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本からのもの-「沖縄と国体」

著書名;DAYS JYAPAN10月号 「沖縄と国体」
著作者:白井 聡
出版社;DAYS JYAPAN


 白井聡(以下、白井)の「沖縄と国体」での指摘は、Ⅰ.沖縄と日本、Ⅱ.「永続敗戦レジーム」とは、Ⅲ.沖縄と国体、ということの三点に渡る。
 それぞれの指摘を視てみる。


Ⅰ.沖縄と日本


 白井は、沖縄の現在の闘いの姿を理解するために始める。
 沖縄を考える時の一つの重要な視点を示す。
 それは次のことである。


「戦後レジーム」の「構成的外部」である。「構成的外部」とは、あるシステムが自立的に成立するために、システムの外へと排除したものを指す。つまりそれは、当該システムの外側にあるように見えて、実はそのシステムが成り立つための根幹的な役割を負っている。

 つまり、沖縄は「構成的外部」とされたという指摘である、
 このことを説明するために、戦後の日本の「平和と繁栄」に関しての日本本土と沖縄の対称を、次のようにそれぞれを抉り出す。


 日本本土について。
(1)親米路線が長年にわたり安定的に追求された結果だと親米保守派は自賛する。他方、リベラル左派のあいだでは、憲法9条の平和主義により、やはり同じく「平和と繁栄」が実現されたと考えられている
(2)本土が「持たず、作らず、持ち込ませず」という徹底的「反核」を国是と定める。
(3)「民主化」の掛け声の下に、(外見的には)議会制民主主義が定着した。
(4)戦後日本の経済発展を支えた吉田ドクトリン(軽武装+親米路線)は、沖縄に巨大な米軍基地を置くことで可能になった。かつ、本土は重化学工業を基軸とする先進工業国化に成功する。
 沖縄について
(1)だが、平和?本土は、第2次大戦が終わるや否や憲法9条を戴く「平和国家」へと素早く変身し、東西対立の激化にもかかわらずその看板を守れたのに対し、沖縄は戦争終結から30年近くもの間、軍事的要請がすべてに優先し、平然と人権を蹂躙する支配の下に置かれ続けた。
(2)米軍統治下の沖縄は、核戦略の重要拠点に指定され、ピーク時には1000発を超える核弾頭が持ち込まれていた。そして、沖縄返還時の核密約。
(3)1972年の返還=本土復帰以前には、米軍の端的な軍事支配があったし、復帰以後も、民主国家であれば当然担保されるべき住民の主権(自決権)を簒奪された状況にある。
(4)米軍統治下の沖縄は産業の内発的発展を阻害され、基地依存経済が構造化されたのであった。


Ⅱ.「永続敗戦レジーム」とは


 白井は、沖縄の犠牲を下に反映してきた日本という国のあり方を、次のように示す。
それは、「沖縄とは『戦後レジーム』の『構成的外部』である。」、という規定でもある。


(1)要するに、非核三原則とは、一個の笑い話である。
(2)本土と沖縄の対照的な様相は、両者が別々にそうなったのではなく、本土における「平和・繁栄・民主主義」が沖縄のそれらすべての不在に依存してきた。「平和・繁栄・民主主義」が戦後レジームの壮観な外観である一方、その成立のためには、例外としての、否、見えない支柱としての、
「平和・繁栄・民主主義」がを完全に欠いた空間(=沖縄)を必要としてきた。
(3)この意味において戦後レジームにとっての沖縄とは、「構成的外部」にほかならない。


 だから、一つの例として、沖縄にとって辺野古新基地建設を反対することがどのような意味を持つのかということへの理解が、どうしてもできない日本本土の「構造」を次のように押さえる。


(1)名護市辺野古での米軍基地建設をめぐって沖縄の我慢が限界を超えたいま、どのような政治的立場からであれ、戦後という時代を「平和・繁栄・民主主義」と安易に特徴づけることには、欺瞞性がつきまとう。
(2)親米保守派とリベラル左派は、「平和・繁栄・民主主義」の理由を前者は親米路線(≒日米安保体制)に、後者は9条平和主義に帰することによって対立しているかのように見えるが、両者ともその肯定的な戦後感が「構成的外部としての沖縄」を排除することで成り立つ点で、共通している。両者の対立は、同じ対象を異なる角度から視ることで生まれるものに過ぎない。
(3)日米安保体制と9条平和主義は、漫然として意味においてではなく、政治的事実を明確にたどれる形で、密接に繋がっている。言い換えれば、それは同一物の二側面である。


 白井は、論を進めるに当たり、白井のいう「永続敗戦」という意味を、「戦後レジームとは、筆者の言う『永続敗戦レジーム』と同一である。『永続敗戦』とは、『平和と繁栄』としてとらえられてきた戦後レジームの正体を言い表す概念である。それは、先の大戦での大日本帝国の敗北が持つ意味を曖昧にした歴史認識である。」、と説明する。
 その上で、このことがもたらした結果について、「かかる歴史認識は『敗戦』が『終戦』と呼び換えられて流通していることに端的に現れているが、戦後日本人は、『敗戦を否認』してきたのであり、これを可能にした最大の要素こそ、戦後の「親米」の名を借りた対米従属であった。東西対立の世界で、アジアにおけるアメリカの最重要パートナーに収まることで、比較的速やかな復興をはじめ、戦後日本は敗戦の意味を矮小化することができた。」、と断じる。
 だから、白井は、現在までの『永続敗戦レジーム』を背景とした歴史意識に関わって日本の現況について、次のように指摘する。


(1)戦後の日本人の多くは、自覚的速やかにそうした状況から脱することに成功した。だがいま、その幸福の代償が政治と社会のゆがみとして全面的に露呈してきているのである。統治エリート(政官財学メディアの主流派)の領域では、それは、世界に類を見ないような卑小さを伴う自己目的化した対米従属として現れている。
(2)体制のそうした在り方の起源に遡れば、東西対立の激化を背景とした「逆コース」政策へとアメリカの対日政策が転換するなかで、戦前の保守支配層は戦争責任の追及を逃れて復権する機会を掴んだ。だから彼らが「アメリカ様」に対して頭が上がる道理がない。岸信介の孫である安倍晋三に象徴されるように、現在も統治エリート集団の枢腰部を占めているのは、右の経過によって首がつながった者たちの末裔である。
(3)一般的な社会現象としては、「敗戦の否認」は、先の大戦への真摯な反省と自己変革の努力の不在として現れている。われわれが実はあの戦争に負けていないのだとすれば、後悔の必要もなく自分を変える必要もないのだから。
(4)この精神態度が、戦後民主主義を表層にとどめた一方、「成長し続ける経済」という戦後日本の繁栄の前提は東西対立の終焉と同時期に崩壊した。そこで現れたのが、敗戦の結果もたらされた戦後民主主義的価値観に対する不満の鬱屈であり、それが、「ポツダム宣言を詳らかに読んだことがない」まま「戦後レジームからの脱却」を唱えるという、奇行に及んでいる宰相に支持を与えている。その行き着く先は何らかの形での「第二の敗戦」であるほかはない。敗戦を正面から受けとめないためにダラダラと負け続ける-これが「永続敗戦」の合意である。


 白井は、このように「永続敗戦レジーム」を定義したうえで、これを可能にしたのは、日本という国の「戦後の対米従属、より正確には、古今東西類を見ないような特殊な対米従属である」と規定する。
次に、白井は、「対米従属」の構造を次のように解き明かす。


(1)ある国家が超大国に従属していること自体はありふれた現象だが、戦後日本の対米従属は、従属の事実がボヤかされている点に重要な特徴がある。そこには、対米従属は対米戦敗北の直接的帰結であるが、敗戦を否定するには、その帰結をも否認しなければならない、という構造的な動機がある。そして、そこから、「従属の事実を否認する従属」という類希なる特殊な従属が生まれる。その「特殊性」とは究極的には天皇制に起因するものである。
(2)どういうことか?明治維新以後に国家の公認イデオロギーとして形成された「国体」観念は、日本を「万世一系の天皇が永久に君臨する家族国家」であると定義した。天皇は、他の文明圏の、権力により「支配する」君主とは違って、人民を我が子のように、「赤子」として慈しむ日本民族(さらには、植民地諸民族)の「大いなる家長」であるとされた。
(3)この構造が戦後は対米関係に投影されたのだ。アメリカは「慈悲深き家長」として日本を従える。愛に基づく支配であるならばそれは支配ではない、という論理が従属に事実を否認する。ゆえに、「戦後レジーム」=「永続敗戦レジーム」とは、同時に「戦後の国体」にほかならない。


Ⅲ.沖縄と国体ということ


 白井は、いよいよ本論に入る。
 まずは、「『戦後の国体』の形成とその歩み、そしてその崩壊において、沖縄がどのような役割を割り振られたのか」、という問題を掲げる。
 それは、「戦後の国体」の問題を理解することが、沖縄返還の「虚構性」とその「虚構性」が必要とされた理由を焙り出すだけでなく、その「虚構性」に利用されてきた沖縄の「虚構性」への現在の闘いの意味まで解明する。
まずは、日本の「国体の護持」について。


(1)1945年8月のポツダム宣言受諾に際して、当時の国家指導部が最後までこだわった降伏の条件が「国体保持の保障」であったことはよく知られているが、その実質は何であったのか。敗戦と占領改革の時期における「国体護持の行方」は、昭和天皇の戦争責任の不問と象徴天皇制の導入によって決着された、と一般的には受けとめられている。
(2)「国家のあり方」が変革されたという対外的評価を得ることができてはじめて、戦後日本の国際社会への復帰(占領終結、サンフランシスコ講和条約の締結(、)が許されたのである。そうでなければ、戦後ドイツがナチス第三帝国であるがまま国際社会に復帰するのと同じであって、そのような事態は到底あり得なかった。したがって、「国家のあり方」という意味での国体は、面目を一新したのであり、国体が護持されたとは到底言えない。ゆえに、マッカーサーが主導した天王星の存続(国体護持)とは、多分に外面的なものである。
(3)マッカーサーが内外の世論、また米政府内での「天皇の責任を問うべし」という圧力を断固たる決意で押し返した端的な理由は、天皇を攻撃するよりも、天皇を活用した方が円滑な占領統治に有益である、という判断であった。
 マッカーサー自身が骨子である「三原則」を提示して起草された新憲法の内容も、この文脈から理解される必要がある。「三原則」とは「天皇を元首とする」「戦争放棄」「封建制度の廃止」であったが、「天皇を元首とする」(天皇が象徴として存在し続ける)と「戦争放棄」(完全な非武装化)は、密接に関連していた。天皇の責任を問う内外の圧力をかわすためには、日本を軍事面で徹底的に無力化することが必要だったのである。
(4)GHQは、単に昭和天皇を免責するだけでなく、新生日本を「平和主義」で「民主主義」の国へと変える主導者の役割をも天皇に割り当てるようになる。こうしたアメリカの思惑に対して、昭和天皇は、「官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ」と述べた「人間宣言」をはじめ巧みに応えた。
(5)天皇にとって、戦前から存在した国体の不倶戴天の仇としての共産主義は、いよいよ力を増してきたと認識された。そのとき、国体の守護神といて要請されたのが米軍のプレゼンスにほかならなかった。豊下が明らかにしたように占領終結後の米軍駐留継続は、昭和天皇による「天皇メッセージ」にも後押しされて、アメリカが「われわれの」望む数の兵力を、望む場所に、臨む期間だけ駐留させる権利を確保する」取り決めとして、日米安保条約がサ条約とセットで結ばれることによって実現された。


 白井は、次に、「利用された沖縄」という核心を突きつける。
 どういうことなのか。
実は、「利用された沖縄」とは、「ここに深刻な矛盾が発生する。第二次大戦後のアメリカは、主要なものだけでも、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争と、ほぼ間断なく戦争をし続けてきた。そして、これらの戦争が、日米安保条約に基づく大規模な基地の提供なしに遂行し得なかったことは、明白である。」 、という「矛盾」の解消のために沖縄が利用されたことを指すのである。
沖縄が背負わされた「矛盾」とは次のものである。


(1)矛盾とは、日本は一方で決して戦争をしないという「平和国家」の看板を掲げつつ、同時に他方で、常に何らかの戦争を闘っている国家の、その戦争遂行にとって不可欠な援助者である、という事実にある。
(2)この矛盾を覆い隠す役割を背負わされたのが沖縄であった。そのプロセスは、大戦終結直後から始まっている。アメリカが凄惨な地上戦の果てに占領した沖縄は、サンフランシスコ講和条約(以下、サ条約)によって日本の主権が回復されたがゆえに、国際法的にきわめて曖昧な、極度の無権利状態に置かれることとなった。サ条約は、沖縄に対する日本の「潜在主権」を認めつつ、統治の実権は全面的にアメリカに帰せられたからだ。同時にアメリカは、「いかなる領土の変更も欲しない」と宣言した大西洋憲章(連合国の行動要領、1941年)以来の無併合の大方針に拘束されており、沖縄を一時的にであれ併合するわけにはいかなかったため、沖縄は国際法的に定義困難な地位に留め置かれた。その結果、沖縄は、日本の領土でもなければアメリカ領でもなく、ゆえに両国の憲法が規定する人権保障がいずれも機能しないがために、軍事的要請が制約なしに貫徹される空間と化した。その具体的表れが、「銃剣とブルドーザー」による軍用地の強制収容であった。
(3)かかる明白な人権蹂躙を、アメリカは何時まで続けるつもりだったのか。答えは「無期限」である。53年に、時の国務長官・ジョン・フォスター・ダレスは、「極東に脅威と緊張の状態が存する限りアメリカは琉球諸島に対する統治権を行使続ける」と、宣言した。この宣言は「ブルースカイ・ポリシー」と呼ばれ、「一点の雲もなく空が青くなるまで沖縄は返還されない」ことを意味した。「極東に脅威と緊張の状態が存する」か否かを判断するのは、無論アメリカである。


 では、こうした状況下での沖縄返還はどういう位置づけであったのか。
白井は、次のように説明する。


(1)それでも72年に沖縄返還が実現するのは、日本の本土および沖縄での復帰要求の高まりと、アメリカの事実上の沖縄領有、否、領有よりさらに悪い自由軍事利用への国際的な批判の視線を、アメリカも意識せざるを得なかったためである。
(2)米軍による沖縄支配に終止符を打つために、日本外交があらゆる手段を動員したことはない。具体的には、返還以前に、サ条約が認めた日本の潜在主権を根拠に沖縄の軍事植民地的状況の不当性を国連の場で問題化するという手段は検討されなかった。また、東西対立終焉以後、在日米軍の最大の駐留根拠(対ソ連)が失われた以上、大規模な駐留削減の提案も可能だったはずが、96年の日米安保共同宣言は、日米同盟がアジア太平洋地域の安定の基礎であるという論理にによって、在日米軍の兵力規模維持を宣言した。これは、「ブルースカイ」は、存在せず、今後も存在しない、つまり、「沖縄は返還されない」と宣しているに等しい。
(3)このような、自発的な従属の実態、従属の事実を否認する従属の虚構性は、沖縄の現実において暴き出されてしまう。
(4)本土の多くの米軍基地が沖縄に移されたことによって、右の虚構は本土では現実として通用する。「戦争と絶縁した平和主義の日本」という虚構と「世界最強の軍国主義国家の援助者=子分」という現実は、「アメリカに愛されているのであって従属などしていない本土」と「アメリカによって力づくで支配されている沖縄」という形で空間上に転態されるのである。


 白井の指摘は、「この構造が固定され変わらない理由の筆頭は、差別であろう。」、と規定する中で、「ここでは、第一の理由として、このような戦後沖縄の状況をつくり出した経緯の一端を昭和天皇が担ったことの意味を指摘したい。」、とその核心に至る。


(1)昭和天皇は、日米安保条約締結を働きかけたのみならず、47年に「天皇メッセージ」をアメリカに伝え、米軍による沖縄占領を50年間よりもさらに長く継続させることを希望する意思を表した。天皇の考えでは、国体を護持する(=皇統が持続する)ためには、平和主義の国是と同時に、共産主義の脅威に対抗するための国土の要塞化が必要だったのである。この矛盾を解消すべき指定されたのが、「日本でもなくなくアメリカでもない」沖縄であった。
(2)「天皇メッセージ」がどれほどの政治的実効性を持ったかについては、まだ十分に解明されていない。ただし、その直接的効果よりも重要なのは、昭和天皇の考え方が戦後日本の統治エリートの全般的な意思とシンクロし、一般化していった点にある。とにもかくにも施政権が返還され、東西対立も終焉し、日米間の国力格差も戦後直後とは全く異なった状況になったにもかかわらず、沖縄を不変の構造に押し込め続けている無意識化された動機に、われわれは直面する。つまりそれは、「昭和天皇がお決めになったことだから、変更できない」ということではないのか。
  

 白井は、最後に、「『戦後の国体』は明白に崩れ始めている。」、との現在の状況把握の下に、現在の「戦後の国体」と闘う沖縄の姿の意味を示す。


(1)「天皇陛下のように日本を愛してくれるアメリカ」という幻想は、東西対立にその根拠があった。アメリカは日本をアジアにおける最重要の同盟国と見なして、恩恵を授けた。しかし、東西対立の時代はとうに終わった。にもかかわらず、対米従属の合理性が失われた時代(ポスト冷戦)においてこそ、親米保守派が支配する戦後レジームの対米従属姿勢は、より露骨なものとなってきた。
(2)「戦後の国体」の構成的外部としての沖縄から発せられた声は、今日の日本の政治状況の本質を衝くものとなり、故翁長雄志知事の発言は、的確で鋭利な戦後レジーム批判として現れた。
(3)本土の日本人が安倍政権に支持を与えてきたことは、これらの指摘を却下してきたということであり、「戦後の国体」を依然として支持しているということでもある。しかし、いまオール沖縄が闘いを挑んでいる。「戦後の国体」とは、本来は、現レジームの特権階級(例えば、「家柄の良さ」だけで二度も総理大臣を務めさせてもらえるような特権階級)の構成員を除くすべての日本人にとって、打倒すべき敵なのである。


 さて、こうした白井の論理展開が、新崎盛暉の提起した「構造的沖縄差別」という論理と重なるということに気づかされる。
例えば、新崎は、「新崎盛暉が説く構造的沖縄差別」の中で、次のように指摘している。


 新崎は、日本の戦後の出発を、「象徴天皇制、日本の非武装化、沖縄の(分離)軍事支配は、占領政策の上で、三位一体の関係になったのである。構造的沖縄差別の上に立つ対米従属的日米関係は、ここから始まる。一九四七年の、『沖縄を二五年ないし五〇年、米軍統治に委ねることに異存はない』といういわゆる天皇メッセージや、講和後も米軍の駐留を希望するという天皇のGHQへの積極的働きかけなどは、天皇がこの仕組みの中で自らに与えられた役割を果たしたものと言えるだろう。」と規定し、このことにより、「日本の非武装化は、日本国憲法にも明記され、それは平和憲法と呼ばれるようになったと説明する。 
 つまり、日本国憲法は、「沖縄を除外することによって成立した」ものであり、このことこそが、構造的沖縄差別を端的に顕していると。
 また、米国の「日本非武装化」という考え方は東西冷戦が顕在化すると、米国は「敵対者として覇権を争った日本を『目下の同盟者』として保護育成利用する方針」に転換し、「米国内市場を開放して経済的復興を支援するとともに、日本の再軍備を促すことになった。」と指摘する。
 さらに、「構造的沖縄差別」に関して、「日本、米国、沖縄、基地など様々な要素が織りなす構造において、沖縄への基地押しつけを中心とする差別的仕組みは、日米安保体制維持のための不可欠の要素とされてきた。そしてそれは、時の経過とともに、『沖縄の米軍基地に対する存在の当然視』という思考停止を生んだ。」という現状認識を問うている。
 その結果、ヤマトの側の「この数十年にわたる思考停止状態の中での『沖縄の米軍基地に対する存在の当然視』こそ、構造的沖縄差別に他ならない」と、断じている。


 今回の白井の指摘は、まさに、核心を突くものであった。
 最後に、あらためて、大きく気づかされることがある。
 日本人の「沖縄でよかった」というつぶやきは、「昭和天皇がお決めになったことだから、変更できない」という意味をも含んでいたのだということを。



by asyagi-df-2014 | 2018-09-26 07:04 | 本等からのもの | Comments(0)

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