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沖縄タイムスが伝える【もう飛ばないで 米軍ヘリ落下物】⑦⑧。

 沖縄タイムスは、【もう飛ばないで 米軍ヘリ落下物】の連載を2017年12月15日から始めた。
沖縄タイムスは15日の連載の始めに、「13日、宜野湾市の普天間第二小学校に米軍CH53E大型ヘリの窓が落下した。緊急着陸、墜落、炎上…。米軍機関連の事故が頻発する危機的状況を考える。」、とその意図を明確にしている。
 
 どうして、「もう飛ばないで」なのか。
 やはり、じっくり話を聞こう。


Ⅰ.脳裏によみがえる惨劇 またか、ではなく「やはり」【もう飛ばないで 米軍ヘリ落下物・7】-2017年12月22日 17:00


(1)「米軍施政下の1959年6月30日。うるま市石川の宮森小学校とその周辺に嘉手納基地所属の米軍戦闘機が墜落し、児童11人、住民6人、後遺症で亡くなった1人の計18人が命を落とした。200人以上の死傷者が出た事故は、米軍が戦後沖縄で起こした最大の墜落事故となった。一歩間違えれば、再び児童や住民が犠牲になりかねなかった普天間第二小学校での落下事故。宮森の遺族や関係者らの脳裏に、あの惨劇がよぎった。」
(2)「『またか、ではなく【やはり起きてしまった】としか言えない』。墜落時、巡回教師として石川・恩納の小中高校で授業をしていた伊波則雄さん(79)=読谷村。米軍機が宮森小に突っ込んでいくのを見てすぐさま現場に駆け付けた一人だ。宮森小の巡回教師だった故豊濱光輝さんが当時、『先生たちは1人も死んでいない』と児童の遺族らに非難されたことを説明し、『私たち教師は被害を受けた悲しさだけでなく、子どもたちを助けられなかった悔しさがある』と目を伏せる。」
(3)「当時と変わらず沖縄の空を米軍機が飛び続ける現状に、『こんな狭い沖縄に米軍基地が集中している。沖縄全体にいつ、どこに落ちてもおかしくはない』と断言。相次ぐ米軍機の事故に『考えたくもないが、現状が変わらなければ、また宮森の悲劇を繰り返すことになりかねない』と強い危機感と怒りをあらわにした。」
(4)「『58年前も今も、私たちからすると危険な状況は変わらない』。墜落の惨劇を語り継ぐNPO法人石川・宮森630会の会長で、当時2年生だっためいを亡くした久高政治さん(69)は憤りを示す。多くの犠牲者を生んだ沖縄戦が終わり、『ようやく平和になる』と県民誰もが願っていた中で起きてしまった墜落事故。久高さんは『米軍基地は今もなお沖縄に居座り続け、基地機能も強化され続けている』と強調した。」
(5)「『墜落で犠牲となった人たちからすると、ああいう悲惨な目に遭うのは自分たちだけでいいと思っているはずだ。なのにどうして、事故が起きるのを止められないのか…』と声を震わせる。『我々県民は、二度とこういう悲劇を繰り返させないという強い意志を日米両政府に示していかなければならない』と訴えた。」(中部報道部・大城志織)


Ⅱ.地獄だ」変わらぬ現状に危機感【もう飛ばないで 米軍ヘリ落下物・8】-2017年12月23日 14:58


(1)「素直で笑顔を絶やさない女の子だった。包み紙にくるまれた甘いキャンディー『ビーガー』が好き。手渡すと『おいしい、おいしい』と喜んで食べた。そして必ず、『ニーニーたちにもあげるから』と残して持って帰る。家族を思いやる優しさにあふれていた。玉那覇正清さん(73)=北谷町浜川=は、10歳年下のいとこを忘れたことがない。」(2)「1965年6月11日、読谷村親志。米軍機がパラシュート投下したトレーラーの下敷きになって、いとこは亡くなった。まだ小学5年生、11歳。自宅の方へ『ゆらゆら』流れ落ちてきたというトレーラー。家の中にいた父親に逃げるようにと知らせ、外へ出た後に命を奪われた。事故の前日、いとこは嘉手納町の玉那覇さんの実家へ遊びに来ていた。『泊まって翌朝帰るように』と声を掛けたが、父親の体調を気にして夜のうちに帰宅した。『あの日帰らなければ死なずに済んだかも』。今も抱える、悔やんでも悔やみきれない思いだ。」
(3)「突然過ぎる死に、両親も親族も『言葉では言い表せない』パニックに陥った。放心状態のまま、いとこの遺体を嘉手納署で確認したのは玉那覇さんだった。眠っているように、きれいな顔。でも、トレーラーに打たれた後頭部を署員に見せられると涙が止まらなかった。『あまりにも普通の亡くなり方と違う。無残だ。』」
(4)「あれから52年。米軍機事故が繰り返されるたびに、『もう二度と隆子と同じような事故は起きてほしくない』と願ってきた。米軍普天間飛行場へオスプレイが配備された時は、反対する県民大会にも足を運んだ。それだけに、普天間第二小にCH53Eヘリが窓を落下させた事故は『ショックだった』と目を伏せる。運動場で落ちた窓は、子どもたちまでわずか十数メートル。『風向きが違いでもしたら、すぐに流れてくる。本当にちょっとの差で助かった。学校の近くで飛び続けたらまた大変なことになる』と危機感を募らせる。」
(5)「嘉手納基地の滑走路の南側に住み、自身も危険と隣り合わせの暮らしを送る。パイロットの顔が見えるほど低空で飛ぶ戦闘機に、『怖い』と孫がおびえて公園から帰ってくることもある。『住んでいる人は地獄だ。早く基地は撤去してもらわないと困る。みんなで力を合わせてやったらできると思う』。玉那覇さんは言葉を振り絞った。」
(中部報道部・下地由実子)=おわり


 『私たち教師は被害を受けた悲しさだけでなく、子どもたちを助けられなかった悔しさがある』、という言葉は、実は、教育条件整備とは何なのかという問いに対する究極の解答を抉り出す。
 そこでは、「またか、ではなく『やはり起きてしまった』としか言えない」、という繰り返しは許されないはずなのだ。
 いつまでも、「当時と変わらず沖縄の空を米軍機が飛び続ける現状に、『こんな狭い沖縄に米軍基地が集中している。沖縄全体にいつ、どこに落ちてもおかしくはない』と断言。相次ぐ米軍機の事故に『考えたくもないが、現状が変わらなければ、また宮森の悲劇を繰り返すことになりかねない』と強い危機感と怒りをあらわにした。」、との状況を許すわけにはいかない。
 本来、『我々県民は、二度とこういう悲劇を繰り返させないという強い意志を日米両政府に示していかなければならない』、という言葉は、日本人総体の声として出てこなくてはならないはずだ。




by asyagi-df-2014 | 2018-01-10 07:30 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人