2016年 02月 09日 ( 2 )

沖縄-沖縄タイムス特集【誤解だらけの沖縄基地】を読む(8・9・10)。

 沖縄タイムスの特集、「誤解だらけの沖縄基地」(8・9・10)を考える。
 第8・9・10回目は、「普天間第二小学校移転は反基地運動に妨害された?」、ということについて。
 沖縄タイムスは、上中下の三回にわたって次のように報告する。

(1)誤解の中味
①「反基地運動のために市民団体が普天間第二小学校の移転を意図的に妨害して、子どもたちを人質にした」。世界一危険な米軍普天間飛行場(宜野湾市)に隣接する第二小をめぐり、インターネット上でこんな話が流布されている。普天間飛行場の危険性の象徴として、市民団体が第二小を移転させずに反基地運動に利用しているという趣旨だ。同校は1980年から10年以上も移転問題に揺れた。なぜ、学校は動かなかったのか-。
②この「人質論」は、基地問題に対する沖縄の市民運動に批判的なブログやフェイスブックなどSNSで拡散。普天間飛行場は街のど真ん中にあり、周辺には住宅や学校、病院が密集するが、これらについてネット上では「『世界一危険な基地』は、学校を移転させずに危険をとどめようとする左翼のでっちあげだ」などのコメントが躍る。
 ネットで引用されているのは当時の保守系市長、安次富盛信氏や「市関係者」らへの取材をもとにした2010年のある全国紙の報道だ。報道によると、第二小はこれまで82年の米軍ヘリ墜落事故をきっかけに2度移転計画が持ち上がった。安次富氏が米軍と交渉し、キャンプ瑞慶覧の一部を学校用地として返還させることで合意し、予算も確保した。だが、市民団体が「移転は基地の固定化につながる」「命をはってでも反対する」などと抵抗したため、計画が頓挫したという。
(2)事実経過
①「こんな話は、聞いたことがない」。教育次長や企画部長などで同問題にかかわり、のちに宜野湾市長を務めた比嘉盛光さん(77)は首をかしげる。報道内容とは逆に、予算の補助を国に求めたが、最後までかなわなかったからだ。
②第二小は普天間小学校の過密化を解消するため69年、普天間小敷地内に暫定的に設置。翌70年、普天間飛行場に隣接し、滑走路延長上にある現在の場所に一部校舎が完成した。だが、文部省(当時)基準の4割にも満たない狭い敷地だったため、市は70年代から普天間飛行場の一部を返還させて敷地の拡張を模索する。79年には山口県岩国基地や、返還予定だった北谷町のハンビー飛行場から米軍ヘリなどが普天間飛行場に移駐。第二小の騒音は悪化し、教育環境の改善は、さらに急務となる。
 80年9月25日。安次富氏は、ある方針を打ち出す。「騒音で中断を余儀なくされ、適正な教育活動もできない。移転することが得策だ」。第二小の移転先として普天間飛行場と500メートルほど離れたキャンプ瑞慶覧の一部(現在の西普天間住宅地区)返還を求め、那覇防衛施設局(当時)へ要請書を出した。わずか1週間後の10月2日、滑走路で離着陸訓練中のOV10ブロンコが墜落。第二小移転の機運はさらに高まった。
③安次富氏は83年7月21日、防衛施設庁に補助を求めた。小学校を新たに建てる用地の取得費が当時試算で25億円に上り、市の財政規模では捻出が困難だったからだ。だが、国は「用地費の補助は制度にない」と型通りの対応だった。補助の見通しが立たない中、84年12月8日、那覇防衛施設局を通じ、安次富氏のもとに米側が一部返還に応じる“吉報”が届く。ただ、五つの条件が付されていた。中でも難題となったのが第4項だった。 「現在の第二小敷地およびすべての建物を、普天間飛行場として合衆国政府に提供することに応じること」
 キャンプ瑞慶覧の一部を学校の用地として返還する代わりに、いま第二小がある敷地を普天間飛行場に編入する。つまり、市民の土地を新たに基地へ差し出すというものだった。当時は西銘順治知事が普天間飛行場などの整理縮小を訴えていた時代。安次富氏は返還への条件があったことや、その対応を公表しないまま、3選を目指した85年7月の市長選で、革新の桃原正賢氏に敗れた。なぜあの時、安次富氏は移転を決断できなかったのか。安次富氏の次男・修氏は当時、國場幸昌衆院議員の秘書を務め、国との調整に奔走していた。修氏は、こう思い起こす。「施設庁側は、第二小の移転は市長の決断次第だ、と言っていた。ただ、父にとって編入条件の受け入れは、第二小の移転が実現する一方、市民の理解を得られるのか、もろ刃のつるぎの側面があった。世論を見極めていたように思う」
④市長就任後、編入条件を知った桃原氏もまた、苦悩する。「基地の整理縮小を求める民意に背くことになる」。86年11月には条件の撤回と、あらためて用地取得のための補助金交付を那覇防衛施設局へ要求した。めどが立たない25億円の用地取得費に、容認しがたい現有地の基地への編入。国との交渉は長引く。88年11月。桃原氏はPTAからの移転要請を受け、強い決意を胸に与党議員や教育委員会とともに上京、関係省庁へ用地費の補助と、編入条件の撤回を要求した。
 「広大な米軍基地を抱える自治体への思いやりは国として必要ではないか」「基地の整理縮小は県民の要望。跡地が軍用地になるのは世論に背を向ける」
 それでも、基地を抱える街の訴えは届かなかった。
⑤移転計画の浮上から12年がたった92年。これまで移転要請を重ねてきた第二小PTAが、断念を決意する。
「危険と同居 仕方ない」「PTA苦渋の決断」
 1992年9月19日付の沖縄タイムス朝刊の見出しだ。米軍普天間飛行場に隣接する普天間第二小のPTAが18日に開いた臨時総会。これまで宜野湾市に毎年のように求めてきた校舎移転を断念し、現在地での建て替えを求めることを決めた。なぜ、苦渋の決断をしなければならなかったのか。建築から20年以上たち校舎は老朽化。建設費の高率補助が適用される復帰特別措置法の期限が2年後に迫り、キャンプ瑞慶覧の一部を返還させて移転するのか、現在地で建て替えるのか、決断を迫られていた。たとえ移転を選択しても、学校用地費は計画当初の25億円から50~60億円に高騰。市が要求してきた国の補助は認められず、移転はいつになるか分からない-。
 PTAの決議を受け、第二小は現在の場所で増改築され、96年に新校舎が完成した。
(3)問題の核心
①当時、校長の比嘉岳雄さん(81)は「天井のコンクリートがはげ落ちて落下する。鉄筋はむき出し。私たちにできることは、老朽化による危険から子どもたちを守ること。米軍基地からの危険を取り払うのは政治にしかできなかった」と振り返る。
 比嘉さんは新校舎落成記念誌に、沖縄に米軍基地が集中している現状を踏まえ、国から用地費の補助が出なかったことに、こう記している。
 「当時の関係省庁は沖縄の実情を全く組み入れず、全国共通メニューで操作していて、政治的配慮に欠けていたと思う」
②学校を移転しても米軍基地の整理縮小、市全体の危険性にはどう向き合うのか。移転計画は基地あるがゆえの問題に阻まれた。
 一般質問で第二小問題を取り上げていた革新系元市議の上江洲安儀さん(80)は「第二小が移転するということは普天間飛行場が存在し続け、市に危険がそのまま残るということだ。近くにはほかの学校もあり、第二小を移転したとしても、根本的な解決につながらない。普天間飛行場こそ撤去するべきだった」と指摘する。
(4)誤解の指し示すもの
 報道は、歴史的背景や経緯が不明なままネット上で拡散し、オスプレイや辺野古新基地建設の反対運動への批判を誘導している。
 沖縄国際大学の佐藤学教授(政治学)は「報道を利用した反対運動への批判は、沖縄への米軍基地の集中を正当化したい心理があり、沖縄をおとしめて、罪悪感を拭いたいという気持ちがある」と指摘。その上で、「若者がネット上の虚偽の言説を受け入れてしまうのはなぜかも考える必要がある」として、歴史の知識の欠如に警鐘を鳴らした。

 
 「『世界一危険な基地』は、学校を移転させずに危険をとどめようとする左翼のでっちあげだ」といった誤った内容が意図的にネットという世界に流布される。
 もう一方には、正確な歴史的背景や経緯を理解することなく、意図的に流された虚位の言説を信じ込ませる手立てを安易に受け入れる世界が形作れれてしまっている。
 だとしたら、これを正していく作業が、非常に大切になっている。
 例えば、「第二小が移転するということは普天間飛行場が存在し続け、市に危険がそのまま残るということだ。近くにはほかの学校もあり、第二小を移転したとしても、根本的な解決につながらない。普天間飛行場こそ撤去するべきだった」といった沖縄タイムスの取り組みが重要になってくる。


 以下、沖縄タイムスの引用。





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by asyagi-df-2014 | 2016-02-09 11:07 | 沖縄から | Comments(0)

労働問題-労働者の実質賃金は4年連続下がる。政府主導のベアは、物価の伸びには追いつかず、多くの国民は給与増を実感できていない。

 厚生労働省の発表によると、労働者の実質賃金は4年連続下がった。
 このことについて、東京新聞は2016年2月8日、「厚生労働省が八日発表した毎月勤労統計調査(速報)によると、二〇一五年の働く人一人当たりの給与総額(名目賃金)は月平均三十一万三千八百五十六円で、前年より0・1%増えた。増加は二年連続。ただ物価上昇の方が大きかったため、物価の影響を考慮した実質賃金は0・9%減で、四年連続のマイナスだった。」、と報じた。
 また、その内容について、「多くの大企業は一五年春闘で、賃金を底上げするベースアップ(ベア)を二年連続で実施したが、賃上げは物価の伸びには追い付かず、働く人が景気回復を実感する状況にはなっていない。」、「給与総額を就業形態別にみると、正社員などフルタイムで働く一般労働者は0・4%増の四十万八千四百十六円、パート労働者は0・5%増の九万七千八百十八円だった。働く人のうちパートの占める割合は30・46%で、過去最高を更新した。」、「働く人全体の給与の内訳は、基本給などの所定内給与は0・3%増の二十三万九千七百十二円で、十年ぶりに増加。残業代などの所定外給与は0・4%増の一万九千五百八十六円、ボーナスなど特別に支払われた給与は0・8%減の五万四千五百五十八円だった。」、「同時に発表した一五年十二月の給与総額は前年同月と比べ0・1%増の五十四万四千九百九十三円だった。実質賃金は0・1%減だった。」、と伝えた。

 東京新聞は、「基本給の額面は少し上がったが、物価がそれ以上に上がり、生活は苦しいまま』。これが調査が示す国民の実感だ。」、「アベノミクスは物価を押し上げることには成功したが、国民生活が向上する効果は十分に出ていないことを示している。」と、次のように指摘している。


「毎月勤労統計調査(速報)の二〇一五年の実質賃金指数は前年比0・9%減となった。『基本給の額面は少し上がったが、物価がそれ以上に上がり、生活は苦しいまま』。これが調査が示す国民の実感だ。
 しかも実質賃金のマイナスは四年連続。このうち三年間は安倍政権の経済政策、アベノミクスが推し進められてきた期間と一致する。統計は、アベノミクスは物価を押し上げることには成功したが、国民生活が向上する効果は十分に出ていないことを示している。
 アベノミクスは『金融緩和や財政出動でまず企業収益を高める。それが労働者の賃金上昇につながり、消費が活発化して再び企業がもうかる』という循環を狙った経済政策。確かに政府が介入した『官製春闘』の効果もあり、一五年春は多くの大企業が二年連続のベースアップに応じた。
 一方で一四年四月には消費税増税があり、金融緩和に伴う円安で輸入物価は上昇。食料品や生活必需品の価格は上がった。一四年夏に始まった原油価格の大幅下落がなければ物価はもっと上がっていたはず。政府主導のベアは、これらの物価の伸びには追いつかず、多くの国民は給与増を実感できていない。」 


 これは、安倍晋三政権の成長戦略路線のもとでのアベノミクスの限界がもはや定着してしまった現状からの告発である。


 以下、東京新聞の引用。





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by asyagi-df-2014 | 2016-02-09 06:14 | 書くことから-労働 | Comments(0)

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