2018年 06月 23日 ( 1 )

沖縄-辺野古-沖縄 高江から-2018年6月23日

 沖縄が、「慰霊の日」を持つことの意味を考えたい。
一つには、「犠牲者の名前を刻んだ『平和の礎」は新たに58人が追加され、総数は24万1525人となっている。」(琉球新報)との意味を。
もしかしたら、それは、沖縄からの声を体に刻み込むことかもしれない。
 「あの時代を生きた誰もが苦しみ、悲しみ、胸の傷をかばいながら生きてきた」
 「23日を迎えるたび戦争の悲惨さを感じる。絶対に繰り返してはいけない」
「母が最も恐れていたのは沖縄戦が忘れられ、再び戦争が起きてしまうことだった」
また、この声を、「継母の池原ウタさん(享年38)と、8歳と5歳ぐらいだった妹のトミ子さん、敏子さん。戦後の混乱で戸籍から漏れていた3人の戸籍登載が昨年、家庭裁判所に認められた。「もう人生に後悔はない」。戦災孤児となり辛酸をなめた戦後を振り返りながら、家族の供養が節目を迎えたことをかみ締めた。」、「戦争がなければ家族は元気に暮らしていたし、私もこんなに哀れしなかった」。妹たちの生きた証しを残し『悔いはない』と言い切る一方で、やり場のない怒りが涙となり、何度も頬を伝った。}(沖縄タイムス)。




 沖縄で起こっていること、その現場の事実をきちんと確認すること。
 2018年も、琉球新報と沖縄タイムスの記事を、「沖縄-辺野古-高江-から」を、報告します。
 2018年6月23日、沖縄-辺野古-高江の今を、沖縄タイムス、琉球新報は次のように表した。


(1)琉球新報-「戦争繰り返さない」 きょう慰霊の日 糸満で戦没者追悼式-2018年6月23日 05:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「沖縄県は23日、『慰霊の日』を迎えた。住民を巻き込んだ沖縄戦の組織的な戦闘が終結してから73年。激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では、午前11時50分から県と県議会主催の沖縄全戦没者追悼式が開かれる。20万人以上の戦没者に思いを寄せ、恒久平和を希求する。」
②「追悼式では翁長雄志知事が平和宣言をするほか、浦添市立港川中3年の相良倫子さん(14)が平和の詩『生きる』を朗読する。安倍晋三首相や関係閣僚、衆参両院議長も出席する。」
③「犠牲者の名前を刻んだ『平和の礎」は新たに58人が追加され、総数は24万1525人となっている。22日も亡き家族をしのんで足を運ぶ人たちの姿があった。娘(57)と共に訪れた南城市の森山千代子さん(84)は、11歳のときに沖縄戦を経験し、兄の元長さん=当時(24)=と元孝さん=当時(18)=を失った。」
④「礎の前で膝をつき、線香と花を供え『兄さん、千代子が来たよ。今年も子どもや孫が健康に過ごせるよう見守って』と語り掛けた。『23日を迎えるたび戦争の悲惨さを感じる。絶対に繰り返してはいけない』と力を込めた。


(2)琉球新報-基地隣接、響く射撃音 名護「流弾」 米軍、使用回答せず-2018年6月23日 05:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「21日に銃弾のような物が見つかった名護市数久田の果樹園は、国道58号から直線距離で約250メートルの位置にあるが、人里離れた山の頂上付近に立地し、一般の人はめったに訪れない。周辺は木々が生い茂る閉ざされた空間だ。森を隔てて米軍キャンプ・シュワブに隣接し、同基地の射撃場『レンジ10』では頻繁に実弾訓練が実施されている。」
②「『ダッダッダッダ』。果樹園の管理者の男性は22日午前6時半ごろにいつもと変わらない音を聞いた。シュワブの実弾演習で発射される機関銃からの銃声だ。男性は『昨日の報道を見ていないのか。普通なら配慮するけどな』と、米軍の対応をいぶかしがった。」
③「米海兵隊は22日昼すぎ、取材に対し、シュワブの射撃場『レンジ10』を閉鎖すると回答したが、自らが使用する銃弾か否かについては回答しなかった。過去にはレンジ10からの流弾が数久田をはじめとした近隣に被弾している。今回もシュワブから発射された銃弾の可能性が高い。」
④「男性は『時間帯や場所とかがずれていたら私に危害が及んでいたかもしれない』と、声を落とした。」
⑤「22日に現場を視察した県の池田竹州知事公室長は『一歩間違えば県民や観光客の生命財産に深刻な影響が出る。決して許されるものとは思えない』と語った。」


(3)琉球新報-「慰霊の日」直前に遺した言葉 元学徒宮城さん「苦しみ、悲しみ もう二度と」-2018年6月23日 07:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「沖縄戦の語り部で19日に死去した宮城幸子さん=沖縄県宜野湾市=は命が尽きるその直前まで、平和を願い沖縄戦を語り継ごうとした。戦時中、瑞泉学徒隊の看護要員として日本軍に従軍した幸子さんは19日、娘の宮城千恵さん(59)が勤める県立宜野湾高校での23日の『慰霊の日』に向けた平和教育講演会に孫の平良美乃(よしの)さん(25)と出席し、対談形式で体験談を語る予定だった。しかし会の開始直前に意識を失い、二度と目覚めることなく息を引き取った。90歳だった。」 
②「凄惨な戦世の記憶を風化させないように、子や孫に同じ経験をさせないように―。幸子さんが何よりも願った平和と反戦、伝えたかったメッセージ。千恵さんと平良さんは幸子さんの残した『遺言』を、代弁していくことを誓った。」
③「渡嘉敷島出身の幸子さんは1942年、旧県立首里高等女学校(41期生)へ入学。憧れのセーラー服を着て、学友と共に学ぶ喜びを体感するはずだった。だが、戦況の悪化により学生生活は打ち切られ、看護要員として戦場へ駆り出された。配属先の第62師団野戦病院では切断された人の手足を運び、負傷兵の排泄物やウジ虫を処理した。敗戦後、両親が渡嘉敷島の「集団自決」で亡くなったことを知った。今月1日に本紙取材にも応じていた幸子さんは、戦争で奪われた青春時代の記憶をたぐり寄せた。」
④「『あの時代を生きた誰もが苦しみ、悲しみ、胸の傷をかばいながら生きてきた』。生前の幸子さんは常々そう語り、今もなお続く沖縄の過重な基地負担を憂いていた。」
⑤「『母が最も恐れていたのは沖縄戦が忘れられ、再び戦争が起きてしまうことだった』と語る千恵さん。講演会の前日夜まで幸子さんと準備に励んだ平良さんは『祖母は高校生たちに【戦争が起きたら、一番に戦場へ駆り出されるのはあなたたち。だからこそ平和を大切に、みんな仲良く生きてほしい】と伝えようとしていた』と振り返る。」
⑥「『戦争を憎み、平和を愛したばあちゃんたちの思いを、何としてでも後世へ伝えていかないと』。千恵さんと平良さんは、幸子さんの遺志を引き継いでいく。」      (當銘千絵)


(4)琉球新報-慰霊の日ってどんな日? 沖縄県民なら誰もが知っているメモリアルデーには紆余曲折の歴史があった-2018年6月23日 05:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「6月23日。全国で沖縄だけこの日は公休日(土日と重なった場合は振り替えなし)と定められ、国の機関以外の役所や学校が休みになる。」
②「おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた沖縄で、組織的な戦闘が終わった日とされ、犠牲になった人たちに祈りをささげる日だ。毎年、沖縄では県主催の慰霊祭が開かれ、正午になるとあちこちで一斉に黙とうが行われる。甲子園予選を兼ねた高校野球の試合も中断され、球児たちが脱帽して目を閉じる光景は風物詩のようなものになっている。」
③「すっかり県民に浸透したメモリアルデーだが、一方で、制定された由来や変遷を知る人は案外少ない。平成最後の年、慰霊の日の『そもそも』をまとめた。」
④「慰霊の日が公休日として定められたのは、沖縄が米統治下にあった1961年(昭和36年)にさかのぼる。『沖縄戦没者慰霊奉賛会』(現在の沖縄県平和祈念財団)が、『戦没者慰霊の日』を制定するよう琉球政府へ陳情した。陳情では6月23日を慰霊の日にするよう提案している。その根拠は、沖縄に配備された日本軍の牛島満司令官と長勇(ちょう・いさむ)参謀長が自決した日で、『軍司令部の機能が崩壊および全軍の組織ある防衛戦闘終止で玉砕の日に相当する』とある。その後、琉球政府立法院で『住民の祝祭日に関する立法』が審議される過程で、23日ではなく22日を慰霊の日と決定。他の祝祭日と一緒に公布された。」
⑤「1961年に公休日として制定された『住民の祝祭日』。当初、8月15日の『平和の日』もあったが慰霊の日と趣旨が同じなどとして削除された。なぜ軍人が自決した日を選んだのか?陳情書で23日だったのがどうして22日に変わったのか?当時の会議録を調べてもはっきりとした理由は探せなかった。だが、議論の痕跡を見ることはできた。」
⑥「『(米軍資料を訳した)琉球新報の記事によると6月22日午前4時前後に牛島中将が切腹して終了したことになっております』。『いつやるかということは相当の異論があるわけです。占領をアメリカが宣言した日をやるのか、あるいは事実上日本軍が崩壊した日をやるのか。あるいは軍司令官が死んでしまったその日をやるのか』。『アメリカが占領したというよりも日本側が完全にザ・エンドしたという日を求めるのが妥当かと思います。住民はそのときには勝利者の側ではないのです。日本の軍隊が消滅した日を探してその日とすべきじゃないですか』」
⑦「とはいえ、『琉球政府創立記念日』や『国際親善の日』、『平和の日』などが活発に論議されたのに対し、『慰霊の日』は案外すんなりと話が進んだようだ。当時立法院議員だった古堅実吉さん(88)はこう振り返る。『最高指揮者の司令官の自決とともに全てが収まったという意味合いは最初から持っていなかった。しかし組織的な戦闘が終了したということについて異存はなかったように思う。司令官が死んだのが22日、だから慰霊の日を22日にしたほうがいいというつなぎはすんなりいった』。こうして、慰霊の日は『6・22』として産声を上げた。1962年、初の慰霊の日で行われた『平和大行進』。遺族らが那覇から本島南部までを歩いた。」
⑧「 慰霊の日が『6・23』になったのは、最初の制定から4年後のこと。『住民の祝祭日に関する立法』の改正により、慰霊の日の変更について再調査が行われた。その際、参考人として呼ばれた沖縄観光協会事務局長の山城善三氏がこう発言している。『戦争史を研究しておりますが、それによるとちょっと一日のずれがあるのではないかというふうな感じをいたすのであります』。自決した日について、沖縄で編集されたほとんどの書籍が22日午前4時半とあるのに対し、大本営や東京で出版されたものは23日午前4時半とあると説明。さらに、沖縄戦時の高級参謀だった八原博通(やはら・ひろみち)氏に直接聞き取りし、はっきり23日だと答えたという。」
⑨「山城氏の証言を元に、『慰霊の日は23日とする』と定めた条例が公布された。古堅さんは「22日だ23日だということにかんかんがくがく論議するということはなく、『ああそうか、ならそのように変えたらいいじゃないか』というふうにして23日に変わった。自信を持ってというよりは、関係した軍部の上層部が内情を知っていてそう言うなら、という程度だった』と話す。」

■日本復帰でも影響を受けた
⑩「沖縄が日本復帰した1972年。日本の法律が適用されるため、慰霊の日を含む沖縄独自の休日が法的には休日から除外されることになった。しかし条例により県職員は継続して慰霊の日を休みとして認められ、市町村などもそれにならった。さらに74年には県が『【慰霊の日】を定める条例』を公布し、『6・23』は県民の休日として広く浸透していくことになった。」
⑪「72年の慰霊の日を巡る動きは、当時の新聞などを見てもとりたてて大きな話題にはなっていない。当時、県の職員だった大城貴代子さん(78)は『アメリカと日本では制度が違う。日本に復帰することで身分や賃金の保証はどうなるのかや、物価の変動の方が関心が高かったのかもしれない』と回想する。」
⑫「山口県出身の大城さんは青年団の交流で沖縄出身の夫と知り合い、結婚を機に沖縄へ移住した。最初に慰霊の日を知ったのは、沖縄に渡ってすぐのころ。夫や青年団のメンバーと戦後初の慰霊塔でもある『魂魄の塔』の慰霊祭に参加したときだ。沖縄戦で多くの犠牲者が出たことは知っていたが、土地の人たちの悲しみを肌で感じた。『家族や友人といった身近な人がどこで亡くなったか分からないから毎年来ているという人もいた。沖縄戦を忘れないために休日にして、皆が喪に服すというのはすごいことだと思いましたよ』」
⑬「 時代は進み、1988年。慰霊の日を休みにするのはやめようという動きが出た。『日本人は働き過ぎ』と国際的批判を浴びていた日本は、この年、週休2日制の推進のため国の機関に土曜閉庁を導入した。同時に、地方自治法を改正。自治体の休日も国の機関に合わせることを義務付けたため、地方独自の休日が認められないことになった。それは『慰霊の日』が休日でなくなることを意味し、大きな関心をよんだ。」
⑭「平成元年の89年6月、県議会へ『慰霊の日』の休日廃止を盛り込んだ条例案が提出されると、反発のうねりはみるみる大きくなっていく。「法定休日がなくなれば一家そろって慰霊祭や平和行進に参加できなくなる」。「地方の独自性を否定し、地方の文化や生活を踏みにじるものだ」。当時の紙面にも強い批判の言葉が並ぶ。」
⑮「県職員労働組合、遺族連合会、県教職員組合といった各団体、学者や法曹関係者などが次々と抗議の声を上げ、知念高校では休日の賛否を問うアンケートが行われるなどまさに全県的な運動に波及していった。時の西銘順治知事はこうした反発に対して、かたくなに廃止を主張した。議員たちは県民感情に配慮し、与野党を超えて『休日存続』で足並みをそろえた。結局、議決されないまま持ち越され続け、90年には県議会史上初めて、県知事提案に対して『廃案』とする事態に。西銘知事は『撤回する気はない』と対抗、議論は平行線をたどった。」
⑯「局面ががらっと変わったのは、90年6月23日。内閣総理大臣・海部俊樹氏が歴代首相として初めて県主催の『沖縄全戦没者追悼式』に参列した。その場の会見で首相は『従来通り県職員の休日として存続できるよう検討する』と明言。予期せぬタイミングで国側が〝特別措置〟の道を示したことで、西銘知事も一気に『休日存続』へ方向転換、間もなく自治大臣への要請に赴いた。」
⑰「大田昌秀知事に代わった91年、国会で『特別な歴史的、社会的意義を有し、住民がこぞって記念することが定着している日』であれば休日にできるとした地方自治法の改正が可決された。県も条例を改正し、それまで通り慰霊の日は県職員の休日となり、市町村や学校現場も続いた。当時の琉球新報はこの流れを『県民世論の逆転サヨナラ勝ち』と表現した。」
⑱「県庁の各職場でも、組合が労働者へ共闘を呼び掛けるオルグ活動が盛んに行われていたといい、大城さんは『存続が決まったときは特別にお祝いしたような記憶はないけれど、【よかったね】【頑張ったかいがあったね】と喜んだのは覚えている』と懐かしむ。」
⑲「『慰霊の日』の根拠となった牛島司令官と長参謀長が自決した日については、今でも議論されている。86年に見つかった米軍の資料では、複数の捕虜の証言により自決は6月22日午前3時40分だと明記されている。2人の遺体を確認し、糸満市摩文仁に建てられた墓標を書いたという人も22日だと断言している。そもそも軍人が自決した日を〝沖縄戦が終結した〟とすることに疑問を投げ掛ける人も多い。牛島司令官は自決前に各部隊へ『最後まで敢闘せよ』との言葉を残して徹底抗戦を指示。このため、彼らの自決後も軍人や住民に多くの犠牲者が出ることになったからだ。」
⑳「日本軍と連合国側双方の代表が沖縄で降伏文書にサインした9月7日を慰霊の日とすべきだと主張する人もいる。89年に公休日廃止の議論が沸いたとき、教育現場では『慰霊の日で休校になっても遊んでいては意味がない。単なる普通の休みととらえている子が多いのではないか』『平和教育は慰霊の日だけの問題ではなく日常生活の中で常に語り合わなければならない』といった懸念の声があった。これは30年たった今も変わらない課題だ。」
㉑「慰霊の日の制定に立ち会った古堅さんは、14~19歳の少年が集められた『鉄血勤皇隊』として沖縄戦に動員された後、捕虜になってハワイへ送られた経験を持つ。毎年、慰霊の日には摩文仁にある沖縄師範学校の慰霊塔『沖縄師範健児之塔』での慰霊祭へ足を運び、犠牲になった旧友たちを思う。『一緒に立っておって吹っ飛ぶも者もいればけがをしないで済む者もいる。そういう中で偶然生き残った者として、どんな生き方をするのか死ぬまで問われ続ける問題です。二度と戦世を引き起こしてはならんという立場に立たされている者がね、慰霊やそれに関わるような問題についていささかもないがしろすることは許されないですよ』。戦後73年。また一つ、平成という時代が終わる。薄れゆく戦争の記憶をつなぐ『慰霊の日』はこの先も特別な日であってほしいと願う。」
(デジタル編集担当 大城周子)


(5)沖縄タイムス-平和な世祈る夏 慰霊の日、沖縄戦の犠牲者悼む-2018年6月23日 12:20


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「戦後73年の『慰霊の日』を迎えた23日、県内各地で20万人を超える沖縄戦の犠牲者を追悼する催しが営まれ、不戦と恒久平和を誓う祈りに包まれた。」
②「沖縄戦最後の激戦地となた糸満市摩文仁の平和祈念公園内にある「平和の礎」や、同市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」には、朝早くから多くの戦争体験者や遺族、関係者らが訪れた。亡き家族や友人の思い出、凄惨な戦場の記憶を呼び覚まし目を潤ませながら鎮魂の祈りをささげる高齢者が子や孫らとともに線香や花を手向けた。悲惨な体験を後世に語り継ごうとする家族連れの様子もみられた。」
③「同公園では、午前11時50分から沖縄全戦没者追悼式(主催・県、県議会)が執り行われ、正午の時報に合わせて黙とうした。翁長雄志知事は平和宣言で、平和を希求する沖縄の心を発信。安倍晋三首相をはじめ、衆参両院議長、関係閣僚らが出席した。」
④「沖縄は戦後73年がたっても全国の米軍専用施設の70・3%が集中している。昨年10月の東村高江の民間地への米軍大型輸送ヘリの不時着、炎上、同12月の宜野湾市普天間の小学校運動場への米軍ヘリの窓落下、今年1月に相次いだ米軍ヘリ不時着、今月も本島近海へのF15戦闘機墜落があった。県民が負担軽減の実感することがないままに、名護市辺野古では政府による新基地建設が進められている。」
⑤「沖縄戦では一般県民約9万4千人と、日米軍人・軍属などを合わせて20万人余が亡くなった。国籍を問わず、沖縄戦などの戦没者らの名を刻む『平和の礎』には、今年新たに58人(県内47人、県外11人)が加わり、刻銘者は計24万1525人となった。」


(6)沖縄タイムス-恒久平和誓う慰霊の日 沖縄全戦没者追悼式 翁長知事、辺野古新基地見直し求める-2018年6月23日 12:50


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「戦後73年の「慰霊の日」の23日、沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式(主催・県、県議会)が執り行われた。県内外から遺族や関係者ら約5100人が参列。正午に合わせて黙とうし、住民を巻き込んだ凄惨(せいさん)な沖縄戦で亡くなった20万人を超える犠牲者の冥福を祈り、不戦と恒久平和を誓った。」
②「翁長雄志知事は平和宣言で、戦後73年を経ても全国の米軍専用施設の70・3%が沖縄に集中し、基地から派生する事件・事故や環境問題に悩まされ続けている理不尽さを訴えた。先日の米朝首脳会談など緊張緩和に向けた東アジアの安全保障環境の変容に触れ、『20年以上も前に合意した辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのか』と日米両政府に現行計画の見直しを求めた。さらに、民意を顧みない辺野古新基地建設は沖縄の基地負担軽減だけでなく、アジアの緊張緩和にも逆行していると指摘。『【辺野古に新基地を造らせない】との私の決意は県民と共にあり、これからもみじんも揺らぐことはない』と強調した。」
③「県遺族連合会の宮城篤正会長は『米軍普天間飛行場の早急な移設を熱望すると同時に戦争につながる新たな基地建設に断固反対する』と訴えた。老朽化する県内各地の慰霊塔を国の責任で維持・管理するよう求めた。」
④「安倍晋三首相は来賓あいさつで、沖縄の過重な基地負担の現状を『何としても変えていかなければならない。政府として一つ一つ確実に結果を出していく』と決意。西普天間住宅地区跡地の引き渡しが3月に実現したことで『跡地利用の取り組みが進んでいる。引き続き、沖縄の基地負担軽減に全力を尽くす』と述べた。沖縄が日本の振興発展をけん引する流れをさらに加速させるため、『私が先頭に立って沖縄振興を前に進める』とした。」
⑤「大島理森衆院議長と伊達忠一参院議長、福井照沖縄担当相ら関係閣僚も参列した。」
⑥「同公園内の『平和の礎』には朝早くから遺族らが多く訪れ、亡き家族・親族に思いをはせ、鎮魂の祈りをささげていた。」


(7)沖縄タイムス-名護の銃弾発見「命に関わる重大な問題」 安倍首相が認識示す-2018年6月23日 13:26


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「安倍晋三首相は23日、沖縄県糸満市摩文仁で、名護市数久田で米軍のものとみられる銃弾が見つかったことに『命に関わる重大な問題』との認識を示した。22日にハガティ駐日米大使に対し、実弾射撃訓練を実施するキャンプ・シュワブのレンジ10を閉鎖するよう求め、受け入れられたとも明らかにした。沖縄全戦没者追悼式後に記者団に答えた。」
②「名護市辺野古の新基地建設では、『世界一危険といわれる普天間飛行場の固定化を避ければならない』と強調。三つの機能のうち、一つだけが辺野古に移転されるとして、騒音被害や学校、住宅などの上空の飛行が減るなどと説明し、理解を求めた。」
③「また航空機事故が相次いでいることには『子どもや住民の安全、安心が最優先であり、トランプ米大統領にも厳正な安全確保を強く要請している』と述べた。」


(8)沖縄タイムス-母と妹の生きた証しを形に 戦災孤児、苦難を超え戸籍登載 平和の礎刻銘も-2018年6月23日 16:30


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「妹たちの存在を証明したい。自らに課した使命を、沖縄県金武町の山川信子さん(86)は戦後70年以上たって果たした。太平洋戦争中の1945年8月、フィリピン・ミンダナオ島の戦いで犠牲になった継母の池原ウタさん(享年38)と、8歳と5歳ぐらいだった妹のトミ子さん、敏子さん。戦後の混乱で戸籍から漏れていた3人の戸籍登載が昨年、家庭裁判所に認められた。『もう人生に後悔はない』。戦災孤児となり辛酸をなめた戦後を振り返りながら、家族の供養が節目を迎えたことをかみ締めた。」       (社会部・新垣綾子)
②「山川さんは戦前、フィリピンに渡った旧金武村伊芸出身の父福助さんと母カマさんの間に生まれた。しかし、カマさんが急死したため父はウタさんと再婚。トミ子さんを授かった。『トミ子はいつも【ネーネー】と言って寄ってきて、実母を亡くした寂しさを癒やしてくれた』。山川さんはその後、一時家族と離れ、カマさんの遺骨を抱いて帰郷し、沖縄戦に巻き込まれた。【きっとフィリピンでは平和な生活が続いている】。そう信じて戦渦を耐えたが、待っていたのは両親とトミ子さん、そして山川さんが帰郷後に誕生した末妹の敏子さんの死という現実だった。」
③「福助さんは艦砲射撃で足に重傷を負い、力尽きた。臨月だったウタさんも思うように動けず、代わりに食糧探しを担った幼い2人の子と共に消息不明になった-。フィリピンから引き揚げてきた親戚はそう打ち明け、『自分の家族を守るのがやっと。手助けできず後悔している』と語った。」
④「孤児になり、親戚宅を転々とした山川さんは、23歳で結婚すると7人の子に恵まれた。我慢と辛抱を重ねながら築き上げた大家族の日々に幸せを感じるたび、戸籍上存在しない妹たちのことが胸を締め付けた。『私がやらないと誰がやる』。約2年前から家裁への戸籍訂正手続きに取り掛かり、フィリピンへの渡航者名簿や写真のほか、叔母の仲間春子さん(89)、叔父の小橋川萬三さんの証言などで妹たちの存在を証明した。」
⑤「23日には子や孫と一緒に糸満市の平和の礎へ足を運ぶ。今年は新たに刻銘された58人の中に、トミ子さんと敏子さんの名もある。「戦争がなければ家族は元気に暮らしていたし、私もこんなに哀れしなかった」。妹たちの生きた証しを残し「悔いはない」と言い切る一方で、やり場のない怒りが涙となり、何度も頬を伝った。


(9)沖縄タイムス-「慰霊の日」前に相次ぐ米軍の事故 沖縄県幹部・県政与党に不満-2018年6月23日 15:16


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「6月23日の慰霊の日を前に沖縄県内で米軍による事故が相次いでいる。戦後73年が経過しても県民の命を脅かす事故が続く現状に不満の声が上がる一方で、政府内では関係閣僚から認識の乖離(かいり)ともいえる発言があった。」
②「県議会米軍基地関係特別委員会の仲宗根悟委員長は22日、嘉手納基地所属のF15戦闘機の墜落への抗議で外務省沖縄事務所と沖縄防衛局の担当者を呼び出して訴えた。」
③「F15が所属する嘉手納基地は県議会や嘉手納町議会の抗議を拒否し、反発が高まっている。与党幹部は『戦後73年たっても、まるで米軍の占領下にいるようだ』と吐き捨てた。」
④「同じく22日、キャンプ・シュワブに隣接する名護市数久田の民間地で銃弾のような物が発見されたことを受け、在沖海兵隊がシュワブ内の実弾射撃訓練を行うレンジ10の使用を一時的に停止すると発表した。」
⑤「一報を受けた県幹部は『米軍の流弾の蓋然(がいぜん)性が高まったか』とつぶやいた。」
⑥「夕暮れの県庁内が沖縄全戦没者追悼式の準備で慌ただしくなる中で『慰霊の日は沖縄戦の組織的戦闘が終わった日。同時に米軍統治による人権侵害が始まり、現在の基地問題につながる日。6月23日の直前に米軍の事故が起きるのは本当に残念だ』と唇をかんだ。」
⑦「一方、東京では22日、基地問題を巡る政府と沖縄の乖離を露呈する場面もあった。沖縄全戦没者追悼式に参列する小野寺五典防衛相は記者会見で『二度とあのような戦争を起こさないためにも、しっかりと抑止力を高めていく』と語った。『抑止力』は政府が日米安全保障の重要性や、名護市辺野古の新基地建設を進める根拠とする際に強調する。だが、『抑止力』は沖縄に全国の7割が集中する在日米軍基地の上に成り立ち、そのほとんどは沖縄戦後に強制的に接収されて建設された。小野寺氏の発言に、県選出野党国会議員の1人は『あの戦争を思い出す日に、沖縄の基地機能の強化を正当化するような発言だ』と批判し、語気を強めた。」                           (政経部・銘苅一哲、大野亨恭、東京報道部・大城大輔)


(10)沖縄タイムス-「帰れ」「政治利用するな」 沖縄追悼式で首相と知事にやじ-2016年6月23日 12:46


 沖縄タイムスは、「沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれた慰霊の日の戦没者追悼式で23日、安倍晋三首相と翁長雄志知事に対し、参列者らからやじが飛ぶ場面があった。追悼式の前には、会場に入ろうとする安倍首相に『安倍帰れ』とやじが飛んだ。来賓あいさつ後にも『帰れ』と声が上がった。翁長知事が平和宣言をする直前には男性が『政治利用するなよ、翁長。靖国神社に参拝してこい』と叫び、警察官に会場から連れ出された。」、と報じた。


(11)沖縄タイムス-在沖米軍、射撃施設「レンジ10」一時閉鎖 名護「流弾」県警が解明急ぐ-2018年6月23日 10:41


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「米軍キャンプ・シュワブに隣接する沖縄県名護市数久田の農作業用小屋で銃弾のような物が見つかった問題で、在沖海兵隊は22日、同基地内の実弾射撃訓練施設『レンジ10』を予防措置として一時的に閉鎖したことを明らかにした。本紙取材に答えた。県警は同日、窓ガラスが割れた小屋の実況見分を実施。米軍演習の流れ弾による器物損壊事件などを視野に、鑑定結果から立件の可能性を見極める方針。」
②「海兵隊は、発見された銃弾のような物が米軍の弾かは明言しなかったが『地域社会の安全を大切にし、問題を非常に真摯(しんし)に受け止める。県警とできる限り協力して調査を支援する』としている。13日、県に対し、18~24日にレンジ10を含むシュワブ内での実弾射撃訓練の実施を通知していた。」
③「県警は実況見分に米軍の捜査局を立ち会わせ、米軍の銃弾と特定した場合の捜査協力を求めた。山田聡名護署長の指揮で捜査を進め、被弾の方向や角度、速度などの解明を急ぐ。」
④「沖縄防衛局の中嶋浩一郎局長は同日、名護市の渡具知武豊市長と数久田区の比嘉幹和区長をそれぞれ訪れ、現場の状況やレンジ10の一時閉鎖について報告した。中嶋局長は名護市役所で『警察の捜査結果を踏まえ、局としても適切に対応したい』と説明した。」
⑤「中嶋局長からレンジ10の一時閉鎖を聞かされた渡具知市長は、銃弾が米軍由来である可能性について『現時点では不明確な面があるので、それが米側からの物なのかも含めて、われわれとしては県警に一刻も早い原因究明を求めていきたい。それを踏まえて今後対応したい』と述べた。」
⑥「小野寺五典防衛相は同日の記者会見で『過去、この近傍では米軍の弾が発見された事案も起こっている。米側にしっかり確認した上で、結果を踏まえ適切に対応したい』と述べた。」
⑦「謝花喜一郎副知事は『米軍の流弾の可能性が高まった。狭い沖縄本島で実弾訓練をすることに限界があるのだろう』と述べ、米軍の事故と確定すれば抗議する考えを示した。」
⑧「名護市によると市内で発生した過去の米軍流弾事故6件のうち、5件がレンジ10から発射された。2002年の事故後は市議会がレンジ10での射撃訓練廃止を求める決議を採択した。」




by asyagi-df-2014 | 2018-06-23 17:39 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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