ハンセン病家族訴訟で、国の責任認める初の判決。(1)

「裁判官は初めて聞かれる話ばかりだったかもしれないが、懸命に聞いておられた。ぜひ素直に受け止めてほしい」(朝日新聞)との原告の声に、裁判所はどのように立ち向かうことができたのか。


 毎日新聞は2019年6月28日、ハンセン病家族訴訟について次のように報じた。


(1)約90年に及んだハンセン病患者への隔離政策により家族も深刻な差別を受けたとして、元患者家族561人が、国に1人当たり550万円の損害賠償と謝罪を求めた集団訴訟の判決で、熊本地裁は28日、国の責任を認め、原告541人に対し、1人当たり33万~110万円(総額3億7675万円)を支払うよう命じた。元患者の家族による集団訴訟の判決は初めて。
ハンセン病を巡る主な経緯
(2)遠藤浩太郎裁判長(佐藤道恵裁判長代読)は「隔離政策により、家族が国民から差別を受ける一種の社会構造を形成し、差別被害を発生させた。家族間の交流を阻み、家族関係の形成も阻害させた。原告らは人格形成に必要な最低限度の社会生活を喪失した」と指摘した。
(3)2001年の同地裁判決は隔離政策を違憲とし、元患者への国の賠償責任を認定。国は控訴を断念して元患者に謝罪し補償や生活支援を講じたが、家族は救済対象から外された。今回の裁判では隔離政策が生んだ偏見や差別について、家族に対しても国の責任を問えるかどうかが最大の争点だった。
(4)原告は16年2月にまず59人が提訴し、追加提訴を経て561人に拡大。居住地は北海道から沖縄まで全国に及び、年齢も20~90代と幅広いが、差別被害を恐れて大半は匿名で裁判に加わった。原告一人一人は、学校でのいじめや患者の家族であることを理由とした離婚、地域社会からの排除など異なる差別被害を受けてきた。そのため、裁判で家族側は、さまざまな場面で差別される立場に置かれたことが患者家族共通の被害と主張。国は隔離政策によって原因を作ったのに、現在まで謝罪や被害回復の責任を怠り、違法だと訴えた。
(5)一方、国は「ハンセン病を巡る差別は隔離政策以前からあった」と指摘。隔離対象ではなかった家族に対しては直接的に偏見や差別を作り出したとも言えず、国は法的責任を負わないとして請求棄却を求めていた。
【清水晃平】


 また、判決が出される前に、朝日新聞は2019年6月28日、「いじめ激化『冬の池に落とされた』ハンセン病家族の苦悩」「『くされの子』と呼ばれ ハンセン病訴訟の原告団長語る」、とハンセン病家族の苦悩を伝えた。
この報告を肝に銘じて見つめる。


(1)元ハンセン病患者の家族が国に損害賠償を求めた訴訟の判決が28日、熊本地裁で言い渡される。患者を隔離した国の政策は、残された家族にも差別や偏見、家族関係の断絶をもたらした。原告を訪ね、聞いた。
(2)どすの子――。
(3)ある日を境に、同級生にそう呼ばれるようになった。クラスの席替えの時、1人だけ同じ机を使わされた。「同じ物を使いたくない」「うつる」と言われた。東北地方で暮らす50代男性の小学校時代の様子だ。「どす」は、ハンセン病患者の蔑称。男性の父がハンセン病療養所にいることに、同級生の一人が気付いたのがきっかけだった。男性が1歳の頃、父は療養所に入っていた。
(4)いじめはエスカレートした。ランドセルを隠され、真冬の氷が張った池に突き落とされた。修学旅行先では一人、押し入れで寝た。運動会では地域の人の輪から離れ、母とふたりで弁当を広げた。地域でものけ者にされ、祭りや子供会の行事に呼ばれなかった。いじめは中学3年まで続いた。
(5)2017年11月に父は亡くなった。いまわの際に男性は言葉の一つもかけられなかった。わだかまりがあったのかもしれない。「父は自分以上に差別に苦しんだはずなのに」。悔いが残った。それでも男性は今も、飲み会の席などで家族の話題に立ち入らない。自分に問い返されると困るからだ。「子や孫には、自分のような思いをさせたくない」と、元患者の家族が国に賠償を求めたハンセン病家族訴訟に加わったが、実名は明かしていない。裁判を支援してくれている妻も公表には反対した。「どんな影響が降りかかるかわからないから」。原告の561人のうち、実名公表はわずか数人にとどまる。
(6)国は裁判で「隔離政策の対象は患者本人」と主張し、責任を否定している。男性は言う。「金じゃない。国から誠意のある言葉がほしい」


(1)フロントガラス越しにその顔が見えた瞬間、反射的に顔を背ける自分がいた。大学を出た後、東京で暮らしていた30代の女性が、地元の沖縄に戻った3年前。街ですれ違ったその車に乗っていたのは、幼い頃に仲良しだった女の子の母親だった。「もう、うちに来ないで」。25年前に言われた言葉が、耳の奥にこびりついている。近所の少年も急に態度を変えて「ばい菌、近寄るな」。姉は少年から小便までかけられた。少年の家族は今も実家から見える所に住む。その庭に人影が見えると女性は外出をためらう。何を言われるかわからず、今も怖い。
(2)幼い頃の経験が、70代の母と関係があると知ったのは、近年のことだ。母は12歳で本島にあるハンセン病療養所、沖縄愛楽園に入った。進学をめざして本土へ渡り、長島愛生園(岡山県)にあった全国の療養所で唯一の高校へ進んだ。結婚して沖縄に戻った後、母の過去を知る人が近所に引っ越してきた。ある日、そこで事件が起きた。
(3)「らい、らい、らい~」。その人は、かつてハンセン病を指した言葉に拍子をつけ、家の2階ベランダで大声で歌った。母の病歴は近所に知れ渡った。母は子に何も語らず、しばしば愛楽園へ連れていった。「ママの友達がたくさんいる所」と思っていた女性がハンセン病という言葉を知り、母は患者だったのでは、と思い始めたのは中学に入る頃だ。しかし、母親は昔話をしても青年時代のことははぐらかしてばかりだった。立ち入ってはいけないことと思い、聞けなかった。
(4)16年の早春。母から電話で、唐突に家族訴訟への参加を切り出された。提訴の約1カ月前だった。いつもの母と違い、用件だけ言うと電話は切れた。母と一緒に那覇市で弁護士の聞き取りを受け、初めて母から病歴を聞いた。その経験を「墓場まで持っていきなさい」と亡き祖母に言われたことも。「偏見や差別に負けず、はねのける力をつけてほしい」。そう我が子に望む気持ちも。30年越しに告白した母は、泣いていた。女性も泣いた。
(5)女性は、きょうだいと共に原告になった。だが、そのことを、身近な人には伝えていない。きょうだいの伴侶や親族も知らない。差別と偏見の根深さを感じているためだ。「この裁判が、次の世代に偏見を引き継がないための教育や政策につながってほしい」


(1)都内に住む原告女性(67)は今月下旬、JR上野駅を訪れた。25歳の頃、北関東の街から列車で来た母と16年ぶりに再会した場所だ。あの日を思い起こした。
(2)年の瀬だった。駅前のアメヤ横丁で一緒に正月用の買い物をした。それ以外の記憶がない。「母という実感がなかった。自分を『見捨てた人』ですから」。女性が7歳だった1959年、父は東北地方のハンセン病療養所へ入った。母と自分、妹が残された。「お父さんは出稼ぎに行った」と聞かされた。しばらくして、知らないおじさんが家にいるようになった。幼心に、それは誰にも言ってはいけないことだと考えた。ある朝、ふらりと父が帰ってきた。おじさんは家の中にいる。「大変なことになる」と思う半面、うれしさもあった。これでおじさんはいなくなると思った。しばらくして両親は離婚。妹は母に、女性は父方の伯父の家に引き取られた。
(3)伯父家族との暮らしに不自由はなかったが、気兼ねがあった。夏休みに一人で汽車を乗り継ぎ、4時間余りかけて父のいる療養所へ遊びに行った。そこがどんな場所で、父がなぜそこにいるのかは誰も教えてくれない。でも、父には心から甘えられた。周りの人たちもかわいがってくれた。中学生になった頃、療養所でハンセン病を指す当時の言葉「らい」を耳にし、辞書を引いた。疑問が解けた気がした。
(4)父からこんな話も聞いた。療養所を訪ねた母が、突然、まだ幼かった自分と妹を置いて駆けだした。驚いた父が後を追い、引き留めたという。幼子を抱え、夫のいない暮らし。世間からの偏見。母も苦しんでいたのかもしれない。ただ、母と自分をかすかにつないでいたものが、ぷつりと切れた気がした。
(5)上野での再会は、女性の結婚後、母から連絡があったのがきっかけだった。それ以来、会ったのは5回もない。妹とも疎遠だ。夫はハンセン病を理解し、療養所の父にも会いに行ってくれた。だが、九州に住む夫の親族には伝えていない。どう思われるだろうかと恐れる。家族以外には父の病歴を隠してきた。「そんな病気です。いまだに」。裁判の先に社会がどう変わるのかを見つめている。
     

(1)この世に生を受けたのは偶然だった。
(2)沖縄県の女性(60)の母は旧優生保護法の下、ハンセン病療養所で堕胎の注射を打たれた。それが効かず、女性は生まれた。
(3)10年ほど前、元患者の証言集で父の文章を読み、事実を知った。両親がそんな話をしたことはなかった。
(4)1歳で親戚の元へ預けられた。「クンキャヌファ」(方言で「ハンセン病の子」)と呼ばれ、近所の子に石を投げつけられた。一番嫌だったのは「汚いものを見るような」大人たちの目つき。親戚の家でも、風邪をひいた時に「あっちへ行って吐け」と言われ、「母ちゃん」と泣きながら吐いた。学校で仲良くなった友達も、両親の病を知ると離れていった。「なぜこんなつらい思いをしないといけないのか」。親を疎ましくさえ思ったこともある。
(5)小学3年の頃、両親と一緒に暮らせるようになったが、親にどう甘えたらいいのか分からなかった。本音で話せない。悲しませたくなくて、いじめられたことも言えなかった。
(6)母は「目立つようなことは控えなさい」と言って、時に厳しい態度も見せた。今は、女性が差別を受けないようにするためだったと感じる。親の愛情がわかってきた。それでもまだ、女性の子どもの頃の生活や、親戚のことで聞けないことも多い。
(7)原告になったのは、父から訴訟の話を聞いたのがきっかけだった。背中を押したのは、療養所で堕胎された子どもたちの存在。ガラス瓶の中でホルマリン漬けにされていた。「私も生きられなかったかもしれない。自分一人の問題ではない」。声を上げられなかった命の分も、知られていない家族の被害を訴えなければ。国に誤った政策の責任を取ってほしい――。
(8)提訴後、他の原告の人が家族の病歴を理由に離婚されたと知った。「理解していると言う人も、自分の子が元患者の子と結婚するとしたら反対するのでは。国の政策でハンセン病への恐怖心が刷り込まれている」。裁判の当事者であることに不安もある。そんな社会の意識を訴訟で変えられるかどうかは、わからない。「いじめや差別、偏見はなくならないかもしれない。それでも、差別や偏見をなくす努力はしていくべきではないでしょうか」。そう確信している。(一條優太、田中久稔)


(1)林さんは大村市で生まれた。昭和初めの不況で父が事業に失敗し、幼少期に福岡市に移ったが、生活は苦しいままだった。父がアイスや牛のホルモンを売り歩いた記憶が残っている。
(2)林さんが小学校低学年のころ、父の体に異変が起きた。手が内側に湾曲し、汗が出なくなって暑がるようになった。ちょっとした傷口もなかなか治らない。「くされの子」と呼ばれると、林さんは相手を必死で追いかけた。
(3)1937年夏、父は鹿児島県鹿屋市の国立療養所星塚敬愛園に入所した。家を出る際、「おまえも見送らんのか」と3回呼びかけられた。でも、林さんは泣きそうでトイレにいた。たまらなく飛び出し、外で父の背中に呼びかけたが、父は振り向かなかった。「おそらく泣いていたのでしょう」。しばらくして家に突然、消毒車が来た。黒長靴の数人の男が無言のまま上がり込むと、家中に薬をまいた。「近所の家の中からこちらを見ている光景を今でも覚えています」。学校では「お前の近くに寄れん」の大合唱が待っていた。
(4)林さんは小学校の教師になると、同僚の女性に恋をした。手をつなぎ、電車まで見送った。しかし、ある日、職場で目も合わせてくれなくなった。父のことを聞きに人が訪ねてきたと後で耳にした。「その女性も、ハンセン病に対する社会の認識の過ちの中にいただけなのだと思います」。
(5)転機は、被差別部落問題との出会いだった。被差別地区に入ると、文字が読めない人が多いことに改めて驚き、識字運動を始めた。心が揺さぶられたのは、部落解放運動の原点、水平社宣言の一節だった。《吾々(われわれ)がエタである事を誇り得る時が来た》。なぜ父を隠し続けるのか。自分の中の差別意識と向き合った。
(6)林さんは1974年、ハンセン病元患者の息子であることを著書で公表した。父は約10年前に亡くなっていた。「差別は論理と感性の問題がある。他人事として話が分かっても、問題が自分に接近したとき、気持ちが動かなくなるんです」。
(7)訴訟の原告のほとんどは匿名で、いまも立場を公にすることをためらう現状がある。林さんは「私は公務員で、その後も大学で身分を保障されたから言えた。そうでなければ言えなかったかもしれない」と話す。まだ、ハンセン病問題への社会の理解は不十分だ。林さんは提訴以降、反響の少なさを気にかけつつ、判決に期待を寄せる。「裁判官は初めて聞かれる話ばかりだったかもしれないが、懸命に聞いておられた。ぜひ素直に受け止めてほしい」


※〈ハンセン病家族訴訟〉-「朝日」
 患者への国の誤った隔離政策で差別や偏見を受け、家族離散を強いられたとして、全国各地の元患者の家族が国に1人当たり550万円の損害賠償と謝罪広告の掲載を求めた集団訴訟。2016年2~3月、計568人が熊本地裁に提訴した。7人が訴えを取り下げるなどし、判決の対象は561人となる。
 原告側は、らい予防法(1996年廃止)に基づく隔離政策の推進で元患者だけでなく家族への差別や偏見も生じ、いじめを受けたり、離婚されたりするなど不利益を被ったと主張。家族関係の形成も阻害されたと訴える。国側は「隔離政策の対象は患者本人」と責任を否定。時効により損害賠償請求権が消滅したとも主張している。
 元患者を巡っては、熊本地裁が01年、特効薬の存在が確認されるなどして遅くとも60年以降の隔離政策の必要性は失われていたとする判決を出し、国が控訴を断念して確定した。国は元患者に謝罪し、1人あたり最大1400万円の一時金を支給することで原告側と合意したが、家族に対する補償などはなかった。


※ハンセン病と訴訟をめぐる主な経緯-「朝日」
1907年 法律「癩(らい)予防ニ関スル件」制定
  29年 無らい県運動の開始
  31年 「癩予防法」制定
  53年 「らい予防法」制定
  96年 らい予防法廃止
  98年 元患者が国に損害賠償を求めて熊本地裁に提訴
2001年 熊本地裁が国に賠償を命令、国は控訴断念。元患者に補償金を支払う「ハン      セン病補償法」成立
  09年 「ハンセン病問題基本法」施行
  16年 ハンセン病元患者の家族が熊本地裁に提訴


 やはり、ここでもまた、被害者側に、「国は裁判で『隔離政策の対象は患者本人』と主張し、責任を否定している。男性は言う。『金じゃない。国から誠意のある言葉がほしい』」(「朝日」)、と言わせるのが、日本という国の人権の実態。
何度でも、この証言に立ち返ろう。
 「理解していると言う人も、自分の子が元患者の子と結婚するとしたら反対するのでは。『国の政策でハンセン病への恐怖心が刷り込まれている』。裁判の当事者であることに不安もある。そんな社会の意識を訴訟で変えられるかどうかは、わからない。『いじめや差別、偏見はなくならないかもしれない。それでも、差別や偏見をなくす努力はしていくべきではないでしょうか』」。そう確信している。」



by asyagi-df-2014 | 2019-06-29 06:40 | ハンセン病 | Comments(0)

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