2016年 07月 11日 ( 1 )

本からのもの-「日本会議と神社本庁」

著書名;「日本会議と神社本庁」-「日本会議と宗教右翼」
著作者:「週刊金曜日」成澤宗男編著-成澤宗男
出版社;金曜日




 成澤宗男さん(以下、成澤とする)は、「日本会議と宗教右翼」のなかで、日本会議の位置づけについて、「あたかもこの日本会議が安倍内閣を『完全支配する』とか、さらには、『日本を動かしている』かのような、明らかに過剰と思える評価も一部で生まれた。」、と指摘する。
 確かに、こうした現在の日本会議に対しての評価には、きちっとした検証、その光と影を捉える必要である。
 成澤は、日本会議を、「理念的には戦前の国家神道に求め、運動的には戦後になって国家神道が宗教法人として再編された神社本庁の政治活動の一つの帰結」として捉える。
 言はば、このことは、日本会議の現在の勢いそのものとその限界を示すものと言える。
 まず、成澤は、日本会議を次のように分析する。


(1)「日本会議は、1974年5月設立の日本を守る会と、1981年設立の日本を守る国民会議との合併によって1997年5月に結成された。日本会議は突然、今日の政治舞台に登場したのではなく、初期の組織実態は70年代半ばから80年代にかけて形成されている。だが社会的な注目度は現在よりもはるかに乏しかった。」
(2)「安倍の首相返り咲きによって一挙に政権の右傾化が進行し、このことによってあたかも日本会議自体が権力との近似性をかってなかったほど得たような印象が広がり、今日に見られるような高い関心を呼んだという点も、無視できないだろう。」
(3)「同時に、日本会議のイデオロギーの根源は根深く、戦前期までたどらねば見えてこない。したがってその分析にあたっては、戦前と戦後における、支配的価値観の断絶と継承という問題を避けて通ることはできない。」


 また、成澤は、この「日本会議と宗教右翼」における一つのテーマを「右派宗教勢力が戦後、政治性を研ぎ澄ましながら国政や社会に影響力を拡大してきた過程を検証する。」とし、日本会議結成の意味を次のように説明する。


(1)「そこでは、『日本人』「日本民族」は「かくあらねばならぬ」という一方的な価値観を、常に天皇の『権威』を振りかざしながら国民全体に同質化させ、均一化させようとする戦前からの衝動が、今日に至っても脈々と続いている事実が浮かび上がるだろう。」
(2)「そのような運動においては、大日本帝国の国民に対する精神的支配の根源が、初等教育における皇民化政策にあったという事実を熟知しているからか、常に政府の施設や公教育の面での制度的強制力を伴わせようとする傾向が強い。彼らが、教育行政に異様なまでの強い関心を示すのはそのためだ。」
(3)「こうした単一の価値観の強要、同質化とでも呼べるような志向が、神社本庁や右派の言説に、常時にじみ出ている。さらに神社勢力以外の、戦前の国家神道に迎合してきた宗教団体、及びそれをルーツとしたり、現在もイデオロギー的に戦前と決別しえていない勢力も加わることによって、今日の日本会議という団体が形成されるに至っている。」


 よって、成澤は、日本会議の姿を次のように描き出す。


(1)「日本会議は今日、明治憲法や国家神道の復活をストレートに掲げているわけではない。国家神道を『宗教法人』と変容させた戦後の制度をいったんは前提とし、その枠内で『伝統』であるからという名目で価値観の上からの同質化を進めながら、最終的には改憲とそれに伴う法的諸制度の整備(不敬罪の導入、宮中行事の公的行事化等)により、戦後の日本国憲法下の姿を変質させるのを意図している。」
(2)「それは、神権国家としての大日本帝国を過去に支え、導いてきた理念の核を、21世紀のこの国に形を変えて再導入しようとする試みとも言える。現状ではその狙いを即実現するのは困難だとしても、日本会議のように執拗に実現させようとする運動そのものが、確実にこの国の右傾化をいているのは疑いない。」


 さて、成澤は、日本会議を「理念的には戦前の国家神道に求め、運動的には戦後になって国家神道が宗教法人として再編された神社本庁の政治活動の一つの帰結」、として規定する以上、神社本庁について語らなけねばならない。
 何故なら、「戦前と戦後における、支配的価値観の断絶と継承という問題」とは、神社本庁の抱える問題であるからだ。
 成澤は、「国家神道の再編」という表現で、戦後の神社本庁を次のように押さえる。


(1)「全国の神社約7万9000社以上が加盟しているとされる神社本庁は戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が『神道指令』を発布し、厳密な政教分離原則によって国家と神道を切り離し、軍国主義的・国家主義的イデオロギーを禁止して国家神道を解体したわずか二ヶ月後の1946年2月3日、宗教法人として誕生した。その前進は、国家神道における『敬神思想の普及』を担い、解体された内務省傘下の神祇院と不離一体の関係を有する皇典講究所、及び大日本神祇会と、神宮奉齋会の三団体であり、『(伊勢)神宮を本宗と仰ぎ、道統の護持に努める』ため、『神社関係者の総意によって、全国神社を結集する』を宗教法人の定款で謳っての設立となった。」
(2)「敗戦後、神社は国家から分離され、国庫から支出された財政も、官吏としての神官のの地位も失った。だが一宗教法人として再出発しながら、①天皇が『皇祖皇宗』の『神』によって授けられた国を継承してきたという『国体観』と、②『天皇絶対主義』という、神道の長い歴史では 異質な性格を有する国家神道を日本の『伝統』として固定観念化し、それを発露することが『道義国家建設』であるとする使命感については、いささかの揺らぎもなかった。」
(3)「無論、『現人神』としての天皇の名による軍事動員であったがゆえに、15年戦争も『聖戦』あるいは『自存自衛の闘い』以外のいかなる歴史解釈も受け入れる余地はない。したがって神社本庁の宗教法人としての活動が開始された瞬間から、彼らは日本国憲法とそこに込められた基本的理念(主権在民、厳密な政教分離、思想信条の自由、良心の自由、不戦の表明と恒久平和主義)に対して、根本的に相いれない政治性を伴うことを運命付けられていたといってよい。」


 この三点の指摘こそが、「戦前と戦後における、支配的価値観の断絶と継承という問題」なのである。
 だから、神社本庁の戦後について、「神社本庁の戦後とは、いくつかの政治団体(神道政治連盟、英霊に答える会等)を組織し、後述する靖國神社国営化(あるいは靖國神社への首相・閣僚の公式参拝実現)や元号法制化、改憲といった政治運動に邁進して、右派ネットワークの中心・結集軸としての性格を強めていく過程であった。」、と分析する。
 そして、「そこにおいて、他の宗教勢力あるいは宗教的な思想集団が加わることで、今日の日本会議とそれに至る一連の政治的潮流を生みだす」、と鋭く言い当てる。
 また、「その実質的な第一歩が、『紀元節復活運動』にほかならなかった」、とも指摘する。


 さて、現在の日本会議を理解するために、「日本会議と宗教右翼」での指摘をここで引用する。
 このことを押さえることがあらためて非常に重要になる。


(1)に本会議と日青協
①「日本会議との関連で注目すべきは、成長の家よりも、その関連団体で、1970年11月に結成された日本青年協議会(日青協)の方に思われる。彼らは70年代の神社本庁が主導した運動に積極的に関与することで、日本会議結成へと至る過程で重要な役割を果たした。」
②「現在の日本会議は最初、臨済宗僧侶・朝比奈宗源のイニシアチブによって、明治人宮内に事務局を置く右派宗教集団が集う前進の日本を守る会が結成。そして以降、従来の右派宗教団体集団では持ち得なかった、左翼との闘いを通じた大衆運動のノウハウと経験を有する一軍の思想集団がその事務局を担うことで、今日の地位を得たかのように考えられる。」
③「日青協という、成長の家の創始者に『真底傾倒していた』一軍の集団は、『保守化の流れ』に乗り、右派宗教勢力による広範な一世一元の復活を求める大衆運動に加わって、そこで多大な評価を得た。こうした『実績』によってこそ、彼らは日本会議が全盛の感がある今日まで、右派大衆運動の中枢を常に掌握することができたと考えられよう。」


(2)日本会議の運動スタイル
①「1979年6月6日に国会で元号法が成立することで、紀元節復活に次ぐ神社本庁や成長の家を始めとした右派宗教勢力の大きな勝利となった。その副産物として、右派の大衆運動の基本的スタイルが形成されたと考えられる。それは、以下の二点に集約できるだろう。1 『地方から中央へ』という運動の積み重ね。元号法成立に先立ち、各自治体議会で『元号法制化』を求める決議や意見書が採択された。都道府県にも『元号法制化実現国民会議』の地方組織が結成され、全国的な世論の広がりに結集させた。この手法は、現在も『日本会議』主導による改憲運動にも見られる。2 後半で幅広い勢力の結集。神社本庁を中心に成長の家等他の右派宗教団体を結成し、さらに加えて著名な財界人や文化人、学者の顔を揃えるという、一種の広範な『統一戦線』が形成された。」
②「その後の日本会議がやったことは、結成式前日の『国会議員懇談会』設立が象徴するように、より『自民党依存型』を顕著にしたに過ぎない。一方で、このことが地方議員も含め、日本会議の強みとなったのみ事実だ。しかも『国会議員懇談会』は現在、280名(2016年4月段階)というから、設立時よりも80名近く増大している。やはり、相対的に政界での日本会議の影響力が強まっていることは疑いない。」
③「20年近い歳月は日本会議の役員構成及び組織に影響を及ばさないはずがない。修養団系を含む宗教関係者の役員は、結成時の25人から23人と2人減ったに過ぎず、その分、組織としての宗教色が濃くなったと言えようが、実際の動員もさらに各宗教団体に依存する割合が高まるのではないか。」
④「日本会議がその運動パターンに関し特別な変化を示した形跡はない。結成後、初めて開かれた1998年4月18日の総会では、①天皇即位10年の『奉祝運動』実施②国民的憲法論議の巻き起こし③教科書の偏向記述の是正④首相の靖國神社参拝実現⑤夫婦別姓法案反対-等の『国民運動方針』が採択された。このうち特筆すべきは、教科書記述や学校の教育現場に介入する『教育の国民運動』だろう。よく知られているように日本会議と村上正邦や小山孝雄を先頭にした日本会議国会議員懇談会。そして系列の地方議員が教科書攻撃を上回るマッカーシズムを思わせる弾圧ぶりでまず広島県の教育に対し、難癖をつけ、さらにそれが小渕恵三内閣による『日の丸・君が代』法制化に結実していく。この意味では、日本会議は結成直後にして早くも地震の存在感を示したと言えるだろう。」
⑤「恐らく地域での日本会議の活動にとって、程度の差はあれ神社は欠かすことができない存在だろう。そして、日本を守る国民会議から日本会議に移行しても、彼らの『勝利』は続く。その最大の成果として彼らが自負するのは、何といっても『教育の憲法』・教育基本法の改悪であったろう。」


(3)日本会議の今後
①「上川協議会(2002年設立)では、『軍都旭川を活動の中心とする支部として、自衛隊や隊友会とも友好関係を築き、共同で防衛学習会等を行っております』とある。具体的内容は不明だが、自衛隊が集団的自衛権行使の「合憲」化によって新により能動的な性格を帯びていく可能性もあり、日本会議との地域での自衛隊及びその関連組織のこれらのようなムス引きについても、今後注意が必要だろう。」
②「ただ確かなのは、日本会議がいくらこれからも自身の政治目的を達成していこうが、『国体の回復』など永遠にできはしないという点だろう。なぜなら、彼らが意図的にか、あるいは無意識的にか沈黙している『対米従属』という現実が、決して変わりはしないからだ。」


 最後に、成澤は、日本会議や宗教右翼に向けて、次のように突きつける。


「戦後70年間、『日本の伝統的国家理念を護持する』などと唱え続けている神社本庁やその同伴宗教団体にも当てはまる。とっくに冷戦が終結しながら、主権の及ばない異国軍隊の基地が首都圏や全国各地に居座り続けるというのは、いつから『日本の伝統』になったのか。こうした問いかけにどう見ても会等を用意してはいないような日本会議とそれを構成する右派宗教団体は、おそらく『占領スタッフ』が反共政策の結果生みだした、一つの意義ある成果なのだろう。一見『ナショナリズム』のような雰囲気を煽りながら、米国が命令すれば疑わずに何でも従うような自民党や日本会議といった集団がこの国の右傾化を推進すれば、米国にとっては許容範囲どころか、真の支配者が誰なのかを国民に見えにくくしてくれる機能も期待できるからだ。日本会議が諸悪の根源のように宣伝している現行憲法が、もし彼らの路線通り変えられても、異様な対米従属は微動だにすまい。その結果もし変わるものがあるとしたら、彼らが『美しい』よ呼んでいるこの国の、民主主義と国民主権、市民的自由、平和主義のさらなる後退ではないのか。」


by asyagi-df-2014 | 2016-07-11 06:12 | 本等からのもの | Comments(0)

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