本等からのものー天皇財閥・象徴天皇制とアメリカ
2025年 09月 25日
著書名;天皇財閥・象徴天皇制とアメリカ
編著作者;涌井 秀行
出版社;かもがわ出版
「沖縄戦80年」、「戦後80年」を考えることは、実は、天皇制を考えることに地続きであることに、改めて気づかされている。
この視点から、象徴天皇制について、涌井秀之の「天皇財閥・象徴天皇制とアメリカ」(かもがわ出版)で、押さえる。
涌井は、まえがきで、日本の今を、「『過労死』『過疎化『限界集落』そして『3.11東日本大震災』と『原発事故』。社会とのつながりが切れた『無縁社会』。そして、世界でもっとも少子高齢化が進んだ国・日本。日本は今、世界がまだ経験したことのない試練に直面している。人口減少や少子高齢化がもたらす日本社会のスパイラル状況をジャパン・シンドロ-ム(日本症候群)と呼ぶ。」、といみじくも日本の現状を指摘する。
ここでは、[天皇の戦争責任]及び「この戦後の天皇制の位置づけが、アメリカ占領軍当局によって戦略的に重視された結果だったものであること。」、との二つの視点から象徴天皇制解明するために、この本の「第2章 天皇財閥と戦前日本資本主義」及び「第3章 戦後日本を覆うド-ムのごときアメリカ=象徴天皇制」から引用して考える。
[「第2章 天皇財閥と戦前日本資本主義」]
(侵略戦争と天皇財閥の形成)
1.真珠湾攻撃と同時に日本軍はマレー半島の英領植民地コタバルを占領し、東南アジアの英・仏・蘭植民地の奪取へと突きすすんでいった。1941(昭和16)年1月30日の大本営政府連絡会議において「対仏印、泰施策要綱」が決定され、2月1日に昭和天皇の允栽(いんさい)(君主が臣下の申出を許す)も出された。日本の対アジア侵略戦争を合理化するために唱えられたスローガン[大東亜共栄圏]の具体化である。その後、7月2日御前会議で南方施策が再検討され、仏領インドシナ進駐の具体策は、国策として決定された。小倉庫次の1941年12月25日の日記には、昭和天皇が「平和克服後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と述べた、と書かれている。その後の戦争遂行についても、昭和天皇は深く関心を寄せ続けた。こうした天皇の戦争への関与は、法制度にもとづくものであり、天皇は戦争に深く関わり続けた。
2.天皇の独自財産の形成が、明治以降図られたのである。江戸時代には金利10万石などと称された天皇家一族の財政は、大半を幕府が収納して必要経費として天皇家に献じられていた。その額は御料地(禁裏御料)3万石と定められていた。3万石は江戸時代の大名の格式では最も低い。白をもてない無城の小大名の財政規模に過ぎない。これが明治維新直後の皇室財産の実態だった。
3.天皇のいわば個人財産である帝室財産形成が、明治憲法制定、帝国議会開設に先だって、1882(明治15)年ごろから開始された。その狙いが岩倉具視の意見書によく表れている。「皇室財産ニ関シ意見書ヲ閣議ニ提出」し「皇室ノ財産ヲ富膽ニシテ陸海軍ノ経費等ハ悉ク皆皇室財産ノ歳入ヲ以テ支弁スル」と岩倉は主張した。明治国家の国是[富国強兵]を天皇の資金力=軍事力によって実現し、議会・人民の影響や制約を受けない体制を作る。天皇の資金、帝室財産の創設が、1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布を前に実行に移された。
4.天皇家の投資額と収入は、その投資額の国家歳出に対する比率は、日清戦争時の1895年は24.7%、日露戦争時の1905年は13.8%、第1次世界大戦翌年の1915年には10.6%に達している。2020年(令和2)年度の国の一般会計歳出額が128兆円、そのうち防衛費は4.1%の5.3兆円であるから、投資額とその比率の大きさがわかるであろう。
5.戦前の天皇は、国家元首として政治権力(統治権)と軍の統率者として軍事体験(統帥権)を一身に保持していた。と同時に天皇は、新穀などの収穫祭である新嘗祭、建国の祖であるとする神武天皇を祀る紀元節祭などをつかさどる、伝統的な祭祀大権を揺する神聖不可侵な現人神とされた。戦前の明治・大正・昭和天皇は、絶対的真理と普遍的道徳を体現する至高の存在であるとされ、あらゆる価値が天皇に集中一元化されていた。その絶対性は、昭和天皇の肖像写真「御真影」の「天皇陛下のお顔を見ると目が潰れる」という天皇観にまで高められ、世の中に浸透した。
6.だが同時に天皇は戦前における日本最大の寄生地主であり、三井、三菱、住友などの財閥をはるかにしのぐ、時にはその投資額が国家歳出の4分の1に達するほどの大財閥だったのである。
(日本敗戦と天皇財閥の解体)
1.マッカーサーを総司令官とするアメリカ占領軍(GHQ)は、日本の非軍事化・民主化のために、政治・経済・社会全般にわたる一連の改革を実施した。戦後改革と呼ばれた日本改造計画は、日本の侵略戦争とファシズムの根源を断つため、まず非軍事かを強力におし進めた。それらは、軍隊の解体、軍需産業の生産停止、軍国主義者の公職追放、修身・歴史教育の禁止、国家と神道の分離などである。と同時に、アメリカン・デモクラシーを下敷きにしながら、GHQ内のニュー・ディーラ-を中心に諸制度の民主化を行った。それらは、新憲法の制定、特別高等警察・内務省の解体、農地改革、財閥解体、労働者の基本的権利の保障などがある。これらの改革の中でGHQは、財閥を戦争の推進者と位置づけ、その支配メカニズムを財閥家族による株式保有に基づく企業支配と考えた。GHQは、1945(昭和25)年9月6日付の「降伏語における米国初期の対日方針」と財閥と同様、天皇財閥の解体方針を打ち出した。
2.財閥解体の対象となった天皇家の財産総額は、37億4795万円に達する。読売新聞は「財産税ベスト・テン」なる見出しで、財産税徴収実績の途中経過を報道している。その第1位に[内蔵頭(皇室)]を挙げ、徴収した税額を33億3826万円と伝えている。天皇家は日本第1位、最大の財閥だったのである。その天皇財閥の金融資産の内容を見ると、国際1億3992万円が最も多く44%を占め、それに株式、社債が続く。
(まとめ)-(天皇の戦争責任と天皇財閥の解体)-
1.天皇家・財閥は、戦前の日本経済の土台となり侵略戦争を史書から支えてきた。アメリカ占領軍は、点の毛を財閥解体の対象から外さなかった。それは天皇家が民間財閥と同様、あるいはそれ以上に軍国主義的国家の土台であり推進者であった、と考えたからである。再び軍国主義日本へ逆戻りさせないために、その土台となる天皇家の財産を没収したのである。
2.戦前の絶対主義天皇制の権威は、ド-ムのごとく威容を誇った「天皇制=軍義的官府」権力と共に、戦前日本の強力な国民統合=統治のイデロオギーだった。アメリカは、丸山真男の言う天皇制の権威である「国体と呼ばれたこの非宗教的宗教」を改変して、戦後の日本統治に利用しようとした。「真珠湾攻撃の直後からアメリカは、日本人の国民性と天皇制を利用する・・・・『日本計画』を作成していた」という。アメリカの占領をスムーズに執行するための天皇の利用である。
3.ここに万世一系の天皇家を存続させたい。全てを失っても血統だけは残したい、という昭和天皇の思惑とアメリカの天皇利用の思惑がコラボレーションする余地が生まれたのである。戦後の日本国家改造・統治イデロオギーとしての「象徴天皇制」である。
4.9月2日にミズ-リ-号上で降伏文書の調印式が行われ、その2日後の9月4日には、第88回帝国議会開院式で昭和天皇の勅語が読み上げられた。そこには「平和国家ヲ確立」が記されていた。東久邇宮首相は翌5日の所信表明演説で「平和的新日本の建設の礎たらんことを期して居ります」と述べ、勅語に通じる表現を繰り返した。ここに憲法第1条から8条の天皇条項と第2章9条の平和条項の基本性格が、透けて見える。
5.アメリカは、戦後の日本占領をスムーズに執行するための不可欠な仕組みとして、日本開戦時には、すでに象徴天皇制を構想していたという。憲法第1章(第1条~8条)と第2章第9条は、いわば丸腰の天皇制として戦後日本の基本的枠組みとなった。これは、奇しくも昭和天皇の戦後の天皇の在り方とも暗合する新憲法の要点でもある。それは1946年「1月24日に行われた幣原首相とマッカーサーとの会談で詰められていく。幣原が有人の枢密顧問官・大平駒槌に語った会談内容に関するメモによれば、マッカーサーは米国の一部や関係諸国から天皇制の廃止や昭和天皇を戦犯にすべきとの声が高まっていることに危機感を持ち、幣原に対して『幣原の理想である戦争放棄を世界に表明し、日本国民はもう戦争しないという決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとすることを憲法に明記すれば、列国もとやかく言わず天皇制へふみ切れるだろう』と語ったという」。
6.憲法学者の故宮沢俊義・東大教授のノ-トに書かれたメモには、昭和天皇が憲法GHQ草案にたいして「これでいいじゃないか」と発言し、幣原首相は「安心して、これで行くことに腹を決めた」という心情も記載されていた。
7.その翌日の1月25日に幣原は昭和天皇に拝謁した。『昭和天皇実録』には、幣原がマッカーサーと会見し「天皇制維持の必要、及び戦争放棄等につき談話した旨の奏上を受けられる」と記録されている。つまり新憲法の骨格ともいうべき1条と9条が、幣原を介してではあるが、マッカーサーと昭和天皇によって論議され決定されていたのである。
8.現行憲法の骨格ともいえる第1章(第1条~第8条)の天皇条項と第2章(9条)の戦争放棄に、昭和天皇は深くかかわっていたのである。それは又、太平洋戦争を遂行した最高責任者である天皇の免責でもあった。同時にこの憲法はアメリカとの強固な同盟関係と親米政権によって保証される、とも天皇は考えていた。
9.昭和天皇の戦争責任の問題は、アメリカの占領政策に協力する形で、帳消しにされ歴史の中に吸い込まれていった。
10.1975年(昭和50)年のことである。生涯一度限りだったが昭和天皇は、かっての敵国アメリカを訪問した。ホワイトハウスの晩餐会で「わたくしが深く悲しみとするあの不幸な戦争の直後、帰国が我が国の再建のために温かい行為と援助の手を差し伸べられた」と晩餐会出席者を通じてアメリカ国民に感謝を述べた。その後の記者会見で昭和天皇が晩餐会で「深く悲しみとするあの不幸な戦争」と述べたことを記者が取り上げ、「陛下は戦争責任を感じておられるのですか」と尋ねた。天皇は、質問した記者に向かって「そういう言葉のアヤについては、私は文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんからお答えできかねます」と答えた。
11.昭和天皇は生前、公には戦争への反省を表明したことは一度もなかった。昭和天皇にとっては、戦争責任問題は、アメリカとの少なくとも占領軍マッカーサーとの間で合意・解決済みだったのである。
12.天皇がその責任を問われないということは、すべての批判が封鎖され、一般国民の戦争責任も封鎖されるということになる。とりわけアジア人の人びとに加えられた加害責任は、なおざりにされ、日本人は被害の殻のなかに閉じこもるようになった。象徴天皇制は、竹内好が言うように、「諸価値を相殺する一種の装置」として戦後の日本社会を覆い、反ソ連-反社会・共産主義ををはじめとした様々なイデロオギーを排除する防壁となり、「天皇制コンフォーミズム」(大勢順応主義あるいは集団同調主義)となって、戦後の日本社会を真綿のようになって、すっぽりと包んでいったのである。
[「第3章 戦後日本を覆うド-ムのごときアメリカ=象徴天皇制」]
ここでは、戦後の日本資本主義の構造と「象徴」天皇制の関わりを明らかにする。
(戦後日本資本主義の構造と動態)
1.戦後日本資本主義の下部・経済構造は一言で言えば、「外部循環構造」である。第2次大戦後、アメリカの世界戦略=冷戦体制に組み込まれた日本は、アジアの工場として、はじめから外需・輸出を折りこんだ経済構造の構築を、アメリカから求められた。20世紀社会主義体制防衛のために、である。
2.戦後日本の成長・蓄積メカニズムは、アメリカとその勢力圏への輸出・外需を推進力としたものであった。それに引っ張られて、国内の設備投資や個人消費などの内需も伸びていく。それを端的に示しているのが、朝鮮戦争、ベトナム戦争特需であり、そして日米貿易戦争とまで言われた対米輸出である。それが成長の道を開いたのである。日本資本主義はその道を邁進し、日本の国内総生産(GDP)は2010年に中国に抜かれるまで、一千九百六十八年から42年間にわたって世界2位の座を維持し続けた。朝鮮戦争特需は、経済成長のスプリング・ボ-ドとなり、ベトナム戦争特需は神武以来の好景気「いざなぎ景気」を日本にもたらした。朝鮮とインドシナ人民の呻吟をよそに、その犠牲の上に立っていた成長は、繊維、造船、鉄鋼、自動車、半導体と輸出の主役を入れ替えながら、戦後40年以上にわたって継続したのである。
3.昭和が終わり、平成が始まった1989年、その時誰もがバブル景気に酔いしれ、気づいてはいなかった、驚異の成長の終わりが、影のごとく忍び寄っていたのである。アメリカの対日収奪戦略は、始動し始めていた。その第1弾が、平成元(1989)年7月の非公式協議から始まり1990年に最終報告書がまとめられた「日米構造障壁協議」である。この年次報告に充てられたタイトル「Initiative:発議、主導権」が示すように、それは、アメリカによる対日要求で[日本経済破壊=収奪作戦]計画書であった。アメリカの貿易赤字は、日本の経済構造に由来するものであるから、「経済構造を改革せよ」とアメリカは日本に迫った。ソ連崩壊後アメリカは、国益を害する最大の敵を「日本の経済力」とみなし、国防総省、国務省、財務省、CIA、金融機関、マスコミ、スンクタンクなどの日本専門家を集めた対日収奪作戦チームを結成して、日本の収奪作戦を開始したのである。1989年開始された日米構造協議は、包括協議へ、さらに「規制改革要望書」(1994~2008年)へバ-ジョンアップされながら、アメリカ側から発し続けられた。
4.アメリカの対日要求は、第2の日本敗戦=米占領政策の開始であった。この収奪作戦は、21世紀以降、小泉内閣(2001~2006年}の「聖域なき構造改革]へと引き継がれていく。アメリカの金融収奪、第2の敗戦後の日本再占領政策を日本政府は受け入れざるを得なかった。その象徴的な事象が郵政民営化である。小泉純一郎元首相が喧伝した「民営化でバラ色のサービスが可能」どころか、今の郵便局の現実は「民営化の破綻」を具体的に示している。郵便事業を支える40万人のうち、およそ半数の19万人が非正規雇用で、正社員との待遇差は歴然としている。小泉元首相は「郵便局は減らさない」と豪語したが、民営化後、全国で300以上の郵便局が廃止された。郵政民営化で郵貯の海外投資も自由となった。日本は、アメリカの金融収奪の餌食となった。
5.アメリカの第2の占領政策は、日本の金融信託統治強化であった。その典型例をひとつだけ挙げれば、旧長期信用銀行のアメリカのヘッジファンド・リップルウッドによる引き受け、売却である。
(戦後日本を覆うドームのごとき象徴天皇制)
1.1945年、第1の敗戦が昭和後期時代の開始であったが、第2の敗戦は平成時代の「失われた30年」の始まりとなった。二人の天皇によって画された二つの時代は、対照的な時代となったのである。このいわば陽と陰の対比を論ずるとき、それは戦後日本資本主義の経済構造=土台(下部構造)の上に形成された政治的・法的・哲学的・道徳的・美的・宗教的な観念形態(イデオロギー)である上部構造が問題となる。その上部構造とは、権威としての象徴天皇制とアメリカである。このもとに権力=権威、組織であるアメリカ=象徴天皇制政府がある。
2.戦後日本の経済構造=外政循環構造をすっぽりと天井のように覆う権威が、【アメリカ=象徴天皇制】であり、その傘の下で国家・政府が権力を握っている。アメリカという権威の中身は、異常で屈辱的な対米従属であり、この対米従属ときっちりと結びつき、機能している国民統治支配イデオロギーが象徴天皇制である。この「アメリカ=象徴天皇制」が大伽藍、ドームのように戦後日本社会を覆っている。
(戦後の昭和天皇-アメリカと反共主義)
1.敗戦の時の2月、近衛は「国体維持の立場より憂うべきは敗戦よりもこれに伴う共産革命」と上奏した。この近衛上奏文は、敗戦へと向かうなかで、アメリカに一撃を与えて有利な条件の下で講和に臨み、天皇制=「国体の護持」を担保しようという思惑からのものであったのだろう。この文脈は、戦後のアメリカの対日占領政策の民主化・非軍事化措置から経済復興へと転換してアメリカの戦略となった。いわゆる逆コースとなって表れた。
2.昭和天皇にとっては「共産化」は絵空事ではない。リアリティーを帯びた恐れとなった。1953年4月に、り父するロバーと・マーフィー駐日米国大使夫妻との昼食の席で昭和天皇は「朝鮮戦争の休戦や国際的な緊張緩和が日本の世論に与える影響を懸念している。米軍撤退を求める日本国内の圧力が高まるだろうが、私は米軍の駐留が引き続き必要だと確信している。・・・・・ソ連と中国の指導者への不信を表明する一方、台湾の蒋介石相当が同大使に示した日本・韓国・台湾の反共提携構想に好意的な反応を示した」という、昭和天皇がアメリカを迎え入れた動機は、万世一系の天皇家の存続と並んで、ソ連・共産主義に対する恐怖と嫌悪であった。
3.中国革命と朝鮮戦争勃発後、冷戦が誰の目にもはっきりしてきたなかで、アメリカが鳩山一郎や重光葵(日本民主党)らのソ連への接近を警戒したとしても何の不思議もない。この動きに対して、アメリカに忠実な政権を作るよう対日工作が仕掛けられ、自由党と日本民主党との保守合同が成立し、1955年11月に自由民主党が生まれた。その1ヶ月前には、左右両派に分裂していた日本社会党も合同していた。世にいう「55年体制」が出来上がったのである。
4.この体制は、言うまでもなく対米従属と表裏の関係にある。岸らは未来の「自立」を夢に見ながら、社会主義から日本を守るため、天皇制を象徴としてでも温存してくれたアメリカに依存しよう、考えたのである。
5.この考え方は奇しくも昭和天皇の考えとも一致していた。
6.「象徴天皇制」と藩屏(※はんぺい=皇帝・皇室の守護となること)である日米安保体制・アメリカこそが、昭和天皇にとっては戦後の「国体」だったのである。象徴天皇制がアメリカに支えられたいることを昭和天皇は理解し、自ら象徴としての「勤め」を果たしたのである。
7.昭和天皇は、このようにして憲法と日米安保体制の制定、すなわち戦後日本の支配層の統治=権力の基本骨格の形成に深くかわっていたのである。アメリカの構想した象徴天皇制は、こうして仕上げられて、昭和の象徴天皇制として、ドームのごとく戦後日本・昭和を覆ったのである。
(平成(明仁)天皇の象徴天皇制)
1.昭和天皇は、本土防衛「国体護持」のために沖縄を「捨て石」にし、戦前沖縄県民を公民と認めず、「皇室」維持のために犠牲にしたのである。そればかりではない。敗戦後の1947年9月には、昭和天皇は宮内庁御用掛寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に、「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」との意思を伝えていた。天皇制維持、皇室保全と引き換えに沖縄を「切り捨てた」負い目を皇太子時代の平成天皇は、昭和天皇から引き継いだに違いない。
2.国連も沖縄の人々を「先住民族」と認識しない日本政府に懸念を表明している。日本政府は、アイヌ民族を先住民族と認めたものの、沖縄の人々を琉球先住民族とは認めていない。
(象徴天皇制、昭和と平成二つの位相)
1.昭和天皇は、戦前の大日本国憲法「第3条天皇ハ神聖ニシテ・・・・国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」する元首としての意識を捨てきれず、首相による「内奏」などを通じて政治的な意思表示を繰り返し行う象徴天皇として昭和後期時代を生きた。
2.平成天皇は、「慰霊」と「お見舞い」という「天皇制慈恵主義」で、憲法1条に規定された「日本国民統合の象徴」としてその役割を果たした。
3.この象徴天皇制という「権威」は、「昭和の終わり平成の始まり」と「平成の終わりと令和の始まり」に特殊な現れ方をした。それは、昭和天皇の闘病中からで、歌舞音曲を伴う派手な行事・イベントが中止または縮小された。平癒祈願の記帳をした国民は、病臥の報道から、1週間で235万人にもなり、記帳者総数は、900万人に達した。自粛の動きは大規模なイベントだけでなく、結婚式などの個人の生活にも波及した。今次の平成から令和のへ時は、新時代が始まる「祝賀ムード」として演出され、テレビなどは天皇代替わり報道で埋め尽くされた。
4.いずれの時も象徴天皇制に異を唱える、などということは「恐れ多い」とのムードが国中にあふれかえった。異なる意見は、弾圧によってではなく「自粛」によって封印されたのである。民主主義とは、異なる思想や良心を認める、ということだろうが、それを自ら封印することを余儀なくされたのである。これこそが「内なる天皇制」「象徴天皇制」なのではなかろうか。これに対置・対抗できうる「内なる民主主義」が、改めて求められている。
(「内なる天皇制」としての象徴天皇制、代替わりの谷間)
1.昭和前記時代、戦前の天皇制は、権威(教育勅語、国体思想)も権力(陸海軍)を具有した「絶対主義天皇制」で、歴史上特異な天皇制だった、といえよう。
2.だが戦前の「絶対主義天皇制」は、戦後するりと変質し、「象徴天皇制」となって本来の姿に戻ったかのように見もえた。
3.しかしすでに述べたように昭和天皇は、憲法制定と日米安保体制の構築に巧みにかかわり、戦後日本の政治=権力機構の形成に、象徴天皇というベールをかぶり、深くかかわっていたのである。これは、擬似絶対主義(象徴)天皇制とでもいうべきであろう。
4.「内なる天皇制」とは「伝統的情緒的な倫理的な天皇憧憬感情である」と奥平は言う。そして奥平は「内なる天皇制」を「国体」概念から説き起こす。戦前の「国体」は、天皇に主権があるという明治憲法上の法概念としての「国体」と、倫理的、伝統的、情緒的な「あこがれの中心としての天皇」としての「国体」という、いわば2層構造になっていた。「内なる天皇制」は、後者の「伝統的、情緒的、倫理的あこがれの中心といった文化現象としてのそれであ」り・・・・。
(「内なる天皇制」としての天皇憧憬感情)
1.昭和天皇の「権威的経緯」は、象徴天皇制としてその後も生き残った、と言えよう。あたかも絶対主義天皇制の残滓として、である。象徴天皇制下の「権威的契機」が、アメリカ占領軍の間接統治の強力なツールにもなり、社会・国民統合の機能を果たした。
(まとめ-「内なる天皇制」をはぐくむ土壌としての稲作)
1.日本においては、邦自体が、「豊葦原の千五百秋(ちいおあき)の瑞穂の国」と、いわれてきたように、国の基礎に田と稲と米が置かれてきた。とりわけ近世以降、幕府藩領の所領は、米の生産高で表示(石高制)され、公租(税)も米で貢納(年貢)された。日本経済は、「米使いの経済」とよばれるほど、米は特別な物品であった。明治維新以降も、政府は地主に地租を負担させ、地主は現物小作料=米を換金して地租を納めた。「寄生地主・小作関係」は戦前日本資本主義の「基底」であって、絶対主義天皇制官僚を支えていた。このように少なくとも弥生時代以降戦前、戦後も1950年代ころまでは、米は社会の基本的物品・商品だったと言えよう。
2.「米作り」は、戦前日本農業の中核であるが、稲作の特徴を簡潔に述べれば以下のとおりである。稲作は小区画の隣接しあった水田・耕地に、人力農具を基本とした労働手段で、気象条件の変化に対応しつつ病虫害を防ぎながら、田植え・除草・収穫など、敵機における膨大な作業と相互の水田を結ぶ水の管理を伴って進められる。したがって一定地域の水田を対象として、強固な枠組みの協同組織・共同社会(農村共同体)が形成される。家族を中とした農業生産は、17世紀なかばごろには支配的な農業生産形態担ったと思われる。それは今日に至るまで生産単位として基本的には変わっていない。「苦渋」・「稠密」・「協同・強調」という労働力の質が生まれることになる。
3.ここで、「内なる天皇制」にかかわる重要な点は、一定地域の水田を対象にした強固な横組みの協同組織・共同社会(農村共同体)の形成と「協同・協調」という労働力の質が生まれることである。
4.この土壌に植え付けられた象徴天皇制が、国民に深く根を張っている。そもそも天皇は、その歴史の書は卯から軍隊を持たず、直接統治せず、「権威」=「神職」として「農治」を担い、百姓は天変地異の鎮めを「神職」に付託してきた。稲作の歴史は3000年にもなろうが、稲作を中心とした「農」を介して天皇と百姓・農民は一蓮托生の歴史を過ごしてきたと言えよう。
5.それを明示する行事が行われる。「即位の礼」と大嘗祭」である。
6.これが日本における象徴「天皇制民主主義」である。これは戦前の絶対主義権力による上からの、表門からの強制統治に対して、いわば「からめて(裏門)」からの権威による統治といえよう。象徴天皇制は、強力な国民統合=統治のイデロオギーとなり、「日本は天皇を中心にいsて、みんながひとつの家族みたいに暮らす社会だからうまくいっているのだと、そういう考え方がいま大きく出てきています。・・・・こういう考え方の基本にあるのは、単一文化、単一民族としての日本です」。象徴天皇制が諸価値を相殺し、大勢順応、お上にタテを突かない、国家の一大事に異議申し立てをしてはならぬ。そして日本人としてまとまっていく、という約束事・了解となって、民衆に深く根付き染みついている。今時の処世訓でいえば、「空気を読む」といったとことだろうか。
7.敗戦直後の世論調査でも天皇の支持は85%に達し、最近の世論調査でも74%が天皇制を支持している。このようにして象徴天皇制は、日本という国家の一体性の弛緩、拡散を締め上げる国民統合の原理となり、いわば国民国家日本という樽を外側から締め上げる箍のの役割を果たしている。
8.明治以来、日本人の欧米に対する劣等感とアジアに対する優越感は表裏一体だった。今でも「日本人はアジア人」と問われると、戸惑いを感ずる人もいるだろう。「脱亜入欧」という明治以来の悲願は、戦前は野蛮な侵略によって、戦後はGDPで後期昭和時代までは保持されたいた。だが、平成時代になって、アイデンティティーは大きく揺らぎ否定された。アジアの先進国の地位の喪失と展望を打ち出せない焦燥感が、大衆の間で排外主義的心情(ヘイト・スピーチ)となって広がっている。
9.「保守・右翼」は、国粋主義者のはずである。自国の伝統を他のどの国よりもすぐれたものと考え、それを守り広げようとするはずである。「愛国保守」がアイデンティティーである。日本では、そこに天皇畏敬の念が重なり合う。これを否定する思想は、断じて許さない。だが現実は、アメリカへの追随、情けないほどの対米従属を余儀なくされている。本来なら、遣米右翼のはずが、親米右翼でいなければならない。今はアメリカに頼らざるを得ないと自分に言い聞かせたとしても、親米保守右翼は、「日本はどこか貶められている」と感じ、心のバランスは、崩れていく。安倍晋三元首相が言う「美しい国日本」そして「戦後レジームからの脱却」とは、対米従属はやむを得ないとしても、アメリカの力を借りながら、せめて「アジアの盟主」としての地位を死守する、という決意不明だろう。その心のバランスを取ってくれるのが「象徴」であったとしても、「天皇」なのである。
by asyagi-df-2014
| 2025-09-25 19:36
| 本等からのもの
|
Comments(0)

