2018年 07月 30日 ( 2 )

沖縄-辺野古-沖縄 高江から-2018年7月30日

 「730(ナナサンマル)」を経験した沖縄。
「交通が右から左へ、一夜にして変わる。こんな経験をしたのは日本で沖縄だけだ。」、ということに深く気づくには大きな時間が必要だった。
 沖縄を初めて訪れたのは、7年経過後の1985年。その頃には、まだ、「車は左、人は右」(?)の標識があちこちに見られた。沖縄の歴史が少し見えだしたのは、1995年だった。




 沖縄で起こっていること、その現場の事実をきちんと確認すること。
 2018年も、琉球新報と沖縄タイムスの記事を、「沖縄-辺野古-高江-から」を、報告します。
 2018年7月30日、沖縄-辺野古-高江の今を、沖縄タイムス、琉球新報は次のように表した。


(1)琉球新報-右と左が一夜で逆転した日 沖縄「ナナサンマル」狂騒曲-2018年7月30日 06:30


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


【道路も「アメリカ世」から「大和世」へ】
①「上の写真は1978年(昭和53年)7月17日の那覇市内を撮影した写真だ。
何か違和感を感じないだろうか?そう、車が右側を走っているのだ。ちょうど40年前の1978年7月30日。沖縄県民が「730(ナナサンマル)」と呼ぶこの日は、歴史的な一日として語り継がれている。それまで自動車は右側通行だったのが左側通行に変更され、道路標識や道路標示、信号の切り替えがわずか8時間で行われたという、国内で類がない〝交通革命〟が起こった日だ。」
②「沖縄も戦前は日本の他の地域と同じように左側通行だった。戦後、米統治下となったことで交通法規もアメリカ式の右側通行になった。1972年に沖縄は日本復帰を果たす。だが、『復帰特別措置法』の中で交通方法は『復帰後3年を経過した適切な時期』で切り替えることと記され、しばらくは右側通行を維持することに。県民には『世界の多くの国が右側通行なのに強いて日本に合わせる必要はない』という反対意見もあったというが『一国一交通制度』が尊重された。」
③「 当初、県は復帰2年後の74年に右・左の切り替えを行うつもりだったが、翌年の沖縄国際海洋博覧会、海洋博後の『アンコール・フェア』(後に開催断念)とビッグイベント開催を控えていたことから延期。さらに、道路標識や信号機の変更、バスやタクシーのドアを反対側に取り付けることへの補償、運転手の教育、県民へのPRなどに時間がかかることを考慮した結果、切り替えは78年7月30日実施と決定された。」
④「78年7月30日を境に『車は右、人は左』の“アメリカ世”から『車は左、人は右』の“大和世”へ移り変わる―。県民全体を巻き込んだ一大プロジェクトが動き出した。」
【日常にあふれた「車は左、人は右」のうたい文句 】
⑤「当日に向けて街にはシンボルマークやポスター、『車は左』『人は右』の標語があふれ、『ナナサンマルの歌』がつくられた。学校では交通安全教室が開かれ、テレビや新聞でもキャンペーン報道が繰り広げられた。『クイズ730』という視聴者参加型のクイズ番組は連日放送されて人気を集めたという。」
⑥「『ナナサンマルは日常の話題だった』。 当時を知る男性記者(52)はそう振り返る。那覇に近い浦添市に暮らす中学1年生だった。所属していたバスケットボール部では、一列に並んでリングボードにボールをぶつける練習を『連続で730回成功するまでやろう』と盛り上がった。道路には新しい標識が次々と立てられ、右左折を示す道路標示も塗り替えられていった。『街の風景がどんどん変わっていく。中学生ながらにナナサンマルは身近に感じた』という。」
⑦「 本島北部の本部町で中学2年生だった別の男性記者(53)は『730まであと〇日』とカウントダウンする残歴版を自作し、実家の商店に飾って客にアピールしたという。
『ものすごく高揚感があった。(72年の)復帰のときのカルチャーショックが再来したような感覚だった』。 一定年齢以上のウチナーンチュにとってナナサンマルは鮮烈な光景として残っている。それぞれの思い出があり、ノスタルジックな感情とともに語ってくれる。」
【興奮と混乱の中でスタート】
⑧「来る日に備え、沖縄県警察本部は『対策室』を設置。およそ10年前に『左』から『右』への交通方法変更を行ったスウェーデンの取り組みを研究したという。 左側通行用に新たに設置された信号機や道路標識には、当日まで黄色いカバーがかけられた。道路標示の矢印は事前にペイントして上から特殊カバーをかぶせた。直前には県外31都府県から2800人の応援警察官が派遣された。」
⑨「 右から左へ。切り替えのタイミングは7月30日(日)午前6時だ。」 前日の29日午後10時から8時間、全県下で車の通行が禁止された。1700人以上の作業員が投入され、この8時間の間に信号も道路標識・標示も一斉に切り替えた。警察官は県外からの応援も含め、4200人が夜通し街頭で規制や指導に当たった。」
⑩「那覇市内の交差点には切り替え作業を見守ろうと多くの見物人が詰め掛け、歩道橋はカメラを構えた人で鈴なりになったという。午前6時、消防や警察が鳴らすサイレンを合図に、「車は左、人は右」時代が幕を開けた。変更当初は大荒れだった。車体が大きいバスはスムーズに走行できず交差点で接触事故を起こし、玉城村(現南城市)では対向車を避けようとして左側に寄りすぎた路線バスが道路から3メートル下に転落横転した。県民も不慣れな左側通行にこわごわ、のろのろ運転で、たちまち各地で渋滞が発生。翌日31日(月)は、那覇の国際通りで車が500メートル進むのに1時間かかったといい、会社や役所で遅刻者が続出した。当時を『鏡の国にいるようだった』と表現する人もいる。」
【今も〝現役〟ナナサンマル世代】
⑪「ナナサンマルでは、路線バスも全車両を右ハンドル・左ドアの車両に切り替える必要があり、1000台の新車が導入された。このとき各バス会社に導入された車両は『ナナサンマル車』の愛称で親しまれている。老朽化などで徐々に姿を消していったが、現在も沖縄バスと東陽バスにそれぞれ1台ずつ残る。いずれも走行距離は130万キロ超え(地球30周以上に相当)だが、大事にメンテナンスされながら現役で運行している。東陽バスのナナサンマル車は、日曜と祝日に限り191番城間線で1日3往復。沖縄バスは週に1回、39番百名線で午前中に2往復の運行をしている。」
⑫「筆者も、取材で沖縄バスのナナサンマル車に乗せてもらった。三菱ふそうの「MP117K」という型式で、国内ではこの1台だけしかないという。今の車両と比べると、車体は丸みを帯びてどこか愛嬌があるフォルム。外装に鉄板を継ぎ合わせた丸いビスの形があるのも特徴だ。最新の車両はギアチェンジがオートマチック化されており、最近免許を取った運転手だとナナサンマル車の棒式ギアを扱いきれないそうだ。」
⑬「東陽バスで現在は配車係を務める平良實さん(70)はナナサンマル当時、運転手だった。本番まで10日間ほどの練習期間があり、運転手たちは空き地に集められて交代で練習したという。しかし人数が多いため実際に練習したのは『1人10分もなかったはず』と平良さん。乗客の命を預かる責任感。切り替え後最初の乗車は緊張したのを覚えているという。『景色がこれまでと反対。停留所への寄せや右折の感覚をつかむのに苦労した。運転手はみんな戻ってきて【今日も無事終わった】とほっとしていたよ』と懐かしむ。」
⑭「交通が右から左へ、一夜にして変わる。こんな経験をしたのは日本で沖縄だけだ。
もしいま、同じことをやれと言われたら? 40年の節目。『ナナサンマル』を振り返り、あらためて沖縄特有の歴史を考えさせられた。」


(2)沖縄タイムス-米軍、放射性物質を下水に流す 大震災後トモダチ作戦 厚木・三沢で12万リットル超-2018年7月30日 05:28

 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「【ジョン・ミッチェル特約通信員】在日米軍が2011年6月、厚木基地(神奈川県)と三沢基地(青森県)で放射性物質を含む汚染水12万リットル以上を下水道に流していたことが分かった。本紙が米軍の内部資料を入手した」。
②「汚染水は東日本大震災と東京電力福島第1原発事故後の『トモダチ作戦』に参加した軍用車両や装備品の除染で発生していた。」
③「米太平洋軍(当時)と在日米軍の内部討議資料によると、11年5月3日時点で『液体低レベル放射性廃棄物』が厚木に9万4635リットル(2万5千ガロン)、三沢に3万283リットル(8千ガロン)あった。本紙の取材に対し、在日米軍はこの時の保管量より多い量を翌月、厚木と三沢で投棄したことを認めた。同時に『投棄は日本政府の基準で安全と認められていた』と説明した。」
④「汚染水は『低レベル』と分類されているものの、実際の放射性物質の濃度は明らかでない。内部資料には、装備品の中に除染しきれないほど深刻に汚染された物があったと記されている。」
⑤「トモダチ作戦で出た固形や液体の『低レベル放射性廃棄物』は在日米軍基地6カ所で保管されていたことが公表されている。厚木と三沢のほかは普天間飛行場、横田基地(東京都)、横須賀基地(神奈川県)、佐世保基地(長崎県)。普天間では除染に使った布などの固形物がドラム缶に詰められていた。」
⑥「本紙の取材に、在日米軍は横田と横須賀では18年3月時点でも固形廃棄物の保管が続いていたことを明らかにした。横田の廃棄物は表面線量が日本政府が定める通常の被ばく限度、毎時0・23マイクロシーベルトを上回る2・1マイクロシーベルト、横須賀では下回る0・1マイクロシーベルトだった。横田にあった汚染水は東電が回収して廃棄したという。」
⑦「ことば:『トモダチ作戦 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の後に米軍が実施した被災地支援活動。在沖米軍からもヘリや兵士が参加した。一方、原子力空母の元乗組員が放射線被ばくによる健康被害が出ているとして、東京電力などを相手に救済基金設立を求める訴えを米裁判所で起こしている。』


(3)沖縄タイムス-翁長知事が撤回に踏み切った3つの新事実とは?【深掘り】-2018年7月30日 05:00

 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「翁長雄志沖縄県知事は27日の臨時記者会見で、名護市辺野古の新基地建設に伴う埋め立て承認の撤回に踏み切る理由として、沖縄防衛局の調査や報道などで新たな事実が判明したことを取り上げた。2013年12月の仲井真弘多前知事の承認時には分からなかった事実が出てきたことで、環境保全や災害防止といった承認の要件を満たすことができず、承認の効力を存続させることは『公益に適合し得ない』と強調した。知事が新たな事実として挙げた三つの項目をまとめた。」                     (政経部・福元大輔、銘苅一哲、嘉良謙太朗)
【(1)高さ制限:県「小中高専や住宅も抵触」国「米側と調整し対象外に」】
②「県は辺野古新基地が完成した場合、国立沖縄工業高等専門学校(沖縄高専)の校舎などの既存の建物等が、米国防総省が航空機の安全な航行のため飛行場周辺に設定する『高さ制限』に抵触していることが判明したと指摘する。」
③「同省策定の統一施設基準書によると、辺野古新基地では滑走路の周囲2286メートル、高さ45・72メートルの範囲に高さ制限が設けられる。辺野古新基地の滑走路は標高8・8メートルで設計されているため、高さ制限は標高54・52メートルとなる。久辺小・中学校や辺野古・豊原両区の住宅なども高さ制限を超過している。」
④「一方、国は沖縄高専や民家などは『米側との調整結果により、高さ制限の対象とはならない』と主張。新基地完成後の飛行経路は『離陸、着陸のいずれも周辺の集落上空を通過するのではなく、基本的に海上とすることで日米間で合意している』と強調する。」
⑤「また、県は高さ制限について『日米の統一基準の適用除外が明確でなく、安全性に疑義がある』との考えを示すが、国は米側と運用も踏まえた上で調整した結果、『(適用除外の認定基準は)米側が判断する』としている。」
【(2)軟弱地盤:全護岸の設計図を示せ 辺野古側15年提示済み国】
⑥「翁長知事は撤回を表明した会見で撤回理由の一つとして『沖縄防衛局が実施した土質調査により、(大浦湾側の)C護岸設計箇所が軟弱地盤であり、護岸の倒壊などの危険性がある』と述べ、専門家からは活断層の存在が指摘されていることも付け加えた。」
⑦「軟弱地盤、活断層の存在は公有水面埋立法の承認要件である『環境保全および災害防止に十分配慮する』『国土利用上、適正かつ合理的』の要件を満たしていないとする論理だ。」
⑧「沖縄防衛局の2016年3月の地質調査報告書は、大浦湾のC護岸建設予定地で土の硬さを表す『N値』がゼロの『軟弱地盤』があることが明らかになり『当初想定されていないような特徴的な地質が確認された』としている。」
⑨「県は報告書を基に『護岸の構造や配置などが変更される可能性がある』とし、C護岸を含めた全体の設計図を示し、環境保全策などを工事の前に実施するべきだと主張してきた。一方で、防衛局は15年7月に埋め立てを先に進める辺野古側など12護岸の設計図と環境保全策を県に示しているとし、軟弱地盤が明らかになった報告書が示す護岸はこれらの護岸とは異なるとしている。」
【(3)普天間の返還条件:県「埋め立ての理由不成立」国「辺野古の移設以外にも」】
⑪「翁長知事は、当時の稲田朋美防衛相が2016年6月の国会答弁で、名護市辺野古への移設が完了しても他の条件が調わなければ普天間飛行場は返還されないとの認識を示したことに、『辺野古を埋め立てる理由が成り立たない』と語った。稲田氏は13年の日米合意で示された八つの返還条件のうち『緊急時の民間施設の使用改善』について、『米側と調整が調わなければ、返還条件が調わず、(普天間)飛行場は返還されない』と述べた。」
⑫「米側は辺野古の滑走路が普天間より短いとして、滑走路の長い施設の使用を求めている。一方、1996年の日米特別行動委員会(SACO)の最終報告にこの条件は含まれていない。2013年の合意でなぜ追加されたのか、県側には一切明らかにされていない。」
⑬「米政府監査院は17年4月の報告書で『緊急時に使用できる県内1カ所を含む国内12カ所の空港を確定する必要がある』と指摘した。県内の1カ所は那覇空港とみられ、翁長知事は『(米軍には)絶対に那覇空港を使わせない』と使用を拒否し、米側との条件が調うか、不透明な状況だ。」
⑭「国は普天間の危険性除去のため、辺野古の海を埋め立てると説明しており、辺野古移設が完了しても、返還されないなら、埋め立ての理由が成り立たないというのが県の主張だ。」


(4)琉球新報-K4護岸、開口部に砕石投下 辺野古新基地建設-2018年7月30日 14:15


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「【辺野古問題取材班】米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に伴う新基地建設工事で30日午前9時半ごろ、沖縄防衛局は辺野古漁港側に位置するK4護岸の開口部へ砕石を投下し、数十メートルの開口部を護岸として接続する作業を開始した。」
②「ダンプカーで搬入した砕石をクレーン車を使って次々に開口部へ投下し『バラバラ』と大きな音をたてて砕石が海中へと沈んでいった。」
③「海上では、赤嶺政賢衆院議員や安次富浩ヘリ基地反対協共同代表、具志堅徹元嫌疑らも抗議の声を上げた。赤嶺氏は船上から防衛局の職員らに対し『県の指示や留意事項を守らずに工事を進めていることをこれまで何度も指摘されてきた』として問題点を挙げ、工事を中止すべきだと訴えた。」
④「一方、米軍キャンプ・シュワブゲート前では移設に反対する市民らが座り込んで防衛局に抗議する中、資機材の搬入が行われた。」


(5)琉球新報-県民投票求める署名10万千筆に 有効署名数約2万3千筆で県民投票条例を直接請求へ-2018年7月30日 12:17


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「米軍新基地建設に伴う名護市辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票の実現を目指す「辺野古」県民投票の会は30日午前、県庁で記者会見を開き、直接請求を行うために集めた署名が約10万千筆に上ったことを発表した。」
②「会見で元山仁士郎代表は署名収集について『私たちは多くの県民が県民投票を強く望んでいることを実感した』と振り返った上で、【軍事的に沖縄である必要はないが、本土の理解が得られないから】と強権を振りかざして国策を強行する政府に抗するためには、私たち沖縄県民が民主主義の原理に基づき、主権者としてしっかりと【民意】を明確に示すことが重要だ』と強調した。政府に対し、県民投票が実施されるまで辺野古埋め立て工事を中止するよう強く要請した。」
③「若者や法律家、経済人や芸術家などでつくる『辺野古』県民投票の会は、辺野古埋め立て賛否を問う県民投票条例制定の直接請求に向け、5月23日からの2カ月間で10万979筆の署名を集めた。41市町村全てで有権者の2%を超えた。」
④「同会の副代表の新垣勉弁護士は『私たちが県民投票で民意を明確にすることができれば、日本の民主主義の歴史の中で大変画期的な結果になる。民意を基本にして成立している社会で、都道府県レベルで示された民意を無視して中央集権的な政治や施策が実行しうるのか、問われることになる』と指摘した。」
⑤「記者会見の後、同会の請求代表者らは同日、各市町村選挙管理委員会に署名簿を提出した。元山代表らは那覇市選挙管理委員会に3276冊の署名簿を提出し、対応した古謝秀和副参事は『署名した1人1人の思いを大切に、審査を正確に間違いのないように進めていきたい』と述べた。署名簿は各市町村の選管で20日以内に有効審査が行われ、同会に返却される。有効署名数が直接請求に必要な約2万3千筆に達していれば、翁長知事に県民投票条例を直接請求する。」




by asyagi-df-2014 | 2018-07-30 17:56 | 沖縄から | Comments(0)

沖縄から-三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記第82回

沖縄の地で、体を張って新しい歴史を作ろうとしている人たちがいる。
そこには、その煌めきの記録を残そうとしているジャーナリストがいる。
だとしたら、その生きざまの瞬間を私たちは受け取る必要がある。
三上知恵の沖縄撮影日記。



 今回の三上さんの報告は、「いよいよ公開!「沖縄スパイ戦史」~沖縄各地で先行上映会」。
三上さんは、映像作成に向き合う心境を次のように書き込んでいます。


「このところ、マガジン9でのコラム更新がかつてなく遅くなっていた。去年5月、沖縄戦のドキュメンタリーに取り組み始めてこの方、辺野古や高江の撮影に走り回っている以上に自分を追い込んでしまった。そうでもしないと、沖縄戦の闇に迫るという自分の能力を超えた仕事に、逆に呑み込まれ廃人になりそうで怖かった。一人で暗い海原を低く低く飛んで、やがて東の空から明るくなってくると信じて滑空するも、永遠に夜が明けてこない。もう一度顔を上げたときに光が見えなかったら、もう飛べないかも知れない。そんな悲壮な日々だった。」


 三上さんの思いは語られます。


(1)「え? 一人で飛んでたんじゃないでしょ。今回は若くて元気な後輩の大矢英代さんと共同監督でしょ?……ええ、まあ。しかし、彼女は遥か南端の波照間島上空を飛んだり、アメリカを飛んだりしていたので、担当地域がそれぞれ別だったから暗い海原からは見えませんでした。それに彼女は、たとえればオウムかセキセイインコ(物まねが上手なんです)。孤独な渡り鳥風情とは違うんです。たまに甲高い声で「みかみさあ~ん! 大丈夫ですよ! 面白くなりますよお!」と能天気な声が雲の向こうから聞こえたが、テレビ番組しか作ったことのないあやつには、孤独で長く、保証もない映画製作の道のりがまだ見えていないに違いない。だから、あんなに楽観してるんだろう。そのうちに泣く日も来るだろう、その時のために私がしっかりしていなくては! と眉間にしわを寄せたまま過ごしてきた。」
(2)「そう、私は20年も先輩なんだから、不安など断じて見せてはいけないのだ。歯を食いしばって虚勢を張っていた、つもり。資金を集めるのも、もっぱら私だ。取材の合間に全国を行脚しながら『沖縄戦の映画を作ってます、絶対に今こそ必要な映画なんで、カンパよろしくお願いします!』と勢いよく叫ぶ私に、各地の心ある方々から順調に支援を頂くことができた。なのに、帰りの飛行機の中では、こんなに資金を集めて『やはり今回は無理でした。まとまりませんでしたっ! ごめんなさあーい!!(泣)』って白旗を上げたらどうなるのかな、二度と映画が撮れないどころかヒトとして終わりだよな…と想像して青ざめていた。」
(3)「撮影を終えるめどにしていた11月になってもどんどん取材が広がっていき、手に負えなくなり、手応えや確信がつかめない。しかも記憶力の鈍った脳みそは、三日前に読んだ日本軍の資料がどれだったかも判別できない。私は馬鹿なのか? これじゃあ嘘つきピエロが大風呂敷広げてるのと変わらないじゃないか! と資料を前に、何度も夜中に一人で泣いた。しかし、こんなことはハナヨ(英代)には内緒だ。あいつはアメリカの空でカラフルな歌でも歌ってるんだろう。私の頭の中に流れているのはせいぜい『海ゆかば』か『護郷隊の歌』だ。」
(4)「そんな超悲観主義の先輩と楽天的で有能な後輩の組み合わせで【沖縄スパイ戦史】は奇跡的に出来上がった。凸凹コンビではあるが、私たちには大きな共通点がいくつもあった。テレビ報道マンとして、地域を日々這いずり回ってきたこと。若い時から沖縄戦のことがずっと自分のど真ん中にあること。そして彼女は八重山、私は宮古島にフィールドワークの原点があり、離島びいきであること。そしてその島に実の祖父母を超える程の、自分のおばあと言える存在があること。辺野古と高江の現場を共有してきた後輩はたくさんいるけれど、ミサイル基地と共に先島に自衛隊がやってくることに強い危機意識を持っている同業者は多くはない。離島と沖縄戦にこだわってきたからこそ、自衛隊配備が招く悲劇を予想し、座視できないのだ。そこまで私たちはそっくりだった。この二人に敏腕の橋本佳子プロデューサーが加われば、ゴールまでいけないはずがない。そう信じて、7月28日の全国公開を迎えるまでどうにか走ってきた。」


 三上さんの話は続きます。


(1)「15歳前後の少年たちにテロ・スパイ・ゲリラをさせた『護郷隊』。日本の戦争史上類を見ないこの犯罪的な作戦を指揮したのは、陸軍中野学校の卒業生たちだった。護郷隊の慰霊祭は毎年名護小学校と恩納村の安冨祖の二カ所で行われ、私はいつかちゃんとこの話を世に出したいと慰霊祭に通いつつ9年経ってしまった。ついに今年の慰霊の日にようやく、護郷隊の碑に集まった元隊員や遺族の方々をそのまま名護博物館にお連れして、関係者向けの完成披露試写を開催することができた。映画の後半で、誰も話したくはない『スパイ虐殺』の証言に応じてくださった人たちも駆け付けて下さり、感無量だった。」
(2)「この日、第一護郷隊の隊長だった今は亡き村上治夫さんの息子さんと娘さん、そしてお孫さんが慰霊の日に合わせて来沖、試写にも付き合ってくださった。村上隊長は、少年兵たちに慕われた英雄的な上官でもあるが、子どもを失った遺族からすれば複雑な存在である。この映画でも、少年ゲリラ兵部隊を率いた青年将校の部分以外に、村上隊長の陸軍中野学校の側面をどこまで描くべきなのか最後まで迷った。着任時22歳、1946年の1月に山を下りた時には23歳で大尉になっていた村上は、度々下山を促す米軍に対して、『自分は故郷には帰らずこの島で部下の供養に徹したいので、小さな畑と住むところを用意してほしい』と条件を出している。結局願いはかなわず大阪に戻されるのだが、その後、渡航が可能になるとすぐに沖縄に渡り、部下の家を何カ月もかけて全部回っている。そんな部下思いの隊長であったことは間違いないが、一方で陸軍中野学校のエリート将校として沖縄の住民を苦しめる『秘密戦』の主導的立場にいたこともまた事実だ。」
(3)「私は村上さんのご遺族の家を訪ね、趣旨をお話しして写真や資料を見せていただいた。並外れた才覚と優れた人物であったことは誰もが知るところだが、この映画では持ち上げるような演出はできないこともお伝えはしていた。そして遺族の厳しい目があることも。『うちの息子は死んで、なんでお前が生きてるのか?』と戦後、村上隊長につかみかかったという母を持つ久高栄一さん。彼の目に映る村上隊長像は、部下だった少年兵たちの印象とはかなり異なっている。そんな遺族の姿を含め、違う角度から照射された村上治夫と沖縄戦がスクリーンいっぱいに映し出され、村上さんの娘さんと孫娘に当たる女性は少なからず衝撃を受けたようだった。二人が泣いているのを見て、私は胸がズキっとした。『きつい内容でしたね。大丈夫ですか?』と声をかけると『いいえ、気にしないでください。ただ、私たちにとっては…ヒーローなんです』と村上隊長の娘さんはハンカチを握りしめた。何度も沖縄を訪ね、沖縄戦についてある程度わかったつもりでいたけれど、実相はまるでわかってなかったんでしょうね、ともおっしゃった。」
(4)「戦後73年経った今になって、ご家族を苦しめる権利が私にあるのだろうか。覚悟はしていたものの、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。それは岩波壽隊長のご家族に対しても同じ心配がある。映画を見ていただければわかるであろうが、作品としては決して二人の隊長を悪者にしてはいない。22、23歳の青年将校たちに課せられた過酷すぎる任務と、戦後も背負い続けた重荷の一端を描いたつもりだ。お二人の人間像を知るにつけて、敬愛の念さえ持つ。しかし『軍命に従っただけの軍人に罪はないんだ。それを問うてはならない』という考えに与することもできない。それでは、一見優しげで無責任な戦後日本人の、他人を許し自分も許してもらおうというずるい論理に絡めとられてしまい、次の戦争を止める力に全くならないからだ。何よりも、村上・岩波両隊長こそ、沖縄の民間人を大量に犠牲にしていった旧日本軍の作戦の欠陥について後世、冷静かつ鋭い批判と分析がなされるべきだと思っているに違いないと、私は信じるからだ。」


 さらに、三上さんの報告。


(1)「今回の動画は、慰霊の日に名護市で行った試写会と、ハナヨ監督の担当した『戦争マラリア』の悲劇の舞台・最南端の島波照間島での試写会、そして桜坂劇場での公開と、三つの上映会の様子をまとめた。特に楽しく見られるのは、ハナヨ監督が1年間休学して住み込んでいた波照間島での珍道中だ。」
(2)「波照間島に映画を見せる設備があるかどうか、ハナヨ監督は今年のゴールデンウィークに下見に行ったはずだったが、悪い予感は的中した。暗幕もない。光量の強いプロジェクターもない、音響設備はあれどケーブルがない、スクリーンは脚立と祭りのテント生地…。『離島あるある、ですよね!?』と朗らかに言うハナヨ監督。キミこそ離島あるあるの代表だ、とつぶやきつつ、楽しいDIYが始まった。どう頑張っても暗くならないと上映なんて無理。14時からと島中に張り出したお知らせを訂正して歩き、19時半からですよーと島内放送で呼びかけた。」
(3)「港に駐車してあったハナヨ監督の知人の車をお借りした。おかげで短時間で仕事がはかどった。もちろん電話で連絡してあったのだが、そのお父さんに『〇〇さんの車、お借りしましょうね』というと、『借りるとか借りないとか、ないよ。使うだけよ!』と言われて爆笑。離島の空気に身も心もほぐれていく至福の時間だった。死の病が蔓延する地域に移住を強いられて3人に1人が亡くなったという『マラリア地獄』の島として映画に登場するのだが、島の空はどこまでも青く、初夏の風がキラキラと吹き渡る楽園のような島だ。彼女が1年お世話になっていた浦仲孝子さんの家は、島内で最もマラリア犠牲者が多かった家族だった。13歳の孝子さんと9歳の妹を残して家族全員マラリアで死んでしまった。孝子さん自身、熱に襲われながら、家族が亡くなるたびに埋葬を親戚縁者に頼みに行くも、誰も引き受けてくれない。どの家にも埋葬を待つ遺体があって手が回らなかったのだ。それらもすべて、山下寅雄という偽名で島に入ってきた陸軍中野学校の工作員がいなければ生きられた命だった。波照間島にはマラリアはなかったし、米軍の攻撃すらなかった。軍の移住命令が500人弱の命を奪うという、まったく理不尽な話だった。」
(4)「ハナヨ監督に強い影響を与えたのは孝子おばあだけではない。跡継ぎのいなくなった浦仲家に婿養子に入って孝子おばあを支え続けた、浦仲浩おじいの存在が大きかった。彼女は6年前の大学院生だったころに波照間で制作したドキュメンタリー映像があり、私はそれに写っていた、とてもチャーミングなおじいの姿を覚えている。『ハナヨには、学んだ者の責任があるよ。話を聞いた者の責任があるんだよ』。彼女が撮影を再開した去年の秋、永眠されたこの浩おじいの言葉が、ちゃんと映画にして伝えなさい、と背中を押したんだという。『軍隊は住民を守らない』。なぜそうなってしまうのか。いったい何がいけなかったのか。諜報機関の人間、たった一人の力でこの悲劇は起きた。島のリーダーたちも、止めることができなかった。軍隊の本質と住民の脆さ、波照間島から獲得するべき教訓をまだ私たちは受け取っているとは言えない。」
(5)「『生き延びたものは、伝えなきゃならないんです。もし伝えないなら、伝えないなりの責任があるということです』。映画のラストでマラリア体験者の悔しそうな言葉が出てくる。戦争マラリアは、まだ現在の社会への特効薬として機能しないまま眠っている。私たちはアマゾンの奥地から未知の特効薬を見つけてくるよりも、目の前でおじいおばあが話してくれる言葉から処方箋を編み出す方が確実だと知り、努力をするべきだ。」
(6)「待ちに待った【沖縄スパイ戦史】沖縄公開日の21日。台風10号の暴風警報が出てしまった。初日はいつもシンポジウムやコンサートなどのイベントを企画するのだが、今回は90歳前後の出演者たちの中から当日体調も良くて会場に来られた方とトークができれば、という心づもりでいたので、この荒天ではもう絶望的だなあとがっかりしていた。しかし当日になってみると何とか映画館は開けられる状況になり、那覇近郊に住んでいる元護郷隊員の皆さんが頑張って会場に来てくださった。主人公格のリョーコー二等兵こと瑞慶山良光さんは台風を見越して大宜味村から中部の家族の家まで移動しておいてくださったので、3人の隊員と2人の遺族に壇上に上がっていただき40分のトークを展開することができた。最後は『護郷隊の歌』を会場の皆さんに聞いていただいた。この歌に対する隊員の皆さんの思い入れはとても強い。私は拒否されない限り、お会いした20人の隊員の皆さんそれぞれにこの歌を歌っていただいた。この歌を朝から晩まで歌い、少年兵は訓練に明け暮れていた。つらいだけの記憶ではないのだろう。この歌を歌う時のおじいたちの表情の中に、私は当時の少年の面影を見る。彼らの脳裏に甦っているであろう光景が垣間見できる瞬間に身震いがする。そして大抵そのあとで『この歌を歌うとね、家内に怒られるんだよ…』とか『この前、老人会でこれをリクエストされてね…』とか『これは人前では歌わない。でも歌詞は、忘れたことはないよ』とか、歌に対する彼らのコメントの中から、護郷隊の日々が人生のどんな位置を占めているのかを知ることができるのだ。」
(7)「お茶目に歌ってくれるおじいもいれば、呑まないと歌えない複雑な気持ちのおじいもいる。途中で止まって遠い目になり、こっちも涙目になってしまうこともあった。『軍歌を歌うなんて』というご批判も受けたが、ここだけは私は全然意見が違う。軍歌だから不謹慎などという短絡的な発想ではなしに、この歌で膨らんだ少年たちの正義感や一体感、何でもできると思えた高揚感、そのあとに待っていた地獄と、護郷隊のことを人前で語れなくなった戦後を経て、この歌が彼らの人生にとって、肯定もできないが否定などもっとできない大事な何かであること、それをまるごと私は身体化して、彼らの世界を表現したいと思った。」
(8)そして実は、1番と2番の歌詞だけが沖縄の少年向けに岩波隊長が作ったものだが、3,4番は歌詞もメロディーも陸軍中野学校の歌と同じものなのだ。『護郷の戦士』」に選ばれたことを『感激の日』として少年たちの郷土愛を最大限に引き出そうとする1番2番。『故郷を守るはこの俺たちよ』という歌詞を歌いながら実家の裏の山で、家族や集落を守る地続きの空間で死んでいった少年兵のこと、この歌詞を子どもだった彼らに刷り込んでしまったことを、隊長たちは戦後思い出して苦しまなかったのか否か。岩波隊長は戦後、『殺される覚悟で再び沖縄の土を踏んだ』時に、大人になった隊員たちがこの歌を歌うのを聞いて『とめどなく涙が流れた』と述懐している。しかし、これが『三々別れの歌』という陸軍中野学校の愛唱歌であるというのは重大な事実である。戦後ひっそりと同窓会をする中野学校の卒業生が数百人でこの歌を歌うシーンを番組で見たことがある。『中野は語らず』で、特殊工作の任務など戦後も言葉にできない戦争の裏側を支えた彼らが、大声をあげてこの歌を歌う場面はいかにも異様であった。彼らもまた、人前で歌えないこの歌を抱えて生きた人たちだった。そして中野学校卒のスパイたち2500人余りはもうほぼ鬼籍に入ったという2018年、南の島の劇場でまだこの同じ歌を万感の思いで歌う元少年兵がいること、かつての日本のスパイたちも天空から眺めてびっくりしているに違いない。このメロディーに翻弄された15歳前後の少年たちのストーリーは、ほとんど手つかずのまま戦後73年眠っていた。


 三上さんは、報告の最後をこのようにまとめています。


「しかし、この少年ゲリラ兵と秘密戦の話こそ、次の戦争を止める特効薬だと私は信じている。話したくても話せなかった裏の沖縄戦の中から最も学ぶべき教訓を引っ張り出して世の中に叩き付け、戦前回帰する日本にブレーキを掛けられるのなら、まだ軍服を着て沖縄北部の山を彷徨っているという少年兵たちも初めて浮かばれるのではないだろうか。」
「そんな思いを込めて、那覇の初日にうたわれた『護郷隊の歌』の場面を動画に入れた。歌う元隊員の空気感と、口を結んだ遺族の間の溝は、73年間同じ島で違う戦後を過ごしてきたそれぞれの残酷なドラマをあぶりだす。会場にいた人からは『その両方が痛々しかった』『拍手できなかった』『ドキュメンタリーが続いていた』と複雑な感想が寄せられた。そのもやもやした気分こそ、持ち帰って反芻できる初日最大のお土産だったと私は思っている。」


 「沖縄スパイ戦史」を見てない中での想いがある。
 「村上・岩波両隊長こそ、沖縄の民間人を大量に犠牲にしていった旧日本軍の作戦の欠陥について後世、冷静かつ鋭い批判と分析がなされるべきだと思っているに違いないと、私は信じるからだ。」と「この歌で膨らんだ少年たちの正義感や一体感、何でもできると思えた高揚感、そのあとに待っていた地獄と、護郷隊のことを人前で語れなくなった戦後を経て、この歌が彼らの人生にとって、肯定もできないが否定などもっとできない大事な何かであること、それをまるごと私は身体化して、彼らの世界を表現したいと思った。」を映像でどのように語っているのかじっくり見てきます。




by asyagi-df-2014 | 2018-07-30 07:03 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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