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原発問題-大分合同新聞の特集「光見えぬ廃炉への道 福島第1原発の今」を読む。

 2016年2月14日の大分号新聞(以下、合同とする)の一面は、「光見えぬ廃炉への道 福島第1原発の今」との大見出しが踊った。
 合同は、この特集を、勇敢にも(そう思ってしまいました)始めた。
「1月下旬、日本記者クラブ取材団の一員として、福島県・福島第1原発の構内に入った」。と記者は、「日常として落ち着いたように見える光景と、変わらぬ原子炉の危険な状態との間に、言い難い隔たりを感じた。」、と次のように特集を始めた。


 溶け落ちた核燃料(燃料デブリ)は放射線量が非常に高く、いまだに原子炉内のどこにあるのかさえ分からない。放射性物質を含んだ汚染水は今も、日々300トン発生し続けている。東京電力福島第1原発事故から間もなく5年。廃炉まで30年とも、40年ともいわれる道のりは光が見えないままだ。だが原子炉から離れたエリアでは、作業員が普通の作業着で行き交い仕事をこなす。日常として落ち着いたように見える光景と、変わらぬ原子炉の危険な状態との間に、言い難い隔たりを感じた。


 以下が記者の詳細な報告である。


①「ここは放射線量が高いので長くはいられません」。白い防護服にピンク色の防護マスクを装備した取材団に、東京電力福島第1廃炉推進カンパニーの社員が注意を促した。
 小高い丘から原子炉1~4号機の建屋を見下ろした。距離はわずか100メートルほど。水素爆発で壊れた3号機建屋の上部は鉄骨や鉄筋がむき出しのまま。生々しい爪痕がはっきり見えた。
 社員が持つ放射線量計は毎時150マイクロシーベルトを示していた。建屋側に数歩近づいただけで200マイクロシーベルトまで上がる。防護せずに5時間もいれば、一般人の年間被ばく限度とされる1ミリシーベルトに達する。思わずつばを飲み込んだ。
②最も困難とされる1~3号機の燃料デブリの取り出しは世界初の試みになる。ロボットなどを使い炉内を調査する技術開発を進めているが「本丸には至っていない」(廃炉推進カンパニー)。廃炉の進捗(しんちょく)状況を尋ねられた小野明福島第1原発所長は「数字で言うのはなかなか難しいが、せいぜい1割とかだろう」と渋い表情で語った。
③構内に所狭しと並ぶ高さ10メートル、直径12メートル、容量千トンの貯蔵タンクが目を引いた。汚染水を保管してあり、大小合わせて約千基に上る。
④汚染水はセシウム吸着装置などの除去設備を使って処理するが、トリチウムという放射性物質は除くことができずにためている。東電は汚染水の発生原因となる地下水が建屋に入らないよう手だてを講じているが、発生を止めるには至っていない。
 廃炉推進カンパニーの野呂秀明視察センター所長は「今後もタンクは増え続ける。配管といった条件を考えると、どこにでも造れるわけではない。限界に近づいている」と説明した。
⑤構内のあちこちには線量計が置かれている。体外、体内の被ばく状態はそれぞれ測定機で厳重に管理していた。除染で線量が減ったエリアでは、一般作業着の着用を徐々に広げている。昨年5月には大型休憩所もオープン。談笑しながら食事を取る作業員たちの姿もあった。


 東京電力福島第1原発事故の現在を、声として記者は届ける。


「防護せずに5時間もいれば、一般人の年間被ばく限度とされる1ミリシーベルトに達する。」
「廃炉の進捗(しんちょく)状況を尋ねられた小野明福島第1原発所長は『数字で言うのはなかなか難しいが、せいぜい1割とかだろう』と渋い表情で語った。」
「トリチウムという放射性物質は除くことができずにためている。」
「東電は汚染水の発生原因となる地下水が建屋に入らないよう手だてを講じているが、発生を止めるには至っていない。」
「今後もタンクは増え続ける。配管といった条件を考えると、どこにでも造れるわけではない。限界に近づいている」


 また、「帰りたい帰れない 福島県いわき市の仮設住宅」と原発事故で基本的人権を剥奪された人たちの「すっかり慣れた生活に不便は感じない。それでも『おら、家に帰りてえ。ここでは死にたくねえ。』」、との声を伝えた。
 避難指示を解除した楢葉町について、「全町避難をした自治体では初めてだ。町は住宅や交通、福祉、教育といった生活環境を徐々に回復させて復興を進める方針。松本幸英町長は『2017年春には5割の町民が帰町できるようになれば』と話す。だが7364人の住民のうち、避難解除から4カ月たった今年1月の時点で帰った人は421人。わずか5・7%にとどまる。」、と続ける。
 実際の現地の声を次のように伝える。


「楢葉に帰るだろうか。小さな子どもがいれば、いくら安全と言われても放射線の不安はやはり根強いだろうし、帰町が進むのは難しいのでは」

「年寄りばかりで帰ったって、しょうがねえ。買い物は遠くて歩けねえし、やっていけねえ」


 だから、「帰りたいけど、帰れない―。複雑な思いを抱えながら過ごしている。」、と。


 今回の特集の最後を、「5年をかけて一歩一歩進む現場の環境改善を目の当たりにし、逆に廃炉への途方もない時間の長さの方が強く印象に残った。」、とまとめた。


 以下、大分合同新聞の引用。







大分合同新聞-光見えぬ廃炉への道 福島第1原発の今 -2016年2月14日


 【東京支社】溶け落ちた核燃料(燃料デブリ)は放射線量が非常に高く、いまだに原子炉内のどこにあるのかさえ分からない。放射性物質を含んだ汚染水は今も、日々300トン発生し続けている。東京電力福島第1原発事故から間もなく5年。廃炉まで30年とも、40年ともいわれる道のりは光が見えないままだ。だが原子炉から離れたエリアでは、作業員が普通の作業着で行き交い仕事をこなす。日常として落ち着いたように見える光景と、変わらぬ原子炉の危険な状態との間に、言い難い隔たりを感じた。

 1月下旬、日本記者クラブ取材団の一員として、福島県・福島第1原発の構内に入った。
 「ここは放射線量が高いので長くはいられません」。白い防護服にピンク色の防護マスクを装備した取材団に、東京電力福島第1廃炉推進カンパニーの社員が注意を促した。
 小高い丘から原子炉1~4号機の建屋を見下ろした。距離はわずか100メートルほど。水素爆発で壊れた3号機建屋の上部は鉄骨や鉄筋がむき出しのまま。生々しい爪痕がはっきり見えた。
 社員が持つ放射線量計は毎時150マイクロシーベルトを示していた。建屋側に数歩近づいただけで200マイクロシーベルトまで上がる。防護せずに5時間もいれば、一般人の年間被ばく限度とされる1ミリシーベルトに達する。思わずつばを飲み込んだ。
 最も困難とされる1~3号機の燃料デブリの取り出しは世界初の試みになる。ロボットなどを使い炉内を調査する技術開発を進めているが「本丸には至っていない」(廃炉推進カンパニー)。廃炉の進捗(しんちょく)状況を尋ねられた小野明福島第1原発所長は「数字で言うのはなかなか難しいが、せいぜい1割とかだろう」と渋い表情で語った。
 構内に所狭しと並ぶ高さ10メートル、直径12メートル、容量千トンの貯蔵タンクが目を引いた。汚染水を保管してあり、大小合わせて約千基に上る。
 汚染水はセシウム吸着装置などの除去設備を使って処理するが、トリチウムという放射性物質は除くことができずにためている。東電は汚染水の発生原因となる地下水が建屋に入らないよう手だてを講じているが、発生を止めるには至っていない。
 廃炉推進カンパニーの野呂秀明視察センター所長は「今後もタンクは増え続ける。配管といった条件を考えると、どこにでも造れるわけではない。限界に近づいている」と説明した。
 構内のあちこちには線量計が置かれている。体外、体内の被ばく状態はそれぞれ測定機で厳重に管理していた。除染で線量が減ったエリアでは、一般作業着の着用を徐々に広げている。昨年5月には大型休憩所もオープン。談笑しながら食事を取る作業員たちの姿もあった。
 5年をかけて一歩一歩進む現場の環境改善を目の当たりにし、逆に廃炉への途方もない時間の長さの方が強く印象に残った。


大分合同新聞-帰りたい帰れない 福島県いわき市の仮設住宅-2016年2月14日


 【東京支社】雨風を受けた木造の壁は黒く変色し、過ぎた月日を感じさせる。
 福島県東南部、いわき市内郷(うちごう)白水(しらみず)にある「応急仮設住宅団地」。福島第1原発事故の7カ月後に完成し、計61戸の住居が10棟に分かれ長屋のように続く。原発から半径20キロ圏にある楢葉町の住民たちが避難指示を受けて身を寄せ、今も58世帯が入居している。

「着の身着のまま」
 4畳半の部屋に1人で暮らす渡辺悦子さん(85)。ここでの生活は間もなく4年半になる。楢葉では次男(62)家族と暮らしていた。事故が起きて「着の身着のまま」で避難し、新潟県や茨城県を転々とした。「移ったアパートは3階。とても階段で上がれねえ」。仮設住宅の抽選に当たり家族と離れることを決めた。
 「初めは一人きりで寂しかったけど、話し友達もできた」。週に1度来る移動販売で食材をまとめ買いし毎食、自分で作って食べる。
 他に必要な物は車で約1時間半の福島県須賀川市に住む三男(59)が週末に届けてくれる。毎月10万円の東京電力の賠償金を含めた金の管理も三男に任せている。朝晩に欠かさず体操をして健康だ。病院も近くにある。すっかり慣れた生活に不便は感じない。それでも「おら、家に帰りてえ。ここでは死にたくねえ」。
 19歳で嫁ぎ、8年前に亡くなった夫と2ヘクタールの稲作を営み、3人の息子を育てた。60年余りを過ごし、思い出の詰まった自宅で人生を終えたいと願う。

帰町わずか5・7%
 政府は昨年9月、楢葉町の避難指示を解除した。全町避難をした自治体では初めてだ。町は住宅や交通、福祉、教育といった生活環境を徐々に回復させて復興を進める方針。松本幸英町長は「2017年春には5割の町民が帰町できるようになれば」と話す。
 だが7364人の住民のうち、避難解除から4カ月たった今年1月の時点で帰った人は421人。わずか5・7%にとどまる。
 避難した若い世代の中にはいわき市などに土地や自宅を購入し、生活が定着した人たちも多い。同じ仮設住宅に住む堀井憲司さん(71)は、そんな人たちが「楢葉に帰るだろうか。小さな子どもがいれば、いくら安全と言われても放射線の不安はやはり根強いだろうし、帰町が進むのは難しいのでは」と話す。
 楢葉町は一部でコンビニエンスストアや商店の営業、医療機関の診療が始まったものの、渡辺さんは「年寄りばかりで帰ったって、しょうがねえ。買い物は遠くて歩けねえし、やっていけねえ」とうなだれる。
 帰りたいけど、帰れない―。複雑な思いを抱えながら過ごしている。


by asyagi-df-2014 | 2016-02-18 06:38 | 書くことから-原発 | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


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