2018年 04月 08日 ( 2 )

沖縄-辺野古-沖縄 高江から-2018年4月8日

 米山隆一新潟県知事の思いを「当たり前」に。 
琉球新報は、米山知事の考え方を、「訓練受け入れには『沖縄に負担してもらっているリスクを他の県が取れないわけはない』と述べ、国民全体で議論すべきだとの認識を示した。」「多くの沖縄県民が米軍普天間飛行場の県外移設を求めていることに関しては『どこにすべきかは言えないが、本質的には沖縄にいなければならない理由はない』と強調した。」、と伝える。
 「新潟を含め県外の移転候補地には言及しなかった。」とはいえ、まずは一歩に。




 沖縄で起こっていること、その現場の事実をきちんと確認すること。
 2018年も、琉球新報と沖縄タイムスの記事を、「沖縄-辺野古-高江-から」を、報告します。
 2018年4月8日、沖縄-辺野古-高江の今を、沖縄タイムス、琉球新報は次のように表した。


(1)琉球新報-沖縄の負担、他県も オスプレイ訓練、受け入れ前向き 米山・新潟知事-2018年4月8日 06:55


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「【東京】在沖米海兵隊輸送機MV22オスプレイの訓練移転に関する昨年のアンケートで、全国の知事の中で唯一、受け入れに前向きな姿勢を示した米山隆一新潟県知事が7日までに琉球新報の取材に応じた。訓練受け入れには『沖縄に負担してもらっているリスクを他の県が取れないわけはない』と述べ、国民全体で議論すべきだとの認識を示した。多くの沖縄県民が米軍普天間飛行場の県外移設を求めていることに関しては『どこにすべきかは言えないが、本質的には沖縄にいなければならない理由はない』と強調した。」
②「米軍横田基地への配備に向け米空軍のCV22オスプレイが日本に到着したことに関連し『今までは日米地位協定の話は皆なんとなく人ごとだった。結局、自分の問題だと今分かった。配備を自分の問題と捉えて安全にしてもらわないといけない。地位協定の改定に取り組むいいタイミングではないか』と語った。」
③「沖縄の基地負担について『安全保障にとって基地が必要な部分というのはある。皆、危険はあるが、ないといけないと思っている。その危険も分かち合うのがあるべき姿だ。自分はリスクを負わないで安全保障を享受して、(沖縄の基地負担は)仕方ないと言う権利はない』と強調した。新潟を含め県外の移転候補地には言及しなかった。」
④「アンケートは昨年末に共同通信が全国の知事を対象に実施した。新潟県だけが、国による情報開示と十分な説明などを条件に『どちらかというと賛成』と回答した。『県民理解が進むことを前提に自治体として受け入れるべきだ』と答えた。」


(2)琉球新報-10・10空襲 徳島の子から義援金 73年越し「ありがとう」 島袋さん思い、中山さんに託す-2018年4月8日 07:10


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「義援金をありがとう-。沖縄県那覇市泊在住の中山公子さん(74)が1944年の10・10空襲の際に那覇市に義援金を送った徳島県徳島市の川内北国民学校(現・川内北小学校)を20日に訪ね、お礼を伝える。徳島県出身の中山さんに思いを託したのは、教育史の編さんで義援金の件を知った島袋文雄さん(87)。地域のゆんたく会で知り合ったつながりで“73年越しの感謝”が届けられる。」
②「島袋さんが徳島県など県外の小学校から那覇市に義援金が送られたことを知ったのは、10年以上前に市の教育史の編さんに携わった時だ。44年12月25日付の沖縄新報には、徳島県の川内北国民学校の児童から那覇市への義援金百円が新聞社宛てに送られたことと児童が書いた手紙の全文が掲載されていた。」
③「『お母さんを呼ぶ可愛い女の子にまで敵が掃射をしたといふことを聴き、私たちの血は逆に流れるやうな怒を感じました』『私たちが縄をなったり、いなごをとったり、カマスを織つたりお祭りのお小遣いをしまつたりして貯へてあったお金です』(原文ママ)。記事に掲載された子どもたちの手紙からは、義援金が子どもたちがわずかな小遣いから集めたお金であることも記されていた。」
④「島袋さんは『いたいけな子どもたちの思いに非常に感激を受けた。お礼をしなければと責任を感じた』と振り返る。市長に感謝状の手交や相互交流を働き掛けたが、実現しなかった。あきらめかけた思いに光が差したのはことし1月。泊で開かれたゆんたく会で徳島県出身の中山さんと知り合った。高齢のため、自身では県外への移動が難しい島袋さんは『ぜひ感謝を伝えてほしい』と依頼。中山さんは『ご協力できれば』と引き受けた。4月に夫の勲さん(79)が同級生会で徳島県に行く予定があり、20日に訪ねることになった。」
⑤「中山さんが調べると、義援金を送った当時に子どもだった人も地域に住んでいるという。今回会えるかは未定だが、中山さんは『貧しい中で子どもたちがこれだけのお金を送ったことがすごいと思う。島袋さんの思いと感謝を伝えたい』と話した。」      (田吹遥子)


(3)沖縄タイムス-陸自水陸機動団、長崎・相浦で発足式 将来的に沖縄配備構想も-2018年4月8日 06:30


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「【長崎で大城大輔】陸上自衛隊は7日、離島防衛の専門部隊『水陸機動団』の発足式を相浦駐屯地(長崎県佐世保市)で開いた。陸自はこれまでもっていなかった水陸両用作戦能力を持つことになったが、『実戦部隊』の配備は、沖縄を含む南西諸島の安全保障環境のさらなる緊張を生む懸念もある。将来的には沖縄に配備する構想もある。」
②「式典には隊員ら1500人が参加。山本朋広防衛副大臣が青木伸一水陸機動団長に団旗を授与した。山本氏は小野寺五典防衛相の訓示を代読し、『島しょを守るというわが国の断固たる意志と能力を国際社会に示す』と強調した。」
③「水陸機動団は西部方面普通科連隊を中心に3月27日、約2100人態勢で発足し、2個連隊が配備された。陸自の部隊運用を一元的に担う陸上総隊と併せ、1954年の陸自発足以来、最大の組織改編の目玉に位置付けられる。」
④「今秋にも導入されるオスプレイや水陸両用車『AAV7』などを使い、占拠された離島に上陸。奪回する作戦を担う。」
⑤「式典には山崎幸二陸上幕僚長のほか、バーガー米太平洋海兵隊司令官や在沖米軍トップのニコルソン四軍調整官も出席。実際に離島が占拠された想定で、在沖米海兵隊と奪回作戦に当たる訓練のデモンストレーションも披露した。」
⑥「青木団長は式典後の記者会見で、将来的な沖縄への配備について、『私自身が要求すべきものではなく、大綱・中期防の(議論の)中でしっかり検討されるべきものだ』と述べるにとどめた。」


(4)沖縄タイムス-新基地問う県民投票、署名集めは大型連休以降 「考える会」初会合-2018年4月8日 05:00


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「沖縄県名護市辺野古の新基地建設の賛否を問う県民投票に向けて、県内や県出身の大学生、経済関係者らでつくる『辺野古県民投票を考える会』は6日、那覇市内で、県民投票の請求代表者の会議を初めて開いた。県民投票に必要な署名活動を5月の大型連休後に開始する計画などを確認した」。
②「当初は4月下旬の開始を目指したが、会議の中で『選挙人名簿の整理に時間がかかる』と報告があり、時期を遅らせたという。署名を集める組織の枠組みや活動方針なども確認した。」
③「県民投票を請求する代表者として、金秀グループの呉屋守將会長のほか、仲里利信前衆院議員、新垣勉弁護士などを予定している。」
④「県民投票には条例の制定が必要で、県議会に提案するには有権者の50分の1の署名を集めるよう地方自治法で定めている。メンバーらは10分の1の署名を集め、新基地建設に関する民意を鮮明にするとともに、反対が賛成を上回れば、辺野古埋め立て承認撤回の『大きな後ろ盾になる』とみている。」


(5)沖縄タイムス-耳を疑うペリー元国防長官講演 欠陥基地・普天間飛行場を他基地と同列扱い-2018年4月7日 12:00


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「『(カリフォルニアの基地に)普天間を移転するのは可能だ。しかし結局は誰かの裏庭という話になる。問題の根本はそこなんだ』。先月13日。米首都ワシントンで開かれた県主催のシンポジウムで、ペリー元国防長官の口から驚くべき発言が飛び出した。」
②「ペリー氏は、約20分の大半を朝鮮半島情勢について論じた基調講演後の質疑応答で、在沖米海兵隊の米本土移転は可能だが、引き取り先で『自分の裏庭は駄目だ』という議論になるから難しい。沖縄だけが特別な問題を抱えているわけではないなどと答えた。」
③「ここには重大な事実誤認がある。クリアゾーン(利用禁止区域)のない米軍普天間飛行場は、米本土の基地と同列で語られるべきではない欠陥基地という点だ。クリアゾーンとは、滑走路の両端の土地の利用禁止を定めた米軍の指針だ。」
④「元米兵らで組織する県内の平和団体『ベテランズ・フォー・ピース・ロック(VFP-ROCK)』は先月、普天間や岩国を含む国内外の海兵隊基地15カ所のうち、クリアゾーン内に学校や住宅などの建造物があるのは普天間のみと指摘。マティス国防長官らに書簡を送付し、米国の安全基準に反する普天間の即時閉鎖を要求した。米国防長官として、1996年の普天間返還合意を主導したペリー氏は、そうした普天間の欠陥は十分に承知しているはずだ。」
⑤「それにもかかわらず、クリアゾーンのない普天間を他基地と同列に比較した同氏の発言は、普天間の欠陥を矮小(わいしょう)化し、基地を運用する当事者責任の欠如をも露呈した。」
⑥「シンポでは、日米の有識者らが日米安保体制の維持を前提に沖縄の米軍基地削減策を見いだそうとする議論を展開し、沖縄が論理的な代替案を提示すべきとの意見も多く出た。私はそうした議論に耳を傾けながら、日米両政府の非論理的な軍事戦略を押し付けられている私たち沖縄が、なぜ論理的な代替案を提示しなければならないのかと矛盾を感じていた。普天間移設を巡る根本的解決策がいまだに見いだせないのは、当事者たちが普天間の欠陥に目をつむり、基地を押し付けている責任を棚上げしたままだからだ。」
⑦「日米は一体いつになれば沖縄の人権を考えるのか。」

 常に沖縄を軍事的観点で語る日米の非論理性を正すには、沖縄人の人権を不法に侵害している普天間は、米国の安全基準に反した欠陥基地だと広く訴えていく必要がある。(平安名純代・米国特約記者)


(6)沖縄タイムス-離島防衛力強化へ 陸自水陸機動団が発足式 南西諸島の緊張懸念も-2018年4月8日 12:10


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「【長崎で大城大輔】陸上自衛隊は7日、離島防衛の専門部隊『水陸機動団』の発足式を相浦駐屯地(長崎県佐世保市)で開いた。陸自はこれまでもっていなかった水陸両用作戦能力を持つことになったが、『実戦部隊』の配備は、沖縄を含む南西諸島の安全保障環境のさらなる緊張を生む懸念もある。将来的には沖縄に配備する構想もある。」
②「式典には隊員ら1500人が参加。山本朋広防衛副大臣が青木伸一水陸機動団長に団旗を授与した。山本氏は小野寺五典防衛相の訓示を代読し、『島しょを守るというわが国の断固たる意志と能力を国際社会に示す』と強調した。」
③「水陸機動団は西部方面普通科連隊を中心に3月27日、約2100人態勢で発足し、2個連隊が配備された。陸自の部隊運用を一元的に担う陸上総隊と併せ、1954年の陸自発足以来、最大の組織改編の目玉に位置付けられる。今秋にも導入されるオスプレイや水陸両用車『AAV7』などを使い、占拠された離島に上陸。奪回する作戦を担う。」
④「式典には山崎幸二陸上幕僚長のほか、バーガー米太平洋海兵隊司令官や在沖米軍トップのニコルソン四軍調整官も出席。実際に離島が占拠された想定で、在沖米海兵隊と奪回作戦に当たる訓練のデモンストレーションも披露した。青木団長は式典後の記者会見で、将来的な沖縄への配備について、『私自身が要求すべきものではなく、大綱・中期防の(議論の)中でしっかり検討されるべきものだ』と述べるにとどめた。」


(7)沖縄タイムス-中国の海洋進出念頭に「沖縄が最前線に」専門家が警鐘-2018年4月8日 12:15


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「陸上自衛隊の水陸機動団は占領された離島奪回を任務とすることから『「日本版海兵隊』とも称される。念頭にあるのは海洋進出を強める中国の動きだ。」
②「発足式で小野寺五典防衛相の訓示を代読した山本朋広防衛副大臣は『わが国周辺海空域で、外国軍の活動が活発化し、既存の国際秩序と相いれない独自の主張に基づき、自国の権利を一方的に主張し、行動する事例が多く見られる』と危機感をあおった。」
③「陸自は与那国島への沿岸監視部隊、宮古島や石垣島へのミサイル部隊の配備で抑止力を高め、侵攻があった際には迅速に機動展開できる態勢の構築を急ぐ。だが、軍事ジャーナリストの小西誠氏は、これら『南西シフト』の動きは『国境線への実戦部隊の投入であり、中国には戦争挑発に映る』と話し、さらなる緊張を生む可能性を指摘する。」
④「水陸機動団は将来的に3千人規模に増強し、沖縄に配備する構想もある。在沖米海兵隊がグアムに移転した後、キャンプ・ハンセンの共同使用も取り沙汰される。」
⑤「2015年に作成された新たな『日米防衛協力のための指針(ガイドライン)』では、日本への武力攻撃の際、主体的に対処するのは自衛隊で、米軍はその作戦の支援に回る。式典後に在沖米海兵隊も参加した離島奪回訓練のデモンストレーションを披露し、日米一体化が進んでいることを印象づけた。」
⑥「小西氏は『長崎では距離的脆弱(ぜいじゃく)性がある。軍事的に増強し、沖縄に置かない理由はない』と指摘。その上で、『沖縄は対中国の日本防衛で、最前線に置かれることになる』と警鐘を鳴らした。」                        (東京報道部・大城大輔)




by asyagi-df-2014 | 2018-04-08 17:17 | 沖縄から | Comments(0)

「『ネット右翼でした』 沖縄に暮らし、記者になって思うこと」の記者のインタビューを読みました。

 2018年3月25日に掲載された琉球新報記者塚崎昇平(26歳)さんの「〈記者ですが〉 ネット右翼でした」が、ちょっとした話題になっていることを知った。
 それは、「学生時代、私は『ネット右翼』だった。辺野古や高江で米軍基地建設に反対して座り込む人々に、ネット上の言説を根拠に『反日勢力』とレッテルを貼った。琉球新報など、権力にあらがう人々を伝える報道には、自分なりの国家論を振りかざして反論した。持論がネット上で賛同されるのを見て、悦に入っていた。」、と書き出されている。

 琉球新報を購読しているわけではないので、こうした記事にはなかなかたどりつけない。
今回は、琉球新報Styleの記事をネットで得ることができた。
この記事は、塩崎記者の本文記事よりも、相当長く掘り下げている。非常に、興味深いものになっている。
 例えば、「両論併記についても昔は双方の意見をしっかり書くべきだと思っていました。でも今は、圧倒的に力の差がある中で両者の中間に立つということが本当に公平なのか、ということだと考えるようになりました。」、と若き琉球新報記者としてのあり方を示してくれている。 
 また、当然沖縄のことを。
 なお、塚崎記者の立ち位置は、「ただ今回、批判も予測しながらも『ネット右翼でした』というタイトルでコラムを書いたのは、こんな私だからこそ、伝えられることがあるのではないかと思ったからです。」、というもの。
 では、ここに紹介する。だいぶ長いですが。


(1)2018年3月25日、琉球新報に掲載された1本の記事がインターネット上で話題を集めました。公式サイトに掲載された訳ではありませんが、新聞記事の写真がツイッターやフェイスブックで拡散され、個人ブログなどで紹介する人も続出し、賛否両論を巻き起こしたのです。
(2)話題となった記事は、入社2年目の塚崎昇平記者(26)が書いた「ネット右翼でした」というタイトルのコラム。琉球新報の記者が「ネット右翼」だった過去を告白する内容は、ネットでの反応を見る限り大きな関心を呼んだようです。「記者ですが」というコーナーは2017年6月4日から毎週日曜日に掲載している記者のコラムです。記者たちの素顔を垣間見ることができると好評で、開始以来42回を数えます。
(3)なぜ「ネット右翼」だった彼が琉球新報の記者になったのでしょうか。どのような心境の変化、葛藤があったのでしょうか。「伝えきれなかった思いがまだあるはずだ」と思い、塚崎記者にインタビューしました。

〈ネットで考えを固めていた高校時代〉
Ⅰ.なぜコラムに「ネット右翼だった」ということを書こうと思ったのですか。
(Ⅰ)題材については教育担当(当時)として教科書問題のことなど幾つか候補がありました。その中で自分にしか書けないことは何だろうと考えました。そういえば、琉球新報社内で「自分はネット右翼だった」と公言しているのは私ぐらいだなと思ったんです。であれば、なぜ自分が「ネット右翼」だったのか、そして、考えが変わったのはどうしてなのか、ということを伝えたいと考えました。
Ⅱ.「記者ですが」は冒頭、「学生時代、私は『ネット右翼』だった」と書き出しています。なぜ、自分を「ネット右翼」と定義したんですか。
(Ⅰ)「ネット右翼」という言葉も定義はきちっと定まっているものではないと思います。ただ私が思う「ネット右翼」の定義としては、現場に行かないで、例えばインターネット上の情報で自分の考えを固め、「右」的な考えをネットで発信するというものではないかと考えました。そういう意味で、自分は「ネット右翼」だったと思っています。例えば、ネット上などでよく言われているように「中国や北朝鮮を抑えるため、沖縄には基地が必要だ」という意見などです。日本政府はそう説明しますが、私も過去、それを無批判に受け入れていました。

〈ファクトチェックされていない情報うのみに 〉
Ⅰ.影響されたネット上の情報というのはどのような内容ですか。
(1)ファクトチェックを受けていない根拠のない情報や、個人の考えがそのまま載ってしまっているブログなどです。ある意味、事実と反する情報でもネットではそれなりに影響力を持つ場合があります。ネットだけでなく、本を読む際にも自分に都合のいい情報だけを集めていたように思います。
(2)元防衛大学校の方が書いた本や防衛省が発行している防衛白書なども読んで、自分の考えをまとめていました。ネットだけで情報を得ていたわけではありませんが、自分の考えを補強するために本なども読んで「私の意見は論文に基づいた考え方だ」と誇示していた、ということに近いかもしれません。

〈「ミリタリー好き」が入り口に」
Ⅰ.自分が「ネット右翼」だと感じたのはいつごろからですか。
(1)小学生のころはイラク戦争に反対していた覚えがあります。明確なきっかけはありません。高校時代までは大分県で暮らしましたが、今考えると高校の後半ぐらいからいわゆる「ネット右翼」のようなことをしていたと思います。自衛隊の航空ショーに出向くなど戦闘機や戦車などミリタリー(軍事)に関するものに興味がありました。いわば「ミリタリーおたく」です。「ミリタリー好き」から安保への興味につながりました。「ネット右翼」になったのも、自分の場合はミリタリー好きが関係していたのかと思います。
Ⅱ.「沖縄には基地は必要だ」という考え方を持っていたと言っていましたが、「沖縄に基地は必要ない」という意見があることは知っていましたか。
(1)それはもちろん把握していました。私が琉球大学に入学するために沖縄に来たのは2010年4月で、現在8年目になります。米軍普天間飛行場の県内移設に反対する県民大会(2010年4月25日)の前後だったと思います。その当時は民主党政権で、いったん白紙にされた米軍普天間飛行場の移設先について、数日ごとに新たな候補地が示されていくような時期でした。
(2)せっかく自民党政権が苦労して名護市辺野古に移設先を決めたのに、なぜひっくり返すようなことをするんだろうと感じていました。

〈「沖縄には米軍基地が必要だ」を確かめるため」
Ⅰ.進学を機に沖縄へ。琉球大学に進学した理由は何ですか。
(1)「沖縄には米軍基地が必要だ」と思っていたので、それを自分の目で確認したいという気持ちがありました。政治や国際関係を専攻し、最初は「ネット右翼」のスタンスを維持していました。自分なりに正しいと思っていた国家論を振りかざしていましたね。
(2)友人からは「地に足が付いていない」とよく言われていました。「おまえは沖縄に根ざしていない。沖縄にいる意味はないのではないか」というような内容のことを言われた記憶もあります。大学時代の友達に会うと今もからかわれますね。「あのおまえが琉球新報に?」と言われることも少なくありません。

〈琉球新報の論調に怒りさえあった〉
Ⅰ.琉球新報に入社しましたがメディア志望だったんですか。
(1)なんとなくマスコミに入りたいと思っていました。イラク戦争の時、米軍と共に行動しながら取材している記者のテレビ番組を見た時に、マスコミに興味を持つようになりました。いろいろな人に話を聞くことは楽しいだろうなと思い、新聞記者になりたいと考えるようになりましたが、直接のきっかけは思い出せません。ただ当時、琉球新報への入社は考えてもいませんでした。
Ⅱ.当時、琉球新報についてはどのように思っていましたか。
(1)ちょうど大学時代に東日本大震災があり、米軍の「トモダチ作戦」に共感を覚えていました。琉球新報は「トモダチ作戦」について米軍が自分たちの宣伝活動に使っているのではないか、と思われるような論調で報道していると受け止めていました。「現場の人たちは頑張っているのに何を考えているんだ」と怒り、そういう思いを自分のツイッターに書き込んだ記憶があります。

〈「論破してやろう」と辺野古・高江へ」
Ⅰ.「記者ですが」に、「考えが変わり始めたのは友人と訪ねた辺野古や東村高江の現場を目の当たりにしてからだ」とあります。大学時代には辺野古や高江の現場をよく訪ねたんですか。
(1)はい。大学3年だった2012年の夏、ヘリパッド(ヘリコプター発着場)造成に対する反対運動が行われている東村高江の現場に足を運びました。座り込んで反対運動をしている人たちが何を考えているんだろう、ということに興味がありました。ただ、あわよくば、座り込みをしている人たちの考えを論破してやろうという思いもありました。
(2)座り込んでいる人に声をかけ、活動をしている理由について尋ねると「生活を守るためにヘリパッドを造らせない」ということでした。米軍が沖縄に駐留していることについて、座り込んでいる人が「米軍の力に頼るのは疑問がある」と言ってきました、それに対して私は「中国の公船が尖閣諸島の近くに入ってきているし、北朝鮮もミサイルを打ち上げている。米軍の力があるからこの程度で済んでいるのではないか」と反論しました。そうしたら、後方で話を聞いていた高江に住む男性から「おまえは違う」とぴしゃりと言われました。
(3)自分が考えていることを主張して、「間違っている」と面と向かって指摘されたことは友人以外では初めてでした。その後のやりとりは覚えていませんが、現場に向き合い続けている人の言葉だったからこそ、心に突き刺さったのだと思います。もんもんとしたものを抱えたまま現場を離れました。

〈現場を知り、見えてきたこと」
Ⅰ.それが変わるきっかけになったということですか。
(1)それをきっかけに時々、辺野古の現場にも行くようになりました。新基地建設に反対する集会にも足を運びました。男性から指摘された後は、もんもんとした思いを持ちながら授業などで沖縄の歴史を学ぶことになりました。住民が名護市辺野古に米軍キャンプ・シュワブを誘致したわけではないということにも気づくことができました。
(2)ただ、大学3、4年だったこの時期は、人に指摘されたからといって自分のスタンスを変えるのは嫌だなとも思っていました。その頃、ちょうど、自民党の安倍政権が誕生し、特定秘密保護法や集団的自衛権などの政策を次々と進めていきました。それらは日本の国の形を、比喩ではなく、「戦争ができる国」にしてしまうのだろうなと思うようになりました。そして、そのような流れの中にある「沖縄」について考えるようになりました。
(3)それと同時に安倍政権は沖縄県民が強固に反対している米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設について、県民の声を無視する形で強引に推し進めようとしていました。こんなに沖縄の人たちがあらがい続けているのにそれが通らない、県民が反対しても強行するというのはおかしくないか、と思い始めました。この頃になると、自分のスタンスを維持し続けるのが論理的なことだけでなく、精神的にも苦しくなってきました。それなら、考えを変えた方が自分に正直ではないかと思いました。
(4)そんなとき、2014年8月25日に米軍キャンプ・シュワブゲート前で開かれた県民集会(止めよう新基地建設!みんなで行こう、辺野古へ。8・23県民大行動)に足を運びました。琉球大学大学院人文社会科学研究科1年のころでした。その際、琉球新報の記者に取材され、記事として掲載もされました(2014年8月25日付21面)。振り返ると、いわゆる「ネット右翼」というスタンスから完全に離れたのは大学院生時代だったと思います。

〈「反対」の根底にある沖縄戦」
Ⅰ.学生時代に沖縄戦のことを学んでいたんですか?
(1)大学では安全保障などを研究していたので、沖縄戦は教養の講義で学ぶ程度でした。ちょうど高校1年生のころ、文部科学省の高校歴史教科書検定で、沖縄戦における「集団自決」(強制集団死)の日本軍強制の記述削除・修正された問題で、教科書検定意見の撤回を求める県民大会がありました。
(2)当時は大分県の高校生だったので、あまり記憶にはありません。その後の文科省と県内の対立ややりとりにも特段関心はありませんでした。ですが、大会で高校生の代表2人が「この記述をなくそうとしている人たちは、沖縄戦を体験したおじい、おばあがうそをついていると言いたいのだろうか」と言っていたことだけはテレビで見て、鮮明に覚えています。同世代の訴えだったからこそ、沖縄に特段関心のなかった当時の私にも、響いたのかもしれません
(3)沖縄戦のことをきちんと知るようになったのは入社してからです。入社後に教科書検定があり、文化部の教育担当になった私が沖縄戦に関する記述について、記事を書くことになりました。当時の教育担当キャップに原稿を見せたら、「君は安保のことは詳しいかもしれないが、沖縄戦のことは何も分かっていないな」と言われました。がつんときました。
(4)入社二年目には、ちょうど教科書検定の県民大会から10年ということで、「集団自決」(強制集団死)のおきた渡嘉敷島に出向いたり、東京で教科書執筆者や編集者を取材したりして、当時を振り返る記事を書きました。当時の新聞記事や資料を読み込んでから取材をしましたが、その取材の原動力となったのも、当時の教育キャップの言葉だったと思います。
(5)辺野古の現場などに足を運ぶと、座り込んでいる人が沖縄戦について話してくれることがあります。沖縄戦の記憶は、体験した人の記憶だけではなく、ある種世代を超えて共有されているのだろうと思います。それが脈々と残っているということが、私を変えた一因にもつながっているような気がします。

〈現場でデマだと実感」
Ⅰ.「記者ですが」には県民大会に参加した際、「ネット上のデマが現実離れしていると感じた」と書いています。
(1)「反対運動をしているのはお金をもらった人々」というデマです。現場に足を運ぶと、現場を見ていない人が言っているんだなということが分かりました。現場には家族連れも普通の学生も、いろいろな立場や世代の人がいますから。
(2)辺野古のゲート前で一日取材をして記事を出すと、どうしても内容は抗議行動をしている市民らが警察に排除されるというようなことを伝える内容になりがちです。ですが実は現場はずっと緊迫している訳ではありません。大学の講義で「座り込みの時間の多くは暇だ」と言われたことを思い出しました。楽しげに歌を歌ったり、踊りを踊ったりして楽しげな雰囲気に包まれることもあります。

〈中国の人に会ったことない〉
Ⅰ.お金をもらっているから反対運動をしている、というネット上の言説に対しては間違いだと思いますか。
(1)はい。むしろ現場に来るためにガソリン代やバス代などの負担は大きいと思います。ネットではよく中国などの勢力がお金を出して運動を扇動し、日米安全保障体制を崩そうとしている、とか、現場には中国人や韓国人がいっぱいだ、という記述をよく目にします。実は私もそのように思っていた時期もありました。でも、私自身は辺野古や高江の現場に足を運んで中国の人に会ったことは一度もありません。もし、いたとしても一市民として、この状況が問題だと思って参加しているんだと思います。
(2)「ニュース女子」(東京MXの番組)で高江の現場について「中国人はいるわ、韓国人はいるわ」と伝えていました。番組を見て「本当に現場に行ったことがあるのか」と怒りを感じました。ただ、昔だったら信じてしまっていたのではないか、もしかしたら喜んでその主張に飛びついていたのではないか、とも思います。
(3)両論併記についても昔は双方の意見をしっかり書くべきだと思っていました。でも今は、圧倒的に力の差がある中で両者の中間に立つということが本当に公平なのか、ということだと考えるようになりました。

〈批判は真摯に受け止める〉
Ⅰ.今回の「記者ですが」はかなり反響がありますね。どのように感じましたか。
(1)「記者ですが」について意見が書いてあるツイッターなどSNSを数多く見ました。「こいつは何も反省していない」「自分は変わることができて良かったね」などという批判もたくさんありました。「ネット右翼で多くの人を傷つけていたことについての反省はないのか」という内容の指摘もありました。
(2)確かに私は「ネット右翼」だった当時、特定の個人を「極左だ」とかレッテルを貼って周りの人に話をしていたことがありました。人を殴ったり、お金を盗ったりした訳ではないので、コラムが紙面に掲載されて、そうした指摘があるまで、私に罪の意識は正直ありませんでした。人を傷つけたという意識もありませんでした。だからこそ、「反省はないのか」などの批判は真摯(しんし)に受け止め、胸に刻みつけておかなければいけないと思っています。
(3)ただ今回、批判も予測しながらも「ネット右翼でした」というタイトルでコラムを書いたのは、こんな私だからこそ、伝えられることがあるのではないかと思ったからです。
Ⅱ.「ネット右翼」と呼ばれる人たちからの反応もあったとか。
(1)「『ネット右翼』だったと言っているのは嘘だろう」というような批判もありました。それに対しては「はい。ネット右翼でした」と答えます。「シールズの元メンバーだ」というような指摘もあります。私は大学院生時代、「ゆんたくるー」(若い世代に基地問題の現状を知ってもらおうと活動している県内の大学生らでつくるグループ)の集まりに参加したことはありますが、メンバーではなかったし、シールズのメンバーになったこともありません。ただ、もしシールズの元メンバーだったとしても特に問題はないと思います。
(2)「実名を書いて言うことは勇気のいることだと思う」という内容の反応もあり、救われた思いもしました。いろいろな反応の中で、「『対話は意味がないものではない』と気付かせてくれたのはありがたい」という内容のものもありました。
(3)人の思想を「左」「右」にレッテルを貼って分けることには違和感を覚えています。自分と違うスタンスにいる人に対しても意見を言ったり、意見を聞いたりすることは意味のあることだということを感じてくれた人もいたようです。

〈互いの〝レッテル〟を乗り越えたい〉
Ⅰ.「記者ですが」掲載後の反響などを踏まえ、今どう感じていますか。
(1)批判はあると思いますが、書いたことを後悔はしていませんし、別の題材で書けば良かったとも思っていません。4月から北部報道部に配属されますが、北部に行くに当たっての決意表明でもありました。
Ⅱ.「記者ですが」では、「かつて私のような人たちに現場の状況を理解してもらえるか、考え続けている」と結んでいます。
(1)どんな立場や考えの人であっても、事実に基づいた力ある記事なら、人の心にちゃんと届くと思います。記事をきっかけに、例えば「一度ぐらいは辺野古の現場に足を運んでみようか」とか「現場に行った人に話を聞いてみようか」など、少しでも何かしらの行動につながればいいと思っています。
(2)〝現場〟に行くことなど考えてもいなかった人や、「ちょっと怖そう」と思って敬遠している人も多いかもしれません。私が現場に行ったのは逆に、座り込みしている人を論破しようと思っていたということもあります。残念ながら、「琉球新報は左だ」などというレッテルが貼られているのも事実です。そのレッテルに邪魔されて、書いたことが真っすぐに届いていないと感じて苦しくなることもあります。
(3)そんなレッテルは、私たちから打ち破る必要もあるかもしれません。そして、もしかしたら異なる立場から打ち破ってくれる人もいるかもしれません。
(4)今さらですが「ネット右翼」という表現も、一つのレッテル貼りなのでしょう。そんな言葉こそが、対話の機会を遠ざけている要因の一つなのかもしれません。私が『ネット右翼だった』と自認すること自体も、過去の私にレッテルを貼る行為なのかもしれません。いつの間にかつくりあげてしまった〝レッテルの亡霊〟に邪魔されて、対話ができないような事態を飛び越えられるような記事を書いていくことができれば、と考えています。
(4)そのためには私自身も、レッテルの亡霊から解き放たれる必要があるのだと考えます。今回のコラムがいろいろな論議を呼んだことも含めて、私自身がレッテルの亡霊から離れる一歩になったと考えています。

〈インタビューを終えて〉
(1)同僚に1時間30分近くインタビューするなんて約20年の記者生活の中で初めての経験でした。日米安保に詳しいことは入社当時から聞いていましたが、かつて「ネット右翼」だったということは最近初めて知りました。
(2)新聞記者も一人一人、いろいろな考え方を持っています。細かい点では言い合いになるほど考え方は多種多様です。そのような記者が取材相手と向き合うことでいろいろなことを学びます。塚崎記者は入社2年目。私も同じですが、沖縄戦や基地問題だけでなく、まだまだ取材などを通して知らなければいけないことが山積みです。
(3)自分の考え方が変わってしまうような瞬間に接することが、記者には幾度となくあります。「ネット右翼」だったと自認する塚崎記者だからこそ、異なる立場や考えの人々と語らい、多くの人の心に届く記事を書いていけるはずだと信じています。


 さて、老人の部類に入ったとはいえ、こうした記事に熱くなるものがある。
 恐らく、性分としてこのことを追いかけていくしかないという気がする。




by asyagi-df-2014 | 2018-04-08 09:04 | 書くことから-いろいろ | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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