2018年 05月 21日 ( 1 )

こんな歴史認識の欠如や「デマ発言」は、もうやめにしよう。

 沖縄タイムスの2018年5月13日の「普天間飛行場デマ:米海兵隊司令官の無理解に怒り 宜野湾郷友会長『諦めず発信する』」との記事は、「2日に米海兵隊トップのネラー司令官が『普天間飛行場の建設時の写真を見ると、数キロ内に人は住んでいなかった』などと発言した。2010年には元在沖米国総領事のケビン・メア氏、15年には作家の百田尚樹氏と、『デマ発言』が繰り返されて、史実や事実が覆い隠されていく。地元はどう受け止めているのか。沖縄県宜野湾市の字宜野湾郷友会の松本幸清会長(70)に発言に対する思いを聞いた。」、で始まる。
 この中で、松本幸清会長は、次のように答えている。


①「ネラー司令官の発言を知って『またか』と怒りがこみ上げた。海兵隊を沖縄に置きながら、最低限の勉強もしておらず、無責任すぎる。こんな歴史認識で、新兵の教育などをしていると思うと許せない。」
②「戦前の字宜野湾には約250戸、1100人が住んでいた。素晴らしい集落、国の天然記念物に指定された並松街道があった。米兵が飛行場建設のために電動のこぎりで松を切る様子や集落を壊した後の更地など、フィルムや写真にしっかりと残っている。住民の喪失感は果てしないものだったと思う。」
③「米軍の許可を得て、8月には飛行場内の湧き水・産泉(ウフガー)の清掃をする。ここで洗濯をしたり水浴びをしたりした話を聞く。確かな人々の営みがそこにあった。こういった、事実ではない発言が繰り返されてしまうのは、私たちの発信不足もあるだろうが、できることは限られている。日米両政府が沖縄の歴史に向き合っていないとも思う。米国と戦争をしたことすら知らない世代が育ってきている。教科書には沖縄戦の記述は少ない。しっかりと教えることは不都合なのだろう。」


 松本幸清会長は、このインタービューの最後を、「字宜野湾の私たちが事実を伝えていかなければならないのはもちろんだが、市民、県民それぞれがしっかりと事実を理解し、発信していく必要があるのではないか。少しでも多くの人に伝わるよう諦めず、コツコツとやっていくしない。」、と答えている。


 あらためて考えさせられる。
沖縄の歴史に対する多くの人たちの無理解と、このことにつけ込む政治手法である。
そこには、被害を受けながらも、それに立ち向かう意志の強さと相手をも気遣うやさしを持ち得た人たちがいる。しかし、もう一方には、「目下の同盟」の根本矛盾を把握しながら、自らの生き残りのためにあらゆるものを利用しようとする政治集団がいる。
 そして、こうした構造の外には、この政治集団の思惑を実現するための実行部隊と「知らん顔して」こうしたことを支える多くの日本国民がいる。
 現在の沖縄の「構造的沖縄差別」はこうした構造で維持されている。
 だとしたら、こうした構造は、もはや止めるべきではないか。


 さて、話を米海兵隊トップのネラー司令官の発言が引き起こしたことに戻そう。
 沖縄タイムスは、この問題について、「米海兵隊トップのネラー司令官が2日の米国防総省での記者会見で『普天間飛行場の建設時(1945年)の写真を見ると、数キロ内に人は住んでいなかった。現在はフェンスまで都市地域が迫っている』と発言した。『危険になったから名護市辺野古の新基地建設を進める』という意図を持つとみられるが、明らかな誤解、デマだ。沖縄の施政権を米国が日本へ返還してから46年目の5月15日を前に、普天間飛行場問題を振り返る。」、と特集(上・中・下)を組んだ。
この特集をまとめる。


Ⅰ.ネラーさん本当に知らなかったの? 元住民を傷付ける「普天間、人いなかった」発言


(1)「村役場があり8800人生活」
①「-海兵隊のトップが『普天間飛行場は人の住んでいない所に造った』と言ったんだよね。何が誤解なの?」
「人の住んでいない所に造ったわけではないよ。普天間飛行場がある場所には戦前、当時の宜野湾村役場や宜野湾国民学校があり、南北に宜野湾並松(ジノーンナンマチ)と呼ばれた街道が走っていたんだ」
②「-人は住んでいたの。」                           「宜野湾市史によると、沖縄戦前年の1944年、当時の村内に22の字があり、人口は1万3635人だったんだ。飛行場はそのうちの14字にまたがる宜野湾村の中心地に建設され、その14字には8880人が生活していたよ」
③「-どうして飛行場を造る必要があったのかな。」                「沖縄は航空機で本土を攻撃し、戻ってこれる距離にあり、米軍は出撃拠点として目を付けていたんだ。45年の沖縄戦で、沖縄本島に上陸した米軍は飛行場に適した宜野湾の土地を奪い、そこに2300メートルの滑走路2本と、爆弾を積むB29爆撃機の駐機場220カ所などを造る計画だったんだよ」
(2)「住民は収容所や疎開先にいた」                      ①「-いつできたの。」                             「米軍の記録では45年6月17日に飛行場建設の任務を部隊に割り当てたんだ。日本軍の司令官が自決し、組織的戦闘が終結したとされるのは6月23日だよね。つまり人々を追い払い、戦争真っただ中に、飛行場を造り始めたことが分かるね」
②「「-戦争中にできたの?」                          「8月23日までに約1800メートルの滑走路1本と、駐機場75カ所、誘導路などが使用可能だったんだ。戦争が終わった後も、さらに滑走路や周囲を拡張したよ」
③「「-住民はどうなったのかな。」                       「その間、疎開したり、収容所に入れられたりしていたんだ。45年10月以降に少しずつ帰村を許されたけど、戻ってみると、自宅や畑はフェンスに囲まれていたよ。だから、米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落を作り直すことを余儀なくされたんだ」
(3)「ふるさと追われた人の気持ち」                      ①「-ネラーさんは知らなかったのかな。」                    「『人の住んでいない場所に飛行場ができた』という発言は、作家の百田尚樹さんなど、これまでもあったね。『何もないところに造ったのに周りに人が住んだ。危険だから名護市辺野古へ移設しようとしたら、反対する人がいる』と言いたいんだろうけど、実態とかけ離れているね。」                               「元住民たちは『ネット情報をうのみにした幼稚な発言だ』『ふるさとを追われた人の気持ちを知らず、ばかにしている』と非難しているよ」
②「-沖縄の他の米軍基地もそうなの。」                     「県の資料によると、沖縄戦の前に旧日本軍が所有していた土地は540ヘクタールだったんだ。米軍が上陸後、沖縄の施政権を停止し、軍事占領した土地はその30倍に上る1万7400ヘクタール。52年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効後、米軍統治下で住民の土地は強制接収され、72年に施政権が返還されるまでに沖縄の米軍基地の面積は約2万8600ヘクタールに膨らんだんだ。今は約1万8500ヘクタールに減ったけど、それでも全国の米軍専用施設面積の70・3%が沖縄に集中しているね」
③「-沖縄には軍用地主が多いよね。」                      「本土の米軍基地は国有地や旧日本軍跡地を利用したため、9割近くが国有地なんだ。それに対し、住民から強制的に土地を接収した沖縄では、国有地が3割ほどで、残りは民間や地方自治体の土地だよ。普天間飛行場の91%は民有地で、地主は約3400人。この数字を見ただけでも、人が住んでいなかった所に飛行場を造ったというのが間違っていることが分かるんじゃないかな」


Ⅱ.住民が危険な米軍基地に接近? 裁判所は国の主張退ける 普天間の歴史


(1)「本土から常駐ヘリが増え、危険に」                    ①「-米海兵隊のネラー司令官は、普天間飛行場ができた後に周辺に人が住んだみたいなことを言ったよね。」                              「普天間飛行場は宜野湾市のど真ん中に、ドーナツの穴のように位置する。市の面積に占める割合は25%、キャンプ瑞慶覧という別の基地も8%あるので、残りの約67%に9万5千人が暮らしている。沖縄戦でふるさとを追われた人たちやその子や家族が、仕方なく基地周辺に住んでいるという実情があるよ」
(2)「-住民が『危険に接近した』という意見がある。」             ①「国に対し、住民が米軍機の飛行を止めさせるよう訴えた裁判で、国は『住民は危険を知りながら自由な考えで、そこに住んでいるから国に騒音被害の責任はない』と主張したんだ」
②「「-裁判所はなんて。」                           「裁判所は『歴史的事情からすれば、地元に帰りたいという気持ちを理解できる』『地縁などの理由でやむを得ず周辺に住んでおり、非難されるべき事情は認められない』と判断し、国の主張を退けたんだ」
③「-普天間飛行場の隣には小学校があるでしょ。」                「普天間第二小学校だね。昨年12月に普天間所属の大型ヘリコプターが運動場に重さ7・7キロの窓を落とす事故があった。体育の授業中の子どもたちもいて、あわや大惨事だった」
④「「-米軍は学校上空を『最大限可能な限り飛行しない』と約束したよね。」    「事故後も沖縄防衛局が飛行を確認している。学校が運動場の使用再開後の2月13日から3月23日までに児童が登校した28日間で、飛行機やヘリが学校近くを飛んだため、児童の避難回数は計216回に上った」
⑤「-でも、学校は飛行場の後にできたんだよね。」                「そう。児童が増えた普天間小の過密化を解消するため1969年に第二小が設置され、70年から現在地に校舎が建ち始めた。他に適当な土地が見つからなかったという事情があるよ」
⑥「-その頃から危険なの。」                          「普天間には常駐機が少なく、『滑走路にペンペン草が生える』といわれる休眠状態だった」
⑦「-危険になったのはなぜ。」                         「常駐機が増えたんだ。関東地方の米軍基地を大幅に縮小する『関東計画』の影響が大きい。79年に本土などからヘリが移ってきた。本土の負担が減る一方で、第二小の教育環境や、周辺の住環境も悪化したという見方もできるよ
⑧「-宜野湾市は学校を移転しなかったのかな。」                 「80年に飛行場内で攻撃機が墜落し、移転しようという声が高まった。市は移転先として市内の別の米軍基地の一部返還を求めたけど二つの壁があった」          「一つは、米軍の付けた条件。第二小の敷地を普天間飛行場に組み込むよう求めてきた。県内では基地縮小の動きが強まっていたので、市は基地の広がる条件を飲めなかった。もう一つは、米軍が認めたとしても土地を買うのに当時で25億円が必要で、国から補助できないと言われていた」
⑨「-移転できなかったの。」                          「老朽化した校舎の建て替えが必要になり、92年9月、PTAの臨時総会で移転断念を決めたんだ」
(3)「-危険はそのままだね。」                        ①「米軍基地には日米のいずれの法律も適用されないため、米国なら土地の利用が禁止されている普天間飛行場の滑走路延長線上の地域に、保育所や学校などの公共施設18カ所、住宅約800戸があり、3600人が住んでいる」                 ②「2003年に普天間を上空から視察したラムズフェルド国防長官は『世界一危険な米軍施設』と感想を漏らした。04年8月には隣接する沖縄国際大学に大型ヘリが墜落した。『世界一危険』なら直ちに除去すべきなのに、日米で返還に合意してから22年、沖国大の事故から14年たっても、実現していない」


Ⅲ.イチから分かるニュース深掘り 普天間飛行場問題


①「-普天間飛行場が危険なら移設した方がいいよね。」              『そう簡単ではない。国は名護市辺野古へ移設しようと2014年8月から埋め立て事業を始めたけど、沖縄県内では知事選や国会議員選挙で移設反対の候補者が当選したり、世論調査で6~7割が反対したりと、反対の民意が根強い』
②「-なぜ反対するの。」                            『理由はそれぞれ。戦争につながる基地はいらない、ジュゴンやサンゴの住むきれいな海を守りたい、被害と負担を子や孫の世代に引き渡したくない-などだ。沖縄に米軍基地が集中することで米軍関連の事件・事故が相次いできたことから、長年積み重なった感情も影響していると思う』
③「-県民の負担を軽減するのが目的でしょ。」                  『国は、普天間と比べ、滑走路は2700メートルから1800メートルと短くなる。普天間の三つの機能のうち辺野古に移るのはオスプレイやヘリの部隊運用の一つだけなので機能は小さくなる。辺野古の基地周辺に民家がないので騒音被害も減る、と説明している』
④「-違う考え方もあるの。」                          『滑走路は短くなるが、普天間の1本に比べ、辺野古の基地には2本できる。ほかにも、全長300メートル近い船が接岸できる護岸、爆弾やミサイルを積み込むエリアなど普天間飛行場にはない機能がいくつも追加される。今よりも機能が強化され、使い勝手のよい新しい基地ができると、米軍の駐留が長引くと考えるのは普通だよね。負担軽減とは言えない、むしろ固定されるといった意見もある』
④「-ほかには。」                               『普天間の面積は480ヘクタール、東京ドームの約102個分。それでも県内の米軍基地面積の2・5%に過ぎない。移設に反対している翁長雄志知事をはじめ、多くの県民には、たったそれだけを返すのに、大きな基地負担を受けている沖縄に対し、さらに他の土地をよこせ、と要求するのは理不尽という思いの方が強い』
⑤「-日本と米国が普天間の返還に合意したのは1996年。22年たっても実現しないのはなぜ。」                                  『県内への移設が条件に付いたことから難しくなっているのは間違いない』
⑥「-県や名護市は辺野古への移設を認めたこともあるんでしょ。」         『99年に当時の知事と名護市長が受け入れに同意した。2人とも15年で使用を止めること、夜や朝の飛行を制限することなど、いくつもの条件を付けた。国は条件が満たされるよう取り組むと閣議決定した』『しかし、2006年に海を埋め立て、滑走路を造る今の計画で日米合意した時、県や名護市と十分な調整もなく、閣議決定は廃止された。国が条件を満たすという前提がなくなったので、当事者の間では【受け入れの同意もなくなった】と理解されている。にもかかわらず、国は【99年に県と名護市から同意を得ている】と繰り返している』
⑦「-13年に当時の知事が埋め立てを認めたでしょ。」              『仲井真弘多前知事は、06年知事選で【現行案には賛成できない】、10年知事選で【県外移設】を掲げ、当選した。辺野古への移設は認めていなかったんだ。13年に埋め立てを承認した後、14年知事選で【政府案推進】で出馬したけど、移設に反対する翁長雄志知事に大敗した。仲井真さんの承認は、県民が移設を認めたことにはならないんじゃないかな』
⑧「-でも辺野古での建設は進んでいるよね。」                  『翁長知事は、仲井真前知事の埋め立て承認を取り消すなど、抵抗しているけど、国は裁判所に訴え、勝訴したことを理由に工事を再開した。国は10年で工事を終わらせると言っているけど、遅れているのは事実。今後も反対する人がいる限り、簡単に工事が進むとは思えないね』                                 


 確かに、今回の発言が曝け出した「構造的沖縄差別」の矛盾は、次のように明確にできる。


(1)危険への接近論について、日本国は、『危険を知りながら米軍普天間飛行場周辺に住んでいる』と主張している。しかし、裁判所は、『やむを得ない事情があり、非難できない』と国の主張を認めていない、ということ。
(2)これまで主張されてきた普天間第二小学校の移転問題について、、「隣接する普天間第二小学校も移転できない理由があった。」、と裁判所は判断しているということ。
(3)しかも、9万5千人の暮らす宜野湾市のど真ん中にある飛行場について、2003年当時の米国防長官は「世界一危険な米軍施設」と呼んだ状況が現実にあること。


 今、私たちに必要なことは。あらためて、次の言葉に向き合うことだ。この『日米両政府』という言葉を『日米両国民』に置き換えてみればわかることだ。


「米軍の許可を得て、8月には飛行場内の湧き水・産泉(ウフガー)の清掃をする。ここで洗濯をしたり水浴びをしたりした話を聞く。確かな人々の営みがそこにあった。こういった、事実ではない発言が繰り返されてしまうのは、私たちの発信不足もあるだろうが、できることは限られている。日米両政府が沖縄の歴史に向き合っていないとも思う。米国と戦争をしたことすら知らない世代が育ってきている。教科書には沖縄戦の記述は少ない。しっかりと教えることは不都合なのだろう。」




by asyagi-df-2014 | 2018-05-21 07:11 | 書くことから-いろいろ | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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