2015年 08月 15日 ( 3 )

「70年内閣総理大臣談話」を考える(2)。

 安倍晋三内閣の2015年8月14日の談話について、今回は、各紙の社説・論説の主張から考えてみる。
 
 各紙の主張は次のとおりである。

北海道新聞
・だが朝鮮半島などでの植民地支配は明言せず、西欧列強による植民地化の歴史に触れただけだった。先の大戦の「おわび」も「わが国は繰り返し表明してきた」と、間接的な表現にとどまった。
 中国や韓国とのこじれた関係を打開する和解のメッセージなのか―。国際社会も注視していた談話だが、これでは十分な説得力を持って伝わったとは言い難い。
 「子供たちに謝罪を続ける宿命を負わせてはならない」とも述べた。ならば近隣諸国との間の問題の解決、和解を急ぐべきだ。
 中国や韓国が歴史問題を政治宣伝に利用するのであれば相互不信を招く。ただアジア諸国に計り知れない人的、物的被害を与えた日本の首相が率直に「おわび」を表明するのは当然だ。一般論にとどまったのは残念だ。
・自分で考え、声を上げる。その積み重ねが政治の方向を誤らせず、確かな未来を開くと信じる。」
河北新報
・似て非なる物。そんな印象を拭えず、多くの国民はもとより国際社会、わけても先の戦争で大きな被害を与えたアジア諸国の十分な理解と共感を得られるかどうか危ういと言わざるを得ない。安倍晋三首相がきのう、発表した「戦後70年談話(安倍談話)」である。」
避けてきた「侵略」「おわび」に触れ、先の談話のキーワードを全て盛ったものの、国際的原則や過去の談話に沿わせるなど、自らの真意を覆い隠すかのようだ。
 侵略やおわびの主体の不透明さも否めず、姑息(こそく)と受け取られかねない。説明は回りくどく、自身の認識を回避した格好で、歴史修正主義者との疑念を払拭(ふっしょく)できまい。
・避けてきた「侵略」「おわび」に触れ、先の談話のキーワードを全て盛ったものの、国際的原則や過去の談話に沿わせるなど、自らの真意を覆い隠すかのようだ。
 侵略やおわびの主体の不透明さも否めず、姑息(こそく)と受け取られかねない。説明は回りくどく、自身の認識を回避した格好で、歴史修正主義者との疑念を払拭(ふっしょく)できまい。
東奥日報
・安倍首相は会見で「不戦の誓いを堅持していくことが談話の最も重要なメッセージだ」と強調した。「侵略」「植民地支配」と認め、「おわび」すべきと考えているのであれば、その意思を明示していく必要がある。
岩手日報
・しかし、過去の談話に比べると、自身を主語にした明確な表現は消え、間接的な言い回しが目立つ。自身の歴史観に基づくぎりぎりの表現かもしれないが、首相の「本意」をめぐって今後の火種にならないか危惧もある。
・どうすれば、「宝物」をこれからも壊さないで守っていけるのか。「幾多の偶然や力学」ではなく、確かなものにしていく道を探りたい。
福島民報
・先の大戦への深い悔悟の念とともに、不戦の誓いの堅持を表明した。歴代内閣の立場を引き継ぐ形で、痛切な反省と心からのおわびも盛り込んだ。その上で未来志向の姿勢を打ち出し、これまで以上に世界の平和と繁栄に貢献する強い意志を示している。談話に込められた決意は、国民が支持する施策に反映されてこそ重みを持つ。首相には民意に寄り添い、平和国家の指導者にふさわしい丁寧な国政の運営を求めたい。
・日本が誤った方向に進まないよう、節目の年に平和への思いをさらに深め、国政を注視したい。
福島民友新聞
・過去の誤った戦争への反省に立ち、確かな未来をつくるための決意を国内外に発信したものと受け止めたい。
・ただ、この表現では「侵略」の地である中国、「植民地支配」の対象であった韓国などでは疑念を招きかねない。今後、国会答弁などで補足する必要があるだろう。
 首相が最後までこだわったとされる「おわび」については、「あの戦争に何ら関わりのない世代に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と述べ、持論をにじませた。その上で、「世代を超えて、過去の歴史に真っ正面から向き合わなければならない」と述べ、過去を受け継ぎ、歴史を未来へと引き渡す責任を強調した。
茨城新聞
・しかし、村山談話や、それを踏襲して2005年に小泉純一郎首相が公表した戦後60年談話のように自らを主語としての明言ではない。その意味で、「侵略」「植民地支配」などの歴史認識や「反省」「おわび」を自ら断言しているものではない。
・ 安倍首相本人も「侵略」「植民地支配」と認め、「おわび」すべきと考えているのであれば、公の場で、そう明言すべきであろう。
中日新聞
・有識者会議「二十一世紀構想懇談会」の報告書は「満州事変以後、大陸への侵略を拡大」と具体的に言及したが、安倍談話では「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」という部分だけだ。
・この表現だと、侵略の主体が日本なのか、国際社会一般のことなのか、明確にはなるまい。一九三一年の満州事変以降の日本の行為は明らかに侵略である。自衛以外の戦争を禁止した二八年の不戦条約にも違反する。アジア解放のための戦争だったという主張も受け入れがたい。
・「植民地支配から永遠に訣別(けつべつ)し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」との決意は当然としても、日本による植民地支配に対する反省とお詫びを表明したとは、受け取りがたい。
・将来にわたって、過去と同じ轍(てつ)を踏まないためには、侵略や植民地支配という「負の歴史」とも謙虚に向き合って反省し、詫びるべきは詫びる勇気である。
 戦争とは何ら関わりのない将来世代に謝罪を続ける宿命を負わせないためには、聞く者の心に響くような言葉で語る必要がある。それが戦後七十年を生きる私たち世代の責任ではないのか。
北國新聞
・村山談話などと比べて格段に長く、格調があり、よく練られている。抑制気味ながらも安倍政権が掲げる「積極的平和主義」の理念を押し出し、訴える力もあった。
・陛下のお言葉と、安倍談話にある「国内外に倒れた全ての人々の命の前に深くこうべを垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の哀悼の誠をささげる」とした文面には強い同調性が感じられる。
福井新聞
・平和は、よほど強い意志と行動力がなければ、それを実現し、維持することは困難であろう。70回目の終戦の日。戦争の加害と被害を体験しながら、苦しみ、廃虚から立ち直ってきた民の長い歴史である。真摯(しんし)に過去と向き合いたい。
・「政治は歴史に謙虚でなければならない」と強調したが、戦後50年の村山談話や60年の小泉談話に盛り込まれたキーワードの「植民地支配」「痛切な反省」「侵略」「心からのおわび」については両談話を引用した形にとどめ、「自らの言葉」では語らなかった。むしろ過去より国際平和へ向けた未来志向が強調された。
・「平和は力では保たれない。平和はただ分かりあうことで、達成できるのだ」-物理学者アインシュタインの警句をかみしめたい。
神戸新聞
・会見で首相は、大戦への反省とおわびを表明した「歴代内閣の立場は、今後も揺るぎない」とし、「不戦の誓いを堅持していく」と強調した。だが、談話発表までの複雑な経緯から、国民や周辺国の人々の心に響いたかは疑問と言うしかない。
・歴史認識をめぐる対立は、虐殺による犠牲者数、慰安婦募集時の強制性の有無、といった点に集中しがちだ。しかし、その違いをもって事実を否定する論理は国際社会では通用しない。事実を受け止め、なぜ溝が埋まらないのかを議論しなければ、国際社会の信頼も得られない。
 歴史認識とは、今を生きる私たちが過去の事実をどう受け止めるかであり、「今」が問われる。
紀伊民報
・戦争は多くの人命を奪い、あらゆる不条理を生み出す。そして歴史を振り返れば、いつの時代も政治が誤る可能性はある。そういう事実に私たちは、もっと謙虚になるべきではないのか。15日は終戦記念日。戦没者の冥福を祈り、あらためて平和を誓う日でもある。 しかし現実には、それに逆行する流れが強まっている。だからこそ戦争と戦後の混乱期の記憶、体験談を語り継ぐことの大切さをひときわ強く感じる。
山陽新聞社
・戦後70年の節目の「終戦記念日」を迎えた。今や国民の8割が戦後生まれとなった。「あの戦争は何だったのか」。私たちは折に触れて問い直し、あの戦争を知る努力をしなければならない。
・きのう安倍晋三首相は戦後70年の談話を発表した。開戦に至る世界情勢に触れ、「日本は外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みた」「国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」と述べた。従来の首相談話になかった部分である。国内の政治システムがなぜ歯止めにならなかったのか。「不戦の誓い」を堅持していくため、私たちはきちんと歯止めを持っているか。検証を続けなければならない
愛媛新聞
・先の大戦について「痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきた歴代内閣の立場は、今後も揺るぎない」としたものの、首相自身がおわびの気持ちを有しているかどうか明言しなかった。近隣諸国が首相の歴史認識に対して抱いている不安を取り除くには遠く、失望を禁じ得ない
・とはいえ、山口代表が求めた「中国と韓国との関係改善に資するもの」には不十分だろう。残留孤児を育ててくれた中国人の「寛容の心」や、従軍慰安婦の存在に「忘れてはならない」と言及し韓国への配慮の姿勢は見せたが、これで両国の反発が和らぐとは思えない。中韓両国のマスコミも談話を批判的に伝えている。関係改善に向けて一層の努力が必要になったと肝に銘じるべきだ。
 「植民地支配から永遠に決別する」ことや、国際紛争を「力の行使ではなく、平和的・外交的に解決していく」のは当然のことだ。首相が成立させようとしている安保法案による「抑止力の向上」こそ、その平和を脅かすものとして多くの国民や周辺諸国から警戒されていることを認識しなければならない。
徳島新聞
・「反省」と「おわび」については「わが国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきた」とし、「歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎない」と強調している。これでは、安倍首相自身がどう考えているのか分かりにくい。首相は、自らの言葉で反省やおわびを率直に表明するべきだった。
・節目の安倍首相の談話は極めて重い。言行不一致とならないよう注視していく必要がある。
高知新聞
・安倍談話の侵略や植民地支配は一般論として否定されており、日本の先の大戦での行為だと明確にしていない。これらの曖昧さが、中韓を含む国際社会で議論になる可能性もある。
・首相の「抑止力が高まることで紛争を未然に防げる」という説明は、国民の理解を得るには至っていない。談話を出したことによって、さらなる説明を重ねる必要がある。強引に成立を図るのは言語道断だ。首相はもともと、歴代内閣の「おわび」などの表現を引き継ぐ必要はないというのが持論だった。それが曲折を経て、体裁だけは整えた感が否めない。談話にどう魂を入れていくか、首相が問われるのはこれからだ。
宮崎日日新聞
・一人一人に過酷な「戦後」を用意するのが戦争だ。前を向き歩んでいても、日常の中に逃れられない記憶を差し込み胸をえぐる。70年たっても自分だけ生き残ったと悔やみ続ける人の多さに、戦争の残酷さを思わずにはいられない。
・戦後70年のはずなのに、なぜ「戦前」を意識せざるを得ないのだろう。違憲の疑いが払拭(ふっしょく)されないまま法案成立へと突き進む政権の姿勢や、報道圧力問題、戦争はだめだと訴える若者団体への批判など、振り返ればさまざまある。国民を不安にさせてはならない。
佐賀新聞
・談話は歴史、外交研究者などの有識者による半年にわたる議論を踏まえている。それだけに総体としては国内外の評価に耐えるものだろう。歴史観は国民一人一人が持つもので多数決でも国が決めるものでもないが、国民的に共有できる部分も多いと思われる。
 また、英語に翻訳して世界に発信された。国際的な理解を得る努力として評価したい。私たちは戦後の日本の歩みに誇りと自信を持ち、国際的な評価を得ていることを確信している。それが中韓との関係を未来志向に切り替える力となるべきだ。
南日本新聞
・村山談話に否定的だった首相である。キーワードに言及したことは一定の評価ができる。
 ただ、首相談話は首相自ら述べたように「先の大戦に対する反省と戦後の歩み、これからの日本がどうなっていくか」を国内外に向けて発するメッセージだ。
 なのに、首相の本心が伝わってきたとは言い難い。「だれが、どんな行為を反省するのか」という具体性に欠けたからだろう。
 今後、国会答弁などで自らを主語に明言する必要がある。
・問われたのは、首相がどこまで主体的に過去の加害を直視できるか、ではなかったか。避けたような印象を与えたのでは、談話を出した意味が問われる。記者会見の質疑で「どのような行為が侵略にあたるのか、歴史家の議論に委ねたい」と答えたことも気掛かりだ。
琉球新報
・おわびは「わが国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきた」と歴代内閣による謝罪の経過を紹介する中で触れた。「歴代内閣の立場は、今後も揺るぎない」と付け加えたが、直接的な謝罪は避けた。
 侵略に関しては「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、二度と用いてはならない」「植民地支配から永遠に決別しなければならない」としたが、客観的表記にとどまる。「戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた」ことに触れたが、加害の立場に言及しなかった。
 一方で「戦争に関わりのない世代に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と述べた。これは「歴史に真正面から向き合う」姿勢と矛盾しないのか。それとも謝罪はもう十分ということなのか。
・首相は会見で「未来に向け世界で日本はどういう道を進むべきか」と問うたが、憲法の国民主権や平和主義に基づく戦後の歩みを続けることこそがその答えだ。市民よりも国家が優先された過ちを繰り返さないために、今こそ不戦の原点を見詰め直すべきだ。
沖縄タイムス
・たとえば「侵略」。「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」と表現している。先の大戦における中国などに対する日本の行為を侵略とは言い切っていないのである。その後の記者の質問にも「具体的にどのような行為が侵略に当たるか否かについては、歴史家の議論に委ねるべきだ」と答えているから、よけい疑念が募る。
・侵略や植民地支配とも主語がはっきりせず、加害者としての立場を意図的にぼかしていると言わざるを得ない。
・両立できないことをあえて両立させようとしたのが安倍談話である。それを象徴しているのが談話の「子や孫、その先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」としながら、「それでもなお、日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」の下りである。両方に目配りするあまり意味を成さない文章となった。
東京新聞
・安倍談話は「わが国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきた」として村山、小泉談話に言及し、「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものだ」と受け継ぐことを言明した。
 この部分は評価するが、気になるのは個々の文言の使い方だ。
 首相が、七十年談話を出すに当たって参考となる意見を求めた有識者会議「二十一世紀構想懇談会」の報告書は「満州事変以後、大陸への侵略を拡大」と具体的に言及したが、安倍談話では「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」という部分だけだ。
 この表現だと、侵略の主体が日本なのか、国際社会一般のことなのか、明確にはなるまい。
・「植民地」という文言も、談話には六カ所出てくるが、いずれも欧州列強による広大な植民地が広がっていたという歴史的事実を述べる文脈だ。
 「植民地支配から永遠に訣別(けつべつ)し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」との決意は当然としても、日本による植民地支配に対する反省とお詫びを表明したとは、受け取りがたい。
・将来にわたって、過去と同じ轍(てつ)を踏まないためには、侵略や植民地支配という「負の歴史」とも謙虚に向き合って反省し、詫びるべきは詫びる勇気である。
 戦争とは何ら関わりのない将来世代に謝罪を続ける宿命を負わせないためには、聞く者の心に響くような言葉で語る必要がある。それが戦後七十年を生きる私たち世代の責任ではないのか。
朝日新聞
・いったい何のための、誰のための談話なのか。
 安倍首相の談話は、戦後70年の歴史総括として、極めて不十分な内容だった。
 侵略や植民地支配。反省とおわび。安倍談話には確かに、国際的にも注目されたいくつかのキーワードは盛り込まれた。
 しかし、日本が侵略し、植民地支配をしたという主語はぼかされた。反省やおわびは歴代内閣が表明したとして間接的に触れられた。
 この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった。改めて強くそう思う。
・「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」
 それ自体、もちろん間違いではない。しかし、首相自身が引き継ぐという村山談話の内容から明らかに後退している。
・出す必要のない談話に労力を費やしたあげく、戦争の惨禍を体験した日本国民や近隣諸国民が高齢化するなかで解決が急がれる問題は足踏みが続く。いったい何のための、誰のための政治なのか。本末転倒も極まれりである。その責めは、首相自身が負わねばならない。
毎日新聞
・全体に村山談話の骨格をオブラートに包んだような表現になっているのは、首相が自らの支持基盤である右派勢力に配慮しつつ、米国や中国などの批判を招かないよう修辞に工夫を凝らしたためであろう。
 しかし、その結果として、安倍談話は、誰に向けて、何を目指して出されたのか、その性格が不明確になった。歴代内閣の取り組みを引用しての「半身の言葉」では、メッセージ力も乏しい。
・ただし、消極的ながらも安倍首相は村山談話の核心的なキーワードを自らの談話にちりばめた。「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を与えた」と加害性も認めた。その事実を戦後70年の日本はプラスに転化させる必要がある。すなわち、すでに定着した歴史の解釈に異を唱え、ストーリーを組み替えようとする歴史修正主義からきっぱりと決別することだ。
読売新聞
・先の大戦への反省を踏まえつつ、新たな日本の針路を明確に示したと前向きに評価できよう。
・首相が「侵略」を明確に認めたのは重要である。戦後50年の村山談話、戦後60年の小泉談話の見解を引き継いだものだ。
・「侵略」の客観的事実を認めることは、自虐史観ではないし、日本を貶おとしめることにもならない。むしろ国際社会の信頼を高め、「歴史修正主義」といった一部の疑念を晴らすことにもなろう。
・談話が表明したように、「21世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードする」ことが、今、日本に求められている。談話は、戦争とは何の関わりのない世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」とも強調している。
 この問題に一定の区切りをつけて、子々孫々にまで謝罪行為を強いられないようにすることが大切である。中国や韓国にも、理解と自制を求めたい。
・談話は、日本が今後進む方向性に関して、「国際秩序への挑戦者となってしまった過去」を胸に刻みつつ、自由、民主主義、人権といった価値を揺るぎないものとして堅持する、と誓った。「積極的平和主義」を掲げ、世界の平和と繁栄に貢献することが欠かせない。こうした日本の姿勢は、欧米や東南アジアの諸国から幅広く支持されている。

 「歴史の声」に耳を傾けつつ、日本の将来を切り拓ひらきたい。


 今回の社説等で際立った違いを見せたのは、朝日新聞と読売だった。
 朝日新聞は、「いったい何のための、誰のための談話なのか。・・・この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった。改めて強くそう思う。」とまで言い放った。
 一方、読売新聞は、これは予想の範囲なのだが、「先の大戦への反省を踏まえつつ、新たな日本の針路を明確に示したと前向きに評価できよう。」とし、「『謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない』とも強調している。この問題に一定の区切りをつけて、子々孫々にまで謝罪行為を強いられないようにすることが大切である。中国や韓国にも、理解と自制を求めたい。」とまで言い切っている。
 果たして、読売新聞は、何を求めているのだろうか。


 さて、愛媛新聞の「先の大戦について『痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきた歴代内閣の立場は、今後も揺るぎない』としたものの、首相自身がおわびの気持ちを有しているかどうか明言しなかった。近隣諸国が首相の歴史認識に対して抱いている不安を取り除くには遠く、失望を禁じ得ない。』との指摘が、今回の「70年」についての各新聞社の最大公約数的な感想ではないだろうか。
 だから、安倍晋三政権に対して、宮崎日日新聞のような「戦後70年のはずなのに、なぜ『戦前』を意識せざるを得ないのだろう。違憲の疑いが払拭(ふっしょく)されないまま法案成立へと突き進む政権の姿勢や、報道圧力問題、戦争はだめだと訴える若者団体への批判など、振り返ればさまざまある。国民を不安にさせてはならない。」という「声」が多く出されることにもなる。
 この意味を、この期において、安倍晋三政権は、じっくり噛み締める必要がある。
 最後に、安倍晋三政権には、中日新聞の「将来にわたって、過去と同じ轍(てつ)を踏まないためには、侵略や植民地支配という『負の歴史』とも謙虚に向き合って反省し、詫びるべきは詫びる勇気である。戦争とは何ら関わりのない将来世代に謝罪を続ける宿命を負わせないためには、聞く者の心に響くような言葉で語る必要がある。それが戦後七十年を生きる私たち世代の責任ではないのか。」と、福井新聞の「平和は、よほど強い意志と行動力がなければ、それを実現し、維持することは困難であろう。70回目の終戦の日。戦争の加害と被害を体験しながら、苦しみ、廃虚から立ち直ってきた民の長い歴史である。真摯(しんし)に過去と向き合いたい。」という言葉を贈る。

 以下、各新聞社の社説・論説等の引用。(非常に大量印刷になります)





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by asyagi-df-2014 | 2015-08-15 17:59 | 書くことから-いろいろ | Comments(0)

「70年内閣総理大臣談話」を考える。

 安倍晋三内閣は2015年8月14日、内閣総理大臣談話を閣議決定し、閣議終了後、首相官邸で記者会見を行い、この談話を発表した。
 内閣が、この談話を出すことについて、最も問題になった「植民地支配と侵略」と「お詫び」がどのように書き込まれているかについて、50年談話(以下、「50年」)、60年談話(以下、「60年」)、70年談話(以下、「70年」)のそれぞれを比べるなかで、この「内閣総理大臣談話」について考える。
 まず、「植民地支配と侵略」について。
 「50年」は、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。」と。
 「60年」は、「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。悲惨な戦争の教訓を風化させず、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です。」と。
 「70年」は、次の表現がそれに当たる。


 「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別(けつべつ)し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。」
 「私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。」
 「私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。」


 こうして並べてみると、すぐに気づかされるものがある。
 「50年」の「わが国は、・・・戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって」という表現及び「60年」の「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって」という表現における「植民地支配と侵略」を侵した者の主語は、明確にわが国(我が国)になっている。
 しかし、「70年」の「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実」という表現では、その「計り知れない損害と苦痛」が「植民地支配と侵略」に当たるのかどうかが不明確であるし、同様に、「私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去」「私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。」という表現では、その「過去」に日本の「植民地支配と侵略」の歴史の事実が含まれているかどうかが明確になっていない。
 また、「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。・・・先の大戦への深い悔悟の念と共に」という表現の中には、「植民地支配と侵略」を侵した者は誰なのかという「主語」が意図的に書き込まれていない。
 そこでは、ただ単に、「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別(けつべつ)し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。」とされ、「事変、侵略、戦争」が自らの「植民地支配と侵略」の歴史の事実を謙虚に受け止めるものとして認識されるのではなく、単に、一般論として述べられているに過ぎない。
 実は、日本の「植民地支配と侵略」の歴史の事実が含まれているかどうかが、「70年」と「50年」及び「60年」との大きな違いになっている。
 それどころか、「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」と、自らを西洋諸国からの植民地支配からの解放者とさへ位置づけてしまっている。
 これでは、「インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史」を、日本が胸に刻みこむことで努力していくことを、この国々が理解することには繋がらない。


 次に、焦点化されていた「お詫び」の問題については次のようになっている。
 「50年」は、「疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」とあり、疑うべくもないこの歴史の事実(植民地支配と侵略)を侵した者としての「お詫び」となっている。
 「60年」も、「こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」とあり、こうした歴史の事実(植民地支配と侵略)を侵した者としての「お詫び」となっている。
 しかし、「70年」は、「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。」としか表現されてない。
 つまり、「植民地支配と侵略」を侵した者は誰なのかという「主語」が書き込まれていないことが、どういうことをしたことに対して「お詫び」するのかということを不明確にしてしまっている。誰に「お詫び」しているのかもわかりにくくなっている。
 「50年」の「疑うべくもないこの歴史」や「60年」の「こうした歴史の事実を」という場合の「歴史」という表現は、明確に「植民地支配と侵略」の「歴史」を指してきており、歴代内閣は、その歴史の事実を謙虚に受け止めようとしてきた。
 「70年」では、「こうした歴代内閣の立場は、今後も、ゆるぎないものであります。」という表現はされているが、これまでの日本の「植民地支配と侵略」の歴史の事実を明確にはしていないため、安倍晋三内閣とこれまでの内閣との継続性が失われることになる。


 さて、内閣総理大臣の談話内容として気になることは、「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。」という文章が、全体として非常に矛盾したものになってしまっていることである。
 本音としての「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言いたいために、それでは歴史の事実を否定しかねないので、「しかし」以降を無理につけ加えた格好になり、文章として破綻している。
 結局、ここにこそ、この「70年」が、「植民地支配と侵略」の歴史の事実をまさしく否定する主張であったことに、気づかされる。


 最後に、「積極的平和主義」について、「『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。」と、触れられている。
 ただ、ここでも「積極的平和主義」についての具体的な肉付けはされておらず、イメージの植え付けだけに利用されていることは否めない。

 以下、「50年」、「60年」、「70年」の引用。





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by asyagi-df-2014 | 2015-08-15 08:11 | 書くことから-いろいろ | Comments(0)

原発問題-川内原発は再稼働するべきではない。

 川内原発第1号機の再稼働に関して、NPO法人原子力資料情報室は、「川内原発は再稼働するべきではない」と、表明した。
 この声明を要約する。

(原子力情報室の主張)
 原子力規制委員会は、認可を撤回するべきであり、また九州電力も川内原発1号機の再稼働を取りやめるべきである。
(主張の根拠)
(1)原子力規制委員会の田中俊一委員長が「絶対安全とは言わない」と繰り返し指摘する通り、新規制基準に適合したからといって、絶対の安全が確保されるわけではない。しかし、福井地裁大飯原発3、4号機運転差止請求事件判決要旨が指摘する通り、「ひとたび深刻な事故が起これば、多くの人の生命、身体やその生活基盤に、重大な被害を及ぼす事業に関わる組織には、その被害の大きさ、程度に応じた安全性と、高度の信頼性が求められて然るべき」である。
(2)過去4年以上の長期停止を経験して再稼働した原発は、世界で14基存在し、その全てが緊急停止などのトラブルに見舞われているとブルームバーグは報じている。長期間の運転停止によって、運転員の技術が低下したり、様々な機器や配管に問題が生じるのだ。川内原発1号機は2011年5月10日に定期点検に入り、すでに4年超が経過している。
 であればこそ、絶対安全に一歩でも近づくために、慎重の上にも慎重を重ねた審査が必要だったはずだ。しかし、これまで述べてきたとおり、今回の九州電力川内原発の再稼働審査は極めて不徹底なものである。このような審査で了承された川内原発1号機が福島第一原発事故以降の原発再稼働第一号となっては、将来に大きな禍根を残すことになる。
(主張の具体的な理由)
1.市民の原発再稼働反対・脱原発志向の高まり=政府は、市民の意志を踏みにじることで、自らのよって立つ正統性自体を切り崩しているということを自覚するべきだ。
・2015年7月に時事通信が実施した世論調査では、原発の再稼働について反対と回答したのは回答者全体の54.3%を占め、賛成と回答した32.7%を大きく上回った。このことは原発の安全性に対する市民の懸念が依然根強いことを示している。こうした市民の原発再稼働への反対姿勢は2012年以来一貫したものである。
・現政権はエネルギー基本計画において「原発依存度を可能な限り低減する」としながら一向に低減へ動こうとはせずに、実質的にはむしろ原発依存度を強化する方向に政策をすすめてきた。そうした政府の行為そのものが政治への信頼感を低下させている。
2.老朽化問題=わたしたちが福島第一原発事故で学んだことは、そのような緩い規制はもはや許されないということではなかったか。
・川内原発1号機は運転開始から31年が経過した老朽炉(高経年炉)であり、運転開始30年の高経年化対策に関する審査が必要となる。
・原子力規制委員会はこの高経年化にかんする技術評価は再稼働とは無関係とし、再稼働前に審査が終わらなくても手続き上は問題はないとしてきた。
・高経年化でもとめられている内容は機器・構造物の劣化評価や長期保守管理方針であって、新規制基準でもとめられる内容とは別個のものだ。今回の川内原発1号機の老朽化をめぐる原子力規制委員会の決定は、再稼働前に手続き上の瑕疵を指摘されることを免れるために、駆け込みで認可したとのそしりは免れえず、規制当局にたいする信頼を大きく損ねるものだ。
3.住民避難問題=鹿児島県は県民の命をないがしろにしているというそしりを免れ得ない。
・川内原発の再稼働にあたっては住民の避難計画も大きな問題を抱えている。避難計画は訓練を実施して初めて課題がみえてくるため、訓練実施は必要不可欠だ。にもかかわらず、鹿児島県では避難訓練は2013年10月以降実施されていない。
・昨年11月、伊藤知事は再稼働を承認した理由として、原子力規制委員会の審査で安全性が確認されたことをあげていたが、そもそも原発事故の防止や事故の被害拡大を防ぐための基本的な概念である深層防護は、安全対策を複数の層に分け、それまでの防護が機能しなかったことを前提に、その後段の層でどのようにして被害拡大を防ぐかを考えるものだ。避難計画は深層防護上、最後となる第五層に分類されるが、当然すべての防護が破綻したことを前提に検討しなければならず、新規制基準によって安全性が高まったから避難訓練をおこなわなくていいという考え方は大きな誤りだ。
・鹿児島県は自力で避難できない要支援者の避難計画は10km圏内(17施設)までしか策定せず、10~30km圏内(227施設)は避難計画を事前に策定せず、状況次第で対応するとして、国もこれを追認している。
4.火山問題=モニタリングによる巨大噴火の発生予測を可能としている点や、巨大噴火の発生間隔予測に用いた噴火の恣意的な選択は、極めて大きな問題だと考える。
・原子力規制委員会が策定した「火山影響評価ガイド」では、原発近傍160km圏内に第四紀(約258万年前迄)火山が存在するかどうかを評価の第一条件としている。その条件に当てはまる原発は日本には5箇所(泊、東通、伊方、玄海、川内)存在する。その中でも川内原発は、圏内に5つのカルデラが存在する、巨大噴火による被災リスクが国内で最も高い原発の一つである。そのため、原子力規制委員会による川内原発の火山影響の評価は十分慎重におこなう必要があった。しかし、結果としてその審査は多くの瑕疵のあるものだったと言わざるをえない。
・端的に言えば中長期的な噴火予測は現状では困難であるとしているのだ。くわえて提言では「モニタリングによる検知の限界も考慮して、“空振りも覚悟のうえ”で巨大噴火に発展する可能性を考慮した処置を講ずることも必要である。また、その判断は、原子力規制委員会・原子力規制庁が責任を持って行うべきである」と述べている。
・九州電力は「鹿児島地溝(加久藤・小林カルデラ,姶良カルデラおよび阿多カルデラが含まれる地帯)全体」として時間―積算噴出量階段図(階段ダイアグラム)を作成し、川内原発付近のカルデラ火山群の巨大噴火平均発生間隔は約9万年でおおよそ規則的に発生していると主張し、直近の巨大噴火が約3~2.8年前であったことから、次の巨大噴火の発生には充分余裕があるとしている(図1)。複数のカルデラをまとめた階段ダイアグラムを作るためには、その噴火メカニズムが同様であることの説明が必要だ。しかしそのような説明は九州電力からはおこなわれていない。
・9万年ごとに規則的に巨大噴火が発生しているように見せかけるために恣意的に巨大噴火を抽出したといえるのではないか。原子力規制委員会は、3カルデラを合成して階段ダイアグラムが作成できる根拠、および対象となる5カルデラすべてを含んだ階段ダイアグラムの作成を九州電力に求めるべきだ。
5.基準地震動策定の問題=川内原発には基準地震動策定における瑕疵がある。
・九州電力は川内原発の基準地震動中、①を検討する際、過去の九州地方の地震を調べ、原発敷地に大きな影響を与える地震の目安を震度5弱程度以上の揺れとした。そのうえで、最大規模のプレート間地震及び海洋プレート内地震ではそのような規模の地震は推定されないとしてこれら2つについては検討用地震は選定しないとした。原子力規制委員会もこれを追認している。
 しかし、「基準地震動及び耐震設計方針に係る審査ガイド」によれば、基準地震動の策定時には「プレート間地震及び海洋プレート内地震について、活断層の性質や 地震発生状況を精査し、中・小・微小地震の分布、応力場、地震発生様式(プレートの形状・運動・相互作用を含む。)に関する既往の研究成果等を総合的に検討して、 検討用地震が複数選定されていることを確認する」ことが求められている。そのため、九州電力の過去の地震だけにもとづく議論はこれに反していることは明らかだ。また、原子力規制委員会の認可も、自らが策定した基準に違反している。

 この原子力資料情報室の「原子力規制委員会は、認可を撤回するべきであり、また九州電力も川内原発1号機の再稼働を取りやめるべきである。」との主張を、原子力規制委員会及び九州電力は、早急に真摯に受け入れなければならない。

 以下、原子力資料情報室の引用。




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by asyagi-df-2014 | 2015-08-15 05:44 | 書くことから-原発 | Comments(0)

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