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東京新聞の「フクシマで考える」を読む。

 東京新聞は、「フクシマで考える」、と特集を組んだ。
 2016年2月26日は、「フクシマで考える(上) 声なき声が叫んでいる」、と刻んだ。
 「ふるさとに帰る人を待つように花が揺れていた。」、とはじめる。
 その上で、「どのぐらいの人が戻ってくるのだろう。」、と投げかける。
 「町に戻る人は何を思っているのか。」、とその声を次のように伝える。


「駅前で『双葉屋旅館』を再開する小林岳紀さん(67)は『若い人の働く場がない。年寄りは最後の死に場所を求めて帰ってきても、十年後は限界集落になるんだろうね』。それでも妻の友子さん(63)は町に花を植える。少しでも明るくしたい一心で。」

「戻った住民が再び集まる交流の場をつくろうとしている女性は言う。『みんながほっとできる場を提供したい。ただ…若い人や子どもは心配ですよね』。一人の人間の中に引き裂かれた思いが同居する。多くは声を上げられず思いをしまい込んでいる。」


 日本の政府は、「東京五輪開催を目指す政府は二〇一七年三月までに、原発周辺の帰還困難区域を除く全区域を避難解除にする」という方針を掲げる。
 しかし、「だが、解除目安の被ばく線量を年間最大二〇ミリシーベルトまで緩和するなど、政策は被災者本位になっていない。」、と指摘する。
 だから、「小高駅前など県内各地のモニタリングポストが『線量が下がった』ことなどを理由に作動を止められている。『誰のための情報か。状況を正しく知りたいんだ』と小林さんは憤る。」と。
 言えるのは、「住民は目隠しされることを望んでいない。」。
 東京新聞は。大事なことは、「小さな声として押しつぶしてはならない。」、と。


 2016年2月27日は、「フクシマで考える(中) 私たちはどこへ向かう」、と責任のあり方を問うた。
 まずは、福島原発から北西に十四キロ、避難指示で居住制限区域とされた福島県南相馬市小高区と浪江町にまたがる「希望の牧場ふくしま」からの話。
このように報告する。


「五年前の原発事故直後、畜産農家の吉沢正巳さん(61)は、放射線被ばくした三百二十頭の黒毛和牛を殺処分するよう政府から求められた。悩んだ末に、生かすことを選んだ。なぜなのか。
 『被ばく牛は原発事故の生き証人。処分すれば証拠は消え、事故はなかったことにされる』。
 経済動物としての意味を失っても、放射能汚染の検証に役立てようとした吉沢さんの判断は正しかったようだ。一年後、約二十頭の体に白い斑点が出た。水素爆発の時に放出されたセシウムが体内から検出された。原発に近い大熊町の牧場でも、五十頭の牛のうち十頭に斑点が出ている。
 長い畜産生活で初めて見る。この異常が被ばくと関係があると考え、農林水産省に調査を求めたが『因は不明』。今も国立大の研究チームが牛の血液を採取したり、首輪につけた計器で放射線量を測定したりしているが、吉沢さんには解明に消極的だとも映る。
 『いつまで生かしておくんだ』と、同業者の非難めいた声も聞こえてくる。吉沢さんには言いたくなる気持ちが分かるのだという。原発事故は牛を殺処分した者と、しなかった者と、命を扱う仲間をも分断してしまったのだ。」


 こうしたことが示しているのは、「被災地の内外で原発事故の記憶の風化が進む。被ばく牛は復興の邪魔者ではない。事実を見つめよと、人間たちに問いかける生き物たちの象徴ではないか。」、と。


 次は、子どもたちの間の甲状腺がんの話。


「子どもたちの間では甲状腺がんが増えているが、県の調査班は放射能の影響を否定するばかりだ。原発のちりは広い範囲に降った。原因の究明は進むのか、将来への不安を声にも出せず苦しんでいる子どもは各地にいる。」


 東京新聞は、大事なことは、「放射能汚染が生命にもたらす影響はまともに調査されているとはいえない。そんな状況で原発再稼働は進んでいる。逆戻りさせてはならない。起きた事実と向き合うのは将来の世代に対する大人たちの責任である。」、と。


 2016年2月28日は、「フクシマで考える(下) 声なき声が叫んでいる」、と真実を突く。
 原発事故前は浪江町で暮らしていたが、事故で土地を追われ、一時は中国にも避難した、原発事故の前年に結婚した夫妻の話。
このように語る。


「二〇一七年三月までに、放射線量が高い『帰還困難区域』を除く全地域で避難指示の解除が計画されている。全町避難が続く浪江町も対象だが帰還希望者は少ない。
 中野さんも、資材が置ける一戸建てを郷里に近い南相馬市やいわき市に考えているが、移住者が殺到し地価が跳ね上がった。手元資金では足りず、毎日早朝から約七十キロ離れた南相馬市の建設現場に通っていたが、三カ月前に足を痛めて働けなくなった。『原発事故がなければ、古い家でもそれなりに暮らせたのに。生活の立て直しはそんな簡単なものではねえな』。
 中野さんは、「俺たちはどこに向かっていくのか、羅針盤がほしい」、と。


 また、こうも伝える。


「避難指示が解除されれば一年後には賠償も打ち切られる。解除の後も被ばくの影響を心配し、避難先に残る人々はすべて『自主避難者』となっていく。
 福島県が自主避難を続ける人に行う住宅の無償提供は、一七年三月に打ち切られる予定だ。南相馬市から神奈川県に避難し、被害の完全賠償を求める集団訴訟で原告になった山田俊子さん(75)は言う。『私たちも本当は帰りたい。でも…。住まいという生活基盤を奪うのは、被ばくを避ける権利の侵害ではないでしょうか』」


 東京新聞は、「未曽有の原発災害を起こした責任は国と東電にある。その原点に返り、苦境に立つ避難者を切り捨てるようなことをせず、救済と、長くかかる生活再建を支えていくべきだ。」、と結論づけて、訴える。 


以下、東京新聞の引用。







東京新聞-フクシマで考える(上) 声なき声が叫んでいる-2016年2月26日


 ふるさとに帰る人を待つように花が揺れていた。

 福島第一原発事故がもたらした放射能汚染で住民の避難が続く福島県南相馬市小高区。国が今春にも避難指示を解除しようとしている。二月半ば、JR常磐線の小高駅前では工事の音が響いていた。

 住宅の解体や改修、復興公営住宅の建設、除染…。住民帰還に先立ち、理容店や食品雑貨店など数軒が営業しているが、どのぐらいの人が戻ってくるのだろう。

 市の意向調査では約千人。震災前の一割、高齢者が多い。駅前の放射線量は持参した測定器では〇・一マイクロシーベルトと東京都内に比べてやや高めにとどまるが、線量の高い周囲の山などは除染できないことを知っているからだ。

 町に戻る人は何を思っているのか。駅前で「双葉屋旅館」を再開する小林岳紀さん(67)は「若い人の働く場がない。年寄りは最後の死に場所を求めて帰ってきても、十年後は限界集落になるんだろうね」。それでも妻の友子さん(63)は町に花を植える。少しでも明るくしたい一心で。

 戻った住民が再び集まる交流の場をつくろうとしている女性は言う。「みんながほっとできる場を提供したい。ただ…若い人や子どもは心配ですよね」。一人の人間の中に引き裂かれた思いが同居する。多くは声を上げられず思いをしまい込んでいる。

 東京五輪開催を目指す政府は二〇一七年三月までに、原発周辺の帰還困難区域を除く全区域を避難解除にする方針だ。だが、解除目安の被ばく線量を年間最大二〇ミリシーベルトまで緩和するなど、政策は被災者本位になっていない。

 小高駅前など県内各地のモニタリングポストが「線量が下がった」ことなどを理由に作動を止められている。「誰のための情報か。状況を正しく知りたいんだ」と小林さんは憤る。住民は目隠しされることを望んでいない。小さな声として押しつぶしてはならない。
(佐藤直子)



東京新聞-フクシマで考える(中) 起きた事実を見つめよ-2016年2月27日


 福島原発から北西に十四キロ、避難指示で居住制限区域とされた福島県南相馬市小高区と浪江町にまたがる「希望の牧場ふくしま」。牛が草をはんでいる。

 五年前の原発事故直後、畜産農家の吉沢正巳さん(61)は、放射線被ばくした三百二十頭の黒毛和牛を殺処分するよう政府から求められた。悩んだ末に、生かすことを選んだ。なぜなのか。

 「被ばく牛は原発事故の生き証人。処分すれば証拠は消え、事故はなかったことにされる」

 経済動物としての意味を失っても、放射能汚染の検証に役立てようとした吉沢さんの判断は正しかったようだ。一年後、約二十頭の体に白い斑点が出た。水素爆発の時に放出されたセシウムが体内から検出された。原発に近い大熊町の牧場でも、五十頭の牛のうち十頭に斑点が出ている。

 長い畜産生活で初めて見る。この異常が被ばくと関係があると考え、農林水産省に調査を求めたが「原因は不明」。今も国立大の研究チームが牛の血液を採取したり、首輪につけた計器で放射線量を測定したりしているが、吉沢さんには解明に消極的だとも映る。

 「いつまで生かしておくんだ」と、同業者の非難めいた声も聞こえてくる。吉沢さんには言いたくなる気持ちが分かるのだという。原発事故は牛を殺処分した者と、しなかった者と、命を扱う仲間をも分断してしまったのだ。

 被災地の内外で原発事故の記憶の風化が進む。被ばく牛は復興の邪魔者ではない。事実を見つめよと、人間たちに問いかける生き物たちの象徴ではないか。

 子どもたちの間では甲状腺がんが増えているが、県の調査班は放射能の影響を否定するばかりだ。原発のちりは広い範囲に降った。原因の究明は進むのか、将来への不安を声にも出せず苦しんでいる子どもは各地にいる。

 放射能汚染が生命にもたらす影響はまともに調査されているとはいえない。そんな状況で原発再稼働は進んでいる。逆戻りさせてはならない。起きた事実と向き合うのは将来の世代に対する大人たちの責任である。 (佐藤直子)


東京新聞-フクシマで考える(下) 私たちはどこへ向かう-2016年2月28日


 原発事故の前年に結婚した夫妻は敏信さんの郷里、浪江町で暮らしていた。だが事故で土地を追われ、一時は中国にも避難した。

 二〇一七年三月までに、放射線量が高い「帰還困難区域」を除く全地域で避難指示の解除が計画されている。全町避難が続く浪江町も対象だが帰還希望者は少ない。

 中野さんも、資材が置ける一戸建てを郷里に近い南相馬市やいわき市に考えているが、移住者が殺到し地価が跳ね上がった。手元資金では足りず、毎日早朝から約七十キロ離れた南相馬市の建設現場に通っていたが、三カ月前に足を痛めて働けなくなった。「原発事故がなければ、古い家でもそれなりに暮らせたのに。生活の立て直しはそんな簡単なものではねえな」

 避難指示が解除されれば一年後には賠償も打ち切られる。解除の後も被ばくの影響を心配し、避難先に残る人々はすべて「自主避難者」となっていく。

 福島県が自主避難を続ける人に行う住宅の無償提供は、一七年三月に打ち切られる予定だ。南相馬市から神奈川県に避難し、被害の完全賠償を求める集団訴訟で原告になった山田俊子さん(75)は言う。「私たちも本当は帰りたい。でも…。住まいという生活基盤を奪うのは、被ばくを避ける権利の侵害ではないでしょうか」

 「避難の選択」は震災翌年に成立した子ども・被災者支援法で認められているが、政府は柱の政策を骨抜きにしようとする。

 「俺たちはどこに向かっていくのか、羅針盤がほしい」と中野さんは言う。未曽有の原発災害を起こした責任は国と東電にある。その原点に返り、苦境に立つ避難者を切り捨てるようなことをせず、救済と、長くかかる生活再建を支えていくべきだ。 (佐藤直子)


by asyagi-df-2014 | 2016-03-02 06:31 | 書くことから-原発 | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人