2015年 05月 23日 ( 1 )

本からのもの-「立憲主義の破壊」に抗う

著書名;「立憲主義の破壊」に抗う
著作者;川口創
出版社;新日本出版社


 川口は、集団的自衛権の意味について、「『集団的自衛権』は、『自衛権』と『名前』がついているので騙されてしまうのですが、そもそも自国を守るための『自衛権』ではなく、他国同士の戦争の当事国の一方の側に立って、戦争に参戦していくということなのです。ですから、他国から見たら、単なる先制攻撃に他なりません。」と、明確にする。
 しかし、ことさら、集団的自衛権の実像は曖昧にされてきた。
 川口は、その集団的自衛権行使の実像を、「集団的自衛権行使を可能にするということは現実に起こりうる『非対称の戦争』、つまり『テロとの戦い』に日本の自衛隊が深く関与して、直接武力行使という形で参戦していくこと」と、きっちりと描いて見せる。
 この上で、この実像を捉えるためには、「アフガニスタン戦争やイラク戦争がどのような戦争だったのかをしっかり検証する」ことの必要があるとする。

 次に、集団的自衛家行使の事例について、特に、「米国が武力攻撃を受けた場合の対米支援」について、「アメリカの『抑止力』が機能しないことを想定して、『日本も集団的自衛権行使を可能にして抑止力を高める』議論をしていること自体、明らかな矛盾ではないでしょうか。」と、そのおかしさを指摘する。
 だから、このことの真実は、「実際には、米国本土への攻撃に限らず、アメリカが海外で戦争をしかけ、反撃を受けた時に『攻撃を受けた』として、『集団的自衛権』が行使できるようにする、ということが狙いです。」と。
 もちろんこの場合、日本の集団的自衛権の行使は、「アメリカのしかける戦争に組み込まれる」ということでしかないと。
 また、事例として煽られてきた尖閣諸島の問題については、「集団的自衛権の問題ではなく、わが国の領土上の問題であり、個別的自衛権の問題ですので、集団的自衛権の問題として議論すべきものではありません。」と、断定する。

 結局、集団的自衛権を考えるということは、これの実現によって、どのような社会が作られるのかということを考えることである。
 川口創は、このことを、「憲法破壊の先にある日本の姿」として次のように描く。

(1)自衛隊がアメリカの戦争の最前線に立たされ、殺し殺される。日本の若者が血を流す、命を落とす。あるいは、他国の国民の命を奪う。
(2)軍事一体化の結果、沖縄などの基地の固定化。
(3)自衛隊は海外に部隊を送る「軍隊」へと組織、編成、装備が代わり、空母も長距離弾道ミサイルを持つこともあり得る。兵器もアメリカより多く購入することになり、軍事予算が増大する。その裏返しとして福祉予算は切りすてられる。
(4)地方自治体も「国防」に組み込まれ、結果として「地方分権」は「安全保障」の下で大きく後退せざるを得なくなる。
(5)秘密保護法により取材活動が制限され、政府が何としようとしているのか、知らされなくなる。
(6)教育への介入が行われる。また、大学に対する軍事訓練への強要も強まり、学問の自由が奪われる。

 川口は、こうしたことの積み上げの結果、このままでは「憲法破壊の先にある日本の姿」がもたらされると深刻に指摘する。
 川口が憂慮する「憲法破壊の先にある日本の姿」は、(1)安全保障、国防の前に、国民の人権は無視される社会、(2)徴兵制も検討される社会、であると。

 だからこそ、川口は、今必要なことを書き込む。

 「私たちは、自分の子どもたちを、戦地に送りこむために必死に育てているのではありません。わが子に人を殺させたくない。わが子を殺されたくない。そんな当たり前の思いも『日本の若者だけ血を流さなくてよいのか』という理屈の下で押し殺されていく。日本今、そのような社会に向けて猛烈なスピードですすんでいます。止めるのは、いましかありません。」

 最後に、川口は、自らの闘いの中での真実を、今後の闘いの方向性を、「平和的生存権っを手に立ち上がろう」と、まとめる。


by asyagi-df-2014 | 2015-05-23 06:20 | 本等からのもの | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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