沖縄-辺野古-高江から-2024年3月26日
2024年 03月 26日
「『継承が止まってしまう』と危機感」と「私たちの世代が伝えないと。そのためには学ばないと」、との間を繋ぐ意思。
「1944年3月22日に、大本営が日本軍の第32軍を創設し、沖縄に配備されることが決まった。部隊配備により、陣地構築や軍への食糧供出が日常になるなど、県民生活は軍事一色に染められていく。あれから80年。政府は再び南西諸島の防衛力強化を唱え、沖縄に自衛隊配備を進めている。二度と惨禍を繰り返さないために沖縄戦をどう継承していくか。80年前の記憶が刻まれた場所を体験者と若者がたどり、平和を考える。」、と沖縄タイムスが特集を始める。
歴史の継承とは、「総延長約1キロ、深い所で地下30メートルに達する壕には約千人の将兵と沖縄の軍属や学徒、『慰安婦』とみられる女性たちがいたという。」(沖縄タイムス)といったことが正しく伝わること。
大事なことは、「よく物事を考えないと、ばかなところへ走っていってしまう。人間というのは、気が付いたら大変なことになってしまっているということかね」(沖縄タイムス)、との歴史的重み。
沖縄で起こっていること、その現場の事実をきちんと確認すること。
何よりも、自らが沖縄から受け取るものを明確にするために。それは、捉え直しとして。
2024年度も、改めて琉球新報と沖縄タイムスの記事を、「沖縄-辺野古-高江-から」を、報告します。
(1)沖縄タイムス-〈第32軍ができた日(上)〉鉄血勤皇隊に駆り出された16歳は遺書を書いた 今伝えたいこと【あの日 あの時 戦場で~若者とたどる沖縄戦80年】(社会部・當銘悠)-2024年3月22日 21:00
1.1944年3月22日に、大本営が日本軍の第32軍を創設し、沖縄に配備されることが決まった。部隊配備により、陣地構築や軍への食糧供出が日常になるなど、県民生活は軍事一色に染められていく。あれから80年。政府は再び南西諸島の防衛力強化を唱え、沖縄に自衛隊配備を進めている。二度と惨禍を繰り返さないために沖縄戦をどう継承していくか。80年前の記憶が刻まれた場所を体験者と若者がたどり、平和を考える。
2.国道507号は、全国の国道で一番大きい番号をその名に持つ。沖縄本島南部を縦断する新たなアクセス道路で、交通量も多い。
3.この道路の工事に向けた南風原町津嘉山の発掘調査で2006年、日本軍の司令部壕跡が姿を現した。「チカシモー」「高津嘉山」と呼ばれる二つの丘陵の地下に張り巡らされた壕の総延長は2キロといわれる。
4.80年前の1944年3月22日、第32軍が創設された。戦況が悪化した7月、米軍の沖縄上陸が確実になったと見て全島の要塞化を進めた。最初の司令部壕の場所に選ばれたのが津嘉山だった。構築は同年夏ごろから始まった。
5.当時15歳だった與座章健さん(95)=南風原町=は、司令部壕から数百メートルの場所に住んでいた。「つかざんトンネル」や片側2車線の真っすぐな道を指さし、「この辺は全く変わったよ」と語る。
6.傍らには沖縄戦を学び、発信している沖縄大学4年の本村杏珠さん(22)。與座さんは過去の記憶をたぐり、話し始めた。
(授業なくなり、陣地構築に)
1.県立第一中学校(現在の首里高校)在学中は、自宅から首里の校舎まで片道5キロの坂の多い道のりを歩いて通った。授業はなくなり、校庭のわら人形を木銃で突くような日々。陣地構築にも駆り出された。
2.父や母、きょうだいと一緒に生活していたが、兄は軍に取られ、6歳下の妹は宮崎に疎開した。「寒くてひもじい思いをしていないかね、とお母さんはいつも心配していた」と振り返る。
3.南風原の各集落には日本軍の部隊が駐屯するようになり、民家にも兵隊が宿泊。與座さんの家にも10人くらいの兵隊が宿泊していたという。
(入隊へ、沈黙する父から承諾印)
1.米軍の上陸が迫った1945年3月下旬。沖縄師範学校や旧制中学に通っていた少年たちが「鉄血勤皇隊」として駆り出された。
2.16歳になっていた與座さんも入隊のため、親に承諾印をもらうよう指示された。「父親がどんな気持ちだったかは分からないが、助役をしていた立場上か、一言も言わず印鑑を押した」と振り返る。
3.「家族でごちそうを食べてその晩、『これが家族との別れになるんだなあ』と思い、涙を拭きながら、とぼとぼ首里に戻ったのが忘れられんさ」
4.與座さんの話に耳を傾けながら、当時の様子を想像した本村さんは「家族がバラバラになり、戦争が迫りくる状況は恐ろしかったと思う」とつぶやいた。
5.南風原町津嘉山の司令部壕を後にした第32軍は、1945年3月下旬には首里城地下の新しい司令部壕を本格的に運用し始めたと考えられている。総延長約1キロ、深い所で地下30メートルに達する壕には約千人の将兵と沖縄の軍属や学徒、「慰安婦」とみられる女性たちがいたという。
6.16歳で鉄血勤皇隊に動員された與座さんは、第32軍の壕を掘る作業に駆り出された。現在の「一中健児之塔」(那覇市首里金城町)付近にある一中の壕で寝泊まりしながら、作業に奔走。壕内の土をトロッコに載せて外に運び出していた。
7.「外でトロッコの土をスコップで放り出すから時間がかかって危険であるわけ。飛行機は飛んでくるし、艦砲射撃はくるし」
8.かつての作業場所とみられる県立芸術大学首里金城キャンパス付近を訪れた與座さんは、路線バスや車が行き交う周囲の景色を見渡しながら当時の様子を振り返った。
9.2人1組で精いっぱいトロッコを押すものの、芋と米が混ざった1日1回ほどの食事しか口にできていない状態では力が出ない。トロッコが動かないと、そばを通る兵隊に「お前たち、元気出せ」と尻を蹴飛ばされた。
(遺書を書きながら「短い一生だった」)
1.配属将校から言われるままに遺書を書いたことも覚えている。壕の中で紙とペンを渡された。内容はほとんど記憶にないが「恐らく命を落とす。短い一生だったなあと思った」と話す。
2.與座さんの話を真剣な表情で聞いていた本村さんは「もっと青春を楽しみたかっただろうし、やり残したこともたくさんあったのかなと思う。若者が遺書を書かされる時代は、沖縄戦が最後であってほしい」と願った。
3.與座さんは1945年4月中旬、部隊の食糧不足を理由に除隊を命じられる。家族と南部を逃げ回る中、米軍の捕虜になり、旧玉城村(現南城市)百名の収容所で生活した。戦後は琉球政府金融検査庁に勤め、ドルから円の通貨交換の前に秘密裏に実施した「通貨確認」などに携わった。
(一中生200人以上が犠牲に)
1.戦争で命を落とした一中生は200人以上に上り、同級生も多く犠牲になった。與座さんは退職後、沖縄戦に動員された21校の元学徒らでつくる「元全学徒の会」の共同代表として、沖縄戦を語り継ぐ活動にも取り組んだ。
2.年齢を重ね、最近は証言を求められることも少なくなっていたが、「戦争体験者が亡くなっていく中で、語るのは自分の使命」と話す。本村さんから「與座さんにとって平和とは何ですか」と質問され、一息入れてこう語った。
3.「よく物事を考えないと、ばかなところへ走っていってしまう。人間というのは、気が付いたら大変なことになってしまっているということかね」
(社会部・當銘悠)
(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1329282 参照 2024年3月25日)
(2)沖縄タイムス-〈第32軍ができた日(下)〉SNSやガイドで沖縄戦を発信 メディア界に飛び込む22歳「平和を紡ぎたい思い、若者も同じ」【あの日 あの時 戦場で~若者とたどる沖縄戦80年】(社会部・吉田伸)(社会部・當銘悠)-2024年3月25日 5:15
沖縄タイムスは、表題を次のように報じた。
1.第32軍司令部壕など、沖縄戦について交流サイト(SNS)で発信している沖縄大学4年の本村杏珠さん(22)。幼い頃から沖縄戦の記事をよく読んでいた。大学生になって同世代と話すうち、戦争を知らない人が多いと感じた。
2.「私たちの世代が伝えないと。そのためには学ばないと」。16歳の時に鉄血勤皇隊に動員された與座章健さん(95)と、沖縄戦の記憶が刻まれた場所を歩いた。首里城地下で第32軍の壕掘り作業した話を聞き漏らすまいと耳を傾けた。
3.話は戦争体験だけではない。「長距離選手の先輩と津嘉山から一緒に一中まで通ったよ」「首里から帰るとき、暗くなるとおばけが怖かったさ」。今の子どもたちと何ら変わらない日常。「そんな大切な暮らしが、戦争で全てが壊れてしまったんだ」と痛感した。
4.「あのばかな戦争を、人間は何で防げなかったのか。今、人間は少しは利口になったのか、まだ足りないのか」。自問自答するような與座さんの言葉が胸を突く。「私も考えながら生きていきます」としか返せなかった。
(「継承が止まってしまう」と危機感)
1.本村さんが沖縄戦の発信を始めたきっかけは大学1年生の時のオンラインイベント。県外の同世代と話すと、日本軍の組織的戦闘が終わったとされる6月23日の「慰霊の日」について、詳しく知る人は皆無だった。県内の同世代にも聞いたが、慰霊の日は多くが知っていたものの背景まで理解している人は少なかった。
2.コロナ禍で体験者の話を聞く機会が減り、「沖縄戦の継承が止まってしまう」と危機感を強めた。コロナの規制が解けると、積極的に講演会や戦跡巡りに参加し、学んだことを発信。昨年は第32軍壕のフィールドワークの様子を、イラストや写真を交えてユーチューブで配信した。
3.学生の傍ら、モデルとして県内で活動してきた。沖縄戦についてインスタグラムに投稿すると、モデル活動の写真や動画より視聴者数は減ってしまう一方で、「いいね」を意味するハートの数は増えた。
4.ガイドとして友人や地元の高校生、修学旅行生に戦跡を案内することもあった。若い人は興味がないわけではない。「平和を紡ぎたい思いは若い世代も一緒。学びたいけど、何から始めていいか分からない人が多いのでは」と考える。
5.4月からは県内のテレビ局に就職する。沖縄メディアの一員として沖縄戦体験者の言葉を伝え、次代に継承することも仕事になる。
6.約80年前、首里城地下で壕を掘った與座さんの言葉を思い出す。「負の遺産である32軍壕を保存公開し、多くの人に知ってほしい。與座さんのように語り継いできた方に寄り添って伝えていきたい」と誓った。(社会部・當銘悠)
7.「鉄の暴風」と呼ばれる凄惨(せいさん)な地上戦で県民の4人に1人が犠牲になった沖縄。しかし1943年半ばまでは、日本の陸海軍にとって軍事戦略上さほど重要な拠点ではなかった。敗色が強まり、軍が場当たり的な対応を繰り返す中で、県民は戦火に追いやられていった。(社会部・吉田伸、當銘悠)
(当初は重要視されなかった沖縄)
1.1941年12月8日、日本軍が英領マレー半島に上陸、続いて米ハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が開戦した。南太平洋のソロモン諸島などで米軍の反撃が激しくなった43年9月、天皇や政府、軍の代表らは御前会議で「絶対国防圏」を定めた。本土防衛と戦争継続のため必要不可欠とされた領域で、防衛線は千島列島からサイパンなどのマリアナ諸島、西部ニューギニア、ビルマ(現ミャンマー)などを結んだ。その防衛線を後方から支援する航空中継基地として焦点が当たったのが南西諸島だった。
(340人で創設)
1.大本営は1944年3月22日、南西諸島(北は屋久島南のトカラ列島から南は波照間島、東は南北大東島から西は与那国島)に第32軍を配備することを決定した。中城湾臨時要塞(ようさい)、海軍小禄飛行場(現那覇空港)など軍事拠点が限られていた沖縄に、16カ所の飛行場を急造して活用する計画「十号作戦準備要綱」を立案した。
2.3月29日に渡辺正夫軍司令官と北川潔水参謀長が那覇に到着する。司令部は那覇市安里の「養蚕試験場」に置き、4月1日午前0時に始動した。当初の軍司令部人員は約340人だった。
3.5月ごろから飛行場建設部隊が沖縄へ。「不沈空母」化のための建設ラッシュに住民や小学生まで動員された。沖縄の日常は一変していくが、地上戦はまだ検討されていなかった。
(サイパン陥落で軍増強、地上戦へ生活一変)
1.1944年7月、第32軍は大きく作戦変更を求められる。サイパンが陥落し、「絶対国防圏」が崩壊したのだ。大本営は米軍の沖縄本島上陸は免れないと判断。地上戦を想定し「捷号(しょうごう)作戦」を新たに立てた。
2.「満州」(現在の中国東北部)にいた第9師団(武部隊)を第32軍に編入。8月には牛島満中将が司令官に就任する。
3.同じく満州から第24師団(山部隊)、中国北部から第62師団(石部隊)が編入され、海軍の沖縄方面根拠地隊も加わり、第32軍は増強されていく。各部隊は地域の学校や村屋(現公民館)を接収。民家などに兵隊が宿泊するようになり、県民生活は軍事一色と化した。
4.米軍の上陸地点は沖縄本島の中南部と想定された。県内各地に分散した部隊は陣地構築を進めた。司令部は交通の要衝、南風原村(現南風原町)津嘉山に移すことを決めた。「チカシモー」「高津嘉山」と呼ばれる二つの丘陵地を掘り込んで、総延長2キロの軍司令部壕が構築された。
(「10・10空襲」に衝撃、首里へ)
1.1944年10月、沖縄や奄美は無差別爆撃「10・10空襲」に見舞われた。
2.那覇をはじめ各地の飛行場や港が壊滅的被害を受けた。想定以上の米軍の砲爆撃力に、津嘉山司令部壕の強度はもたないとの懸念が高まる。展望がきかない地理的条件も踏まえ再考した第32軍首脳は1944年12月、司令部の中枢を首里に移し、津嘉山には経理部などを残した。首里城地下約30メートルに、沖縄師範学校の学生や地域住民らを動員して総延長約1キロの壕を掘る計画に切り替えた。
3.同じく12月、日本軍はフィリピンのレイテ島決戦に備え、台湾の部隊を一部移動させ、その穴埋めとして第32軍の主要部隊の第9師団を台湾へ移す。戦力が大幅に落ちた第32軍は部隊配置や戦闘方法を変更。年明けの1945年1月、大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決める。本土決戦の時間稼ぎをする持久作戦にかじを切っていった。沖縄は米軍の侵攻前に本土の「捨て石」と化した。
4.第32軍司令部は構築途中の首里城地下壕に移った。五つの坑道があり、牛島司令官や長勇参謀長のほか、総勢千人余の将兵と県出身の軍属・学徒隊、「慰安婦」が雑居した。
5.1945年4月1日、米軍が上陸。5月に入ると浦添村(現浦添市)の前田高地など中部戦線の主力部隊が壊滅状態となり、司令部は22日、南部への撤退を決める。27日、首里を脱した。撤退前に壕の主要部分と坑口を破壊した。
6.【参考文献】:沖縄県教育庁文化財課史料編集班「沖縄県史各論編第6巻沖縄戦」(沖縄県教育委員会)▽沖縄県教育庁文化財課史料編集班「沖縄県史資料編23沖縄戦日本軍史料沖縄戦6」(沖縄県教育委員会)▽沖縄県文化振興会史料編集室「沖縄県史各論編第5巻近代」(沖縄県教育委員会)▽沖縄県立埋蔵文化財センター「沖縄県の戦争遺跡」(沖縄県立埋蔵文化財センター)▽南風原町史編集委員会「南風原町史第9巻戦争編本編 戦世の南風原-語る のこす つなぐ」(南風原町)▽吉浜忍「南風原町沖縄戦戦災調査4津嘉山が語る沖縄戦」(南風原町教育委員会)▽林博史「沖縄戦と民衆」(大月書店)▽防衛庁防衛研修所戦史部「戦史叢書沖縄方面陸軍作戦」(朝雲新聞社)▽八原博通「沖縄決戦 高級参謀の手記」(中央公論新社)
(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1330423 参照 2024年3月25日)
(3)沖縄タイムス-「うつるから話しかけないで」クラスの友だちが急によそよそしく… ある障害を抱えた女性が開いた「注文に時間がかかるカフェ」(共同通信=西村曜、吉田梨乃)(共同通信)-2024年3月24日 11:30
沖縄タイムスは、表題を次のように報じた。
1.小学2年の秋にあった授業参観まで、自分がみんなと違うなんて思ってもいなかった。けれど、その日を境に、クラスで一番仲の良かった友達の男の子が急によそよそしくなった。
2.彼は私の机まで来て言った。「しゃべり方がうつるかもしれないから、話さない方がいいってお母さんに言われた」
3.当時は言われた意味が分からなかった。でも今思えば授業参観の日、彼のお母さんは私より先に私の障害に気付いたんだ。
4.話はあっという間に学校中に広がった。「話すとうつる」は「触ったらうつる」、「近づいたらうつる」と変わっていった。小学6年の時には、廊下を歩くと、どんなに人がいっぱいいても、私の前だけ人波がかき分けられ道ができた。
5.いつしか、話すこと自体を避けるようになっていた。「人と違う」とされた話し方に気付かれたくなかったからだ。私にとって吃音(きつおん)という障害は当時まだ隠したいものだった。
(まぶしく見えた帰り道のカフェ)
1.奥村安莉沙さん(32)はカフェ店員に憧れていた19歳の時も、吃音を隠したい気持ちは変わっていなかった。飲み物を作って、カウンター越しにお客さんと会話する―。心の中ではそんなアルバイトを夢見たが、会話を避けていた自分には無理だと諦めていた。
2.実際に働いたのは、地元・相模原市の町工場。車の部品を組み立てる工程に会話は不要だった。同世代のバイトはいない。工場からの帰り道、働きたかったカフェの前を通ると、店内の照明がきらきらして見えた。
3.大学在学時の就職活動では、面接で自分の名字を言う段階でつまずいた。「お、お、お、お…」。持ち時間の2分が過ぎる。前に座っていた面接官が気まずそうな顔で「…次の方どうぞ」と遮った。
4.結局、200社以上に落ちた。吃音について、面接官が知っていたのは、採用してくれた訪問介護会社1社だけだった。
(「こんなカフェを日本で作る」)
1.2016年、以前から興味があった語学留学のため、会社を辞めオーストラリアに渡った。24歳の時のことだ。語学学校の先生が勧めてきたのが現地のカフェでのアルバイト。障害がある人や移民などハンディのある人に社会経験を積んでほしいという考えのオーナーだった。
2.そこで、奥村さんは言語障害のある40代ぐらいのオーストラリア人の男性スタッフと出会った。言葉は一切話せず、コミュニケーション手段は身ぶりと手ぶりだけ。奥村さんより症状は重そうだった。
3.でも驚いた。彼が生き生きと楽しそうに接客していたからだ。しかもお客さんも彼の言語障害を気にするそぶりがなかった。
4.「きちんと話せないと無理」。固定観念ががらがらと音を立てて崩れていくような気がした。そして決めた。「こんな雰囲気のカフェを私も日本で作る」
(専業化のきっかけになった「吃音あるある」)
1.帰国後の2021年8月、「注文に時間がかかるカフェ」を始めた。交流サイト(SNS)で同じ吃音を持つ仲間を募り、一緒に店員をやった。カフェの名前は、店員がオーダーを聞く時、言葉に詰まるから。お客さんは友人に頼んだ。
2.症状が出ても生き生きと接客する店員と、それを温かく見守るお客さん。オーストラリアで見た光景を再現した。
3.楽しくて、これなら仕事が休みの日に、年1回ぐらいで続けたいなと思った。その時は、まさか仕事を辞めて活動に専念するなんて思ってもいなかった。
4.きっかけは3回目の企画で、店員役として新潟から参加した男子高校生の言葉だ。「これまで同じ吃音のある人に出会ったことがなくて、一人で悩みを抱え込んでいた。みんなで接客ができて良かった」
5.奥村さんは以前から吃音は外見では分からないから、隠して生きる人も多いと感じていた。「当事者同士で悩みを共有できず、孤立することがある。東京や大阪など都市部には当事者の団体があるが、地方には少ない」とも指摘する。
6.彼の話は「吃音あるある」の一つだった。「だったら私が出向けばいいや」。思い切って勤務先を退職した。
(沈黙はあるけど、気にしないで)
1.活動も今年で3年目。これまで全国30カ所以上で、100人を超す当事者が店員を務めてくれた。体験後、表情が明るくなったり、外出が怖くなくなったりしたという反応を聞くのが一番うれしいことだ。実際にカフェで働き始めた人もいる。
2.カフェに参加した教員志望の大学生から「きちんと話せないんなら教員は諦めた方がいいと教授から言われてしまった」との相談を受けた。いてもたってもいられず、昨年末には「号令に時間がかかる教室」も始めた。教員志望の学生の当事者に模擬授業を通じて自信をつけてもらい、生徒役の一般参加者に症状を広く知ってもらいたいと思った。
3.自身がカフェのアルバイトを諦めたように、吃音が原因でやりたい仕事に就けないという思いを、他の当事者の人たちにはもうしてほしくなかった。吃音があっても時間をかければできることは多いと思う。だからこそ、訴えたい。
4.「沈黙は起きてしまうけれど、周りの人はあんまり気にしないでほしいな」
5.奥村さんの願いだ。
(編集後記)
1.記者の私が奥村さんを取材する中で、気になる言葉があった。それは「注文に時間がかかるカフェ」の参加希望者の中で、時々急きょ参加をキャンセルする人が出るという話だ。
2.奥村さんが、そのうちの一人の女性に理由を聞くと打ち明けられたという。「家族から『参加して吃音だということが周囲に分かれば差別されるから行くな』と言われた」
3.奥村さんは「吃音は長らく恥ずかしいものとされ、当事者はいかに隠すかを考えてきた。そのため症状に対する一般の理解が広がっていないのでは」と懸念している。
4.なぜこうした状況にあるのか。専門医で自身も当事者である旭川荘南愛媛病院(愛媛県)の岡部健一院長に問題の背景を聞いた。
5.「吃音に関する正確な情報を持つ人は少なく、無知と誤解が偏見につながっている」。岡部院長は「吃音相談外来」を開設し、長年患者の相談に乗ってきた経験からそう話す。
6.岡部院長によると、日本人の100人に1人は吃音があるといい、大勢の前で話すと症状が出る人、リラックスしていると出る人など、症状が出るタイミングはさまざまだ。原因は遺伝や周囲の環境とされており、近くにいても症状がうつることは決してない。
7.その上で岡部院長は打ち明ける。「症状を知られたくない人もいて、カミングアウトしづらい社会の雰囲気があるのが現状だ」
8.奥村さんが言っていた「吃音があっても時間をかければできることは多い。周りの人はあんまり気にしないで」という言葉。そこから始めてみようと思った。(共同通信=西村曜、吉田梨乃)(共同通信)
(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1330308 参照 2024年3月25日)
(4)沖縄タイムス-米国籍で自称警察官 ライフル銃の実弾所持の疑いで逮捕 那覇空港-2024年3月25日 7:10
沖縄タイムスは、表題を次のように報じた。
1.豊見城署は23日、那覇空港でライフル銃の実弾を2個所持したとして、火薬類取締法違反の疑いで、米国籍で自称警察官の容疑者(33)を現行犯逮捕した。
2.署によると、「自分のものだが、リュックサックの中に入っていたのは分からなかった」と話しているという。
3.逮捕容疑は23日午後6時5分ごろ、那覇空港内で実弾を所持した疑い。署によると、保安検査で見つかった。旅行で沖縄を訪れており、那覇空港を出発するところだった。
(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1330561 参照 2024年3月25日)
(5)沖縄タイムス-ガザ南部の2病院も再襲撃 イスラエル「テロに利用」(共同通信)-2024年3月25日 7:53
沖縄タイムスは、表題を次のように報じた。
1.2月、ガザ地区南部ハンユニス上空を飛ぶイスラエル軍のヘリコプター(AP=共同)
2月、ガザ地区南部ハンユニス上空を飛ぶイスラエル軍のヘリコプター(AP=共同)
【エルサレム共同】パレスチナ赤新月社は24日、イスラエル軍がパレスチナ自治区ガザ南部ハンユニスにある二つの病院を包囲し、襲撃したと発表した。軍は声明でイスラム組織ハマスの戦闘員が「民間施設を利用しテロ活動をしている」と正当化した。軍は北部ガザ市にある地区最大のシファ病院を再襲撃するなど、今月に入って医療施設への攻撃を強めている。
2.赤新月社によると襲撃されたのはアルアマル病院とナセル病院。いずれも2月に攻撃を受けていた。軍はアルアマル病院の入り口を封鎖し、院内にいる人々に服を脱いで外に出るよう求めたほか、発煙弾を投げ込んで脅したという。赤新月社のスタッフらが死傷した。(共同通信)
(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1330678 参照 2024年3月25日)
(6)沖縄タイムス-軟弱地盤改良の鍵握るSCP工法 工期短縮へ3船団15隻を同時運用 作業にリスクも(政経部・山城響、大野亨恭)-2024年3月25日 5:50-[検証 辺野古軟弱地盤]連載第1部(7)
沖縄タイムスは、表題を次のように報じた。
1.名護市辺野古の新基地建設で大浦湾の軟弱地盤改良の鍵を握る「サンドコンパクションパイル(SCP)工法」は、現場海域でどのように進んでいくのか。
2.沖縄防衛局の計画では、砂くいを打ち込んで軟弱地盤を強化するサンドコンパクション船を中心とした5隻からなる船団をC1護岸の3カ所に配置しながら改良する。
3.C1護岸は長さ約340メートル。直下には軟弱地盤が海面下90メートルに達するとされる「B27」地点がある。船団ごとの間隔は50メートルだ。砂くいに使用する土砂を供給する全長70メートルのガットバージが航行可能な幅35メートルに、サンドコンパクション船のアンカーの影響を避けるための15メートルを加えた。三つの船団を同時運用することで、約4年の工期短縮につながると試算している。
4.少なくとも計15隻が、約340メートル幅の護岸区域に密集することになる。「船舶を数多く投入することになるが、安全性や作業性については全く問題ないという理解でいいか」。第3回技術検討会で、ある委員が確認した。防衛局側は、船舶が行き交う航路幅が設定された「港湾の施設の技術上の基準・同解説」に基づいていると説明。「安全上問題がないと考えている」との認識を示している。
5.C1護岸の工事概要をまとめた特記仕様書によると、55メートル級のサンドコンパクション船3隻は、大浦湾の深さに対応するため、75メートル級への改造を想定している。砂くいを海底深くまで打ち込むため、船上に突き出た赤と白の円柱状の「リーダー」部分が改造によって長くなる。
6.韓国で2012年に実施された軟弱地盤の改良工事では、作業効率を上げようと、リーダーを3本から5本に造設した。そのためか、強風注意報が出た工事日に、リーダーが折れる大事故が起きた。
7.リーダーが巨大化するほど、不安定性は増す。大手ゼネコンで勤務経験のある技術者は、長さが伸びれば、それだけ風を受ける面積が広くなり、風の影響を受けやすくなると指摘。加えて、「リーダーは立体なので、作業中の回転モーメントの違いはさらに大きくなる」と懸念を示す。
8.「折損だけでなく、台船が転覆する危険性が高まる。それを避けるために、(風の強い日は作業できないなど)施工条件はより厳しくなる」と推測する。一方で、技術検討会では韓国の先行事例などを踏まえたリスクは示されていない。
9.また、特記仕様書にはサンドコンパクション船の改造に必要な費用について「見積書の提出を求め、妥当性を確認した上で計上する」とある。元土木技術者で新基地建設に反対する沖縄平和市民連絡会の北上田毅氏は「税金で改造でき、受注業者にとってこれほどおいしい話はない」と問題視する。(政経部・山城響、大野亨恭)
(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1330543 参照 2024年3月25日)
(7)琉球新報-県警事務職員として初の指掌紋鑑定員 鑑識課の上原ゆいさん「妥協しない」 障がいも強みに(高辻浩之)-2024年03月25日 05:00
琉球新報は、表題を次のように報じた。
1.事件現場に残された証拠収集や解析などを行う県警鑑識課で職務に励む、うるま市出身の上原ゆいさん(36)は県警事務職員としては初めて、指紋などの照合を行う指掌紋鑑定員として働いている。「毎日が楽しく、やりがいがある」と充実した表情だ。生まれながらに聴覚に障がいがあるが、捜査員の縁の下の力持ちとなり、事件の早期解決につながるよう日々、まい進している。
2.「これまでさまざまな人にお世話になってきた。自分も誰かの役に立つ仕事がしたい」と公務員を志望し、2016年に県警の警察官ではなく事務職員として採用された。前部署ではデータ入力を主な業務としてきたが約3年前から鑑識課に所属、警察庁の法科学研修所で研修を受け、指掌紋鑑定員として現場から収集した指紋等の照合を行う。出勤後は朝から終業時間まで指紋を見比べる地道な作業が続く。難解なものなら照合まで3日間を擁する時もあり、集中力と根気が求められる職場だ。
3.相手の口の動きや表情などから会話の内容を読み取る「口話」を使い、同僚らとコミュニケーションを取る。現場の状況を確認するため、捜査員と電話でのやりとりが必要になる時もある。上原さんにとって対面と違い電話の対応は難しい。それでも、同僚らが進んで代役を担うことで快活なコミュニケーションを図っている。
4.「上司や先輩の熱心な指導があり、職場環境は恵まれている。周囲の音の判別ができず気配を感じない分、集中して証拠品と向き合うことができる。集中し過ぎて終業のチャイムに気が付かず、合図をもらうまで仕事に没入してしまう」。自身の不利な点も強みに変える前向きさだ。
5.鑑識課の金城世希夫次席は「まじめで辛抱強く、適任」と上原さんに太鼓判を押す。上原さんの働きぶりが影響し、部署内では周囲の人に対する自然な気配りや心遣いが広がっているという。
6.「最近では実家の家具に付いた指紋をじっくり眺めてしまうという職業病に悩まされている」と笑う上原さん。先輩たちから受け継いだ経験と知識を、いつかは自分が後輩に伝えられるよう指掌紋鑑定官へのキャリアアップを目標に掲げる。
7.「一番重要なのは正確さ、そして速さ。現場で捜査員が苦労している分、妥協はしたくない。少しでも被害に遭った人たちの役に立ちたい」と話し、きょうもルーペをのぞき込む。(高辻浩之)
(https://ryukyushimpo.jp/news/national/entry-2926653.html 参照 2024年3月25日)
(8)琉球新報-「デニー知事を支える」 4月6日に新基地反対「県民大集会」 名護の瀬嵩の浜で3千人規模 沖縄-2024年03月25日 05:00
琉球新報は、表題を次のように報じた。
1.辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議は「民意・自治・尊厳を守り抜く4・6県民大集会」を4月6日午前11時から、沖縄県名護市の瀬嵩の浜で開く。代執行訴訟で最高裁が県の上告受理申し立てを受け付けなかったことを踏まえ、引き続き新基地建設に反対の姿勢を示す玉城デニー知事を支える集会と位置付ける。3千人規模の参加を想定し、玉城知事にも出席を打診している。
2.同会議の共同代表らが3月21日に会見した。大城紀夫共同代表は、上告を受理しなかった最高裁の姿勢を批判した上で「裁判は手段の一つ。(不当なことがあれば)地域の力ではね返すことができる」と強調した。金城徹共同代表は「4月6日を新たな闘いのスターとしたい」と話した。
3.当日は午前8時半発で那覇市の県庁前県民広場から大型バス2台が出る。名護市の瀬嵩区墓地周辺、瀬嵩公民館、わんさか大浦パーク、三原公民館に自家用車用駐車場もある。大雨でない限り決行する。
4.問い合わせは辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議、電話098(894)6407。
(https://ryukyushimpo.jp/news/national/entry-2926575.html 参照 2024年3月25日)
(9)沖縄タイムス-障がい者の希望に合わせ困りごと対応する「合理的配慮」の義務 民間事業者にも拡大 4月1日から改正差別解消法-2024年3月25日 9:00
沖縄タイムスは、表題を次のように報じた。
1.障害者の希望に合わせて困りごとに対応する「合理的配慮」が4月1日から企業など民間事業者に義務付けられる。改正障害者差別解消法が施行される。これまで国や自治体に義務付けていた配慮を民間へ拡大し、障害者が参加しやすい社会の実現を促す。車いす利用者の移動をサポートしたり、聴覚障害者と筆談でやりとりしたりすることが想定される。希望に応じきれない場合にどう解決するかが課題となる。
2.事業者側は過重な負担にならない範囲で対応し、「特別扱いはできない」と一律に拒むことは認められず「建設的対話」で合意点を探ることが求められる。例えば、スーパーを訪れた視覚障害者から売り場の案内を求められた場合、混んでいて人手が足りず案内できないと拒むのではなく、話し合った上で、希望の商品を聞き取って渡したり、案内できる時間帯を伝えたりといった代替策が必要となる。
3.国が策定した対応指針では、障害の特性に応じて(1)高い所にある商品や資料を取って渡す(2)段差を携帯スロープで解消する(3)手話や点字、イラスト、写真を用いてやりとりする-などを挙げた。
4.義務違反の具体例も提示。試験会場で筆記が困難な人からデジタル機器を使いたいと求められたのに、前例がないとの理由で全く対応しない場合は違反になるとした。
5.合理的配慮の範囲は「本来の業務に付随するものに限られる」と指摘。電車やバスなど公共交通の事業者が、業務と無関係に公道での移動介助や、食料品の購入などを依頼された場合は断っても違反にならないとした。
6.ただ、違反かどうかの線引きは曖昧で「過重な負担」の範囲も企業規模など個別の状況に応じて異なるため、企業が戸惑う要因となっている。
7.話し合いで解決できない事例も増える見通しだ。こうした場合、自治体や関係省庁が事実確認をして調整に入る。内閣府は障害者や事業者が相談できる「つなぐ窓口」を開設し、自治体や関係省庁に取り次ぐ。
8.[ことば]:障害者差別解消法 障害の有無を問わず、分け隔てなく暮らせる社会の実現を目指し、2016年4月に施行された。障害を理由とした不当な差別を禁止した上で、障害者の申し出に応じ、負担が重過ぎない範囲で生活上の困りごとや障壁を取り除く「合理的配慮」を国や自治体に義務付けている。民間事業者はこれまで努力義務だった。義務付けを民間に拡大する改正法が21年に成立し今年4月に施行される。違反しても直接的な罰則はないが、国などは必要に応じて事業者に報告を求め、指導や勧告ができる。
(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1330588 参照 2024年3月25日)
by asyagi-df-2014
| 2024-03-26 06:44
| 沖縄から
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