を欠く』と批判を受けるが、もともと手が乏しい中で、圧倒的な権力に立ち向かわざるを得ないのが沖縄だ。」
⑥「政治の道を長く歩んだ翁長前知事の直球勝負と違う、ユーモアと身軽さと意外性の『』デニー流』で辺野古問題の解決に進展があれば、『イデオロギーよりサーターアンダギー』にも新たな意味が加わるだろう。」                        (政経部・福元大輔)


(3)琉球新報-沖縄県の埋め立て承認撤回を取り消し 石井国交相、沖縄防衛局の審査請求受け裁決-2019年4月5日 10:19


 琉球新報は、「名護市辺野古の新基地建設に伴う沖縄県の埋め立て承認撤回を巡り、石井啓一国土交通相は5日午前の会見で、撤回処分を不服として防衛省沖縄防衛局が求めた審査請求について、撤回を取り消す裁決を下したと発表した。石井大臣は、県が指摘した軟弱地盤の存在について所用の安定性を確保して工事が可能だと指摘。サンゴ類の保全についても環境監視等委員会の指導助言を受けており、配慮されていると判断した。」、と報じた。


(4)琉球新報-岩屋防衛相「今後も地元に丁寧に説明」 辺野古移設事業推進を表明 埋め立て承認撤回取り消し-2019年4月5日 11:13


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「【東京】名護市辺野古の新基地建設を巡り、岩屋毅防衛相は5日午前の会見で、防衛省沖縄防衛局の行政不服審査請求に関し国土交通相が沖縄県の埋め立て承認撤回を取り消す裁決を下したことを受けて、辺野古移設事業を進める考えを改めて示した。」
②「『普天間飛行場の一日も早い全面返還を実現し沖縄の負担を一日も早く軽減するため、今後も取り組みを丁寧に説明し地元のご理解、ご協力を得られるよう粘り強く取り組んでいきたい』と述べた。」
③「審査請求では辺野古海域の軟弱地盤が存在することも論点になり、防衛省側の主張が認められる形となった。岩屋氏は『審査でお認めいただいたので、引き続き丁寧に説明しながら安定的に施工できるよう努力をしたい』と語った。軟弱地盤を改良するために今後必要になる県への計画変更申請については『できるだけ早く仕上げて出せるようにしたい』と説明した。」


(5)琉球新報-ゲート前のテントを米海兵隊が撤去 反対市民の拠点-2019年4月5日 11:55


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「【東・国頭】在沖米海兵隊は3日、沖縄県東村と国頭村にまたがる米軍北部訓練場のN1地区ゲート前に、同訓練場のヘリコプター着陸帯に反対する市民らが設置していたテントや掲示物、簡易トイレなどを撤去した。米海兵隊は本紙取材に『日米地位協定の権限と権利に基づいて撤去した』と回答。沖縄防衛局も『米軍が撤去したものと承知している』としている。」
②「米海兵隊は、市民らが不在となった同日夕以降に設置物を撤去。翌日午前6時ごろ、市民が撤去されていることに気づいた。撤去を求める貼り紙はなかった。市民らは突然の撤去に驚きの声を上げ、動揺を隠せない様子だった。」
③「テントは県道70号『国頭・東線』の北向け道路沿い、N1地区ゲート向かいの緑地部分にあった。県によると、緑地部分は日米共同使用区域となっている。米海兵隊は『北部訓練場における米国の排他的使用のためだ。2018年6月から撤去する物件について沖縄防衛局と協議していた』と回答した。」


(6)琉球新報-なぜ沖縄で?ヘリ9機がカリフォルニアの墜落事故の追悼編隊飛行 普天間飛行場周辺 市民から苦情-2019年4月5日 10:56


 琉球新報は、「【宜野湾】2018年4月3日に米カリフォルニア州で大型輸送ヘリコプターCH53Eが墜落し、乗員4人が死亡した事故から1年となり、米軍普天間飛行場上空で3日午後5時15分ごろ、CH53などのヘリ9機が追悼の編隊飛行を繰り広げた。写真共有アプリ『インスタグラム』などで実施が確認された。9機同時の飛行は珍しく、目撃した市民からは市に苦情が寄せられた。」、と報じた。
 また、「県と市が実施している騒音測定調査では、大山局で同時刻ごろ94・5デシベルの騒音を記録した。市の基地被害110番には、長田在住の男性から『米軍機の飛行状況がものすごい。ヘリが編隊で自宅の真上を飛んでいった。初めて見たかもしれない』との苦情があった。」、と伝えた。


(7)沖縄タイムス-県民投票後も工事強行 米紙沖縄の現場を伝える-2019年4月5日 14:09


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「【平安名純代・米国特約記者】米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は3日、名護市辺野古の新基地建設への圧倒的な反対の意思が示された県民投票後、運動を展開していた若者たちが去り、現場で抗議する数少ない高齢者たちは大勢の警備員たちに排除され、新基地建設工事が進められている現状を報じた。」
②「記事は、ロイター通信が配信した沖縄発のルポ。県民投票では反対が約70%に達する結果を出したものの、法的拘束力を持たないため、安倍晋三政権はワシントンとの約束を果たそうと工事を強行していると指摘した。」
③「島の軍事負担を軽減するために、米海兵隊の撤退を望む者は多いが、新たなレーダー基地を配置し、日米による軍備増強が進められているなどと県民の希望と逆行する現実を説明した。」
④「県民投票に関わった若者たちが運動から離れてしまうのではないかと懸念する高齢者らの声も交えながら『辺野古では、抗議する高齢者たちをはるかに上回る数の警備員たちが、一人一人引きずって現場から連れ去る』とし、工事は障害に直面することなく進められているなどと報じた。」


(8)沖縄タイムス-「海の破壊止めて」 埋め立て撤回取り消し市民ら批判-2019年4月5日 15:18


 沖縄タイムスは、「名護市辺野古の新基地建設で、米軍キャンプ・シュワブゲート前では5日、午前中から資材を積んだ大型トラックが出入りしている。建設に反対する市民ら約10人が雨が降る中『美ら海の破壊はやめて』と抗議の声を上げた。石井啓一国土交通相が、県による辺野古の埋め立て承認撤回を取り消すと発表したことについては『軟弱地盤での工事が安全と言える具体的な根拠を示して』『強行に工事を進めるのは許さない』と批判した。海上での抗議行動は悪天候のため中止となった。」、と報じた。



by asyagi-df-2014 | 2019-04-05 17:58 | 沖縄から | Comments(0)

OKIRONを読む。-「普天間基地『返還問題』の起源を探る」

著書名;普天間基地「返還問題」の起源を探る~その①②③~
著作者; 野添 文彬 沖縄国際大学准教授
HP  ;OKIRON


 沖縄国際大学准教授の野添文彬(以下、野添)は、「1980年代を中心に、普天間基地返還問題がどのように沖縄において政治論点化していったのかを歴史的に振り返って検討する。これを通して、1996年の日米合意以降に注目しがちな普天間返還問題を相対化し、そもそも沖縄では何が求められてきたのかを考える。」、とこの論考の趣旨を押さえる。


(1)普天間基地は、1996年に日米両政府によって返還が合意された。しかし、返還条件が名護市辺野古への県内移設であることから、20年以上にわたって基地返還は実現しないままこの問題は迷走している。日本政府は、普天間基地の辺野古移設は、街の真ん中にある普天間基地の危険性を除去するとともに日米同盟の抑止力を両立させる「唯一の解決策」だとして、移設工事を進めている。
(2)一方、沖縄では、翁長雄志県知事を筆頭に、多くの県民が普天間基地の辺野古移設に反対し、政府の移設工事強行に反発の声が高まっている。2017年の世論調査によれば、普天間基地の辺野古移設に賛成する人は27%に対して反対する人は63%だった。辺野古移設に反対する人のうち県外または国外への移設を求める人が55%、「撤去」を求める人が36%に対し、「普天間にそのまま残すべき」と答えた人は、3%に過ぎなかった(河野啓「沖縄米軍基地をめぐる意識―沖縄と全国」『放送研究と調査』2017年8月)。つまり沖縄県民の多数が、辺野古移設に賛成であれ反対であれ、普天間基地返還を求めているのだ。


 したがって、野添は、「私たちは、普天間問題を考える際に、県内移設を前提とした普天間基地返還という1996年の日米合意を『起源』と考えがちである。また、1996年の普天間返還合意については、その前年1995年の3人の米兵による少女暴行事件への沖縄県民の怒りや、当時の橋本龍太郎首相やクリントン大統領、ペリー国防長官のリーダーシップが注目される(宮城大蔵・渡辺豪『普天間・辺野古 歪められた20年』集英社新書、2016年)。しかしその結果、1996年以前から求められてきた、沖縄における普天間基地返還要求が見落とされがちなのではないだろうか。」、と


 この論理の展開の基に、「まず、普天間基地の歴史を見ておきたい。」、と始める。長い引用になります。


(1)普天間基地の建設が開始されたのは、1945年の沖縄戦の最中である。もともと、普天間基地がある場所には集落が存在し、約9000人が生活していた。4月に沖縄に上陸した米軍は南部へ侵攻し、同時に日本本土を攻撃するために集落を破壊して普天間基地を建設する。集落に住んでいた人々は、戦争中から戦後数か月間、収容所に収容されていた。彼らが1945年末から1946年半ばに解放されて自分たちの土地へ戻ったとき、集落は跡形もなく、普天間基地の滑走路が広がっていたのである。住民たちはやむなく基地の周辺で生活を始めるしかなかった。
(2)普天間基地は、当初陸軍が管轄していたが、1960年に海兵隊へ移管される。滑走路も、当初2400メートルだったが、朝鮮戦争で後方基地として使用され、1953年には2700メートルに延長される。とはいえ、当初、普天間基地は米軍にとってそれほど重要という訳ではなかった。米国がベトナム戦争の泥沼化に苦しんでいた1968年には、国防省内で普天間基地の閉鎖が提言されている(川名晋史「1960年代の海兵隊『撤退』計画にみる普天間の輪郭」屋良朝博ほか『沖縄と海兵隊―駐留の歴史的展開』旬報社、2016年)。
(3)ところが、沖縄の施政権返還が合意された1969年以降、普天間基地は強化されていく。同年11月には、第一海兵航空団の第36海兵航空群が普天間基地に移駐し、本拠地として活動するようになる。沖縄返還直後の1973年1月に嘉手納基地の補助飛行場としてジェット機が使用できるよう、普天間基地の滑走路の延長が行われる。1976年には山口県の岩国基地から第一海兵航空団司令部が沖縄のキャンプ瑞慶覧と普天間基地に移駐する。同年、北谷町のハンビー飛行場が返還されると、代替となる格納庫や駐機場などが建設されるとともに、ハンビー飛行場で行われていた海兵隊のヘリコプター訓練が普天間基地で行われるようになる。しかし、普天間基地の役割がますとともに、周辺地域への騒音被害や事故も増えていった。
(4)普天間基地が街の真ん中にあることを、米国政府も問題視していた。1973年、国務省政治軍事問題局は、普天間基地について、「ここで使用される航空機は、人の多く住む地域を低く飛び、目立った騒動を起こす」ので、「明らかに政治的負債」だと問題視している。また1976年に第一海兵航空団司令部が沖縄に移転してきた際には、米国の那覇総領事館は、移転先の普天間基地が街の真ん中にあることに懸念を表明していた(野添文彬『沖縄返還後の日米安保―米軍基地をめぐる相克』吉川弘文館、2017年)。
(5)沖縄戦の最中に建設された普天間基地は、1970年代に入る頃から機能が強化された。今回は、こうした中で、地元で普天間基地返還を求める声が高まっていく過程についてみていきたい。



宜野湾市の普天間基地返還要求
(6)1960年代以降、沖縄本島中部の要衝である宜野湾市では都市化が進んだ。宜野湾市の人口は1965年の3万5000人から1975年には約5万5000人、1980年には約6万3000人へと増大する。なお、普天間小学校の過密化から普天間第二小学校が暫定的に設置されたのが1969年、校舎の一部が建設されたのは1970年のことだった。しかし、それまであまり使われていなかった普天間基地の機能が強化され、騒音被害が深刻になったのはまさにこの頃からだったのである。
(7)1973年6月、宜野湾市は、市の面積の約4割が米軍基地に占められており、都市計画や交通体系、住民福祉の障害になるとして、米軍基地の返還を要請している。もっともこの時点では、「広大な基地の解放には多くの時日を要するものと思われ」るとして、基地の即時返還を求めてはいなかった。しかし普天間基地の役割が増大する中、騒音被害や事件・事故も頻発していた。1972年12月には、米軍機の燃料タンクが基地近くに建設中の沖縄国際大学に落下した。1980年10月2日には、普天間基地の滑走路で米軍機が訓練中に墜落し、乗員1名が死亡する。1982年8月19日には、訓練中の輸送ヘリが同基地の滑走路に墜落している。これは普天間第二小学校の200メートル先でしかなかった。この時期には普天間基地の外でも同基地所属のヘリが墜落や緊急着陸、不時着を繰り返している(『宜野湾市と基地』昭和59年)。こうした中、1980年に宜野湾市は普天間第二小学校の移転を検討し始める。
(8)さらに、1983年10月、宜野湾市が地元として初めて普天間基地の返還を要請する。きっかけとなったのは、1983年7月に米軍攻撃機Aスカイホークが普天間基地に移駐したことだった。ジェット機であるAスカイホークが夜間に飛行訓練を繰り返したことで、市民の間で基地被害・事故への不安が高まり、基地返還要求が強まったのである。
(9)こうして1983年10月8日、宜野湾市の安次富盛信市長が、西銘順治沖縄知事に普天間基地の移転を要請した。安次富市長は、次のように訴える。「普天間飛行場は市街地のど真ん中に位置し、本市の発展に大きな障害になっているばかりか、米軍ヘリや各種航空機の離発着訓練、演習等が昼夜頻繁に行われ、それから発生する爆音被害は恒常化しており、市民の物的、精神的障害は計り知れない」。その上で安次富市長は、普天間基地を「安全な場所に移転させてほしい」と要請したのである。(『宜野湾市と基地 昭和59年』)。


 あわせて、野添は、「西銘沖縄県知事の普天間基地返還論」の紹介する。


(1)実は当時、沖縄県知事であった西銘順治も1982年の再選にあたって普天間基地返還を掲げていた。西銘は、自民党の保守政治家であり、日米安保・自衛隊を支持していた。なお、宜野湾市の安次富市長も、自民党の保守政治家であった。その後、西銘知事は、1985年と1988年には訪米して米国政府に普天間基地返還を直接要請する。なぜ保守政治家の西銘が、普天間基地返還を唱えたのか。
(2)西銘は、沖縄県知事になる前には那覇市長や衆議院議員もつとめた有力政治家である。1968年以来、屋良朝苗、平良幸市といった革新系の知事は、日米安保反対、基地撤去を訴えてきた。これに対して西銘は、当時厳しい不況の中にあった沖縄経済を日本政府による財政支援によって立て直すことを最重点課題に置き、1978年の沖縄県知事選挙で勝利した。こうして西銘は、県政一期目の時期は、経済振興に重点を置き、基地問題については、整理縮小よりも、米軍による事件・事故への対応に専念した。日米両政府も、このような西銘の県政運営を高く評価していた。(野添『沖縄返還後の日米安保』)。
(3)しかし西銘は、再選をかけた1982年11月の沖縄県知事選挙では、積極的に米軍基地の整理縮小を掲げる。公約で西銘は、米軍基地は「振興開発の推進さらに県民生活向上の上からも大きな阻害要因」だとして、「基地の整理縮小を推進する」という方針を示した。そして西銘は、インタビューで「普天間飛行場等の都心部に位置している基地等については、これを移設していきたい」と発言する(『琉球新報』1982年11月9日)。再選後も西銘は、「都心部に位置している普天間飛行場等、市町村の再開発のじゃまになるような基地は、のけてもらう」との考えを示している(『琉球新報』1982年11月16日)。
(4)二期目以降の西銘の方針の変化にはどのような背景があるのか。一つは、公約でも述べているように、西銘が重視する沖縄の振興開発のためにも、米軍基地が大きな障害になっていたことである。第二に、米軍基地に対する沖縄県内の世論である。保守県政を誕生させたとはいえ、沖縄県民は、基地の縮小を強く望んでいた。1982年の世論調査では、米軍基地について「全面撤去」「本土並みに少なく」と回答した人は、77%に上っていた(河野啓「本土復帰後四〇年間の沖縄県民意識」『NHK放送文化研究所年報2013年』)。
(5)こうした中、西銘は、沖縄の経済発展のために重要な位置にあり、米軍関係の事件・事故が頻発する中、普天間基地の返還を主張するようになったといえる。また、西銘県政の元幹部によれば、西銘は、米軍による事件・事故が多いことや、宜野湾市が人口過密であることを問題視しており、「嘉手納基地もあることだし、普天間基地はいらないんじゃないか」と述べていたのだった。1980年代に入って普天間基地返還問題が沖縄で政治論点化する中、西銘順治県知事は1985年と1988年に訪米し、米国政府に対し普天間基地返還を直接要請する。今回は、この西銘訪米を検討し、沖縄で求められていたのは何だったのかを考える。

 
 次に、野添は、「西銘県知事訪米」の意味を押さえる。


(1)1984年11月、西銘知事は、記者会見で「沖縄の基地が過密で、それゆえいろいろな基地問題が派生している」と述べ、訪米して米国政府に直接基地問題の解決を訴える方針を示した。この背景には、当時、米爆撃機B52の相次ぐ飛来、米兵による住民殺害事件など、米軍関連の事件が多発していたという事情があった。当時の知事公室長・国吉真賜によれば、「現地軍と交渉したが、らちがあかない」と考えられたのである(琉球新報社編『戦後政治を生きて―西銘順治日記』琉球新報社、1998年)。なお、沖縄県知事が訪米して基地問題の解決を要請することは現在では珍しくないが、西銘訪米はその初の試みであった。
(2)西銘は、1985年5月から6月にワシントンを訪問し、ワインバーガー国防長官、アマコスト国務次官、アーミテージ国防次官補などと会談する。西銘は、ベトナム戦争の終結、米中・日中関係の改善など国際情勢が好転しているにもかかわらず、沖縄に米軍基地が集中し、「都市経済、産業振興の障害になっているし、被害も大きい」と訴えた。その上でキャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブでの演習の中止、普天間基地や那覇軍港の移設などを求めた。西銘は、日米安保を支持しながらも、「せっかくアメリカまで来たのだから、思いきったことを言わないと問題の早期解決にはならない」と覚悟して様々な要請を行ったのである(『琉球新報』1985年6月9日)。
(3)西銘は、1986年11月の沖縄県知事選挙で三選を果たす。しかし、この間も西銘は、県道104号線越えの実弾射撃訓練など基地問題に悩まされた。こうした中、1988年4月、西銘は再び訪米する。訪米前、西銘は基地問題について「政府だけにまかせておけない」と述べている(琉球新報1988年4月22日朝刊)。また西銘は、「基地問題は県政の中心課題」であり、「保守、革新を超えて解決に努力しないといけない」と発言している(『琉球新報』1988年4月18日朝刊)。西銘は、保革を越えた、いわば「オール沖縄」で基地問題に取り組む必要があると考えていたのである。
(4)訪米した西銘は、カールーチ国防長官やアーミテージ国防次官補、グレイ海兵隊総司令官らと会談する。ここで西銘は、「今後とも日米安全保障体制を踏まえた日米友好協力関係をより緊密にするためには、沖縄県民の不満を解消するとともに県民との摩擦を避けることが最も肝要」だと訴えた。その上で西銘は、「狭い沖縄県内で新たな代替地をみつけることは不可能に近い」として、米軍基地の整理縮小について全面的な見直しを求める。また西銘は、普天間基地について、土地利用や産業振興、さらに騒音や危険の問題から、その「早期返還」を要望した。


 野添は、こうした西銘県知事(当時)の訪米の意義について、「注目すべきは、西銘が、米軍基地の「移設なき返還」を求めたことである。」、と次のように押さえる。


(1)注目すべきは、西銘が、米軍基地の「移設なき返還」を求めたことである。1972年の沖縄返還実現以降、しばしば沖縄米軍基地の整理縮小が日米両政府によって合意されてきたが、そのほとんどが県内移設条件であり、移設先が決まらないで返還されない基地が多くあった。その最大のものが、1974年に返還合意された那覇軍港である(現在も未返還)。西銘は、「余程条件整備をやるか地域住民の支援がないとできない」として、「リロケーション(移設)前提は事実上不可能」で「沖縄に移転先をみつけるのは困難」だと考えていたのである(『琉球新報』1988年4月16日朝刊)。
(2)これらの二度にわたる西銘訪米は、ただちには成果をもたらさなかった。しかし、1995年9月、米兵三人による少女暴行事件が起こった時、米国では、かつて国防次官補をつとめ、西銘訪米の際に応対したアーミテージが、国防省に普天間基地返還を主張した。ペリー国防長官が、普天間基地返還を決断した背景には、知日派のアーミージの助言もあった(船橋洋一『同盟漂流 上』岩波書店、2006年、山本章子「米国の普天間移設の意図と失敗」『沖縄法政研究』2017年2月)。西銘の訪米は、こうした形で1996年の日米両政府による普天間基地返還合意に影響を与えたのである。


 最後に、野添は、「沖縄側の要求は『移設なき返還』」、と次のように指摘する。


(1)ここまで、普天間基地「返還」問題がどのように沖縄で政治論点化していったのかを見てきた。まず、沖縄戦の最中に、住民の生活する集落を破壊して造成された普天間基地の「出自」こそが、この問題の原点に他ならない。1970年代以降に普天間基地の機能が強化され、事件・事故が多発する中で、危険性の除去や沖縄の経済振興のために地元の宜野湾市や沖縄県で基地返還が公に要求されるようになった。さらに西銘県知事が、二度にわたる訪米によって、普天間基地返還を米国政府に直接訴えた。西銘は、日米同盟の安定という観点からも、基地負担への沖縄県民の不満を解消すべきだと考えていた。
(2)今日、日本政府は、普天間基地の危険性除去と普天間基地が返還された場合の経済発展を根拠として、普天間基地の辺野古移設を推進している。しかし、これらは、すでに1980年代には沖縄県内で唱えられていた。しかも、西銘が二度目の訪米で主張したのは、「移設なき返還」であった。西銘は、那覇軍港の例のように県内移設条件の返還は不可能であると認識していたのである。


 だから、野添は、普天間基地返還問題を考える上で、重要なことは、次のことであると結論づける。


「沖縄側の要求を、日米両政府は、最初は無視し、その後は辺野古移設を条件にして沖縄側の反発を引き起こし、基地の『返還』を事実上遠ざけてきたといえる。普天間基地の危険性が改めて明らかになる中、沖縄側が求めていたのは、普天間基地の『移設なき返還」であったことに立ち返って、この問題を考える必要があるのではないか。」


 確かに、この野添の論考から、普天間基地「返還」問題を考える上で、次のことが確認できる。


1.まず、沖縄戦の最中に、住民の生活する集落を破壊して造成された普天間基地の「出自」(野添)こそが、この問題の原点に他ならないということ。
2.1980年代には沖縄県内で唱えられていたのはが、「移設なき返還」であったこと。





by asyagi-df-2014 | 2019-04-05 07:08 | 本等からのもの | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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