日本の司法の醜態。(4)

 東京地裁は2019年9月19日。2011年3月11日の京電力福島第一原発事故をめぐり、旧経営陣3人が業務上過失致死傷罪で強制起訴された裁判で、勝俣恒久・元会長、武黒一郎・元副社長、武藤栄・元副社長の3被告にいずれも無罪の判決を言い渡した。
 さて、この判決をどのように捉えるのか。
 今回は、いつも参考にしている朝日新聞、毎日新聞、信濃毎日新聞、琉球新報の各社説で考える。
 なお、各紙の社説を、1.判決内容批判、2.原子力行政の在り方(国・民間レベル)や刑事裁判の在り方、3.強制起訴裁判の意味、の三点に区分してみた。


1.判決内容批判

(朝日新聞)
(1)腑に落ちない判決だ。2011年の福島第一原発事故をめぐり、東京電力の旧経営陣3人が強制起訴された裁判で、東京地裁は全員に無罪を言い渡した。判決は、事故を防ぐにはあらかじめ原発の運転を停止するしかなかったという前提に立ち、そうしなければならないだけの確かさをもって、津波の襲来を予測できたかを検討した。そして、国の機関が02年に公表した「三陸から房総沖のどこでも巨大地震が起こり得る」との見解(長期評価)を、根拠を欠き、信頼性に疑問があると指摘。原発は社会生活や経済活動を支える重要なインフラであり、旧経営陣に運転を止める義務はなかったと結論づけた。
(2)事故の被災者が国や東電に損害賠償を求めた訴訟では、この長期評価に基づき、「津波は予測できた」との判断が積み重ねられてきた。非常用電源を高台に移転させるなど、簡易な対策を講じていれば事故を防げたとした判決も複数ある。民事裁判に比べて刑事裁判では厳格な立証が求められるとはいえ、あまりの乖離に驚く。未曽有の大災害を引き起こしながら、しかるべき立場にあった者が誰一人として責任を問われない。人々が納得できるだけの説明が尽くされたか、大いに疑問が残る裁判となった。

(毎日新聞)
(1)刑事裁判のハードルの高さを示した判決だった。
(2)判決は、3人が部下からの報告や会議で巨大津波が第1原発を襲う可能性があることを認識していたと認めた。一方で、こうした報告などは根拠に欠け、事故回避に向けて原発の運転を停止する義務を負うほどではなかったと指摘した。
(3)刑事裁判で有罪になれば、身柄を拘束されることもある。そのため、民事裁判よりも厳格な事実認定が求められる。切迫感をもって被害を予見できたのでなければ、過失罪の認定には至らない。そこが判断の分かれ目となった。
(4)問題になった報告は、政府の地震調査研究推進本部が2002年に公表した地震予測の「長期評価」に関するものだ。「福島沖でも巨大津波が起こりうる」という内容だった。判決は、この長期評価そのものの信頼性も否定した。
(5)しかし、この判決により、事故に対する責任がそもそも東電になかったということにはならない。事故の背景について、政府の事故調査委員会は政府や東電に「複合的な問題点があった」と指摘した。国会事故調などは「人災」と判断した。今回の判決でそれがくつがえるわけではない。

(信濃毎日新聞)
(1)事故を防ぐ義務を怠った過失はなかったという判断である。原発事故は住民や国土に多大な影響を与える。判決はこの特殊性をどこまで考慮したのか疑問だ。原発を運用する責任を軽視しているのではないか。
(2)裁判の争点は主に二つだった。事故を予見できたか、被害の発生を防げたか―である。判決はいずれも否定した。
(3)争われたのは、国が2002年に公表した地震予測「長期評価」を基に、東電が得た試算の信頼性だ。原発の敷地を最大15・7メートルの津波が襲うという内容である。旧経営陣は報告を受けていたのに対策を講じなかった。検察官役の指定弁護士は「長期評価は専門家が十分議論して公表したもので信頼できる」と主張。弁護側は「具体的な根拠が示されておらず、信頼性がなかった」と反論していた。指定弁護士が論告で強調したのは「情報収集義務」だ。3人には安全を確保する義務と責任があったのに、報告を受けた後も積極的に情報を集めず、的確な判断をしなかったという指摘である。原発事故が甚大な被害をもたらすことは、チェルノブイリ原発事故などで明白だった。指定弁護士の論理構成は納得できる。
(4)判決は、長期評価は「十分な根拠があったとは言い難い」とし、情報収集義務も「担当部署から上がってくる情報に基づいて判断すればいい状況にあった」と退けた。従来の枠組みで過失責任を判断したといえる。避難者らが国や東電に損害賠償を求めた民事訴訟では、東電は津波を予見できたと判断し、電源の高台移転などの対策を取らなかった過失を認めた判決も出ている。

(琉球新報)
(1)2011年3月に起きた東京電力福島第1原発事故を巡り業務上過失致死傷罪で強制起訴された東京電力の旧経営陣3被告に、東京地裁が無罪の判決を言い渡した。事故回避のために原発を止める義務を課すほどの大津波の予見可能性はなかったと判示した。
(2)避難者が集団で国や東電に損害賠償を求めた民事訴訟では、津波を予見でき事故を回避できたとする判決が多い。刑事裁判では過失立証のハードルが高い。そうだとしても、未曽有の被害をもたらした原発事故で誰も刑事責任を負わないのは納得し難い。
(3)今回の判決は、自然災害に対し、事故が絶対に起きないレベルの安全性が求められたわけではない―と指摘している。政府の主張がうそ偽りだったことを改めて浮かび上がらせた。「あらゆる可能性を考慮して必要な措置を義務付けられれば、法令上は認められた運転が不可能になる」とも判決は断じた。事故当時、「絶対安全」を確保しつつ原発を稼働させることなどできなかったわけだ。ここでも政府の欺瞞が浮き彫りになる。
(4)起訴状によると、3被告は大津波を予測できたのに対策を怠り、原発事故によって長時間の搬送、待機を伴う避難を余儀なくさせるなどして、44人を死亡させたとされる。電源設備を高台に移し浸水しないように適切な対策を講じていれば、事故は回避できたはずだ。遺族、被害者の無念はいかばかりだろうか。市民感覚から懸け離れた東京地裁の判決である。


2.原子力行政の在り方(国・民間レベル)や刑事裁判の在り方
(朝日新聞)
(1)過去の話、あるいは東電特有の体質として片付けられるものではない。
(2)最近、火山噴火やテロへの備えなど、原発の安全性をめぐって新たな課題が次々と浮上している。だが電力各社は、手当てするには膨大な時間と金がかかるとして、対策の先延ばしを認めるよう原子力規制委員会に働きかけている。福島事故からいったい何を学んだのだろう。
(3)確率は低くても、起こり得る危機に対する鋭敏さをどう培うか。規制はいかにあるべきか。災害列島というべき日本で、原発に未来はあるのか――。裁判が突きつけた重い課題に、社会全体で向き合わねばならない。

(毎日新聞)
(1)1986年のチェルノブイリ原発事故の後、政府や東電をはじめとする電力業界は「日本では事故は起きない」と繰り返した。それでも、事故は起きた。電力会社が自然災害を含めたあらゆる事態に備え、安全を最大限に追求するのは当然だ。原発事故がいったん起きてしまうと、人々は故郷を奪われる。福島では事故などにより、今も県内外で4万人以上が避難生活を送っている。犠牲があまりに大きすぎる。
(2)旧経営陣は無罪判決を受けたものの、東電は組織として信頼回復のための努力を続ける必要がある。

(信濃毎日新聞)
(1)刑法は個人に処罰を科す。今回の判決は、組織の決定に対する個人の責任を問うことの難しさを改めて浮き彫りにした。企業や法人に対する組織罰の導入を検討しなければならない。

(琉球新報)
(1)国は「絶対安全」と強調し、各地で原発の設置を推進した。万全の用意があって初めてそう言える。現実には、「絶対安全」だから最高水準の対策は不要という、倒錯した理屈がまかり通った。原子力政策を所管する経済産業省、原発を運転する東電など、産官学から成る原子力ムラは本来、原発事故に対して連帯して責任を負わなければならない立場にある。規制等を担う国と東電は「共犯」関係にあったと言えよう。
(2)「事故が起きないように、また起こったとしても人体や環境に悪影響をおよぼさないよう、何重にも対策が取られています」「大きな津波が遠くからおそってきたとしても、発電所の機能がそこなわれないよう設計しています」。文部科学省と経産省が10年に発行した小学生・中学生向けのエネルギー副読本「わくわく原子力ランド」「チャレンジ!原子力ワールド」に、このような記述がある。政府は、教育現場を含め、さまざまな機会をとらえて「安全神話」を植え付けようとした。


3.強制起訴裁判の意味
(朝日新聞)
(1)公開の法廷で審理が行われた意義は大きい。政府や国会などの調査では言及されなかった重要な事実が、いくつも明らかになったからだ。
(2)東電内部では長期評価を踏まえて防潮堤建設などの検討が進み、最高経営幹部が出席する会議でも津波対策が話題になった。だが勝俣恒久元会長は公判で、「関心を持たなかった」と述べた。他の2人の被告も「記憶にない」を繰り返し、権限を互いに押しつけ合って、自らの無罪を主張した。原発の運転がこのような組織と人物に委ねられ、監督すべき政府もそれで良しとしてきた。その帰結があの事故だった。

(信濃毎日新聞)
(1)今回の裁判は、東京地検の不起訴処分を受け、検察審査会で強制起訴が決まった。原発事業者に高い注意義務を求める市民感覚の表れといえるだろう。深刻な被害を出した事故の刑事責任をだれも負わないことは、ほかの原発事業者や経営陣に甘えも生みかねない。


 確かに、今回の記事報道を目にした時、まず思い浮かべるのは、「未曽有の大災害を引き起こしながら、しかるべき立場にあった者が誰一人として責任を問われない。人々が納得できるだけの説明が尽くされたか、大いに疑問が残る」(朝日新聞)、ということである。
裁判の判決そのものについては、「事故の被災者が国や東電に損害賠償を求めた訴訟では、この長期評価に基づき、「津波は予測できた」との判断が積み重ねられてきた。非常用電源を高台に移転させるなど、簡易な対策を講じていれば事故を防げたとした判決も複数ある。民事裁判に比べて刑事裁判では厳格な立証が求められるとはいえ、あまりの乖離に驚く。」、との朝日新聞の指摘は、今回の裁判の判決内容そのもの限界を示している。 だから、「福島事故からいったい何を学んだのだろう。」(朝日新聞)、との疑問を投げかけざるを得ない。「3.11」をどのように生かして行くのかかが、根本的問題であるにもかかわらずである。
まさしく、「原発を運用する責任を軽視しているのではないか。」(毎日新聞)とこれまでと同様に営利主義でご都合主義のやり方を踏襲しているものでしかない。
 やはり、今回の判決内容によっても、「事故の背景について、政府の事故調査委員会は政府や東電に『複合的な問題点があった』と指摘した。国会事故調などは『人災』と判断した。今回の判決でそれがくつがえるわけではない。」(毎日新聞)、と押さえる必要がある。



by asyagi-df-2014 | 2019-10-03 10:06 | 書くことから-原発 | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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