沖縄タイムスの【教科書のいま】を読む。(1)

 宜野湾海浜公園で、2007年9月29日、復帰後、最大規模の大会になった「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が、11万6千人(主催者発表)が参加し開催された。
 この日から、10年がたった。
 沖縄タイムスは、「2006年度の教科書検定で、高校日本史の沖縄戦『集団自決(強制集団死)』を巡り、日本軍の加害性の記述が大幅に薄められた。11万6千人(主催者発表)が参加した07年9月29日の県民大会を経て、記述はある程度回復したものの、『軍の強制』は認められていない。国の歴史観と、県民の『記憶』とのせめぎ合いが続く『教科書のいま』に焦点を当てる。」、と特集の連載を始めた。
 この沖縄タイムスの特集を読む。
第1回は2017年9月25日、「【教科書のいま・1】私は「集団自決」の生き残り 慶良間の教訓、伝える決意」(社会部・新崎哲史)。
沖縄タイムスはこう伝える。


(1)11万人が静かに聞き入る宜野湾海浜公園で、吉川嘉勝さん(78)は意を決して語り始めた。「私は渡嘉敷島北山(にしやま)の『集団自決』の生き残りです」。日本軍に渡された手榴弾(しゅりゅうだん)や持参したカマ、カミソリで家族の命を絶たされた島の人々のこと。被害と加害の記憶に苦しんできたこと。長年口を閉ざしてきたが、日本軍の「罪」を消そうとする動きに怒りがあふれた。2007年9月29日の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」。復帰後、最大規模の大会に発展した。
(2)県民大会のきっかけとなったのは、文部科学省による06年度の教科書検定。渡嘉敷島や座間味島などで起きた「集団自決(強制集団死)」で日本軍の「強制」記述が消された。「軍の責任逃れは許せない」。それまで数度しか証言したことがなかった吉川さんは県民大会の壇上に立った。沖縄戦当時6歳。家族で手榴弾を囲んだが爆発せず「死ぬのはいつでもできる。逃げよう」との母の叫びで命をつないだ。
(3)慶良間諸島では、日本兵は「いざとなれば自決しろ」と多くの住民に伝えていた。軍命による住民の招集、軍管理の手榴弾が家庭に配られ「隊長命令があった」と確信している。
(4)吉川さんは、ある防衛隊員の妹から証言を聞いた。軍人経験者だった防衛隊員は「集団自決」の直前、知り合いから「手榴弾の扱いに慣れているだろ。私の旧式と換えてくれ」と頼まれ、新式手榴弾を手渡した。その知り合いの家族は爆発で死亡。しかし、交換した旧式手榴弾は不発で防衛隊員の家族は生き残った。「生存者は相手を犠牲にした傷を負う。被害と加害が複雑に絡み合い、小さな島社会では『語らず』が生きるすべだった。そこが狙われた」
(5)県民大会と前後して、住民たちは「あの日」について語り始め、軍命を裏付ける証言が相次いだ。吉川さんも平和ガイドを始め、10年間で350組以上に戦争の実態を伝えてきた。「教科書検定問題で慶良間の戦争の実態は広く知られるようになった」と感じる一方、近年のインターネットなどによる史実を歪曲(わいきょく)する言説に神経をとがらす。「真実が隠され、追い込まれた先に『集団自決』が起きた。史実を曲げる目的の先には戦争が見える。悲劇を繰り返さないために慶良間の教訓を伝えたい」と力を込める。(社会部・新崎哲史)


 確かに、10年前のあの感動を覚えている。
 今、必要なことは、まずは、「私は渡嘉敷島北山(にしやま)の『集団自決』の生き残りです」と証言者となった、吉川嘉勝さんの「真実が隠され、追い込まれた先に『集団自決』が起きた。史実を曲げる目的の先には戦争が見える。悲劇を繰り返さないために慶良間の教訓を伝えたい」、との声にじっくり耳を傾けることではないか。





by asyagi-df-2014 | 2018-03-23 08:15 | 侵略戦争・戦後処理 | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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