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沖縄-辺野古-沖縄 高江から-2019年6月23日

「指で眉間から鼻の頭をなぞり、高い鼻を表現するサインは『米兵』、歯を指せば『白人』、髪を指すのは『黒人』−。無音の中、母の身ぶりを頼りに沖縄戦下の南部一帯を逃げた。聴覚障がいのある友寄(旧姓・上原)美代子さん(85)=沖縄県浦添市=は今年5月、初めて戦争体験について証言した。『ずっと若い世代に戦争のことを伝えたかった。でも話すすべがなかった』。74年間抱え込んだ記憶を、信頼する聴覚障がい者の知人と手話通訳士の力を借りていま語る。」、と沖縄タイムスは、語り始める。
2019年6月23日、沖縄慰霊の日。
 私たちにできることは、この声群れを魂に刻むこと。
「死体と死体の間で足が抜けなかった。骨も浮いていた。このままこの死体のように死ぬと思った」(沖縄タイムス 友寄(旧姓・上原)美代子さん)
「それでも82歳で亡くなった大好きな母の年齢を追い越した今、若い世代にこう伝えたい。『父を殺した戦争を恨んでいる。戦争はたくさんの人の命を奪う』」(沖縄タイムス 友寄(旧姓・上原)美代子さん)
「戦後73年。また一つ、平成という時代が終わる。薄れゆく戦争の記憶をつなぐ『慰霊の日』はこの先も特別な日であってほしいと願う。」(琉球新報デジタル編集担当 大城周子)
「一緒に立っておって吹っ飛ぶも者もいればけがをしないで済む者もいる。そういう中で偶然生き残った者として、どんな生き方をするのか死ぬまで問われ続ける問題です。二度と戦世を引き起こしてはならんという立場に立たされている者がね、慰霊やそれに関わるような問題についていささかもないがしろすることは許されないですよ」(琉球新報 古堅実吉さん)
「兄さんが私の懐に抱かれて島に帰りたいと言うんです」(沖縄タイムス 知念良子さん)
「小さな誓い、想(おも)いですが、沖縄、日本、世界の方々と戦争ではなく、平和な交流を広げるために何かできたらと、考える種をもらったんだろうな。それが歌。歌はどこでも歌える。言葉も越える。自由。あの頃の私からメッセージが届いたんだ、と思いました」(沖縄タイムス 玉城千春さん)


 沖縄で起こっていること、その現場の事実をきちんと確認すること。
 2019年も、琉球新報と沖縄タイムスの記事を、「沖縄-辺野古-高江-から」を、報告します。
 2019年6月23日、沖縄-辺野古-高江の今を、沖縄タイムス、琉球新報は次のように表した。


(1)琉球新報-沖縄、きょう慰霊の日 糸満市摩文仁で戦没者追悼式-2019年6月23日 05:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「沖縄県は23日、『慰霊の日』を迎えた。おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦となり、多くの尊い命や文化遺産を奪った沖縄戦から74年。激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では、午前11時50分から県と県議会主催の沖縄全戦没者追悼式が開かれる。20万人以上の戦没者に思いを寄せ、恒久平和を願う。」
②「追悼式では玉城デニー知事が平和宣言をするほか、糸満市立兼城小6年山内玲奈さん(11)が自作の詩『本当の幸せ』を朗読する。安倍晋三首相や関係閣僚、衆参両院議長も出席する。」
③「犠牲者の名前を刻んだ『平和の礎』はことし新たに42人が追加され、総数は24万1566人となっている。22日も雨が降りしきる中、花を手向けたり、手を合わせたりする遺族の姿が見られた。」
④「幼い姉を亡くした会社員の酒屋常男さん(65)=浦添市=は孫と訪れ、姉・フサ子さんの名前の前で手を合わせた。『礎があるだけで姉の思いが残っている気がする。こうして前に立つと伝わってくるものがある』と感慨深そうな表情を見せた。子や孫とともに訪れた野原菊枝さん(82)=那覇市=は祖父・西銘宜保さん、父・宜盛さんの刻銘板に水を掛け、冥福を祈った。毎年訪れているという野原さんは、手を合わせながら戦時中の様子を孫に伝えた。」


(2)琉球新報-慰霊の日ってどんな日? 沖縄県民なら誰もが知っているメモリアルデーには紆余曲折の歴史があった-2018年6月23日 05:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「6月23日。全国で沖縄だけこの日は公休日(土日と重なった場合は振り替えなし)と定められ、国の機関以外の役所や学校が休みになる。」。『慰霊の日』。おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた沖縄で、組織的な戦闘が終わった日とされ、犠牲になった人たちに祈りをささげる日だ。 毎年、沖縄では県主催の慰霊祭が開かれ、正午になるとあちこちで一斉に黙とうが行われる。甲子園予選を兼ねた高校野球の試合も中断され、球児たちが脱帽して目を閉じる光景は風物詩のようなものになっている。すっかり県民に浸透したメモリアルデーだが、一方で、制定された由来や変遷を知る人は案外少ない。平成最後の年、慰霊の日の『そもそも』をまとめた。」
②「 慰霊の日が公休日として定められたのは、沖縄が米統治下にあった1961年(昭和36年)にさかのぼる。『沖縄戦没者慰霊奉賛会』(現在の沖縄県平和祈念財団)が、『戦没者慰霊の日』を制定するよう琉球政府へ陳情した。陳情では6月23日を慰霊の日にするよう提案している。その根拠は、沖縄に配備された日本軍の牛島満司令官と長勇(ちょう・いさむ)参謀長が自決した日で、『軍司令部の機能が崩壊および全軍の組織ある防衛戦闘終止で玉砕の日に相当する』とある。その後、琉球政府立法院で「住民の祝祭日に関する立法」が審議される過程で、23日ではなく22日を慰霊の日と決定。他の祝祭日と一緒に公布された。」
③「1961年に公休日として制定された『住民の祝祭日』。当初、8月15日の『平和の日』もあったが慰霊の日と趣旨が同じなどとして削除された。」
④「なぜ軍人が自決した日を選んだのか?陳情書で23日だったのがどうして22日に変わったのか?当時の会議録を調べてもはっきりとした理由は探せなかった。だが、議論の痕跡を見ることはできた。『(米軍資料を訳した)琉球新報の記事によると6月22日午前4時前後に牛島中将が切腹して終了したことになっております』。『いつやるかということは相当の異論があるわけです。占領をアメリカが宣言した日をやるのか、あるいは事実上日本軍が崩壊した日をやるのか。あるいは軍司令官が死んでしまったその日をやるのか』。『アメリカが占領したというよりも日本側が完全にザ・エンドしたという日を求めるのが妥当かと思います。住民はそのときには勝利者の側ではないのです。日本の軍隊が消滅した日を探してその日とすべきじゃないですか』。とはいえ、『琉球政府創立記念日』や『国際親善の日』、『平和の日』などが活発に論議されたのに対し、『慰霊の日』は案外すんなりと話が進んだようだ。」
⑤「当時立法院議員だった古堅実吉さん(88)はこう振り返る。『最高指揮者の司令官の自決とともに全てが収まったという意味合いは最初から持っていなかった。しかし組織的な戦闘が終了したということについて異存はなかったように思う。司令官が死んだのが22日、だから慰霊の日を22日にしたほうがいいというつなぎはすんなりいった』。こうして、慰霊の日は『6・22』として産声を上げた。1962年、初の慰霊の日で行われた『平和大行進』。遺族らが那覇から本島南部までを歩いた。」
⑥「 慰霊の日が『6・23』になったのは、最初の制定から4年後のこと。『住民の祝祭日に関する立法』の改正により、慰霊の日の変更について再調査が行われた。その際、参考人として呼ばれた沖縄観光協会事務局長の山城善三氏がこう発言している。『戦争史を研究しておりますが、それによるとちょっと一日のずれがあるのではないかというふうな感じをいたすのであります』。 自決した日について、沖縄で編集されたほとんどの書籍が22日午前4時半とあるのに対し、大本営や東京で出版されたものは23日午前4時半とあると説明。さらに、沖縄戦時の高級参謀だった八原博通(やはら・ひろみち)氏に直接聞き取りし、はっきり23日だと答えたという。山城氏の証言を元に、『慰霊の日は23日とする』と定めた条例が公布された。」
⑦「古堅さんは『22日だ23日だということにかんかんがくがく論議するということはなく、【ああそうか、ならそのように変えたらいいじゃないか】というふうにして23日に変わった。自信を持ってというよりは、関係した軍部の上層部が内情を知っていてそう言うなら、という程度だった』と話す。」
⑧「沖縄が日本復帰した1972年。日本の法律が適用されるため、慰霊の日を含む沖縄独自の休日が法的には休日から除外されることになった。しかし条例により県職員は継続して慰霊の日を休みとして認められ、市町村などもそれにならった。さらに74年には県が『【慰霊の日】を定める条例』を公布し、『6・23』は県民の休日として広く浸透していくことになった。72年の慰霊の日を巡る動きは、当時の新聞などを見てもとりたてて大きな話題にはなっていない。当時、県の職員だった大城貴代子さん(78)は『アメリカと日本では制度が違う。日本に復帰することで身分や賃金の保証はどうなるのかや、物価の変動の方が関心が高かったのかもしれない』と回想する。山口県出身の大城さんは青年団の交流で沖縄出身の夫と知り合い、結婚を機に沖縄へ移住した。最初に慰霊の日を知ったのは、沖縄に渡ってすぐのころ。夫や青年団のメンバーと戦後初の慰霊塔でもある『魂魄の塔』の慰霊祭に参加したときだ。沖縄戦で多くの犠牲者が出たことは知っていたが、土地の人たちの悲しみを肌で感じた。『家族や友人といった身近な人がどこで亡くなったか分からないから毎年来ているという人もいた。沖縄戦を忘れないために休日にして、皆が喪に服すというのはすごいことだと思いましたよ』」
⑨「 時代は進み、1988年。慰霊の日を休みにするのはやめようという動きが出た。「日本人は働き過ぎ」と国際的批判を浴びていた日本は、この年、週休2日制の推進のため国の機関に土曜閉庁を導入した。同時に、地方自治法を改正。自治体の休日も国の機関に合わせることを義務付けたため、地方独自の休日が認められないことになった。それは『慰霊の日』が休日でなくなることを意味し、大きな関心をよんだ。平成元年の89年6月、県議会へ『慰霊の日』の休日廃止を盛り込んだ条例案が提出されると、反発のうねりはみるみる大きくなっていく。『法定休日がなくなれば一家そろって慰霊祭や平和行進に参加できなくなる』『地方の独自性を否定し、地方の文化や生活を踏みにじるものだ』。当時の紙面にも強い批判の言葉が並ぶ。県職員労働組合、遺族連合会、県教職員組合といった各団体、学者や法曹関係者などが次々と抗議の声を上げ、知念高校では休日の賛否を問うアンケートが行われるなどまさに全県的な運動に波及していった。」
⑩「当時の西銘順治知事はこうした反発に対して、かたくなに廃止を主張した。議員たちは県民感情に配慮し、与野党を超えて『休日存続』で足並みをそろえた。結局、議決されないまま持ち越され続け、90年には県議会史上初めて、県知事提案に対して『廃案』とする事態に。西銘知事は『撤回する気はない』と対抗、議論は平行線をたどった。」
⑪「局面ががらっと変わったのは、90年6月23日。内閣総理大臣・海部俊樹氏が歴代首相として初めて県主催の『沖縄全戦没者追悼式』に参列した。その場の会見で首相は『従来通り県職員の休日として存続できるよう検討する』と明言。予期せぬタイミングで国側が〝特別措置〟の道を示したことで、西銘知事も一気に『休日存続』へ方向転換、間もなく自治大臣への要請に赴いた。」
⑫「大田昌秀知事に代わった91年、国会で『特別な歴史的、社会的意義を有し、住民がこぞって記念することが定着している日』であれば休日にできるとした地方自治法の改正が可決された。県も条例を改正し、それまで通り慰霊の日は県職員の休日となり、市町村や学校現場も続いた。当時の琉球新報はこの流れを『県民世論の逆転サヨナラ勝ち』と表現した。県庁の各職場でも、組合が労働者へ共闘を呼び掛けるオルグ活動が盛んに行われていたといい、大城さんは『存続が決まったときは特別にお祝いしたような記憶はないけれど、【よかったね】【頑張ったかいがあったね】と喜んだのは覚えている』と懐かしむ。」
⑬「【慰霊の日】の根拠となった牛島司令官と長参謀長が自決した日については、今でも議論されている。86年に見つかった米軍の資料では、複数の捕虜の証言により自決は6月22日午前3時40分だと明記されている。2人の遺体を確認し、糸満市摩文仁に建てられた墓標を書いたという人も22日だと断言している。そもそも軍人が自決した日を〝沖縄戦が終結した〟とすることに疑問を投げ掛ける人も多い。牛島司令官は自決前に各部隊へ『最後まで敢闘せよ』との言葉を残して徹底抗戦を指示。このため、彼らの自決後も軍人や住民に多くの犠牲者が出ることになったからだ。」
⑭日本軍と連合国側双方の代表が沖縄で降伏文書にサインした9月7日を慰霊の日とすべきだと主張する人もいる。89年に公休日廃止の議論が沸いたとき、教育現場では『慰霊の日で休校になっても遊んでいては意味がない。単なる普通の休みととらえている子が多いのではないか』『平和教育は慰霊の日だけの問題ではなく日常生活の中で常に語り合わなければならない』といった懸念の声があった。」
⑮「これは30年たった今も変わらない課題だ。」
⑯「慰霊の日の制定に立ち会った古堅さんは、14~19歳の少年が集められた『鉄血勤皇隊』として沖縄戦に動員された後、捕虜になってハワイへ送られた経験を持つ。毎年、慰霊の日には摩文仁にある沖縄師範学校の慰霊塔『沖縄師範健児之塔』での慰霊祭へ足を運び、犠牲になった旧友たちを思う。『一緒に立っておって吹っ飛ぶも者もいればけがをしないで済む者もいる。そういう中で偶然生き残った者として、どんな生き方をするのか死ぬまで問われ続ける問題です。二度と戦世を引き起こしてはならんという立場に立たされている者がね、慰霊やそれに関わるような問題についていささかもないがしろすることは許されないですよ』」
⑰「戦後73年。また一つ、平成という時代が終わる。薄れゆく戦争の記憶をつなぐ『慰霊の日』はこの先も特別な日であってほしいと願う。」
(デジタル編集担当 大城周子)


(3)琉球新報-「震える少女」は私 米軍撮影の沖縄戦記録映像 81歳の女性が名乗り 「初めて見る米兵怖かった」-2019年6月23日 06:00


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「米兵を前に身を震わせる少女―。米軍が撮影した沖縄戦の記録映像に収められ、沖縄戦を取り上げた映像作品でもたびたび映し出される少女について、浦崎(旧姓・賀数)末子さん(81)=那覇市小禄=が22日までに『これは私だ』と名乗り出た。当時、高嶺村大里(現在の糸満市大里)にいたという浦崎さんは本紙の取材に『初めて見るアメリカーの青い目が怖かった』と証言。終戦以来74年ぶりに米兵と遭遇した場所を訪れ、家族4人を失った過酷な戦争体験を振り返った。」
②「NPO法人『沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会』で当時、編集にかかわった元琉球大学非常勤講師の山内榮さんは『映像は沖縄戦の末期に豊見城市以南で撮影されたものとみられる。証言の内容からも撮影された本人である可能性は非常に高い』と指摘した。」
③「浦崎さんの証言によると、撮影されたのは1945年6月下旬ごろ。高嶺村大里の農道付近で2人組の米兵にカメラを向けられた。当時7歳だった浦崎さんは、15歳上の姉と避難先を探している途中だった。その直前まで母と姉、弟と4人で同村与座(糸満市与座)にあった実家の墓を避難壕代わりに身を隠していた。だが、米軍の攻撃が激しさを増す中、同様に墓に避難していた隣家が砲弾を受けたのを知り、一家で墓を出た。母は弟と、浦崎さんは姉と共に、二手に分かれて行動を取ることに。米兵と遭遇したのは、母と弟の安否を気に掛けて様子を見に戻った姉を待ち、1人でいる時だったという。」
④「当時の心境について浦崎さんは『アメリカーを見るのは初めてだった。青い目が怖くてぶるぶる震えていた』と振り返った。」
 (安里洋輔)


(4)沖縄タイムス-無音の戦火、母のサインだけが頼り 耳の聞こえぬ少女が見た“地獄” 初めて語る沖縄戦-2019年6月23日 07:49


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「指で眉間から鼻の頭をなぞり、高い鼻を表現するサインは『米兵』、歯を指せば『白人』、髪を指すのは『黒人』−。無音の中、母の身ぶりを頼りに沖縄戦下の南部一帯を逃げた。聴覚障がいのある友寄(旧姓・上原)美代子さん(85)=沖縄県浦添市=は今年5月、初めて戦争体験について証言した。『ずっと若い世代に戦争のことを伝えたかった。でも話すすべがなかった』。74年間抱え込んだ記憶を、信頼する聴覚障がい者の知人と手話通訳士の力を借りていま語る。」                       (社会部・篠原知恵)
②「那覇市山下町に生まれ、はしかの高熱で4歳のころ聴覚を失った。県立盲聾唖学校(当時)に進んだが戦争の影響で小学2年生で通えなくなり、手話を学べぬまま戦争に巻き込まれた。1944年、10・10空襲でかやぶき屋根の自宅は焼け落ちた。自宅近くの防空壕でしばらく暮らし、両親、兄、姉2人、親族、日本兵と共に首里(現末吉公園の拝所)へ。その後、玉城(現南城市)の鍾乳洞に向かった。はぐれないよう腰に巻き付けたひもを父に引っ張られながら、草むらや田んぼをひたすら移動した。『夜中も歩き続けて、とっても足が痛くてつらかった。父にせかされながら我慢して歩いた』。一緒に逃げる中で、意思の疎通ができたのは母ただ一人。だがそれも身ぶり(ホームサイン)だけで互いに大まかな内容しか読み取れない。『もっと話そう』『もっと教えて』。母の袖をつかみせがむと、布で口を押さえられたり、人さし指を口に当てられたりしてたしなめられた。『自分の気持ちを伝えるのを我慢し続けた』」
③「当時12歳。目に飛び込む戦場の凄惨な光景、鼻に入る臭い、気配で伝わる大人の緊迫感も理解できる年頃だった。なのに今何が起き、身にどんな危険が迫っているのか把握できない不安が、一層の恐怖をかき立てた。」
④「1945年6月、当時12歳だった友寄美代子さん(85)は海軍司令部壕近くの亀甲墓の中に家族、親族、日本兵の約20人で隠れた。墓に広がる暗闇は、耳が聞こえない美代子さんにとって大半の情報源だった視覚さえも奪った。頑丈な墓で砲撃の振動も伝わらない。体に何かが触れるたびに飛び上がって驚きパニックに陥った。」       (社会部・篠原知恵)
⑤「美代子さんの戦争体験は、主に視覚と感触と臭いに基づくものだ。米軍への降伏を拒み、墓内で日本兵と共に腹部に剣を突き刺して自ら命を絶った父の最期を、母に目を押さえられていた美代子さんは見ていない。記憶にあるのは、生前優しかった父の亡きがらに土をかぶせる母の姿と、近くで探した4輪の花を供えたこと。『手を合わせて目が腫れるまで泣いた』。米軍の影におびえ、父の遺体を残して墓を後にした。ある日の夕方。豊見城周辺で川のぬかるみに足がはまり抜けなくなった。よく見ると川底には人の塊があった。『死体と死体の間で足が抜けなかった。骨も浮いていた。このままこの死体のように死ぬと思った』」
⑥「親戚の男性が足を引っ張りやっと抜けたと思ったら、男性はどこからともなくきた銃弾で倒れた。撃たれた中には同い年で仲良しの男の子もいた。死んだことは死体を触って分かった。血がべったり付いた手を葉っぱで拭い、また逃げた。『男だけ狙ったんだ』。怒りをあらわにした母の口がそう動いたように感じた。白い布を割き結んだ木の棒を掲げ、米兵に『降伏のしぐさ』をしたのは数日後の6月23日。トラックに乗せられ、名護の収容所に連れて行かれた。『米兵は自分の顔をさすって【耳が聞こえないんだね】というしぐさをし、新品のお菓子や洋服をくれた』。収容所で偶然出会ったろう者から手話のことを知った。」
⑦「手話を使えるようになったのは戦後。成人してろう者の団体で活動するようになってからだ。『世界が広がった』。それまで断片的だった戦争体験の記憶は、手話を覚えた後、母から当時のことを教えてもらう中で少しずつ埋まっていった。一方で戦争の記憶で、今も深夜に目が覚め、悲しさと苦しさで眠れなくなることがある。同じ戦争を経験し苦しみを共有できる同世代のろう者以外とは、戦争の話題は避けてきた。年を重ねて手話もうまくできず、戦後学校に通えなかったため文章の読み書きもままならない。言いたいことを理解してもらえるか不安もあった。それでも82歳で亡くなった大好きな母の年齢を追い越した今、若い世代にこう伝えたい。「父を殺した戦争を恨んでいる。戦争はたくさんの人の命を奪う」
⑧「証言を記録するため本紙は、美代子さんが通う就労継続支援B型事業所の職員で美代子さんの手話を理解できる聴覚障がい当事者と、那覇市の手話通訳士と共に体験を聞いた。昔ながらの手話も使う美代子さんの話を正確に聞き取ろうと、全ての内容を書き出した文章を、職員を通じて再度美代子さんが確認する態勢をとった。」
⑨「障がい者の沖縄戦に詳しい沖縄国際大学の安仁屋政昭名誉教授は『後世に語り継ぎたくても、戦時中の屈辱的な体験から語れず複雑な感情を抱える障がい者は多い。障がい者の証言そのものが少ない中で、ろう者の証言はさらに少ない』と話す。耳が聞こえず状況が把握しづらいため事実関係を記憶できずにいたり、『大変だった』とは言えてもどう大変かを語るのが難しかったりすると説明した。」


(5)沖縄タイムス-「戦死した兄が島に帰りたいと言うんです」 沖縄戦の遺族ら遺骨捜し74年 骨つぼに代わりの土 DNA鑑定の集団申請へ-2019年6月23日 06:30


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「兄さんが私の懐に抱かれて島に帰りたいと言うんです」-。沖縄県内で見つかった身元の分からない沖縄戦戦没者の遺骨の中に、遺族が捜す遺骨があるかを調べるDNA鑑定の集団申請説明会が22日、那覇市内であった。うるま市からバスを乗り継いで訪れた知念良子さん(86)は、涙をこぼしながら鑑定の申請用紙に必要事項を書き込んだ。戦後74年、捜し求めるのは兄の大城眞忠さんの遺骨だ。」
②「千人針を縫い、ヤギをつぶして、故郷久米島から眞忠さんを戦場に送り出した。同じ石部隊で生き残った人によると、浦添城址の壕の前で見張りをしていた時に弾に当たり、市当山の自然壕に運ばれたが1945年4月13日に亡くなった。」
③「戦後訪ねると既に遺骨はなく、調べると国立沖縄戦没者墓苑(糸満市)に運ばれたと分かった。県庁に墓苑から遺骨を取り出してほしいと訴えたがかなわなかった。『亡くなった日も場所も分かるのに』。生前は身長180センチほどあった大柄な兄だが、命を落とした壕の土が納められた骨つぼは家族の誰よりも小さい。」
④「銃弾に当たって犠牲となった母の遺骨を捜す70代女性は『死亡場所がはっきり分からなくても申請できる』と知り、安心した表情を見せた。1歳だった女性をおぶって宜野湾市周辺を逃げるさなかに即死し、祖父母がおんぶひもを外して女性を助けて逃げた。再び現場に戻ると遺体はなく、戦後にユタが『この辺り』と言う場所の石を集めた。女性にきょうだいはおらず『私が生きて鑑定できるうちに母の遺骨を見つけてあげたい』と語った。」
⑤「鑑定対象となる遺骨は本年度から大幅に増える。説明会を主催した沖縄戦遺骨収集ボランティア『ガマフヤー』の具志堅隆松代表は『申請する遺族が増えれば見つかる確率も高くなる。どこで亡くなったか分からなくても申請できるため供養と思って参加してほしい』と呼び掛けた。軍人・軍属か住民かにかかわらず、無料で鑑定ができる。集まった申請は8月14日に具志堅代表が厚生労働省に届ける予定だ。22日は、沖縄戦で犠牲になった親族8人のうち、父を含め6人の遺骨を捜す玉木利枝子さん(85)=那覇市=ら、申請を望む県内外の遺族約50人が足を運んだ。」
⑥「身元不明の遺骨で遺族のDNA鑑定はこれまで約700件の申請が出ているが、特定された例はまだない。一方で厚労省は遺族の高齢化に配慮し、本年度から鑑定対象の遺骨を現行84柱に加えて、県保管の約700柱と、各地の慰霊塔への納骨分も含めて大幅に拡大する。」
⑦「ガマフヤーは23日午前7時半から終日、平和祈念公園駐車場で集団申請の受け付け・相談会を開く。雨天でも実施する。7月28日も午後2時から県立博物館・美術館で開く。ファクスや郵送の申請書送付も対応。問い合わせはガマフヤー、電話090(3796)3132。」


(6)沖縄タイムス-「今、そこは幸せ?」ひめゆりの彼女たちが聞いている気がした Kiroro玉城千春さん-2019年6月23日 08:00


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「高校3年生の時に初めて訪れた糸満市のひめゆり平和祈念資料館で、反戦平和への誓いを感想文につづったKiroroのボーカル玉城千春さん(42)に、当時の心境などを聞いた。」                                  (聞き手=社会部・新垣玲央)
②「-いま、当時の感想文を読んで。:『元学徒の言葉は沖縄戦を必死に生き延びた生の声。その言葉たちをそこで知り、とても胸が苦しく、絶対に戦争をしてはいけないと、この感想文で自分に誓いを立てたのだと思う』『小さな誓い、想(おも)いですが、沖縄、日本、世界の方々と戦争ではなく、平和な交流を広げるために何かできたらと、考える種をもらったんだろうな。それが歌。歌はどこでも歌える。言葉も越える。自由。あの頃の私からメッセージが届いたんだ、と思いました』」
③「-資料館で感じたこと。生き方や考え方に影響は。:『夢を描いて入った、楽しいはずの学校。どんな未来になるだろうと、心弾ませる女学生たちの仲間、すべてを悲劇へと向かわせたのは、戦争。自分たちではどうする事もできない。いろんな恐怖や憎しみ、悲しみを味わってしまった』『生き残る事さえも、生き残ってしまったと、生きている事が後ろめたいと、そんな風に思わせてはいけない。生き残ってくれたからこそ語り継いでほしい。戦争は本当にすべてを奪うもの、戦争を起こしてはいけないと。平和を願う事がどれだけ儚(はかな)い日があったかと。言葉にすればするほど悲しくなった』『(資料館内に並んでいる)写真の彼女たちが、【今、そこは幸せ?】【今、あなたは幸せ?】【今、そこは平和?】【今、学校楽しい?】って、いろいろ聞いている気がしました』『今もそうですが、戦争のモノクロ写真を見ると聞こえてくる。それを歌詞にしてるし、後悔のないように生きていこうと思うので、きっと生き方、考え方に影響しているんだろうな』
④「-ひめゆり資料館とは。:『戦争を体験していない私たちにとって戦争を自分の体験のように感じ、考える事ができる場所。今の生活、不自由なく暮らせる事が、あの頃は当たり前ではない、絶対に戦争はいけないと、平和の願いを誓う事ができた場所。亡くなった方々の命の重さ、生き残って証言を残す方々の想いを多くの人に知ってほしい』」


(7)琉球新報-父が、兄が…身元不明の遺骨を納めていた「魂魄の塔」を訪れた遺族たちは何を祈るのか-2019年6月23日 11:39


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「沖縄県内の慰霊の塔で最も早く建立され、身元不明の遺骨を納めていた糸満市米須の『魂魄の塔』には、時折激しい雨も降る中、23日早朝から多くの遺族が訪れた。訪れた人たちは花や食べ物などを手向け、静かに戦没者の冥福と平和を祈っていた。」
②「子、孫ら12人で訪れた知念康子さん(81)=宜野湾市=は父次さんが本島南部で戦死した。『戦後すぐに母も病気で亡くなり、きょうだい4人はばらばらになった。戦争が終わったからといって平和になったわけではなく、貧しく食べ物にも困った』と話した。『今の私は子、孫に囲まれ幸せです。安らかに眠ってくださいと報告した。基地があれば攻撃される。また戦争に巻き込まれたくない』と話した。」
③「沖縄市から訪れた佐久川昌栄さん(84)は医師部隊に所属した兄の昌仁さん(当時21歳)がどこで亡くなったかは分からないが、爆弾を背負い米軍に体当たりして戦死したとの話を聞いているという。自身は母と本島北部の森に逃げ込み、米軍に見つかって捕虜になった。最後に兄に会ったのは出身である東村で兄の出征送別会。以前は慰霊の日には残ったきょうだい皆で塔を訪れたが、遺族も高齢化し、今は末っ子の自分が代表して慰霊の日にこの場所に来ている。『兄には安らかに眠ってほしい。戦時中はご苦労さまでしたと伝えた。戦争はなくなってほしいし、辺野古基地もなくなってほしい』と話した。」


(8)琉球新報-恒久平和願い沖縄で戦没者追悼式 知事、英語とウチナーグチ交え世界の平和構築誓う-2019年6月23日 12:49


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「沖縄は23日、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる『慰霊の日』を迎えた。最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では、県と県議会の主催で「沖縄全戦没者追悼式」が開かれた。住民を巻き込んだ悲惨な地上戦となった沖縄戦から74年。20万人余の戦没者を追悼し、恒久平和を願った。」
②「平和祈念公園には早朝から多くの遺族が訪れ、亡くなった家族らに思いを寄せた。2019年度に新たに追加刻銘された42人を含む24万1566人の名前が刻まれた『平和の礎』には、花を手向け、手を合わせる人の姿が目立った。」
③「玉城デニー知事は平和宣言の一部を共通語に加え、ウチナーグチと英語で述べ、平和な世界構築の決意を表明した。ことし2月に実施された名護市辺野古の埋め立ての賛否を問う県民投票で、多くの県民が埋め立てに反対したことにも言及し、民意を尊重するよう訴えた」。
④「追悼式には安倍晋三首相や関係閣僚、衆参両院議長らが参列。正午の時報に合わせて参列者が黙とうを捧げ、県遺族連合会の宮城篤正会長(77)が追悼の言葉を述べた。」
⑤「平和宣言の後、糸満市立兼城小6年山内玲奈さん(11)が平和の詩『本当の幸せ』を朗読した。各地で慰霊祭が執り行われるほか、県遺族連合会による平和行進や、平和祈念資料館の無料公開などがある。沖縄は鎮魂の祈りに包まれている。」


(9)琉球新報-【全文】玉城デニー知事の平和宣言(2019年慰霊の日)-2019年6月23日 12:40


 戦火の嵐吹きすさび、灰燼に帰した「わした島ウチナー」。県民は、想像を絶する極限状況の中で、戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
 あれから、74年。忌まわしい記憶に心を閉ざした戦争体験者の重い口から、後世に伝えようと語り継がれる証言などに触れるたび、人間が人間でなくなる戦争は、二度と起こしてはならないと、決意を新たにするのです。
 戦後の廃墟と混乱を乗り越え、人権と自治を取り戻すべく米軍占領下を生き抜いた私達ウチナーンチュ。その涙と汗で得たものが、社会を支え希望の世紀を拓くたくましい営みをつないできました。

 現在、沖縄は、県民ならびに多くの関係者の御尽力により、一歩一歩着実に発展を遂げつつあります。
 しかし、沖縄県には、戦後74年が経過してもなお、日本の国土面積の約0・6パーセントに、約70・3パーセントの米軍専用施設が集中しています。広大な米軍基地は、今や沖縄の発展可能性をフリーズさせていると言わざるを得ません。
 復帰から47年の間、県民は、絶え間なく続いている米軍基地に起因する事件・事故、騒音等の環境問題など過重な基地負担による生命の不安を強いられています。今年4月には、在沖米海兵隊所属の米海軍兵による悲しく痛ましい事件が発生しました。
 県民の願いである米軍基地の整理縮小を図るとともに県民生活に大きな影響を及ぼしている日米地位協定の見直しは、日米両政府が責任を持って対処すべき重要な課題です。
 国民の皆様には、米軍基地の問題は、沖縄だけの問題ではなく、我が国の外交や安全保障、人権、環境保護など日本国民全体が自ら当事者であるとの認識を持っていただきたいと願っています。

 我が県においては、日米地位協定の見直し及び基地の整理縮小が問われた1996年の県民投票から23年を経過して、今年2月、辺野古埋立ての賛否を問う県民投票が実施されました。
 その結果、圧倒的多数の県民が辺野古埋立てに反対していることが、明確に示されました。
 それにもかかわらず、県民投票の結果を無視して工事を強行する政府の対応は、民主主義の正当な手続きを経て導き出された民意を尊重せず、なおかつ地方自治をも蔑ろにするものであります。
 政府におかれては、沖縄県民の大多数の民意に寄り添い、辺野古が唯一との固定観念にとらわれず、沖縄県との対話による解決を強く要望いたします。
 私たちは、普天間飛行場の一日も早い危険性の除去と、辺野古移設断念を強く求め、県民の皆様、県外、国外の皆様と民主主義の尊厳を大切にする思いを共有し、対話によってこの問題を解決してまいります。

 時代が「平成」から「令和」へと移り変わる中、世界に目を向けると、依然として、民族や宗教の対立などから、地域紛争やテロの脅威にさらされている国や地域があります。
 貧困、難民、飢餓、地球規模の環境問題など、生命と人間の基本的人権を脅かす多くの課題が存在しています。
 他方、朝鮮半島を巡っては、南北の首脳会談や米朝首脳会談による問題解決へのプロセスなど、対話による平和構築の動きもみられます。
 真の恒久平和を実現するためには、世界の人々が更に相互理解に努め、一層協力・調和していかなければなりません。
 沖縄は、かつてアジアの国々との友好的な交流や交易を謳う「万国津梁」の精神に基づき、洗練された文化を築いた琉球王国時代の歴史を有しています。
 平和を愛する「守禮の邦」として、独特の文化とアイデンティティーを連綿と育んできました。
 私たちは、先人達から脈々と受け継いだ、人を大切にする琉球文化を礎に、平和を希求する沖縄のチムグクルを世界に発信するとともに、平和の大切さを正しく次世代に伝えていくことで、一層、国際社会とともに恒久平和の実現に貢献する役割を果たしてまいります。
 本日、慰霊の日に当たり、国籍や人種の別なく、犠牲になられた全ての御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、全ての人の尊厳を守り誰一人取り残すことのない多様性と寛容性にあふれる平和な社会を実現するため、全身全霊で取り組んでいく決意をここに宣言します。

 御先祖から譲り受けてぃ、太平(平和)世願い愛さしっちゃる肝心、肝清さる沖縄人ぬ精神や子孫んかい受き取らさねーないびらん。
 幾世までぃん悲惨さる戦争ぬねーらん、心安しく暮らさりーる世界んでぃし、皆さーに構築いかんとーないびらん。
 わした沖縄御万人と共に努み尽くち行ちゅる思いやいびーん。

 We must pass down Okinawa's warm heart we call "Chimugukuru" and its spirit of peace,inherited from our ancestors,to our children and grandchildren.

We will endeavor to forge a world of everlasting peace.

I am determined to work together with the people of Okinawa.

 令和元年6月23日
沖縄県知事 玉城デニー


(10)沖縄タイムス-鎮魂 連なる祈り 戦後74年 沖縄「慰霊の日」 沖縄戦犠牲者を悼む-2019年6月23日 12:15


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「戦後74年の『慰霊の日』を迎えた23日、県内各地で20万人を超える沖縄戦犠牲者の死を悼む催しがしめやかに営まれ、沖縄は恒久平和を願う祈りに包まれた。糸満市摩文仁の県平和祈念公園内に建つ『平和の礎』や、戦後沖縄で初めて建てられた慰霊塔「魂魄の塔」(同市米須)などでは早朝から多くの遺族らの姿が絶えず、強い雨風の中、線香や花を手向け鎮魂の祈りをささげた。」
②「同公園では午前11時50分から、沖縄全戦没者追悼式(主催・県、県議会)が執り行われた。安倍晋三首相や衆参両院議長のほか外務、防衛、厚生労働、沖縄担当の4閣僚らが参列。玉城デニー知事が平和を希求する沖縄の心を発信し、正午の時報に合わせ参列者が黙とうした。」
③「沖縄戦では、一般県民約9万4千人と日米軍人・軍属など合わせて20万人余が亡くなった。太平洋戦争などの犠牲者を追悼する平和の礎には、今年追加された42人を含め、計24万1566人の名が刻銘された。戦火の犠牲になり、今なお家族の元に帰れずにいる遺骨は無数にある。地中に眠ったままの遺骨も2850柱(2018年3月末現在)あるとされる。」
④「戦後74年。基地の過重負担に抗議し、平穏な生活を求める県民の思いを踏みにじるように、今年4月には北谷町で米海兵隊所属の海軍兵が女性を殺害する事件が発生。沖縄には全国の米軍専用施設の70・3%が集中し、県民が負担軽減を実感することがないまま名護市辺野古では政府による新基地建設が進められている。」
⑤「沖縄タイムス社はこの日、沖縄県糸満市摩文仁の県平和祈念公園内や各地の慰霊の塔、那覇市内などで『慰霊の日特別号』紙面を1万2千部を配布した。」


(11)沖縄タイムス-安倍首相のあいさつ、辺野古への言及は… 沖縄「慰霊の日」歴代最多の8回目 県民投票後で初-2019年6月23日 10:00


 沖縄タイムスは、表題について次のように報じた。


①「ことしの全戦没者追悼式は、『令和』初、『玉城デニー知事就任後』初、そして名護市辺野古の埋め立て工事に投票者の7割が反対の意思を表示した『県民投票後』初となる。今年も安倍晋三首相が出席。第1次安倍内閣の1回(2007年)を含む8回目で、歴代最多を更新する。」
②「6月23日の県主催の追悼式は沖縄戦から33年目の1977年に始まった。81年には当時の皇太子(現上皇さま)が『日本ではどうしても記憶しなければならないことが四つあると思います』と述べ、8月の広島と長崎の原爆の日、終戦記念日とともに、沖縄の慰霊の日を挙げた。」
③「沖縄開発庁や厚生省の幹部が参加してきた追悼式に首相が初めて足を運んだのは、平成になった後の1990(平成2)年、海部俊樹氏だった。戦後45年の節目に、県民や遺族に謝罪の意を示した。当時の西銘順治知事は、首相の参加してきた被爆地の広島と長崎を念頭に『これで本土並みになった』と評価した。」
④「その後、節目ごとに95年の村山富市氏、2000年の森喜朗氏と続き、01年の小泉純一郎氏以降、03年を除き、毎年首相が訪れている。平成の30年間、9人で21回。『令和』初となる今年も引き続き、安倍首相が姿を見せる。」
⑤「歴代首相は、犠牲者の追悼はもちろん、不発弾処理や戦争マラリアの補償、遺骨収集など積み残した戦後問題への支援に言及、米軍基地の過重負担の解消に取り組む決意などを示してきた。一方、県民の負担がアジア太平洋地域の安定につながったとして『率直にお礼の気持ちを表したい』と述べ、県民の反発を招くこともあった。」
⑥「安倍首相は追悼式のあいさつの中で『基地の負担を能(あた)うる限り軽くするため、沖縄の方々の気持ちに寄り添いながら【できることを全て行う】との姿勢で全力を尽くす』と語り、西普天間地区や北部訓練場過半の返還など実績や成果を強調してきた。」
⑦「14年の翁長雄志前知事の就任後、県との対立が続く辺野古移設計画にはあいさつでは触れない一方、【辺野古が唯一の解決策】という立場を貫いてきた。2月の県民投票を受け、【結果を真摯(しんし)に受け止める】と答えたものの、埋め立て工事を中断することはなかった。」
⑧「昨年10月に就任した玉城デニー知事は初めての平和宣言を読み上げる。『戦争体験を継承し、恒久平和を希求する沖縄の心チムグクルを発信し、その恒久平和の実現に取り組む決意を込めたい』と意欲を見せている。翁長前知事は追悼式に4回出席し、『民意を顧みない沖縄の基地負担軽減に逆行している』などと政府の計画を批判してきた。」


(12)琉球新報-安倍首相、辺野古に触れず 沖縄全戦没者追悼式-2019年6月23日 12:54


 琉球新報は、表題について次のように報じた。


①「沖縄全戦没者追悼式のあいさつで、安倍晋三首相は『沖縄の方々は、永きにわたり、米軍基地の集中による大きな負担を担っていただいている。この現状は、なんとしても変えていかなければならない』と述べ、沖縄の基地負担軽減に向けて取り組む決意を示したが、辺野古新基地建設については言及しなかった。」
②「安倍首相は『我が国は、戦後一貫して、平和を重んじる国家として、ひたすらに歩んできた。戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この誓いは令和の時代においても決して変わることはない。平和で、希望に満ちあふれる新たな時代を創り上げていく。そのことに不断の努力を重ねていく』と述べ、戦争を繰り返さないとの決意を示した。」
③「沖縄の基地負担の軽減については西普天間住宅地区など跡地利用の取り組みの加速に触れた上で、『引き続き、【できることはすべて行う】、【目に見える形で実現する】との方針の下、沖縄の基地負担軽減に全力を尽くしていく』と述べた。」
④「沖縄振興については『21世紀の【万国津梁】として世界の架け橋となる。今、それが現実のものとなりつつある。この流れをさらに加速するため、私が先頭に立って、沖縄の振興をしっかりと前に進めていく』との考えを示した。」


(13)琉球新報-【全文】安倍晋三首相あいさつ(2019年慰霊の日)-2019年6月23日 12:59


 沖縄全戦没者追悼式が執り行われるに当たり、沖縄戦において、戦場に斃れたみ霊、戦禍にあわれ亡くなられたみ霊に向かい、謹んで哀悼の誠をささげます。
 先の大戦において、ここ沖縄は、苛烈を極めた地上戦の場となりました。二十万人もの貴い命が失われ、この地の誇る美しい自然、豊かな文化は、容赦なく破壊されました。全ての戦没者の無念、ご遺族の方々の言葉に表し得ない悲しみ、沖縄が負った癒えることのない深い傷を思うとき、胸ふさがる気持ちを禁じ得ません。
 沖縄戦から74年。犠牲となった方々が送るはずであったそれぞれの未来に思いを致し、こうした尊い犠牲の上に、今日、私たちが享受する平和と繁栄がある。そのことを改めて深くかみしめながら、静かに頭を垂れたいと思います。
 我が国は、戦後一貫して、平和を重んじる国家として、ひたすらに歩んでまいりました。戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この誓いは令和の時代においても決して変わることはありません。平和で、希望に満ちあふれる新たな時代を創り上げていく。そのことに不断の努力を重ねていくことを、改めて、み霊にお誓い致します。
 沖縄の方々には、永きにわたり、米軍基地の集中による大きな負担を担っていただいております。この現状は、なんとしても変えていかなければなりません。政府として、基地負担の軽減に向けて、一つ一つ、確実に、結果を出していく決意であります。
 昨年引き渡しがなされた西普天間住宅地区跡地は、嘉手納以南の土地の返還計画に基づき実現した初の大規模跡地であり、基地の跡地が生まれ変わる成功例として、県民の皆さまに実感していただけるよう、跡地利用の取り組みを加速します。
 引き続き、「できることはすべて行う」、「目に見える形で実現する」との方針の下、沖縄の基地負担軽減に全力を尽くしてまいります。
 美しい自然に恵まれ、アジアの玄関口に位置する沖縄は、今日、その優位性と潜在力を存分に生かし、大きな発展を遂げています。出生率は日本一、沖縄に魅せられて訪れた観光客は昨年度約1千万人と、6年連続で過去最高を更新しました。沖縄が日本をけん引し、21世紀の「万国津梁」として世界の架け橋となる。今、それが現実のものとなりつつあります。この流れをさらに加速させるため、私が先頭に立って、沖縄の振興をしっかりと前に進めてまいります。
 結びに、この地に眠るみ霊の安らかならんこと、ご遺族の方々のご平安を心からお祈りし、私のあいさつといたします。

令和元年6月23日
内閣総理大臣 安倍晋三



by asyagi-df-2014 | 2019-06-23 17:51 | 沖縄から | Comments(0)

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