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本からのもの-「沖縄の『岐路』」

著書名;「沖縄の『岐路』」
著作者;沖縄タイムス
出版社;沖縄タイムス


沖縄の今を考え、これからの沖縄を展望する時、そこには過去をどのように捉え、整理をするのか、何をくみ取るのかということが、問われることになる。
沖縄の「岐路」は、その意味で、未来書なのである。

 「本土の人に分かってくれという時期ではなくなった。沖縄が変わるしかない。知的な行動か、実力行使か、その両方か、今だからできるような気がする」(オスプレイ強行配備より)という意思表示をするようになった沖縄がある。
 「結成アピールでは辺野古への基地建設強行が『民意と尊厳を踏みにじり、社会正義と民主主義の基本を否定するもの』と日本製を批判する」(建白書と新基地建設より)と、アピールでの訴えを確立させた沖縄がいる。
 「沖縄がこれだけ新しい基地を造らせないと団結したことは、これまでの時代を振り返ってもなかったこと」(深まる溝より)や「多くの人びとが戦争への不安を口にする。現在の閉塞状況が、命と暮らしを守るため、これまでかってなかった辺野古の大衆運動へと広がった」(深まる溝より)という状況を造り出した沖縄の毅然とした姿がある。

もちろん、この「沖縄の『岐路』」は、沖縄の未来を捉えながら、実は、日本のこれからを考えさせている。

 特にこの中では、「沖縄国際海洋博覧会」と「金武湾CTS阻止闘争」の章を考えてみる。

 沖縄国際海洋博覧会は、「沖縄の日本『復帰』から3年たった1975年、植樹祭(72年)、若夏国体(73年)とともに復帰記念事業」であった。
 その意味を、「全国的には、『オイルショック』による世界的な混乱の波が押し寄せ、戦後最大の不況、県内では、米軍雇用員の大量解雇が吹き荒れる中、『起爆剤』としての期待」を背負わされたもの」と、分析する。
 ただし、実際は、「問題は、デメリットをいかにメリットに切り替えうるかにかかっていた。だが、現実は“切り替え”が実を結ばず、デメットのレールを突っ走った感じ」ということでしかなかったと捉えるしかないもであった。
 結局、沖縄にもたらされたものは、「海洋博を見込んで本土企業による土地の買い占めが起こったが、投機的なものであり、日常の生産活動や雇用を生み出すものではなかった」し、「道路や水族館などのインフラは整備されたが『具体的なビジネスは育たず、成長のエンジンにはなり得なかった』」と見る。
 そして、沖縄国際海洋博覧会を次のようにまとめる。
「大きな工事は本土のゼネコンが受注し、県内企業はその下請、孫請けという構造は、沖縄の経済的自立を阻害する要因とも見られているが、その構造は海洋博に端を発し、深く根を張っているとも言える。富川教授は、『辺野古で新基地が着工すると、海洋博のような建設ラッシュになり、特需になるのは間違いない。しかし、一過性のもので決して沖縄の自立経済を支えるものではない』と指摘する。
 海洋博を利用して経済的自立への道を歩むには、復帰間もない沖縄の力は脆弱だった。そしてその力を鍛える構造や自然は、失ったままになっている。
 海洋博が残した課題は、これからの沖縄の『望ましい未来』を描くときの大きなカギになると言えるだろう。」

 金武湾CTS阻止闘争は、「73年9月に、地域住民により、『金武湾を守る会』が結成され、CTS建設に反対する大衆的な反対運動 」であった。
 当時は、「国家の成長戦略の一環として資源エネルギ-の長期備蓄の必要性が議論された時期と重なり、計画には原子力発電施設の整備も検討されていた」という背景があった。 この運動の結果、「建設反対を訴えた2度の提訴や関係機関への訴えの末、当初計画で1千万坪とされた金武湾の埋め立て面積は、約64万坪に留まり、沖縄には原発も建設されていない。」という状況を作り出した。
 結局、この闘争は、「金武湾闘争は単に建設反対ではなく地域自治の運動でもあった。同時期は復帰を境に各島で開発や土地の買い占めが起こり、Uターンで戻った青年たちを中心に各地がつながって、社会運動が起こった」(安里英子)と、評価されるものであった。
 さらに、この闘争は、「県内で辺野古以外にもさまざまな課題が存在する今日、あらためて金武湾闘争を学び直す意義がある」ものであると評価する。

 この二つの章には、「過去をどのように捉え、整理をするのか、何をくみ取るのかということ」から、「沖縄の今を考え、これからの沖縄を展望する」ことが書き込まれている。


by asyagi-df-2014 | 2015-06-29 05:55 | 本等からのもの | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


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