2018年 02月 10日 ( 3 )

石牟礼道子さん逝く。

 2018年2月10日。
 石牟礼道子さんが亡くなった。
 90歳、ご冥福をお祈りいたします。


 毎日新聞は2018年2月10日、このことについて次のように報じた。


(1)「人間の極限的惨苦を描破した『苦海浄土(くがいじょうど)』で水俣病を告発し、豊穣(ほうじょう)な前近代に取って代わった近代社会の矛盾を問い、自然と共生する人間のあり方を小説や詩歌の主題にすえた作家の石牟礼道子(いしむれ・みちこ)さんが10日午前3時14分、パーキンソン病による急性増悪のため熊本市の介護施設で死去した。90歳。葬儀は近親者のみで営む。喪主は長男道生(みちお)さん。」
(2)「石牟礼道子さんは1927年、熊本県宮野河内村(現・天草市)に生まれた。家業は石工。生後まもなく水俣町(現・水俣市)に移り、水俣実務学校(現・水俣高)卒。代用教員を経て、58年、谷川雁らの『サークル村』に参加。詩歌中心に文学活動を始めた。59年には、当時まだ『奇病』と言われた水俣病患者の姿に衝撃を受け、『これを直視し、記録しなければならぬ』と決心。69年、水俣病患者の姿を伝える『苦海浄土』第1部を刊行。70年、第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、辞退した。同書は日本の公害告発運動の端緒となるなど戦後を代表する名著として知られる。74年に第3部『天の魚』を出し、2004年の第2部『神々の村』で『苦海浄土』(全3部)が完結した。」
(3)「水俣病第1次訴訟を支援する『水俣病市民会議』の発足に尽力する一方で、水俣病の原因企業チッソとの直接対話を求めた故・川本輝夫さんらの自主交渉の運動を支えるなど、徹底的に患者に寄り添う姿勢とカリスマ性のあるリーダーシップから『水俣のジャンヌ・ダルク』と呼ばれる。患者らの怒りを作品で代弁して『巫女(みこ)』に例えられるなど、水俣病患者・支援者の精神的支柱となった。」
(4)「73年、『苦海浄土』などの作品で『アジアのノーベル賞』といわれるマグサイサイ賞を受賞。93年、『十六夜橋』で紫式部文学賞。03年、詩集『はにかみの国』で芸術選奨文部科学大臣賞。04~14年、『石牟礼道子全集・不知火』(全17巻・別巻1)が刊行された。」
(5)「03年ごろから、パーキンソン病を患い、人前に出る機会は減ったが、口述筆記などで執筆活動を継続した。句集を出版するなど書く意欲は衰えなかった。」


 また、米本浩二さんによる「評伝-いつも渚にいた」を次のように掲載した。


「1畳にも満たない窓際の板張りが書斎だった。小学生の頃から使う文机(ふづくえ)で石牟礼道子さんは原稿を書いた。封建的な農村地帯の主婦だから、夜しか書く時間がない。1965年に始まった連載『海と空のあいだに』は福岡・筑豊の記録作家、上野英信の尽力で苦海浄土となって世に出た。」

「他人の不幸を自分のことのように感じる人を水俣では『悶(もだ)え神(がみ)さん』と呼ぶ。19歳で書いた『タデ子の記』は戦災孤児を自宅に引き取る話である。苦しむ人を放っておけなかった。水俣病患者の受難に深く感応し、患者の苦痛や孤独を自分のことのように感じるのは『悶え神さん』ならではである。」

「しかし、『悶え神さん』の資質だけなら、石牟礼さんの書くものは通常のノンフィクションのレベルにとどまっただろう。幼い頃から貧困や狂気と接し、この世から疎外されているような絶対的な孤独を抱え持ち、3度も自殺未遂し、生と死の境界を行き来したことが、作品のスケールを大きくした。」

「水俣病患者一人一人の症状、境涯を具体的に記しながら、石牟礼さんは自分の表現の核に達した確かな手応えを感じたに違いない。他人を書くことで自分の孤独が書ける。『苦海浄土』は石牟礼さん自身が生きる道を見いだした書である。」

「『対的な孤独』は安息を許さない。私(米本)は約4年半、介護を兼ねて石牟礼さんに“密着”させていただいたのだが、慈母の掌(てのひら)に包まれたようなやさしさに時を忘れる一方、生きることへの違和感というしかない虚脱した顔をしばしば目撃することになり、『この人は心から楽しむということがないのではないか』との思いが消えなかった。」

「もともと社交的で愛想のいい人だし、とくに来客には、南九州の婦人特有の全身全霊を込めたおもてなしをする。しかし、石牟礼さん中心に座が盛り上がり、愉快な話題に笑みがこぼれる時でも、さえざえとした孤独がドライアイスの氷霧のように小さな体を包んでいるのが分かるのだ。」

「ハゼの子が遊ぶ。巻き貝が落ちる。呼吸音が聞こえる。石牟礼さんは晩年、『渚(なぎさ)』を好んで語った。『生類(しょうるい)が海から上がって、最初のみずみずしい姿を保っている。そこが渚です。境目として盛んな行き来がある。大いなる原初の海……』」

「10代で教壇に立つ。炭鉱の『サークル村』に身を置いても、凄絶(せいぜつ)な水俣病患者救済闘争の現場にいても、いつも石牟礼さんは渚にたたずんでいたのではなかったか。前近代と近代、生と死、人工と自然--それらのはざまで、リアルかつ夢幻的な文字を紡ぎ出していったのだ。」

「石牟礼さんの誕生日は東日本大震災と同じ3月11日である。2015年3月11日、パーキンソン病で体が不自由な石牟礼さんは『花ふぶき 生死(しょうじ)のはては 知らざりき』と毛筆で書いた。被災者の惨苦に思いをはせてのことだ。16年初夏、熊本地震の被災地を回った時は気を失うように倒れ、しばらく身動きできなかった。水俣病患者の苦しみに終生寄り添った石牟礼さんは、最期まで『悶え神さん』だった。」
                                   【米本浩二】


 米本さんの「評伝 石牟礼道子」を読んだのは、2017年12月でした。
 米本さんの評伝で、もう一度石牟礼道子に会おうと思っていました。





by asyagi-df-2014 | 2018-02-10 20:22 | 書くことから-いろいろ | Comments(0)

沖縄-辺野古 高江から-2018年2月10日

 落下させたのは、縦約70センチ、横約100センチ、重さ約13キロの半円形の普天間飛行場所属MV22オスプレイの機体の一部。
 実は、伊計自治会は、1月21日に、島上空の飛行停止などを求める抗議集会を開いていた。
はっきりしていることはの一つは、「米軍が部品落下、紛失の事実を沖縄防衛局に連絡しなかった」(琉球新報)ということ。
米国と日本政府は、「翁長雄志知事は『いつしか人命に関わる重大な事故につながりかねない』」(琉球新報)との指摘のもとに、事故原因の究明と再発防止の確率にあたらなければならない。
まず、それができなければ、在沖縄海兵隊の撤退しかないではないか。




 沖縄で起こっていること、その現場の事実をきちんと確認すること。
 2018年も、琉球新報と沖縄タイムスの記事を、「沖縄-辺野古-高江-から」を、報告します。
 2018年2月10日、沖縄-辺野古-高江の今を、沖縄タイムス、琉球新報は次のように表した。


(1)琉球新報-オスプレイ機体一部落下 伊計島海岸に13キロエンジン吸気口 米軍、8日発生も通報せず-2018年2月10日 07:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「沖縄県うるま市伊計島の大泊ビーチで9日午前9時ごろ、普天間飛行場所属MV22オスプレイのエンジンの空気取り入れ口が流れ着いているのが見つかった。在沖海兵隊は8日に海上飛行中、機体の一部を落下させたことを認めた。海兵隊は9日、防衛局からの問い合わせを受けて初めて機体の一部落下があったことを明らかにした。けが人はいない。伊計島では昨年1月と今年1月にも米軍ヘリの不時着があり、相次ぐ事故に住民の不安と怒りが高まっている。県は9日夕、在沖米海兵隊に事故原因究明と実効性ある再発防止策を執るまでの間、オスプレイの飛行停止を求めた。」
②「翁長雄志知事は『いつしか人命に関わる重大な事故につながりかねない』と指摘した。」
③「機体の一部は、縦約70センチ、横約100センチ、重さ約13キロの半円形。ビーチの従業員が海岸を清掃中、浅瀬に浮いていた機体の一部を発見し、砂浜に引き上げた。同日中に、沖縄防衛局の職員が現場から機体の一部を撤去し、米海兵隊に引き渡した。米海兵隊は、沖縄防衛局の問い合わせに対しオスプレイの右側エンジンの空気取り入れ口であることを認めた。」
④「小野寺五典防衛相は9日夕、記者団に対し「地元が心配する案件に関して日本側に通知するのが基本。今回そのようなこと(通知)がなかったとすれば、なぜそうなのかしっかり問いたい」と日本側へ通知がなかったことに不快感を示した。中嶋浩一郎沖縄防衛局長は9日午後、伊計公民館やうるま市役所、宜野湾市役所を訪れ、謝罪し経緯などについて説明した。同日、ニコルソン在沖米四軍調整官に遺憾の意を伝え、再発防止と原因究明を求めたことを明かした。」
⑤「伊計島で相次いだ不時着事故の発生に伊計自治会は1月21日、島上空の飛行停止などを求める抗議集会を開いた。集会での決議を携え沖縄防衛局に抗議した直後のトラブルに、玉城正則伊計自治会長は「沖縄はまだ米軍の占領下じゃないか。日米両政府とも真剣に対応してほしい」と怒りをあらわにした。島袋俊夫うるま市長は、中嶋局長との面談で「我慢の限界。防衛大臣も現地を見ない限り、問題意識を共有できないんじゃないか」と政府の真剣な対応を求めた。」
⑥「翁長知事は今回、米軍が部品落下、紛失の事実を沖縄防衛局に連絡しなかったことに『事故そのものを隠ぺいしようとする意図があったとすれば言語道断だ』と強く批判した。」⑦「海兵隊は9日、本紙取材に『8日の訓練後、普天間飛行場に帰還した際に右側の空気取り入れ口がなくなっており、乗員から部品は海上に落下したとの報告を受けた』と回答した。」


(2)琉球新報-米軍車両数台信号を無視か 宜野湾市伊佐の国道58号-2018年2月10日 09:34


 琉球新報は、「8日午前2時ごろ、宜野湾市伊佐の国道58号伊佐浜交差点で、米軍車両と思われる車数台が赤信号を無視して通過した。隣の車線で信号待ちをしていた男性が動画を撮影した。男性は仕事帰りに国道58号を走行中に信号無視を目撃した。動画では、男性が信号待ちしている隣の車線を、ブルドーザーのような重機を積んだ大型車とトラックの2台が相次いで通り過ぎている。大型車は赤信号になってから少なくとも5秒以上が経過した後に交差点を通過している。別の画像ではトラックのナンバーがMCで始まるナンバーになっていることが確認できる。撮影した男性は『赤信号になってから、けっこうたった後に通り過ぎた。歩行者もいたので危なかった』と話した。」、と報じた。


(3)沖縄タイムス-米軍KC135が緊急着陸 嘉手納基地-2018年2月10日 09:12


 沖縄タイムスは、「【嘉手納】9日午後1時すぎ、米軍嘉手納基地所属のKC135空中給油機が、同基地の北側滑走路に緊急着陸した。」、と報じた。


(4)沖縄タイムス-重さ13キロ…部品は米軍オスプレイのもの 沖縄で8日に落下か-2018年2月9日 17:03


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「9日午前9時ごろ、沖縄県うるま市伊計島の大泊ビーチ近くで見つかった漂着物について、沖縄防衛局は同日午後3時45分、『在沖海兵隊が、普天間飛行場所属MV22オスプレイの右側エンジンの空気取り入れ口の部品であることを確認した』と県に通知した。」
②「県によると、部品は重さ13キロ程度(※)で、縦70センチ、横100センチ、幅65センチの灰色の半円形。大泊ビーチを清掃していた人が海上に浮かんでいたのを発見し、ビーチに引き上げたという。」
③「沖縄防衛局が現場から部品を撤去したという。」
④「中嶋浩一郎沖縄防衛局長は同日午後4時半頃、伊計島を訪れ、伊計自治会の玉城正則自治会長謝罪した。中嶋局長は防衛局の調査で、オスプレイが部品を落としたのは8日の可能性が高いと確認。部品のないオスプレイの写真も撮られているという。」
⑤「県は9日午後4時40分、在沖米海兵隊政務外交部長のダリン・クラーク大佐に対し、電話で抗議し、オスプレイの飛行停止を求めた。金城典和基地対策課長は『昨年から不時着や部品落下などの事故を繰り返し県や関係自治体が航空機管理体制の抜本的な見直しを求めている中での事故で強い憤りを禁じ得ない』と指摘。在沖米軍の全航空機の緊急総点検、整備、管理対英の見直しなどを求めた。」
⑥「※配信当初、部品の重さを「5キロ程度」としていましたが、13キロに修正しました。(2018年2月9日午後8時36分)」


(5)沖縄タイムス-八重山日報もおわび 救われた男性が「米兵に感謝」と報道-2018年2月10日 05:00


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「八重山日報社は9日付紙面で、昨年12月1日に沖縄市で発生した事故で『米兵が日本人を救出した』と伝えた産経新聞の記事を転載したことについて、おわびした。同社は、昨年12月11日付紙面で、産経新聞の記事を転載。また、救出された男性が米兵に『感謝している』と語ったという関係者の談話を独自取材で掲載していたが、『その後の再取材で、関係者、(救助されたとする)男性とも米兵に救出された事実を否定した』として訂正した。」
②「産経新聞が8日付朝刊で『事実が確認できなかった』『取材が不十分だった』として記事を削除、おわびしたことを受け、同社も9日付紙面で産経新聞の乾正人・執行役員東京編集局長名のコメントを掲載した。」
③「同社の仲新城誠編集長は本紙の電話取材に『対応に問題があったと反省している』と説明。転載記事で、沖縄タイムスと琉球新報に『報道機関を名乗る資格がない』などと書かれてていたことについては『編集段階で行き過ぎた部分については、削除するなどの配慮が必要だった』とした。また、関係者談話の記事については『読者からの情報提供を受けて取材した。詰めの甘かった部分があったことは反省し、今後に生かしたい』と話した。」 


(6)沖縄タイムス-辺野古新基地:「K9」護岸付近で作業続く-2018年2月10日 14:19


 沖縄タイムスは、「沖縄県名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ沖では10日午前、辺野古崎北側の『K9』護岸付近で、作業船に積まれていた石材を待機していた台船に積み替える作業が確認された。辺野古崎西側の『K2』護岸では、被覆ブロックの設置が進められていた。抗議船に乗った市民は作業員に『ゆっくり作業して、少しでも基地建設を遅らせてほしい』と呼び掛けた。波が高いため、午後の抗議行動は中止となった。」、と報じた。


(7)沖縄タイムス-オスプレイ、また部品落下 怒り頂点 伊計島民が防衛局の対応批判-2018年2月10日 12:25


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「沖縄県うるま市伊計島のビーチで9日、普天間飛行場所属の米軍MV22オスプレイの部品が見つかった。伊計島で1月にあった不時着からわずか1カ月余り。今度は観光地であるビーチ近くで重さ13キロの部品が落下した可能性がある。相次ぐ米軍の事故に島では不安が高まるばかり。住民からは『住宅街に落ちていたら取り返しがつかない』『静かな海を返して』と怒りの声が出た。」
②「午後4時すぎ、説明と謝罪のために伊計自治会を訪れた中嶋浩一郎沖縄防衛局長に対し、玉城正則自治会長は『(部品が落ちたのが)海で良かったでは通用しない。もっと大きな事故が起きれば取り返しがつかない』と指摘。防衛局に何度、要請しても変わらない現状に『局の役割が機能していない』と厳しく問いただした。」
③「9日の午前9時ごろ、ビーチを開ける前に海岸沿いを清掃していた従業員の男性(60)が砂浜から約7メートルの地点で海に浮かぶ物体を発見。『「車の古いタイヤか何かだと思ったが、引き揚げてみると違った。最近米軍機の事故が多く、ここにも落としたのかとすぐに思った』と語る。」
④「男性の息子(33)は8日の午後4時頃、米軍ヘリがおよそ10分程度、ビーチ周辺を低空飛行している様子を目撃した。『何か探しているような、いつもと違う飛び方をしていた』と強調。発見したのがオスプレイの部品だと知り『言葉も出ない。オスプレイはビーチ周辺を日に5、6回以上は飛んでいる。こんなのが頭の上に落ちるとよけられない』と憤った。」
⑤「ビーチは夏場は多くの人が海水浴に訪れる。大泊ビーチの代表者(80)は『誰もけががなくて良かったが、前から米軍機が頻繁にビーチ周辺を通るようになった』と話す。『前は静かな海だったのに。許せない。米軍には出ていってほしい』と訴えた。」


(8)沖縄タイムス-オスプレイ部品落下:「我慢限界」「不安募る」うるま・宜野湾市長怒り-2018年2月10日 12:38


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「米軍普天間飛行場所属のMV22オスプレイから落ちた部品がうるま市伊計島で9日に発見された。島袋俊夫うるま市長と普天間を抱える佐喜真淳宜野湾市長は、繰り返される事故や米側の報告がなかったことに憤りをあらわにした。」
②「伊計島では先月、普天間所属のUH1Yヘリが不時着したばかり。島袋市長は、事故報告や謝罪で市役所を訪れた中嶋浩一郎沖縄防衛局長に対し、同区が決起大会を開いた経緯などを語り『われわれはもう我慢の限界だ。強く申し入れていただきたい』と訴えた。さらに海上での落下について『今はモズクの最盛期。万が一のことも考えると、漁船との衝突事故も起きる可能性が大きい』と懸念を示した。」
③「佐喜真市長も宜野湾市役所で中嶋局長に『米軍からの報告がなかったことは言語道断。開いた口がふさがらない』と語気を強めた。」
④「昨年12月に宜野湾市内の普天間第二小学校で米軍ヘリから窓が落下した事故などを引き合いに出し『組織が緩んでいるのではないか。第二小は運動場の使用を再開し、どうにか落ち着き出してこの事故。不安は募るばかりだ』と語った。」




by asyagi-df-2014 | 2018-02-10 17:41 | 沖縄から | Comments(0)

沖縄から-三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記第79回

沖縄の地で、体を張って新しい歴史を作ろうとしている人たちがいる。
そこには、その煌めきの記録を残そうとしているジャーナリストがいる。
だとしたら、その生きざまの瞬間を私たちは受け取る必要がある。
三上知恵の沖縄撮影日記。




 今回の三上さんの報告は、「ゲリラを生き延びた少年兵とスパイリストに載った少女 ~沖縄裏戦史(次回作)より」。
 話は、「年が明け、名護の市長選挙が今日1月28日、告示された。辺野古基地建設を止める大きな「風かたか」である稲嶺進現市長を守り、11月の知事選挙につなげることができるのか。まさに正念場の政治決戦の嵐が沖縄に吹き荒れている。そんな中、私は同じ北部に通っているが、向き合っているのは73年前の戦争。去年後半から、私は1945年に迷い込んだままだ。」、と次回作へと向かう。
 79回目の三上知恵の沖縄撮影日記は、「今年夏に公開すると宣言した沖縄戦長編ドキュメンタリー『沖縄裏戦史(仮題)』の撮影も大詰め。まだ語れない戦争秘話の中に、次の戦争を止める特効薬となるべき大事な話がわんさか眠っている。過去のことをやっていると思われるかもしれないが、私は自信をもって言う。明日を変えるために今この話を知ってほしいと。過去の悲劇でも何でもない、今とシンクロしている恐怖そのものだと。まだその全貌はお話しできないが、大事なエピソードの中から、今回は二つ、ロケ報告の形で紹介したい。北部の少年少女たちの物語である。」。
 二つの話の始まり。


1〈少年ゲリラ兵とカンヒザクラ〉


第二護郷隊 第二中隊 第二小隊
リョーコー二等兵 は
沖縄戦直前の1945年3月
16歳で召集
たった二、三週間の訓練ののち
恩納岳の陣地で
いきなり敵を迎え撃つことになる

元少年ゲリラ兵
瑞慶山良光さん
89歳の物語だ

4月1日
恩納岳から読谷村座喜味まで
偵察に行き
アメリカの艦隊に包囲された海
続々と陸に上がってくる船を見て
言葉を失った

3日後、谷茶の山中で
黒人兵の集団と鉢合わせ
驚いて咄嗟に
銃を水たまりに落としてしまい
そのままそこに潜って
顔だけ水面に出し
自決用の手榴弾を口にくわえ
ガチガチと震えていた

16歳の少年である
あまりの緊張と恐怖に
気を失ったのか
気がつけば彼らは通り過ぎていた

陣地に戻るも
また3日後には
万座毛を埋めるアメリカの戦車に
爆弾ごと突っ込んでいく
戦車爆破隊に任命された

「自分はもう、生まれてこなかったと思えばいいや」
そう思えば気が楽になった

その作戦が失敗に終わり
陣地に戻ったと思えば
また数日後に
今度は東側の屋嘉に
斬り込み隊で出動

リョーコー二等兵の右の頰に
手榴弾の破片が当たり
奥歯4本が砕かれ
頰に穴が空いた

唾液が全部流出し
食事も消化もできず
みるみるやせ衰えて
野戦病院で病人を運んだり
仲間の埋葬を担当した
三日三晩寝ずに
墓掘りをした

6月2日
ついに第二護郷隊は
恩納岳の陣地を捨て
北に敗走していく

傷病兵は
なんとか歩けるもの
友達の肩を借りて動けるものは
移動を命じられ
そうでないものは
自決か 射殺か
二つに一つだった

しかし
どちらも選べない少年がいた
高江洲義英くん
東村高江出身の17歳
怪我が元で破傷風になり
脳症に至ったのか
精神を病んでいた

撤退する夜
少年は毛布を被せられ
軍医に射殺された
はずが
毛布をずらすと
少年はまだ笑っていた
上等兵がもう一度毛布を被せ
2度目の銃声が響いた

少年はもう
動かなかった

義英くんの弟である
高江洲義一さんには
強烈な記憶がある

終戦になり
護郷隊の少年たちは
三々五々 故郷に帰ってくる
義一さんの母は
高江の田んぼのそばで
夕方になると坂を見下ろして
毎日、義英くんの帰りを待っていた

半年ほど待ったか
亡くなったという噂が入り

父親が従兄弟らと
義英くんの遺骨を
恩納岳から回収し
洗骨をして
母の前に持ってきた

「義英よぅ!  義英よぅー! 
なんでこんな姿になったか?!」
母は兄の髑髏を抱きしめて
狂ったように泣き叫んだ

兄の骨にはまだ
毛布が付いていた
まだ小学生だった義一さんは
髑髏の恐怖と
狂気を纏った母
二重の衝撃が今も
脳裏から離れないという

同時に3人の子を失った母は
精神を病んでしまい
高江の村祭りに乱入し
奇声をあげて
髪を振り乱して踊った

義一さんたち兄弟は
なすすべもなく泣いていた
早く、普通のお母さんに戻って
それだけを願っていた

リョーコー二等兵の話に戻るが
その後も辛酸を舐めた彼もまた
戦争PTSDに見舞われ
戦後も苦しんでいた

頭の中が突然戦争になり
見境なく暴れまわるため
家人は座敷牢を作って
彼を閉じ込めるしかなかった

戦後2年を経て
18歳でリョーコー二等兵の心は
パンクしてしまったのだ

時は流れ
リョーコーさんは50歳を過ぎて
キリストと出会い
ようやく穏やかな生活を取り戻した

兵隊幽霊と呼ばれ
周囲から遠ざけられた半生
あの戦いと
埋葬した少年兵たちと
その世界から抜けられずに
生きてきた73年

リョーコーさんは自宅裏の山に
亡くなった少年兵の数だけ
桜を植える決意をする

沖縄独特の
濃い桃色のカンヒザクラは
はらはら散るソメイヨシノとは違い
南国の地に生きた
明るい笑顔の少年兵にピッタリだ

19年かけて
リョーコーさんの若桜の園は
ようやく人を呼べるようになった

記念すべき最初の客人は
あの野戦病院で一緒だった
亡くなった義英くんの弟の
高江洲義一さん

リョーコーさんは
好きな桜を選んでください
と促した

今日、1月24日
ムーチービーサと言われる
沖縄で一番寒い日に
凜として咲いている桜を
最も美しかった桜を
義一さんが選び出して
義英くんの桜と
命名された

こんなもの植えてもね
誰も見に来ないよ
いつまでも戦争の話をして
って、呆れられてる
でも僕はね
亡くなった戦友と
この桜と虫たちに囲まれて
この山の世話をするのが生き甲斐
ちっとも寂しくないんだ

口癖のように
会うたびにそう繰り返した
良光さん

6月に壮絶な半生を伺って
何度も会いに行って
彼にとっての桜は
何なのか
ずっと考えていた

高江洲義一さんも
瑞慶山良光さんも
今日 桜の園で
極上の笑顔だった

今日は最高の1日だった
私は風邪で声が全く出なくて
演出も何もできなかったが
胸がいっぱいだった

こんな瞬間があるから
自分の人生より深く
誰かの思いに触れる瞬間があるから
この仕事はやめられない

初めて
少年兵たちの笑顔を見た気がした
とにかく
最高の一日だった


2〈スパイリストに載った少女〉


屋我地島のヨネちゃんは
すらりと背の高い美人だった

17歳の時
憧れの大阪の紡績工場で
バレーボールチームの花形だった

1944年 戦雲が島を覆う中
父が他界、兄も出征しているため
母と弟を看るために
ヨネちゃんは沖縄に帰る船に乗った

ひとつ前の船が撃沈され
命からがら那覇に着くが
彼女を下ろしたその船こそ
帰途、1476人の犠牲者とともに沈んだ
対馬丸だった

自宅の目の前は塩田で
海を挟んだ向こう側は
海軍白石隊の魚雷艇や潜航艇の
秘匿陣地だった

屋我地の少女・女性たちは
勤報隊と命名され
毎日、舟艇に乗せられて
向かいの陣地構築を手伝った

ある夕方、目の前の海に
たくさんの物資を積んだ大きな船が数隻現れた
その船員が、石油の一斗缶をもって
庭先に立ち
食べ物と換えてください、と懇願した
自分たちの分もない中
シンメーナービ(※)に洗ってある芋を分けると
あとからあとから 石油缶を持ってやってきた

※シンメーナービ(千名鍋):沖縄伝統の大きな鍋

翌朝、いつものように海を渡るとき
古宇利島方向から低空飛行の米軍機が
ドドン! ドドン! と爆撃を開始
「海へもぐれ!」
泳げないヨネちゃんも飛び込んだ

あっという間に集積船は砕け散る
夕方、昨日芋をあげた兵隊たちの
足や手で埋まった水路を掻き分け
ヨネちゃんはガチガチ震えながら
引き返していった

いつも腹を空かしていた
対岸の海軍の水兵たちは
夜になると泳いでヨネちゃんのうちにきて
何か食べさせてほしいとせがんだ

「なんでうちにばっかり?」と言うヨネちゃんに
「兄さんたちも戦地でひもじい思いをしているかもしれないさ」
母はそう言って無理をしてでも何か差し出した
母は命がけで兵を匿ったこともあった

魚雷艇は米軍の戦艦に体当たりする特攻艇だ
彼らは遺品をヨネちゃんの家に預けて出ていったという

ある夜、名も知らぬ水兵が
ヨネちゃんの家に立ち
「明日出撃をします。そのことを伝えたくて」と言った
まだ恋も知らぬ水兵が
最後の日に言葉を交わしたかったのは
18歳の彼女だった

やがて猛爆撃を受けて出撃不能になった
海軍白石隊の残党は山に上がり
敗残兵となり
スパイ呼ばわりして住民を虐殺するなど
恐怖の対象に変質していった

そんな夜
一人の水兵が闇に紛れて泳いできて
こう告げた

「ヨネちゃん、殺されるから逃げてください」

ヨネちゃんと母は驚いた
「うちはこんなに海軍に協力してきたのに?
殺すというならここで殺せ」
母は逃げることを拒否した

ヨネちゃんは「スパイ虐殺リスト」に
載っていたのだ

ずっと後になって
戦後になって
世話になったと尋ねてくる元海軍兵から
殺されなかった理由を聞いた

「〇〇中尉が『ヨネちゃんとスミちゃんは殺すな。
彼女たちを殺す奴は俺が殺す』と言ったんだよ」

九州出身の〇〇中尉とは
数回しか会っていないが
ヨネちゃんと弟さんに双眼鏡をくれるなど
交流があった

間もなくその中尉は
隠れ家に踏み込んできた米兵に射殺された
彼のいたグループは
住民虐殺にかかわっていたとみられている

なぜ、ヨネちゃんは
虐殺リストに載ったのか?
それが、最も肝心なところだ
それは次回作で明らかにするが
彼女の経験はまさに
軍隊が駐留する地域の住民が
絶対に避けられない悲劇を
まざまざと今に伝えている

今年92歳になるヨネちゃんと
去年、数奇なご縁でめぐり逢い
勤報隊のこと、海軍のこと
これまで一度も話したことがなかった
怖くて話せなかったことを
初めてカメラの前で語ってくださった

体のことで、何度かロケを断念したが
今日奇跡的に 屋我地島に御一緒できた
慈悲深いお母さんの遺影にも
手を合わせることができた
お母さんの導きかもしれないね、と
ヨネちゃんは笑った

もう、やんばるに来るのは最後かもしれない
彼女は水兵たちが出撃していった水路に
花束を投げた

ワルミ大橋の下
遠く遠く 花は散っていった
穏やかで美しい入り江には
まだ語られぬ悲しい歴史が眠っていた


 そうだ。
 リョーコーさんの若桜の園で、風の音に耳を澄まそう。
 光のざわめきをじっと見つめていよう。
 そして、ワルミ大橋の下、その入り江で、まだ語られぬ悲しい歴史を、じっと感じ取ってみよう。




by asyagi-df-2014 | 2018-02-10 07:17 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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