沖縄-沖縄タイムス特集【誤解だらけの沖縄基地】を読む(11)。
2016年 02月 10日
沖縄タイムスの特集、「誤解だらけの沖縄基地」(11)を考える。
第11回目は、「普天間飛行場は田んぼの中にできた?」、ということについて。
沖縄タイムスは、次のように報告する。
(1)誤解というもの。(むしろ果たして誤解なのかとも。)
①「米軍普天間飛行場は、もともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった」「商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした」
②このような「基地は田んぼにできた」という発言は過去にもあった。10年、当時のケビン・メア在沖米国総領事だ。
(2)沖縄からの声。
①2015年6月25日に開かれた自民党若手議員らの勉強会。ベストセラー作家・百田尚樹氏の事実とかけ離れた発言は、宜野湾市民の猛反発を買った。米軍普天間飛行場がある場所には戦前、村役場や宜野湾国民学校もあり、南北には宜野湾並松(ジノーンナンマチ)と呼ばれた街道が走る生活の中心地だったからだ。
「住民をばかにしている」「ネット情報をうのみにしたような幼稚な発言だ」
3日後の28日。大部分の土地が接収された字宜野湾郷友会(宮城政一会長)の総会では、怒りの声が噴出した。字宜野湾の住民は、ほぼ現在の飛行場内に住んでいた。
②「またか、という思い。ちょっと調べればすぐ分かること」。宮城さんは悔しそうに語る。「私たちの古里がなかったことになる。先輩からは市場で買い物したこと、馬場にンマハラシーを見に行ったこと…。たくさん聞いた。生活の場であり、憩いの場でもあった場所だ」
(3)人々の生活拠点はどのようにして奪われたのか。
①宜野湾市史によると、沖縄戦前年の1944年、宜野湾村(当時)には22の字があり、人口は1万3635人。そのうち、普天間飛行場は14字にまたがる宜野湾の中心に建設された。その14字では8880人が生活していた。
②人々の古里が奪われたのは45年の沖縄戦。宜野湾へ侵攻した米軍が占領と同時に土地を接収し、滑走路の建設を始めた。住民は同年10月以降に順次、収容所や避難先から帰村が許されたが、多くが古里に戻れず、米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落の再編を余儀なくされた。
(4)今強いられていること
①古里を奪われた住民の先祖が眠る墓や御願所は、今も基地の中だ。基地内に入るには米軍の許可が必要になる。宜野湾郷友会が年中行事で拝むウブガーはフェンスの奥わずか100メートルほどの場所にたたずむ。
②宮城さんは話す。「古里の土地に入るのに、許可を得なければならないというのは…。矛盾してますよね」
「普天間飛行場は田んぼの中にできた?」という誤解は、「古里の土地に入るのに、許可を得なければならないというのは…。矛盾してますよね」という言葉の重みで霧散してしまう。もちろん、「百田氏が言う『商売目当て』では決してなく、基地の周りに住まわされたのが実情だ。」、ということになる。
また。百田は果たして自分の危うさにどのように向き合うのか。
以下、沖縄タイムスの引用。
沖縄タイムス-【誤解だらけの沖縄基地】(11)普天間飛行場は田んぼの中にできた?-2016年2月7日 07:01
「米軍普天間飛行場は、もともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった」「商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした」
2015年6月25日に開かれた自民党若手議員らの勉強会。ベストセラー作家・百田尚樹氏の事実とかけ離れた発言は、宜野湾市民の猛反発を買った。米軍普天間飛行場がある場所には戦前、村役場や宜野湾国民学校もあり、南北には宜野湾並松(ジノーンナンマチ)と呼ばれた街道が走る生活の中心地だったからだ。
「住民をばかにしている」「ネット情報をうのみにしたような幼稚な発言だ」
3日後の28日。大部分の土地が接収された字宜野湾郷友会(宮城政一会長)の総会では、怒りの声が噴出した。字宜野湾の住民は、ほぼ現在の飛行場内に住んでいた。
このような「基地は田んぼにできた」という発言は過去にもあった。10年、当時のケビン・メア在沖米国総領事だ。その要人の認識不足の発言に、宮城さんが「カチンときた。ならば証明しよう」と始めたのが、戦前の集落の様子を再現するジオラマ作りだった。
お年寄りへの聞き取り調査を重ねているさなか、著名な作家によって再び古里を侮辱された。
「またか、という思い。ちょっと調べればすぐ分かること」。宮城さんは悔しそうに語る。
「私たちの古里がなかったことになる。先輩からは市場で買い物したこと、馬場にンマハラシーを見に行ったこと…。たくさん聞いた。生活の場であり、憩いの場でもあった場所だ」
そんな人々の生活拠点はどのようにして奪われたのか。
宜野湾市史によると、沖縄戦前年の1944年、宜野湾村(当時)には22の字があり、人口は1万3635人。そのうち、普天間飛行場は14字にまたがる宜野湾の中心に建設された。その14字では8880人が生活していた。
人々の古里が奪われたのは45年の沖縄戦。宜野湾へ侵攻した米軍が占領と同時に土地を接収し、滑走路の建設を始めた。
住民は同年10月以降に順次、収容所や避難先から帰村が許されたが、多くが古里に戻れず、米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落の再編を余儀なくされた。
百田氏が言う「商売目当て」では決してなく、基地の周りに住まわされたのが実情だ。
古里を奪われた住民の先祖が眠る墓や御願所は、今も基地の中だ。基地内に入るには米軍の許可が必要になる。宜野湾郷友会が年中行事で拝むウブガーはフェンスの奥わずか100メートルほどの場所にたたずむ。
宮城さんは話す。「古里の土地に入るのに、許可を得なければならないというのは…。矛盾してますよね」(「沖縄基地」取材班)