2017年 07月 01日 ( 2 )

沖縄-辺野古- 高江-から-2017年7月1日

 沖縄で起こっていること、その現場の事実をきちんと確認すること。
 2017年も、琉球新報と沖縄タイムスの記事を、「沖縄-辺野古-高江-から」を、報告します。


 「高江でも工事が再開した。沖縄のきれいな海や山が破壊されるのは自分の体をえぐられるようにつらい」(琉球新報)。
 沖縄からの悲嘆の声にどのように向き合うか。


 2017年7月1日、沖縄-辺野古-高江の今を、沖縄タイムス、琉球新報は次のように表した。


(1)琉球新報-K1とK9護岸で砕石積む 辺野古新基地建設-2017年7月1日 10:54


 琉球新報は、標題について次のように報じた。


①「米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設問題で1日午前、キャンプ・シュワブ沿岸ではK9護岸と辺野古崎南西側の沿岸で、工事が続いた。K1護岸予定地に近い辺野古崎南西側の資材搬入用道路の工事では、砂浜と道路の段差をなくすため、クレーンで砂浜に砕石を積む作業が続いた。K9護岸工事現場では、網袋に入った砕石を置く作業が行われた。抗議船4隻とカヌー13艇が海に出て『海を壊すな』などと訴えた。東村高江でヘリコプター着陸帯の工事が再開したことに『あまりにも横暴だ』などと声を上げた。」
②「キャンプ・シュワブゲート前では、昨日の豪雨から一転して32度を超える猛暑となり、市民90人が座り込み、基地建設に反対の声を上げた。読谷村から週に2回座り込みに参加している河野道夫さん(75)は『高江でも工事が再開した。沖縄のきれいな海や山が破壊されるのは自分の体をえぐられるようにつらい』と嘆いた。午前11時現在、基地内への資材の搬入は行われていない。」


(2)琉球新報-高江ヘリパッド工事を再開 ノグチゲラの営巣終了で-2017年7月1日 07:51


 琉球新報は、「東村と国頭村に広がる米軍北部訓練場のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)建設で1日午前、沖縄防衛局は中断していた工事を再開した。午前5時ごろ、工事車両約10台が基地内に入った。ヘリパッド工事に反対する人たちがゲート前に座り込もうとした際、民間警備員と機動隊が阻止したため、一時もみ合いになった。約30人が東村高江のN1ゲート近くで座り込みを続け『県民をばかにするな』『直ちに工事をやめろ』と抗議の声を上げている。工事はG地区の進入路を整備する。ノグチゲラの営巣期間が6月末で終了したことから、工事を再開した。工期は9月末までの約3カ月の予定。」、と報じた。


(3)琉球新報-降下訓練禁止 議題明言せず 2プラス2 沖縄県の要請で防衛省-2017年7月1日 11:53


 琉球新報は、「『嘉手納飛行場に関する三市町連絡協議会』(三連協)と県が米軍嘉手納基地でのパラシュート降下訓練と旧海軍駐機場の使用を禁止するため、日米安全保障協議委員会(2プラス2)で取り上げて米側と協議することを政府に要求していることについて、防衛省の武田博史報道官は30日の記者会見で『要望を受け適切に対応したい』と述べるにとどめた。2プラス2で議題として取り上げるかは明言しなかった。」、と報じた。
 また、「三連協と県は日米特別行動委員会(SACO)最終報告に反する運用だとして7日に上京し、外務、防衛の両大臣との面談を打診している。対応については防衛省内で調整しているという。」、と報じた。


(4)沖縄タイムス-「デマに負けない、あきらめない」 辺野古本格工事3年 150人が座り込み-2017年7月1日 12:38


 沖縄タイムスは、標題について次のように報じた。


①「国が沖縄県名護市辺野古の新基地建設に向け本格工事に着手してから3年を迎えた1日午前、辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲート前には、新基地建設に反対する市民150人が座り込み、『新基地中止』『沖縄は負けない』などと声を上げた。」
②「マイクを握った沖縄平和市民連絡会の城間勝事務局長(71)は『この3年、国の思うように工事が進まないのは、雨の日も風の日も暑い日も県民が声を上げ続けてきたからだ』と強調。『今、国は県民をあきらめさせようと躍起になっている。SNSなどでデマもあるが、絶対に負けない。さらにゲート前の行動を強化していく』と訴えた。」
③「一方、キャンプ・シュワブ内の辺野古崎北側にあるK9護岸建設現場では同日午前、袋に入った石材を護岸に並べる作業があったほか、シュワブ内のK1護岸建設予定地でも石材の投下が確認された。」


(5)沖縄タイムス-延びた護岸約100メートル 辺野古新基地・本格工事着手から3年-2017年7月1日 05:00


 沖縄タイムスは、標題について次のように報じた。


①「国が沖縄県名護市辺野古の新基地建設に向け本格工事に着手してから1日で3年となった。沖縄防衛局は今年4月25日、護岸建設工事に着手し、連日、海中への石材投下を続けている。本紙が30日に小型無人機で上空から確認したところ、護岸の土台は波打ち際から沖合へ約100メートル延びていた。30日は、午前9時ごろから作業員が米軍キャンプ・シュワブ北側のK9護岸で消波ブロックを設置する作業が続いた」。
②「防衛局は4月1日以降、県の岩礁破砕許可を得ないまま工事を継続している。翁長雄志知事は、許可を得ずに工事を進めるのは県漁業調整規則違反として、国に工事の差し止めを求め提訴する議決案を開会中の県議会6月定例会へ提案した。県は議案可決後、速やかに訴訟手続きに入り、7月下旬には提訴する方針だ。」
③「知事は埋め立て承認の『撤回』に踏み切る考えも明言しており、新基地建設阻止に向け、今後あらゆる対抗策を模索する構えだ。」




by asyagi-df-2014 | 2017-07-01 19:48 | 沖縄から | Comments(0)

大田昌秀さんをおくるために。

 自分史の中で、沖縄の関わりが強くなったのは、1995年以降のような気がします。 とすると、大田昌秀さんとは、常に表舞台に居る人でした。
沖縄タイムスは、2017年6月21日、「反戦貫いた大田さんをおくる 『艦砲ぬ喰ぇー残さー』の精神 【金平茂紀の新・ワジワジー通信(26)】」を掲載しました。
一つの想いの証として、次に載せます。


(1)大田昌秀さんは92歳の誕生日に、教え子たちやご家族に見守られて他界した。ハッピー・バースデー・トゥ・ユーのお祝いの歌を聞きながら、まさに眠るように息を引き取られたそうだ。大田さんのことだ、沖縄のあるべき未来に確固たる希望をもっておられたので、それと現実の落差におそらく大いに悔いを残しながら去っていかれたのではないかと思う。
(2)僕が最後にお会いした時も沖縄が置かれている現実に怒りを隠していなかった。その内奥からみなぎる熱情の源は、鉄血勤皇隊員としての沖縄戦での極限の体験にあると常々話しておられた。戦争をしてはいけない。大田さんの戦後を貫く固い信念だ。
(3)「大田さん、何を召し上がりたいですか?」。去年の5月22日、那覇で久しぶりにお会いして夕食にお誘いして返ってきた答は「ステーキ!」。大田さんは200グラムのステーキを平らげた。亡くなられた3日前に入院先の病室にお手紙をお届けしたが、もはや開封して文字を追う体力はなく、僕から手紙が来たと告げられると、「ああ、彼とはよく会ったんだ」と口にされたと、その場に立ち会っていた教え子の玉城眞幸さんからうかがった。
(4)大田昌秀さんに引き合わせていただいたのは、故・筑紫哲也さんだ。大田さんが知事時代に上京した際の会食に同席させていただいたのが最初だった。当時の琉球放送・東京支社長、故・大城光恵さんもよく同席されていた。取材なのか単なる宴会なのかよくわからない楽しい懇談の場だった。
(5)ウイスキー、とりわけシーヴァス・リーガルをこよなく愛した大田さんは、飲めば飲むほど弁舌さわやかに、話題は時空を飛び越えて世界に広がって、沖縄出身のイリノイ大学名誉教授・平恒次氏らウチナンチューの国際舞台での活躍ぶりや、同じく沖縄出身でアメリカで成功をおさめた実業家・平良新助の「ヒヤミカチ節」の歌詞のことやら、ついには沖縄独立論まで話題はとどまるところを知らないのだった。
(6)東京杉並区の高円寺に最初にできた沖縄料理店「きよ香」にも出入りして、店主の高橋淳子さん(故人)とも親交があった。びっくりと言えば、たまたま僕が2000年に北朝鮮を取材していた時、ピョンヤンのホテルでばったり大田さんに出くわしたことがあった。朝鮮半島の平和団体の招きで訪朝していてレセプションがそのホテルで行われていたようだった。
(7)僕の記憶はほとんど飛んでしまっていたのだが、当時の秘書の桑高英彦さんによると、1994年ころ、当時僕が赴任していたモスクワでも県知事訪問団の一行として参加されていた大田さんと僕は会っていたというのだ。そうだったなあ、とだんだん思い出してくる始末だ。
(8)とにかく大田さんは行動範囲が広いのだ。そして人をしっかりと鋭く見極める能力があった。「あれはニセモノだよ」。沖縄にすり寄ってくる自称・学者、文化人の動向を静かに見ていた大田さんは、笑みを浮かべながら厳しいことを言っていた。その大田さんはもういない。ぽっかりと大きな穴があいたようだ。
(9)6月15日、午前7時46分。希代の悪法「共謀罪」法が可決・成立した。反対する市民らが国会周辺で怒りの声を上げるのを取材しながら、僕は何度も時計に目をやっていた。その日の午後、浦添市で大田さんの告別式が行われることになっていたからだ。何としても参列して自分なりのお別れの思いを伝えたかった。取材後、飛行機に飛び乗り、どうにか告別式に間に合った。会場には大田さんとゆかりのあった人々に加え、大田さんを慕う大勢の市民や県民の方々が訪れ、死を悼んでいた。仕事場から慌てて抜けてきたような普段着の人もいた。海勢頭豊さんらの生演奏が奏でられていた。遺影の大田さんは笑っていた。けれども僕がお会いした大田さんは、初めはにこやかだったが、基本的には怒っていた。
(10)これだけは言っておかねばならない。大田さんは95年のいわゆる女性に対する暴行事件の際、反米軍基地感情が沸点に達した時、普天間飛行場返還の約束をとりつけた主人公である。それが今現在の辺野古問題の直接の引き金である。当時の首相、橋本龍太郎氏は焦っていた。それと同時に、当時の沖縄県民の怒りに一定の理解を持っていた。何しろむごい事件であり、米軍側は日米地位協定を盾に米兵の身柄引き渡しさえ拒んでいたのだから。今の政権とは雲泥の差がある。橋本首相は当時の駐日大使ウォルター・モンデール氏に頼み込み、普天間飛行場の返還を迫った。モンデール氏は旧知の国防長官・ウィリアム・ペリー氏に電話を入れてOKを取り付けた。「普天間は返そう。それでOKだ」と。それがいつのまにか代替基地建設の話にすり替えられていく。県内に代替施設を建設する条件などなかったはずだ。それを仕向けた人間たちがいた。誰か?
(11)悲しいことに、それはアメリカ側の要求というより、当時の防衛庁トップと日本政府内の安保体制に利害関係をもつ強硬派が「沖縄に海兵隊はとどまってほしい」と、無条件返還話を捻(ね)じ曲げたのだ。海兵隊にとっては願ったりかなったりの提案だった。世界最大規模の米軍基地・嘉手納に統合されずに、自前の基地を、ほとんどまるごと日本政府のお金で自然の美しい場所につくってもらえる、と。こんなおいしい話はない。
(12)大田さんの告別式で涙を流しながら友人代表の弔辞を述べた比嘉幹郎さん(元副知事)に、式会場で大田さんとの思い出をうかがった。「大田さんが名護の英語学校の先生だったころ、よくお酒を一緒に飲みに行ったんです。当時のジュークボックスで1曲1回25セントだったかで聴けたんですが、大田さんは10枚くらいクオーター(25セント銅貨)を入れて何度も何度も聞いていた曲が、でいご娘の『艦砲ぬ喰ぇー残さー』だったんです」。歌詞のサビの部分はこうだ。
(12)
 うんじゅん 我んにん 汝(いや)ん 我んにん(あなた方も、私も、君も 僕も)
 艦砲ぬ喰ぇー残(ぬく)さー(艦砲射撃の食い残し)

(13)沖縄戦の後の自分たちは、「鉄の暴風」と言われた米軍の激しい艦砲射撃の生き残りに過ぎない。死んでいった者たちのことを決して忘れるな、という深い含意がある。大田さんだからこそ、敵も味方も国籍も年齢も氏名の確認さえも超えて、あの「平和の礎」を作りえたのであり、沖縄戦の歴史文書をきちんと後世の人々に残すために(ああ、今の公文書を片っ端から隠滅・廃棄してしまう役人どもとは何という志の違いだろうか!)県公文書館を設立した。
(14)大田さん。大田さんの怒りをわずかなりとも心に引き継ぎ、僕は僕の持ち場で沖縄と向き合っていきますからね。どうぞ、やすらかにお休みください。合掌。


 「苦渋の選択」。
 私にとって、重くていろんなことを想起させる言葉である。
 この言葉は、また、大田昌秀さんを思い出せてきたことは確かである。
 金平さんは、「これだけは言っておかねばならない。」、と熱く語る。
 「大田さんは95年のいわゆる女性に対する暴行事件の際、反米軍基地感情が沸点に達した時、普天間飛行場返還の約束をとりつけた主人公である。それが今現在の辺野古問題の直接の引き金である。」ということに関して、次のように説く。
「それがいつのまにか代替基地建設の話にすり替えられていく。県内に代替施設を建設する条件などなかったはずだ。それを仕向けた人間たちがいた。誰か?、悲しいことに、それはアメリカ側の要求というより、当時の防衛庁トップと日本政府内の安保体制に利害関係をもつ強硬派が『沖縄に海兵隊はとどまってほしい』と、無条件返還話を捻(ね)じ曲げたのだ。海兵隊にとっては願ったりかなったりの提案だった。世界最大規模の米軍基地・嘉手納に統合されずに、自前の基地を、ほとんどまるごと日本政府のお金で自然の美しい場所につくってもらえる、と。こんなおいしい話はない。」、と。


 今なら、理解できることがある。
 「沖縄のせいにする」、という常套手段が、そこにも貫かれたということを。


 「大田さん。大田さんの怒りをわずかなりとも心に引き継ぎ、僕は僕の持ち場で沖縄と向き合っていきますからね。どうぞ、やすらかにお休みください。合掌。」、との金平さんの想いに、私も手を合わせます。





by asyagi-df-2014 | 2017-07-01 17:17 | 書くことから-いろいろ | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


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