四国電力伊方原発運転差し止め訴訟の第2回口頭弁論を傍聴してきました。
2017年 01月 29日
四国電力伊方原発運転差し止め訴訟の第2回口頭弁論が、2017年1月26日、第1回口頭弁論と同様に、大分地方裁判所の第1号法廷で開かれました。
今回も傍聴席に座ってきました。あわせて、弁護士会館で開かれた「報告集会」にも参加しました。
今回の口頭弁論では、原告団長の一人でもある中山田さつきさんが陳述を行いました。
中山田さんは、生活の現場から必然的に起こる疑問や怒りから見た伊方原発の有り様について、説得力のある意見陳述を行いました。この中で、自分自身の「故郷の里山の生活」について、自らが「福島を訪れて感じたこと」を通して、伊方原発を差し止める意味を、訴えてくれました。
私の方からは、この意見陳述について、いくつかの感想的なことを報告します。
中山田さんは、故郷である里山の生活を守りたいと、自らの里山の今を次のように描いてくれました。
「国東半島は、2013年にクヌギ林とため池による農林業が世界農業遺産に認定された地域です。私たち夫婦も、ため池の水で稲を栽培し、クヌギを原木として椎茸栽培をしています。この地域の農民が代々維持管理してきた里山の恩恵に与っての現在の営みです。いま、私たちも、この後を引き継ぐ人たちへとバトンを渡す役目を担いながら暮らしています。」
「山里の暮らしは豊です。薪ストーブで暖を取り、お風呂も薪で焚きます。晴には山菜や筍、夏には林の間を流れる涼しい風が吹き、家の前で蛍が飛びます。秋には柿の実や栗が手を伸ばせばそこにあり、夫が山で掘ってくる自然薯の味わいは格別です。稲刈りの時期には刈り取った稲の掛け干しを孫たちが来て手伝ってくれます。そんなひとときは私たち夫婦にとっても幸せな時間です。」
また、「集落の高齢者は、80歳はもちろん、90最近くになっても、自宅前の畑で野菜をつくり、近所の人たちと散歩をしながら、元気に穏やかに暮らしています。私たちの老後が見えて、何だかほっとします。」、と里山の生活が、地域に生きる人たちにとっていかに大事なものかということを語りかけ、「私はこの暮らしを大事にして、ここで生きていこうと決めています。」、と自分の決意を訴えたのでした。
次に、中山田さんは、福島に3回行ったと陳述します。
恐らく、中山田さんと同様の里山生活を送っていたはずの福島の人たちの様子をこのように述べます。
「ゴーストタウンとなった町を、除染の作業車だけが行き交い、途方もない数の除染物を詰めたフレコンバックの山があちこちにありました。街灯だけが灯り、家々の灯がまったく無い夜の村の風景の異様さと寂しさは何と表現していいかわかりません。」
「楢原町に住んでいた母親を避難させた女性は、『人って壊れるんですよ。母は親しい友人や住み慣れた地域から引きはがされて、認知症が進んだというよりも、壊れちゃったんですよ。』と話してくれました。」
「山縣に非難した中学生は、親友が通う川俣町の学校に通いたいと、親が決めた避難先の学校に通うことを一年間拒み続けたといいます。」
この上で、中山田さんは、毅然と、「福島に行き、自分の目で見て、話を聞いて、『原発事故とはこういうことなんだ。暮らしのすべてが根こそぎ奪われるんだ。」と実感しました。放射能を無毒にする方法を持ち得ない限り、『厳罰は絶対にだめだ!』と心底思いました。」、と自分の立ち位置を明確にしたのでした。
中山田さんは、「故郷の里山の生活」と「福島を訪れて感じたこと」を通して、伊方原発再稼働を差し止めしなくてはならない理由を、この意見陳述で、根本的な生活者としての視点から。次のように明らかにしました。
(1)転載を机の上で計算して安全対策は万全とすることに、私は大きな違和感を覚えます。自然の驚異が人間の都合の枠に収まるものでしょうか。そして事故の原因は転載だけではありません。人の操作ミス、機械の故障も大事故に繋がります。
(2)非難すれば、何年も何十年も、もしかしたら一生、ふるさとに帰れない避難になるのです。福島第1原発の地元、双葉町の当時の町長だった井戸川克隆さんは『避難した後の避難生活の計画は避難計画にはまったく無い。避難すべきは原発なんだ。生活圏にあってはならない。』と反省を込めて言われました。
(3)伊方原発で過酷事故が起き、風向きが大分方向だったら、福島の現実は、大分県に住む私たちの現実になります。
中山田さんは、前回陳述の徳田弁護士と同じように、「福島原発事故から、『チェルノブイリのような万が一はそんなに起きないだろうと思ってはいなかったか?本当に真剣に原発事故を起こさないためにやれることを全部やってきたのか?』と自分のこれまでの姿勢を問われました。」、とまずは、真摯に自分に向き合っています。
そして、意見陳述の最後に、裁判官にこう言葉を届けました。
実は、報告集会で、新聞社の記者に「何が一番言いたかったのか」、と聞かれた中山田さんは、この最後の言葉を裁判官に届けたかったと回答していました。
「政治を嘆いているだけでは、動き始めた危険な原発は止められません。再び事故を起こさせないために自分ができることが裁判でした。司法が、私たちが安全に生きる権利を定めた憲法の下、差止判決を出すことを信じて、この裁判を起こしました。裁判官の皆さん、現在と未来を脅かすことにない、脱原発社会を切りひらく司法判断をして下さい。」
さて、報告集会で、最も参加者をあっと言わせた報告は、仮処分で裁判官にプレゼンをした小森弁護士の「『わりきり』と『えいやあー』でものごとを決めている」、というものでした。
この言葉は、日本の原子力行政だけでなく、日本という国の薄っぺらな人権感覚を如実に表しています。
最後に、3月末にもと噂されていた大分の仮処分決定ですが、5月11日に4回口頭弁論が開かれることになったとの報告がありました。この辺の経過については、「よくわからない」、との報告があわせてなされました。