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集団的自衛権を考える-06-「世界平和アピール7人委員会」のアピール


集団的自衛権を考える-06-「世界平和アピール7人委員会」のアピ-ル

  「 黙っているわけにはいきません。今こそ主権者である日本の国民は、自らの考えを発言し、政府に誤りない日本の針路を選ばせるべきときです」
 この提言に沿って、このブログでの発信を続けます。
 以下、「世界平和アピール7人委員会」のアピールを引用。

民主主義を破壊する閣議決定を行わせないために、国民は発言を

2014年6月12日
世界平和アピール七人委員会
武者小路公秀 土山秀夫 大石芳野 小沼通二 池内了

 安倍晋三首相は、「国の交戦権は認めない」と明記している日本国憲法の根幹に反する集団的自衛権の武力行使容認をめざし、憲法を改正しないまま、あいまいな形で速やかに最終的閣議決定を行い、実施を強行しようとしています。私たちはこの動きに強く反対します。
 首相は、米国との絆を絶対視し、日本国内の米軍基地と無関係に日本周辺の米国海軍が攻撃されるとか、米国本土が攻撃されるなどの現実的でない事例を示して限定するかのように見せかけています。ところが、武力行使は対立する一方の考える通りに進むものではないので、空想的な限定は意味を持ちません。最前線だけで戦闘行為が行われる時代ではなく、攻撃と防御は一体化しています。したがって武力行使の範囲が限りなく拡大することを可能にする議論になっています。
 一連の動きに対して、自衛隊員も含めて人を殺すことはいけないという規範の下で生きてきた国民の支持は得られていません。専門家集団である憲法学者は一致して反対しています。それなのに、国会での審議も最短時間に留め、異なる意見には一切耳を傾けようとしていません。与党間協議でさえ十分な検討の時間を割くことなく駆け抜けようとしています。
 国連憲章には確かに集団的自衛権が認められています。しかしこれは安全保障理事会が必要な措置を取るまでの間の臨時的な権利です。権利は義務ではありません。行使しなくても、行使できなくても問題ありません。日本は、1956年の国連加盟以来この点での支障は一度も起きていないのです。国連憲章の本来の原則は、紛争の平和的解決であり、平和に対する脅威、平和の破壊に対する非軍事的措置が優先されています。紛争解決へは、非難の応酬でなく、外交手段と民間交流の推進による信頼醸成の強化、軍備増強でなく軍縮への努力こそ進めなければならないのです。これは日本国憲法の基本的精神に沿う途です。
 首相の言動は、国民主権の下での三権分立に基づく法治国家としての日本を破壊し、日本が攻めてくることはないと信じてきた周辺諸国をはじめとする世界における日本の評価をおとしめ、近隣諸国の軍備増強に口実を与え、日本の危険を増大させるという取り返しのつかない汚点を歴史に残すことになります。
 黙っているわけにはいきません。今こそ主権者である日本の国民は、自らの考えを発言し、政府に誤りない日本の針路を選ばせるべきときです。


by asyagi-df-2014 | 2014-06-15 05:53 | 書くことから-憲法 | Comments(0)

集団的自衛権を考える-05


集団的自衛権を考える-05

 公明党の揺れは、これまでの与党に参加してきた党のジレンマそのものので、所謂「苦渋の選択」に繋がる。
 「苦渋の選択」という言葉に、酔ってもらっては困る。もっとも、発展的理解に行き着いてもらっても困る。実は、お互いが正念場なのだ。
 公明党の「限定容認論」の様子を、朝日新聞は2014年6月13日で報じている。
 以下、引用。


【政治国政 集団的自衛権、公明に限定容認論 72年見解を根拠に】

 公明党は12日、集団的自衛権を使える範囲を日本周辺の有事に限定したうえで認めるかどうかの検討を始めた。党幹部の中に、集団的自衛権の行使を朝鮮半島有事など極めて狭い範囲に限ることで、党内や支持者の理解が得られないかとの意見が出始めたためだ。ただ、行使容認そのものに慎重な意見もなお根強く、党内がまとまるかは予断を許さない。

72年の政府見解全文
 山口那津男代表、北側一雄副代表ら幹部は12日、国会内などで断続的に集団的自衛権の行使を認めるかどうかを協議した。1972年に自衛権に関する政府見解で「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」に限り自衛措置が認められるとした部分を根拠に、集団的自衛権が使えるか議論することにした。

 与党協議のメンバーの一人は、使える場合を「生命や権利が根底から覆される」という日本人に直接影響が出るケースに限定することで、政府が示した朝鮮半島有事から避難する邦人を乗せた米輸送艦を守る事例だけが容認されるとみる。別の幹部も「首相が想定する米国に向かう弾道ミサイルの迎撃や、中東のホルムズ海峡での機雷除去はできなくなる」と話す。

 だが、72年の政府見解は同時に、「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」と結論づけている。公明が、限定的とはいえ見解を行使の根拠とすれば矛盾することになる。

 安倍晋三首相が集団的自衛権の行使へ、今国会中の閣議決定を指示したことから、公明内には「反対するだけではすまない」(幹部)との声も上がっており、限定的な容認を検討することにした。

 政府・自民内には、公明内に容認に向けた動きが出てきたことから、22日が会期末の今国会中の閣議決定見送りを容認する意見も出ている。


 72年政府見解については、以下、引用。


 国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第5条、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。

 ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである。

 憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。

 しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。

 
この動きについての反論を、朝日新聞の記事で以下、引用する。


1972年政府見解要旨と自民・公明両党の「解釈変更」案

 集団的自衛権の与党協議で、安倍晋三首相がめざす行使容認の根拠に、1972年の政府見解の一部を引用する案が有力視されている。ただ、見解は行使が憲法上許されないと明記。行使を認める結論を導く際、なぜこの見解を使うのか。背景を読み解く。

 ■元々は「許されぬ」

 政府見解は、田中角栄内閣が72年10月14日、参院決算委員会に資料として提出した。社会党議員が同年9月、集団的自衛権の政府統一見解について、回答を求めたことを受けたものだ。

 社会党は当時、政府が決定をめざす第4次防衛力整備計画に対し「専守防衛の範囲を超える」などと追及。72年見解は「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」と結論づけ、憲法上認められている個別的自衛権を逸脱する意思がないことを強調する狙いがあった。

 見解は冒頭で、集団的自衛権について国連憲章の規定などを踏まえて「有している」としつつ、「国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されない」と明記。集団的自衛権を「持っているが、使わない」という姿勢を明確に示した。

 さらに戦争を放棄した憲法9条に触れた上で、憲法前文が示した平和的生存権や13条の幸福追求権を引用。「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない」と指摘。日本が直接攻撃された場合を前提に「自衛の措置」つまり個別的自衛権は持っていると定義した。

 ただし、見解はその直後のくだりで「しかしながら、だからといって」と強い逆接の言葉をはさんで、「平和主義を基本原則」とする憲法が「自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」と強調。「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処」する「止(や)むを得ない措置」としてだけ、自衛権を使うことができるとしている。

 歴代内閣は72年見解を一貫して維持。集団的自衛権の行使を禁じた解釈は、81年に鈴木善幸内閣が「行使は憲法上許されない」とする見解を示し、確立された。

 ■自民:「必要な自衛の措置」「最小限度の範囲」なら/公明:「生命・権利が根底から覆される」事態なら

 なぜ、72年見解の一部が、全く逆の行使を認める際の根拠になるのか。

 自民党には、政府見解を一変させることを国民に納得してもらうため、従来の解釈を全否定するわけではないと強調する狙いがある。公明党と交渉する自民党の高村正彦副総裁が「法理を示す」と話すのも、そんな姿勢を反映している。

 自民党が引用するのは、72年見解のうち、戦争を放棄した憲法9条の下でも自衛権をもつとし、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置」は禁じられないとした部分だ。高村氏は必要な自衛の措置で「必要最小限度の範囲」に含まれるものなら、集団的自衛権を行使しても「今までの政府解釈の法理は受け継ぐことができる」と主張する。

 高村氏は「ほんの一部を変えるだけだ」とも主張。72年から40年超経ち、安全保障環境が変わったため、集団的自衛権を全て禁じた見解の結論だけを「集団的自衛権の一部は必要最小限度の範囲に入る」と変えればいい――との理屈だ。

 一方、閣議決定を急ぐ政府・自民の圧力にさらされている公明党が注目するのは、72年見解のうち必要最小限度の範囲を厳格化し、歯止めを設けた部分だ。

 見解では「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」事態に対応することが、憲法上許される自衛権と規定している。集団的自衛権を使わなければ国民の生命や権利が根元から覆るという状況に絞れば、従来の解釈と大きく矛盾することなく行使を認められる可能性もある――との考え方だ。

 公明は、日本人を乗せた米軍の輸送艦を自衛隊が守る事例のように、国民の生命が直接脅かされるケースに限ることを検討。ただ、自民側は、日本人が乗っていない米艦の防護や、海上輸送路(シーレーン)の防衛についても対応が必要と主張。意見は一致していない。

 ただ自民、公明とも、解釈変更が72年見解の結論と矛盾する点については十分な説明をしていない。(鶴岡正寛、蔵前勝久)

 ■まともな理屈でない 元内閣法制局長官・阪田雅裕氏

 72年の政府見解は集団的自衛権を行使できない理由を述べている。結論は明らかにだめだと書いてある。一部を切り取ることが許されるならどんな解釈も可能だが、見解はあくまで全体で判断すべきものだ。そもそも集団的自衛権は、ちょっとだけ使うという便利なものではない。行使は戦争に参加することだから、日本が「必要最小限度の範囲」で武力を使ったつもりでも、相手国にとっては敵国となり、日本の領土が攻撃される恐れもある。

 憲法9条、あるいは前文や13条をどう読んでも、集団的自衛権は否定されているという結論にしかならない。行使を認めるなら、それは憲法解釈とは言えず、憲法の無視だ。政府や自民党は72年見解を持ち出してきているようだが、解釈を変える論理としては耐えられず、まともな法律論ではない。

 公明党が検討中とされる理屈も理解できない。集団的自衛権を使うのは、日本が武力攻撃を受けていない状況が前提になる。日本が攻撃を受けていないのに、国外で起きている事態がどうして「国民の権利を根底から覆す事態」になるのか理解できない。


 結局、今回の動きについては、「憲法9条、あるいは前文や13条をどう読んでも、集団的自衛権は否定されているという結論にしかならない。行使を認めるなら、それは憲法解釈とは言えず、憲法の無視だ。政府や自民党は72年見解を持ち出してきているようだが、解釈を変える論理としては耐えられず、まともな法律論ではない。」ということでしかない。

また、こういう応援歌も来ていることをわすれてはいけない。
琉球新報2014年6月13日の社説を、以下、引用。


 「平和の党」としての公明党の真価が問われている。憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認問題をめぐり、安倍晋三首相から合意を迫られ、連立政権の亀裂を避けるため譲歩に傾いている。
 憲法は権力を縛るという立憲主義に基づいている。主権者の国民の合意形成や国会での徹底論議がないまま、一内閣の解釈だけで憲法の平和主義を空洞化させるのは、主権を国民から奪うという意味で「クーデター」に等しいのではないか。
 公明党は行使容認に前のめりな安倍首相に屈することなく、ブレーキ役を果たすべきだ。
 安倍内閣の憲法解釈の閣議決定原案は、1972年の政府見解を根拠にしている。その見解は「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置」を認めた上で、その措置は「必要最小限度の範囲にとどまるべきだ」と規定し、集団的自衛権の行使は憲法上許されないと結論付けている。
 これに対し安倍内閣の原案は、これまでの政府見解が認める「自衛のための必要最小限」の武力行使の範囲に、限定的な集団的自衛権の行使が含まれるとして、憲法解釈を変更している。従来の政府見解の前段の主張を引用して、結論部分を逆にしている。牽強付会(けんきょうふかい)そのものだ。
 公明党の立党の原点は「平和の希求」にある。沖縄問題に対し67年8月、「絶対平和主義をつらぬき、すべて国際的紛争の解決は武力によらず平和的外交手段によるべき」だと主張し、即時全面返還と核兵器の撤去を要求した。69年には在沖米軍基地を総点検し、基地経済から脱却させ平和な発展を図るため、強力な政策を実施するよう佐藤内閣に求めた。
 集団的自衛権の行使容認は同党が掲げた「絶対平和主義」と真っ向から対立する。立憲主義を否定し、日米軍事同盟を優先する安倍首相の主張は相いれないはずだ。
 安倍首相が重視する日米軍事同盟の論理は抑止論だ。しかし、抑止力を高めると相手国との緊張を高め、安全保障のジレンマに陥ってしまう。
 公明党が政権与党の座ににとどまるために安易な妥協をすれば、結党の理念を失ってしまう。今年11月に結党50周年を控える。今こそ結党の精神に基づいて、集団的自衛権行使容認の歯止め役として真価を発揮すべきだ。



by asyagi-df-2014 | 2014-06-14 18:30 | 書くことから-憲法 | Comments(0)

集団的自衛権を考える-04


集団的自衛権を考える-04

 「安部晋三首相は、15日の会見では、言いたいことを言えなかったかもしれないが、すでに決めていた『いいたいこと』については、強引に推し進めることにしている」と前に書いたが、6月12日の朝日新聞の次の記事は、まさしくこのことを説明するものになっている。
以下、引用。


 安倍晋三首相は11日、今国会初の党首討論で、他国を武力で守る集団的自衛権を使えるようにする憲法解釈の変更について「政府として立場を決定し閣議決定する」と明言した。ただ、なぜ憲法解釈の変更で使えるようにするかには正面から答えなかった。一方、公明党は閣議決定に応じない考えを崩していない。
 民主党の海江田万里代表は、憲法解釈の変更で行使を認めることは「許されない」と批判。憲法改正ではなく解釈変更で認める理由をただした。
 首相は朝鮮半島有事を念頭に日本人を乗せた米艦艇を自衛隊が守る事例を挙げ、「今までの解釈では守れない」と指摘。「憲法の前文、13条に平和生存権があり、国民の幸福追求権がある。いま挙げた事例で、憲法が国民の命を守る責任を果たさなくていいと言っているとは、私にはどうしても思えない」と反論した。しかし、憲法9条には一切触れず、なぜ9条の解釈変更が必要で、どのように変えるのかも説明しなかった。
 海江田氏はまた、中東のペルシャ湾・ホルムズ海峡での機雷除去を挙げ、「戦闘中で、自衛隊員の命が失われる可能性がある。そういう時も首相は命を捨てろというのか」と質問。首相は「確かに機雷の掃海は危険な任務だ」と認めた。一方で「ホルムズ海峡で機雷が敷設され、封鎖された際、経済パニックが起きる。日本は決定的にその被害を受ける」と指摘。日本が責任を果たす必要があるとの考えを示した。
 首相は「みんなの党や(日本)維新の会の諸君は、あえてしっかりと国民の皆様に(行使容認の)立場を表明している」とも述べた。(鶴岡正寛)
 ■公明難色「論点多く残っている」
 安倍首相が改めて閣議決定を明言したが、公明党は「まだ議論すべき点は多く残されている」と難色を示す。「22日の今国会会期末までの閣議決定」に向け、攻防が激しくなっている。
 自民党の高村正彦副総裁と公明党の北側一雄副代表は11日朝、東京都内で秘密裏に会談した。高村氏は閣議決定文案を示しつつ「13日の与党協議でこの原案を配り、検討に入ることを認めてほしい」と求めたが、北側氏は「集団的自衛権は、まだ党内議論にも入っておらず難しい」と拒否した。
 別の場所でも自公両党の幹事長・国会対策委員長が意見交換しており、自民党の石破茂幹事長は記者団に「公明党は(閣議決定について)『難しい』とは言うが『できない』とは言っていない」と合意への期待感を示した。政府関係者は「与党幹部には12日に閣議決定案を説明する。もう妥協の余地はない。あとは公明党が集団的自衛権を認めるか、認めないかだ」と語り、公明に合意へ決断を迫る構えだ。飯島勲内閣官房参与も10日、米国での講演で、公明党と支持母体・創価学会との「政教分離」の関係に触れ、公明党に揺さぶりをかけた。
 両党間で、こうした水面下の動きが先行する一方、最も立場の開きがあるとされる両党首の会談はまだ行われていない。
 党首討論では、公明の山口那津男代表は与党党首のため質問せず、首相の左後方席で議論を見守った。集団的自衛権の行使に極めて慎重な山口氏は硬い表情のまま首相の発言にペンを走らせ、周囲の自民党議員が首相に拍手しても同調しなかった。終了後、記者団に感想を聞かれると、「全体的な印象としてはかみ合っていない」と物足りなさすら口にした。首相も討論では公明との協議に触れず、両党首の溝の深さが際だった。(冨名腰隆、岡村夏樹)


 では、これからどうするか。
 ここでは、2014年6月11日の毎日新聞の社説を-集団的自衛権、理屈通らぬ閣議決定案-を引用する。


 政府・自民党は、集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈変更の閣議決定の原案を、今月13日にも与党協議で示し、今国会中の閣議決定を目指す方針を明確にした。
 これまでに明らかになった原案の内容をみると、歴代政権が過去40年以上、積み重ねてきた憲法解釈の一部をつまみ食いして都合良く解釈し直しており、理屈が通っていない。
 原案は、1972年に田中内閣が参院決算委員会に示した政府見解を根拠にしている。
 政府見解は「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置」を認めたうえで、「その措置は必要最小限度の範囲にとどまるべき」だとして、「集団的自衛権の行使は憲法上、許されない」と結論づけた。
 原案は、この見解が認める「自衛のための必要最小限度」の武力行使の範囲に、限定的な集団的自衛権の行使が含まれると憲法解釈を変更するのが柱だ。政府見解を根拠にしながら、結論だけを全く逆のものにひっくり返している。
 これほどの安全保障政策の大転換をするなら、憲法改正を国民に問うしかないと私たちは主張してきた。だが政府・自民党は、憲法の解釈変更で突破する道を選択し、その根拠を探してきた。
 最初は、米軍駐留の合憲性などが争われた59年の砂川事件最高裁判決を根拠に「最高裁は個別的、集団的の区別をせずに必要最小限度の自衛権を認めている」と主張した。だが、公明党などから「判決は個別的自衛権を認めたものだ」と批判を受けて、代わりに持ってきたのが72年の政府見解だ。
 政府高官はこう解説する。
 政府見解が展開した基本論理は正しい。ただ「集団的自衛権の行使は許されない」という結論が間違っていた。だから「行使は許される」という結論を「当てはめる」−−。
 こんな説明に納得できる人が果たしてどれほどいるのだろうか。
 公明党は、閣議決定の原案の協議に入ることに難色を示している。政府・自民党は、公明党の理解を得るため、原案の表現を「集団的自衛権を行使するための法整備について今後検討する」などぼかすことも検討しているようだが、実質的には憲法解釈変更を閣議決定するのと変わらない。
 10日の与党協議では、政府が集団的自衛権の行使容認が必要とする8事例について、初めて本格的議論が行われた。個別的自衛権や警察権で対応できるという公明党と、集団的自衛権でなければ対応できないという自民党の主張は平行線だった。議論は始まったばかりだ。こんな生煮え状態で閣議決定すべきでない。


 どんなに考えても、閣議決定に正当性はない。
 では、どうすれば。


by asyagi-df-2014 | 2014-06-13 18:00 | 書くことから-憲法 | Comments(0)

集団的自衛権を考える03-安保法制懇報告と安倍首相記者会見について


集団的自衛権を考える03-安保法制懇報告と安倍首相記者会見について

 このことについては、立憲デモクラシーの会の「安保法制懇報告と安倍首相記者会見に関する見解」(2014年6月8日)にまとめられている。
 次の論点が、ことごとく論破している。


「これを一内閣のみの解釈によって変更することは、憲法尊重擁護義務を負う内閣による閣議決定の限界を超える。」


「安全のためには憲法など『二の次』といわんばかりの態度は、憲法を備えることで近代国家が成立するという、立憲主義の原則を無視するものである。」


「朝鮮半島有事の際に邦人を日本に運ぶ米国艦船を自衛隊が警護する場合などを挙げた。しかし、万一の際の邦人帰還の手段についてはすでに政府でシミュレーションが行われており、米国艦船がその任にあたるというのは現実的な想定ではない。法制懇の報告書が挙げるその他の事例も、わざわざ集団的自衛権を持ち出さなくても、従来の議論の範囲内で根拠づけできるものがほとんどである。」


「今回のような憲法解釈の変更が許されるなら、そこで言う『法の支配』とは、行政府が恣意的に権力を行使する『人の支配』となる。」


「より大きな問題は、集団的自衛権を行使することが、全面的な戦争への参加につながり、かえって国民を危険にさらしかねない側面を、安倍首相らが無視している点である。」


「 必要最小限度の集団的自衛権の行使という言葉そのものが、『慈悲深い圧政』や『正直な嘘つき』のごとき語義矛盾と言わなければならない」


以下はその見解。

安保法制懇報告と安倍首相記者会見に関する見解
                             立憲デモクラシーの会
要点

1 内閣の憲法解釈の変更によって憲法9条の中身を実質的に改変する安倍政権の「方向性」は、憲法に基づく政治という近代国家の立憲主義を否定するものであり、「法の支配」から恣意的な「人の支配」への逆行である。

2 首相が示した集団的自衛権を必要とする事例等は、軍事常識上ありえない「机上の空論」である。また、抑止力論だけを強調し、日本の集団的自衛権行使が他国からの攻撃を誘発し、かえって国民の生命を危険にさらすことへの考慮が全く欠けている点でも、現実的ではない。

3 「必要最小限度」の集団的自衛権の行使という概念は、「正直な嘘つき」と同様の語義矛盾である。他国と共同の軍事行動に参加した後、「必要最小限度」を超えるという理由で日本だけ撤退することなど、ありえない。また、集団的自衛権行使を可能とした後、米国からの行使要請を「必要最小限度」を超えるという理由で日本が拒絶することなど、現実的に期待できない。

4 安全保障政策の立案にあたっては、潜在的な緊張関係を持つ他国の受け止め方を視野に入れ、自国の行動が緊張を高めることのないよう注意する必要がある。歴史認識等をめぐって隣国との緊張が高まっている今、日本政府は対話によって緊張を低減させていく姿勢をより鮮明にすべきである。

本文

1 立憲主義と法の支配の否定

 5月15日に安倍首相は、正式の審議会ではなく私的懇談会に過ぎないである安保法制懇の報告書を参考に、集団的自衛権の行使容認を含む憲法解釈変更の「方向性」を示したが、これは憲法解釈の枠を逸脱する「憲法破壊」、あるいは「憲法泥棒」ともいうべき暴挙である。

 自衛隊が憲法9条の下で自国の防衛に専念し、侵略への反撃以外に、自らの意志によっては他国を攻撃しないという枠組みは、戦後半世紀以上にわたって政府の憲法解釈において定着している。これを一内閣のみの解釈によって変更することは、憲法尊重擁護義務を負う内閣による閣議決定の限界を超える。

 安倍首相は、自由主義や基本的人権と並んで「法の支配」を、日本を含む民主主義陣営の基本的価値として称揚し、「人の支配」が残る一部の国を批判する。しかし、今回のような憲法解釈の変更が許されるなら、そこで言う「法の支配」とは、行政府が恣意的に権力を行使する「人の支配」となる。

 集団的自衛権の行使は、憲法の授権するところではないと考えられてきた。それが、これまで政治の従ってきた法であり、今般示された「方向性」は、かかる憲法上の大原則の変更を意味する。そのような重大な変更を行うのであれば、国民に対して真摯に訴えかけ、国民的な熟議を経て、正規の手続きで9条を改正することが必須の条件である。

2 国民の生命・安全を守るという強弁

 安倍首相は、国民の生命・安全を守るためには、今この時期に集団的自衛権の行使を解禁することが必要だと主張する。安全のためには憲法など「二の次」といわんばかりの態度は、憲法を備えることで近代国家が成立するという、立憲主義の原則を無視するものである。

安倍氏は、具体的な事例として、朝鮮半島有事の際に邦人を日本に運ぶ米国艦船を自衛隊が警護する場合などを挙げた。しかし、万一の際の邦人帰還の手段についてはすでに政府でシミュレーションが行われており、米国艦船がその任にあたるというのは現実的な想定ではない。法制懇の報告書が挙げるその他の事例も、わざわざ集団的自衛権を持ち出さなくても、従来の議論の範囲内で根拠づけできるものがほとんどである。

 より大きな問題は、集団的自衛権を行使することが、全面的な戦争への参加につながり、かえって国民を危険にさらしかねない側面を、安倍首相らが無視している点である。特に朝鮮半島有事を想定して集団的自衛権の必要性を説いたことは重大な危険をはらむ。軍事的な備えによって一定の「抑止力」がもたらされることは必ずしも否定できないが、軍事的な対策が新たな危険を生む側面もあるからである。

日本が紛争当事国に加われば、日本は攻撃対象となり、敵対国から原発に数発のミサイルを撃ち込まれただけで、壊滅的な被害を受ける。日本海側に多数の原発を置く日本にとって、通常兵器による攻撃は直ちに核戦争を意味するのである。そのような可能性にまったく考えが及ばないとすれば安倍首相はこの問題を論じる能力がないし、あえてその可能性を隠蔽しているなら、彼には民主政治の指導者としての資格がない。

 もっぱら軍事的な手段の強化で国民の生命・安全を守るという安倍首相の言葉は、あまりに一面的である。

3 必要最小限(いわゆる限定容認論)という詭弁

 安倍首相らは、「必要最小限度」の集団的自衛権行使は憲法上許されると主張するが、国際政治や軍事の常識を無視した空論である。集団的自衛権という概念は、さまざまな意味内容を含むあいまいなものであり、現実の歴史では、米ソなどが自らの覇権的な行動を正当化する際の口実となってきた。

 安倍氏らは、個別的自衛権と集団的自衛権が、切れ目のない連続的な概念であるかのように主張する。しかし、これまで政府は、個別的自衛権行使の要件として、

(1)我が国に対する急迫不正の侵害があること

(2)これを排除するために他に適当な手段がないこと

(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

を挙げてきた。そして、集団的自衛権が行使しえない理由を、一つ目の要件を充たしていないことに求めてきた。「わが国に対する急迫不正の侵害」というのはその意味内容がある程度明確であるのに対して、集団的自衛権の行使とは、日本が攻撃されていないのに、世界中で起こる紛争のすべてに参加することになりかねない、「歯止め」のない概念である。より具体的には、

(1)直接武力攻撃を受けていないのに、「放置すると我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性がある」かないかという不明確な基準によって、時の政府が実力行使の判断をすること

(2)「自国の安全への危害の可能性を未然に防ぐこと」と「緊密な関係を有する他国を防衛すること」という二つの異なる集団的自衛権行使の目的が存在するなかで、自衛隊の任務が何で、その達成のための必要最小限度の実力行使とは何かを政府がどのように判断するのか、明確な基準が存在しないこと

(3)さらには、攻撃を受けた密接な関係を有する他国からの要請を受けて集団的自衛権を行使し、自衛隊が他国軍と協力して敵国に対して実力行使をしている事態になって、必要最小限度を超えたという理由で日本政府が単独で戦争から「早期退出」を判断できると考えるのは、同盟国との関係と敵国との関係のいずれを考慮しても現実的ではないこと

などから、その運用は無制限なものとなりかねない。政府が判断基準を規定したところで、ひとたび憲法の制約さえ外れれば、その後いくらでも拡大的に運用することができる。安倍首相が言うような「武力行使を目的として他国との戦闘に参加するようなことはない」根拠などないのである。また、「密接な関係を有する国」である米国等から協力を依頼された際に、日本が自らの主体的な判断で断ることができるとは、これまでの日本政府の行動様式からして、とうてい信じることができない。合憲なのに断るとすれば、安倍首相らが最も憂慮する日米同盟の崩壊にもつながりうるからである。

 以上の理由から、必要最小限度の集団的自衛権の行使という言葉そのものが、「慈悲深い圧政」や「正直な嘘つき」のごとき語義矛盾と言わなければならない。

4 国際協調のあるべき方向性

 国際関係においては、いわゆる「安全保障のジレンマ」が存在する。こちらが攻撃する意思を持っていなくても、防衛力を強化すれば仮想敵国は攻撃を受ける危険が高まったと判断して防衛力の強化に走る。それに反応してこちら側も防衛力強化を進め、悪循環が続く。安全保障政策を考える際には、このような悪循環を考慮し、自国の行動が周辺国にどのように受け取られるかに注意を払う必要がある。

 安倍首相はアジア近隣諸国のみならず、アメリカの警告さえ無視して靖国神社への参拝を行い、各国の批判を招いた。また、首相や閣僚、政権幹部は戦争中の日本の行動を正当化する言動を繰り返し、日本が不戦の決意を本当にもっているのか疑われるような状況を自ら作り出している。無謀な戦争によって自国民とアジアの人びとの多大な犠牲を招いた歴史を否定することは許されない。

 このような状況で、新たに集団的自衛権の行使を可能にするという安全保障政策の変更は、東アジアにおける緊張を一層高める結果をもたらす。 平和を維持するためには、国際協調が不可欠である。安倍政権は、力の行使に関する協調の意義だけを強調する。しかし、何より共有すべきは、外交交渉や「人間の安全保障」によって紛争の原因を除去し、戦争を極力回避するという努力である。いたずらに近隣諸国を挑発するのではなく、対話の窓を開き、東アジアにおける緊張緩和を率先して進めることこそが、政権の責務である。自由と基本的人権を守り、政治権力を「法の支配」の下に置く立憲主義の価値観を共有するつもりが本当にあるのなら、国際協調の努力を通じてこそ、平和を着実に実現していくべきであろう。
 
 また、安倍首相の記者会見については、見る気がしなくて見ていない。まずは、このことを最初に深く反省しなければならないのかもしれない。
 従って、「世界7月号」の想田和弘さんの「喜劇のような演説が現実となるとき」からの引用になる。
 でもこれまでもほとんど引用でできあがっているが。


「まずは日本語の問題です。言葉の問題です。言葉の論理性があまりに破壊されているので、何度も読み直さないと意味がわかりにくのです。」

「言葉は、思考です。言葉が混濁しているということは思考が混濁しているということを意味しています。」

「首相は演説中『国民の(日本人の)命を守るという表現を三一回使っています。しかし、会見を二回聴いて、文字で読み直してみても、肝心要の『日本国民の命や平和が古部手的自衛権では守れず、集団的自衛権の行使を容認せざるを得ない』理由や根拠は全く示されておりません。その点こそ首相は明らかにすべきではないでしょか。」

「首相は『抑止力』という言葉を何度か使っていますが、『集団的自衛権を行使すると何故抑止力が高まるのか』については説明しません。いや、たぶん説明できないのでしょう」「この記者会見の一番の焦点は、『安倍政権が憲法解釈の変更に踏み出すかどうか』であったはずです。そこが肝心な点です。にもかかわらず、それが結局どちらなのか・・・・・混濁しています。要は、記者会見を何度観ようが首相の「いいたいこと」はわからないのです。」


 しかし、一方では、IWJの記事のように、「安倍総理は15日、安保法制懇の報告書を受け取った直後に記者会見し、集団的自衛権を行使すべき事例を挙げた。あるパネルには、不安げな表情を浮かべ、紛争国から米国艦で逃れようとする母子の絵が書かれていた。これを用いた安倍総理は、『お父さんやお母さんやおじいさんやおばあさん、子どもたちかもしれない。彼らが乗っている米国の船をいま、私たちは守ることができない』と述べ、集団的自衛権の行使の必要性を訴えた。『やられたな、と思った。国民の情に訴える絵を使った』「『メージ操作をし、国民世論を誘導していくというポピュリズム政治だ』『感情に訴えられると、打ち消していくのが難しい』といった報告もある。

 
 少なくとも、安部晋三首相は、15日の会見では、言いたいことを言えなかったかもしれないが、すでに決めていた「いいたいこと」については、強引に推し進めることにしている。
 だとしたら、想田さんの「民主義には、観客席はありません。私たちは、全員がステージの上にいる」ことを、やはり、一人ひとり肝に銘じなければならない。


by asyagi-df-2014 | 2014-06-12 05:45 | 書くことから-憲法 | Comments(0)

集団的自衛権を考える02-戦争させない1000人委員会編「すぐにわかる集団的自衛権ってなに?」から受け取るもの


集団的自衛権を考える02-戦争させない1000人委員会編「すぐにわかる集団的自衛権ってなに?」から受け取るもの

 この本を読みながら痛切に感じること、それは、安倍政権の論理的整合性のなさである。
だとしたら、何故。
このことを考え続けなければならない。
 
この本から、読み取れるもの。以下のように収録された文章から抜粋してならべてみる。

大江健三郎
 私は生き直すことができない、しかし
 私らは生き直すことができる。

組坂繁之
 戦争は最大の差別、最大の人権侵害だ

左高信
 「集団的自衛権行使容認ということは、「自衛」から「他衛」、他の国、つまりアメリカの戦争に参加する義務を負うということになるんですね

辛淑玉
 国際社会は、不愉快なヤツと生きていくことです。国際化というのは、過剰適応して、あなたも私も言いたいことも言わずに、どちらか一方の色になることではありません。違いがあって、違う意見があって、違う立場があって、それでも一緒に生きていくんだということ、これが「のりこえねっと」の目標です。・・・いまここで政権と立ち向かうことが反日・非国民であるというのなら、むしろそれは誇りと思いたい。それは国際社会に対して、「私たちはいまここに生きている」というメッセージになります。

高橋哲哉
 いまでは欧米各紙は(靖国神社を)「戦争神社」"war shrine”と書きます。そして安倍首相は「歴史修正主義者」”revisionists”と書かれます。

山内敏広
 憲法は96条で改正手続きを定めています。この手続きを経ることなくして、その時々の内閣の憲法解釈によって、あるいは首相の一存によって、憲法の改正を実質的に行うということは、この96条に抵触するだけでなく、立憲主義そのものを破棄するものであると確信しています。・・・首相が憲法の最終的な解釈権者であるとは書いていません。

 ある論者は、憲法には集団的自衛権行使を禁止する規定がないと言っています。しかし、それは当たり前です。日本国憲法は戦争の放棄を規定し、武力の行使を禁止しています。そういう憲法の下で、集団的自衛権の行使をわざわざ禁止する規定を書く必要はないのです。

 ある論者は、国際法上許されている集団的自衛権の行使を憲法が禁止することはおかしい、という理論を説いています。これは国際法と国内法との違いについての無知の表明です。国連憲章は加盟国に集団的自衛権の行使を認めていますが、集団的自衛権というのは、国連の集団安全保障システムのなかにあっては例外的規定としてのみ認められているものに過ぎません。そのようなものの保持行使を日本国憲法が否認したからといって、国連憲章の趣旨になんら抵触するものではありません。

 このようにならべさせてもらうと、こうした意見がいかにまっとうであるかがわかる。 特に、この本で引用されている安倍首相の以下の発言を並べて比較してみると、このことは歴然としている。

安部晋三
 憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかって王権が絶対的権力を持っていた時代の考え方であって、今まさに憲法というのは、日本という国の形、そして理想と未来を語るものではないか、このように思います。


 最高の責任者は、私です。私が責任者であって、政治の答弁に対しても私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ。審判を受けるのは、法制局長官ではないんです。私なんですよ。だからこそ、私は今こうやって答弁をしているわけであります。


 軍事同盟というのは、”血の同盟”です。日本がもし外敵からの攻撃を受ければ、アメリカの若者が血を流します。しかし今の憲法解釈のもとでは、日本の自衛隊は、少なくともアメリカが攻撃されたときに血を流すことはないわけです。・・・日米安保をより持続可能なものとし、双務制を高めるということは、具体的には集団的自衛権の問題だと思います。

 
こうしてみると、安倍政権が強行しようとしている政策がいかに矛盾だらけであるかがこれだけでもわかる。特に、安部晋三の論理性の無さは際立っている。

 また、このほかに、この本では以下のことが明快に分析されている。
 是非、読んでみては。


・集団的自衛権とは
・「武力行使の違法化」
・集団的自衛権は自然権?
・集団的自衛権は実際どのように行使されてきたのか
・ゲレーゾーンとは
・積極的平和主義とは
・限定的な集団的自衛権は認められる?
・アメリカの戦争と一体化した安保協力はさらに深化していくこと
・韓国、中国らの批判は、靖国参拝に対してなされるのであって、死者に対する追悼、慰霊が批判されているのではないこと


 最後に、北岡伸一安保法制懇座長代理の中日新聞・東京新聞の2014年4月21日のインタビュー記事を載せる。
 こうした類の能力を持った人たちが今を動かしている。


 「憲法は最高規範ではなく、上に道徳律や自然法がある。憲法だけでは何もできず、重要なのは具体的な行政法、その意味で憲法学は不要だとの議論もある」


by asyagi-df-2014 | 2014-06-11 05:30 | 書くことから-憲法 | Comments(0)

集団的自衛権を考える-01



集団的自衛権を考える-01

 集団的自衛権の問題を書かずに来ました。
 そうしているうちに、事が進められています。
時事通信社は2014年6月8日に、「 集団自衛権、安倍首相が作業加速指示=高村氏「今国会中」決着へ意欲」と次のように報じています。


 安倍晋三首相は8日、首相公邸に谷内正太郎国家安全保障局長らを呼び、集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈変更に関し、22日に会期末を迎える今国会中の閣議決定に向け検討を加速するよう指示した。政府は10日の安全保障法制整備に関する協議会で自民、公明両党に原案を提示し、速やかな合意形成を促す構えだ。
 与党協議会で座長を務める自民党の高村正彦副総裁は8日のNHKの番組で、「会期中にまとめたい。まとまるかどうかは公明党の了解を得なければならない」と述べ、早期の合意に意欲を表明。この後、記者団に「今ぎりぎり、不可能を可能にする努力をしているということだ」と語った。
 一方、公明党の北側一雄副代表は同じ番組で、年末の日米防衛協力の指針(ガイドライン)再改定を「当面の政治課題で一番大きい」と位置付けた上で、「ガイドラインに直結する話は、早く結論を出さなければならない」と語った。
 ただ、集団的自衛権をめぐるこれまでの与党協議に関し、「『国の存立を全うするため』とか、『わが国の安全保障に重大な影響を与える』とか、言い換えるとセルフディフェンスだ」と指摘。「他国防衛ではなく、自国防衛だ」と語り、行使容認のための憲法解釈変更には慎重な立場を重ねて示した。


 この動きに対して、朝日新聞は2014年6月8日付けの社説「集団的自衛権―乱暴極まる首相の指示」で批判を次のように展開しています。


 集団的自衛権の行使を認める閣議決定を今国会中にする。そのための公明党との協議を急ぐように――。安倍首相が自民党幹部にこう指示した。会期末は22日。首相は、延長は考えていないと言っている。
 政府の憲法解釈の変更によって集団的自衛権を認めることはそもそも、法治国家が当然踏むべき憲法上の手続きをないがしろにするものだ。
 それを、たった2週間のうちに行うのだという。認めるわけにはいかない。
 首相の指示を受けて自民党は、行使容認に難色を示す公明党との協議を強引に押し切ろうとしている。
 おとといの協議では、自民党側が終了間際になって、それまで議論されていなかった集団的自衛権にからむ「事例」をいきなり持ち出した。さらに、閣議決定の文案を用意するよう政府側に求めた。
 政府が示した15事例に、どれほどの必然性があるのか、判然としない。公明党を容認論議に誘い込むための「呼び水」という意味合いが強いのに、その検討ですら駆け足ですませようとしている。
 自民党と公明党は、党としての成り立ちも、支持基盤も、重視する政策も異なる。そこから生じる意見の違いを埋めてきたものは何か。
 選挙協力や政策決定への関与といった打算も互いにあるだろう。ただ、少なくとも表向きはていねいな政策協議があってこそだったのではないか。
 自民党は、10年以上にわたって培われてきた公党間の信義をかなぐり捨ててでも、強行するというのだろうか。
 公明党は、それでも与党であり続けることを優先し、渋面を浮かべながらも受け入れるのだろうか。
 安倍首相は、集団的自衛権容認に向けての検討を表明した先月の記者会見で語った。
 「私たちの命を守り、私たちの平和な暮らしを守るため、私たちは何をなすべきか」
 「今後のスケジュールは、期限ありきではない」
 その後、与党協議や首相の国会答弁で、ペルシャ湾での機雷掃海や、国連決議に基づく多国籍軍への後方支援の大幅拡大などが次々と示された。
 あげくの果てが、いまの国会中に閣議決定するという自民党への指示である。
 与党間の信義という内輪の問題にとどまらない。国民に対してもまた不誠実な態度だ。
 
 このように謀略的政策が着ちゃくと進行させられている中なのですが、ここでは、日弁連の2014年5月30日の「重ねて集団的自衛権の行使容認に反対し、立憲主義の意義を確認する決議」を、まずは集団的自衛権に関する諸問題を捉えるために掲載します。

当連合会は、2013年5月31日の第64回定期総会における「集団的自衛権の行使容認に反対する決議」において、政府が、従来の確立した集団的自衛権の行使に関する政府解釈を閣議決定あるいは法律の制定によって変更しようとしていることに強く反対を表明した。
 これまで政府は、一貫して、憲法第9条の下における自衛権の行使は、我が国に対する急迫不正の侵害(武力攻撃)があり、これを排除するために他の適当な手段がない場合に、必要最小限度の範囲のものに限って許容されるものであって、我が国が直接武力攻撃を受けていない場合に問題になる集団的自衛権の行使は、その範囲を超えるものとして憲法上許されないとしてきた。
 ところが、政府は集団的自衛権の行使容認等に向けて、2013年12月に国家安全保障会議(日本版NSC)を設置した上、自衛隊を質・量共に強化し、その活動範囲を広げる等、実力による国際紛争への対処の方向性を強く打ち出し、従来の政府解釈の自衛権行使要件の緩和につながりかねない「国家安全保障戦略」、「平成26年度以降に係る防衛計画の大綱」及び「中期防衛力整備計画(平成26年度~平成30年度)」を閣議決定した。
 そして、自衛隊法や周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(周辺事態法)、国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO協力法)等の個別法を改正しようとしている。また、政府は、集団的自衛権の行使に関する憲法解釈の変更を閣議決定等によって行う方針を示した。
 さらに現在、政府は、安倍晋三首相の私的懇談会である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の報告を受け、憲法解釈を変更する閣議決定を行おうとしている。
 このような憲法の基本原理に関わる変更を国民の意思を直接問う手続を経ることもなく、内閣の判断で行うことは、仮に集団的自衛権の行使に「限定」を付して認めるものだとしても、憲法を最高法規とし、国務大臣等の公務員に憲法尊重擁護義務を課して(憲法第98条第1項及び第99条)、権力に縛りをかけた立憲主義という近代憲法の存在理由を根本から否定するものである。立憲主義は、全ての人々が個人として尊重されるために憲法が国家権力を制限して人権を保障するというものであり、近代自由主義国家が共有するものであって、その趣旨は、個人尊重と人権保障にある。したがって、立憲主義の否定は、これらの価値を否定することにつながり、到底容認することができない。
 憲法前文は、全世界の人々の平和に生きる権利を実現するための具体的規範たる平和的生存権を定め、憲法第9条は一切の武力による威嚇・武力の行使を放棄し、他国に先駆けて戦力の不保持、交戦権の否認を規定して、軍事力によらない徹底した恒久平和主義を実現しようとするものであって、これらは世界に誇りうる先駆的意義を有する。
 憲法の徹底した恒久平和主義の下における外交・防衛政策は、軍事力によるのではなく、あくまでも平和的方法による国際的な安全保障の実現でなければならない。世界各国が相互に密接な経済的依存関係を有する今日、軍事力に頼るのではなく、平和的方法による地域的な共通の安全保障を追求することこそが現実的である。そのとき、世界に先駆けてあらゆる戦争を排した日本国憲法の先駆的意義こそが指針とされなければならない。
 当連合会はここに重ねて、政府が憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使を容認しようとすることに対し、立憲主義及び徹底した恒久平和主義に反するものとして、強く反対する。
 以上のとおり決議する。
               2014年(平成26年)5月30日
                            日本弁護士連合会


現在の安倍政権による集団的自衛権を憲法解釈で合憲化しようとするやり方は、立憲主義を破壊するものであり、到底許されるものではありません。


by asyagi-df-2014 | 2014-06-09 06:14 | 書くことから-憲法 | Comments(0)

厚木基地騒音訴訟を考える


厚木基地騒音訴訟を考える-2014年5月24日

 
2014年5月21日、厚木基地騒音訴訟で、自衛隊機の飛行差し止め命令が、全国初めてあった。
 朝日新聞は、次のように報じた。

 「米海軍と海上自衛隊が使用する厚木基地の周辺住民らが、騒音による被害を国に訴えた訴訟の判決が21日、横浜地裁であった。佐村浩之裁判長は、過去最高額となる総額約70億円の損害賠償に加えて、自衛隊機の午後10時~午前6時の間の飛行差し止めを初めて命じた。米軍機の飛行差し止め請求は退けた。」

 このニュースの受け止め方は、ちょっと難しいものになった。
 テレビ画面では「自衛隊機の飛行差し止め命令」の字が踊ってはいたが、注意してみると、米軍機の飛行差し止めは退けられていた。
 複雑な思いが残ることとなった。

 結論的にいうと、次の沖縄からの声(例えば沖縄タイムスの社説)が、今回の判決を捉えている。


沖縄タイムス社説-2014年5月22日

厚木基地騒音訴訟 米軍機こそ差し止めよ


 果たして、基地周辺の住民を苦しめている航空機の騒音被害が、これで解消される判決といえるのであろうか。
 米軍と海上自衛隊が共同使用する厚木基地(神奈川県)の騒音被害をめぐり、周辺住民約7千人が国に夜間・早朝の飛行差し止めなどを求めた第4次厚木基地騒音訴訟で、横浜地裁の佐村浩之裁判長は、自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止めを命じる全国で初めての判決を言い渡した。
 一方で米軍機への飛行差し止め請求は退けた。
 損害賠償も基地騒音訴訟では過去最高となる約70億円の支払いを命じた。
 判決は、住民の睡眠妨害などが「健康被害に直接結びつく相当深刻な被害」と認定するとともに、自衛隊が夜間・早朝の飛行を既に自主規制していることから自衛隊機の差し止めで「基地の公共性、公営上の必要性が大きく損なわれることはない」とした。
 原告団は判決に対し「100パーセントではないが一歩踏み出した判決」と喜びの声を上げた。一定の前進ではあろう。
 しかし、騒音の最大の原因である米軍機の飛行差し止めが認められなかったことで、実質的な騒音軽減策は置き去りにされた。
 判決でも触れているように「午後10時から午前6時までの時間帯の騒音は大半が米軍機によると認められる」としているからだ。
 つまり、自衛隊機の差し止めによっても、夜間・早朝の騒音は何ら変わらないということである。
    ■    ■
 厚木基地は、横須賀に配備されている原子力空母ジョージ・ワシントンの艦載機部隊と海上自衛隊の哨戒機などが駐留する。
 米軍機の夜間離着陸訓練(NLP)が実施されるなど、基地がある大和市、綾瀬市などのほか広範囲にわたって騒音被害を及ぼしている。
 自衛隊機に比べ、はるかに住民への負担が大きい米軍機について判決は「支配の及ばない第三者の行為の差し止めを国に求めるもので、棄却を免れない」と、いわゆる「第三者行為論」によって請求を退けた。
 原告団はもとより米軍基地が集中する沖縄にとっても、納得できるものではない。判決によって、あらためて司法が判断を避ける米軍の“不可侵”性が浮かび上がった。
    ■    ■
 県内では夜間・早朝の飛行差し止めなどを求め、嘉手納で第3次、普天間で第2次の訴訟が、周辺住民らが原告となって進められている。
 これまでの判決では過去の被害に対する損害賠償のみを認めている。肝心の米軍機の飛行差し止めなどは、「第三者行為論」によって退けられている。
 だがこれは、最高法規の憲法よりも、日米安保体制を上位に置く思考停止した論理である。人権のとりでである司法の役割を自ら放棄した判決と言わざるを得ない。
 自衛隊機によって健康被害が生じれば飛行を差し止め、米軍機に対しては差し止めないというのであれば、日本は米国の「属国」というほかない。


by asyagi-df-2014 | 2014-05-24 05:44 | 書くことから-憲法 | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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