2014年 06月 14日 ( 2 )

集団的自衛権を考える-05


集団的自衛権を考える-05

 公明党の揺れは、これまでの与党に参加してきた党のジレンマそのものので、所謂「苦渋の選択」に繋がる。
 「苦渋の選択」という言葉に、酔ってもらっては困る。もっとも、発展的理解に行き着いてもらっても困る。実は、お互いが正念場なのだ。
 公明党の「限定容認論」の様子を、朝日新聞は2014年6月13日で報じている。
 以下、引用。


【政治国政 集団的自衛権、公明に限定容認論 72年見解を根拠に】

 公明党は12日、集団的自衛権を使える範囲を日本周辺の有事に限定したうえで認めるかどうかの検討を始めた。党幹部の中に、集団的自衛権の行使を朝鮮半島有事など極めて狭い範囲に限ることで、党内や支持者の理解が得られないかとの意見が出始めたためだ。ただ、行使容認そのものに慎重な意見もなお根強く、党内がまとまるかは予断を許さない。

72年の政府見解全文
 山口那津男代表、北側一雄副代表ら幹部は12日、国会内などで断続的に集団的自衛権の行使を認めるかどうかを協議した。1972年に自衛権に関する政府見解で「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」に限り自衛措置が認められるとした部分を根拠に、集団的自衛権が使えるか議論することにした。

 与党協議のメンバーの一人は、使える場合を「生命や権利が根底から覆される」という日本人に直接影響が出るケースに限定することで、政府が示した朝鮮半島有事から避難する邦人を乗せた米輸送艦を守る事例だけが容認されるとみる。別の幹部も「首相が想定する米国に向かう弾道ミサイルの迎撃や、中東のホルムズ海峡での機雷除去はできなくなる」と話す。

 だが、72年の政府見解は同時に、「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」と結論づけている。公明が、限定的とはいえ見解を行使の根拠とすれば矛盾することになる。

 安倍晋三首相が集団的自衛権の行使へ、今国会中の閣議決定を指示したことから、公明内には「反対するだけではすまない」(幹部)との声も上がっており、限定的な容認を検討することにした。

 政府・自民内には、公明内に容認に向けた動きが出てきたことから、22日が会期末の今国会中の閣議決定見送りを容認する意見も出ている。


 72年政府見解については、以下、引用。


 国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第5条、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。

 ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである。

 憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。

 しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。

 
この動きについての反論を、朝日新聞の記事で以下、引用する。


1972年政府見解要旨と自民・公明両党の「解釈変更」案

 集団的自衛権の与党協議で、安倍晋三首相がめざす行使容認の根拠に、1972年の政府見解の一部を引用する案が有力視されている。ただ、見解は行使が憲法上許されないと明記。行使を認める結論を導く際、なぜこの見解を使うのか。背景を読み解く。

 ■元々は「許されぬ」

 政府見解は、田中角栄内閣が72年10月14日、参院決算委員会に資料として提出した。社会党議員が同年9月、集団的自衛権の政府統一見解について、回答を求めたことを受けたものだ。

 社会党は当時、政府が決定をめざす第4次防衛力整備計画に対し「専守防衛の範囲を超える」などと追及。72年見解は「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」と結論づけ、憲法上認められている個別的自衛権を逸脱する意思がないことを強調する狙いがあった。

 見解は冒頭で、集団的自衛権について国連憲章の規定などを踏まえて「有している」としつつ、「国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されない」と明記。集団的自衛権を「持っているが、使わない」という姿勢を明確に示した。

 さらに戦争を放棄した憲法9条に触れた上で、憲法前文が示した平和的生存権や13条の幸福追求権を引用。「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない」と指摘。日本が直接攻撃された場合を前提に「自衛の措置」つまり個別的自衛権は持っていると定義した。

 ただし、見解はその直後のくだりで「しかしながら、だからといって」と強い逆接の言葉をはさんで、「平和主義を基本原則」とする憲法が「自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」と強調。「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処」する「止(や)むを得ない措置」としてだけ、自衛権を使うことができるとしている。

 歴代内閣は72年見解を一貫して維持。集団的自衛権の行使を禁じた解釈は、81年に鈴木善幸内閣が「行使は憲法上許されない」とする見解を示し、確立された。

 ■自民:「必要な自衛の措置」「最小限度の範囲」なら/公明:「生命・権利が根底から覆される」事態なら

 なぜ、72年見解の一部が、全く逆の行使を認める際の根拠になるのか。

 自民党には、政府見解を一変させることを国民に納得してもらうため、従来の解釈を全否定するわけではないと強調する狙いがある。公明党と交渉する自民党の高村正彦副総裁が「法理を示す」と話すのも、そんな姿勢を反映している。

 自民党が引用するのは、72年見解のうち、戦争を放棄した憲法9条の下でも自衛権をもつとし、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置」は禁じられないとした部分だ。高村氏は必要な自衛の措置で「必要最小限度の範囲」に含まれるものなら、集団的自衛権を行使しても「今までの政府解釈の法理は受け継ぐことができる」と主張する。

 高村氏は「ほんの一部を変えるだけだ」とも主張。72年から40年超経ち、安全保障環境が変わったため、集団的自衛権を全て禁じた見解の結論だけを「集団的自衛権の一部は必要最小限度の範囲に入る」と変えればいい――との理屈だ。

 一方、閣議決定を急ぐ政府・自民の圧力にさらされている公明党が注目するのは、72年見解のうち必要最小限度の範囲を厳格化し、歯止めを設けた部分だ。

 見解では「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」事態に対応することが、憲法上許される自衛権と規定している。集団的自衛権を使わなければ国民の生命や権利が根元から覆るという状況に絞れば、従来の解釈と大きく矛盾することなく行使を認められる可能性もある――との考え方だ。

 公明は、日本人を乗せた米軍の輸送艦を自衛隊が守る事例のように、国民の生命が直接脅かされるケースに限ることを検討。ただ、自民側は、日本人が乗っていない米艦の防護や、海上輸送路(シーレーン)の防衛についても対応が必要と主張。意見は一致していない。

 ただ自民、公明とも、解釈変更が72年見解の結論と矛盾する点については十分な説明をしていない。(鶴岡正寛、蔵前勝久)

 ■まともな理屈でない 元内閣法制局長官・阪田雅裕氏

 72年の政府見解は集団的自衛権を行使できない理由を述べている。結論は明らかにだめだと書いてある。一部を切り取ることが許されるならどんな解釈も可能だが、見解はあくまで全体で判断すべきものだ。そもそも集団的自衛権は、ちょっとだけ使うという便利なものではない。行使は戦争に参加することだから、日本が「必要最小限度の範囲」で武力を使ったつもりでも、相手国にとっては敵国となり、日本の領土が攻撃される恐れもある。

 憲法9条、あるいは前文や13条をどう読んでも、集団的自衛権は否定されているという結論にしかならない。行使を認めるなら、それは憲法解釈とは言えず、憲法の無視だ。政府や自民党は72年見解を持ち出してきているようだが、解釈を変える論理としては耐えられず、まともな法律論ではない。

 公明党が検討中とされる理屈も理解できない。集団的自衛権を使うのは、日本が武力攻撃を受けていない状況が前提になる。日本が攻撃を受けていないのに、国外で起きている事態がどうして「国民の権利を根底から覆す事態」になるのか理解できない。


 結局、今回の動きについては、「憲法9条、あるいは前文や13条をどう読んでも、集団的自衛権は否定されているという結論にしかならない。行使を認めるなら、それは憲法解釈とは言えず、憲法の無視だ。政府や自民党は72年見解を持ち出してきているようだが、解釈を変える論理としては耐えられず、まともな法律論ではない。」ということでしかない。

また、こういう応援歌も来ていることをわすれてはいけない。
琉球新報2014年6月13日の社説を、以下、引用。


 「平和の党」としての公明党の真価が問われている。憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認問題をめぐり、安倍晋三首相から合意を迫られ、連立政権の亀裂を避けるため譲歩に傾いている。
 憲法は権力を縛るという立憲主義に基づいている。主権者の国民の合意形成や国会での徹底論議がないまま、一内閣の解釈だけで憲法の平和主義を空洞化させるのは、主権を国民から奪うという意味で「クーデター」に等しいのではないか。
 公明党は行使容認に前のめりな安倍首相に屈することなく、ブレーキ役を果たすべきだ。
 安倍内閣の憲法解釈の閣議決定原案は、1972年の政府見解を根拠にしている。その見解は「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置」を認めた上で、その措置は「必要最小限度の範囲にとどまるべきだ」と規定し、集団的自衛権の行使は憲法上許されないと結論付けている。
 これに対し安倍内閣の原案は、これまでの政府見解が認める「自衛のための必要最小限」の武力行使の範囲に、限定的な集団的自衛権の行使が含まれるとして、憲法解釈を変更している。従来の政府見解の前段の主張を引用して、結論部分を逆にしている。牽強付会(けんきょうふかい)そのものだ。
 公明党の立党の原点は「平和の希求」にある。沖縄問題に対し67年8月、「絶対平和主義をつらぬき、すべて国際的紛争の解決は武力によらず平和的外交手段によるべき」だと主張し、即時全面返還と核兵器の撤去を要求した。69年には在沖米軍基地を総点検し、基地経済から脱却させ平和な発展を図るため、強力な政策を実施するよう佐藤内閣に求めた。
 集団的自衛権の行使容認は同党が掲げた「絶対平和主義」と真っ向から対立する。立憲主義を否定し、日米軍事同盟を優先する安倍首相の主張は相いれないはずだ。
 安倍首相が重視する日米軍事同盟の論理は抑止論だ。しかし、抑止力を高めると相手国との緊張を高め、安全保障のジレンマに陥ってしまう。
 公明党が政権与党の座ににとどまるために安易な妥協をすれば、結党の理念を失ってしまう。今年11月に結党50周年を控える。今こそ結党の精神に基づいて、集団的自衛権行使容認の歯止め役として真価を発揮すべきだ。



by asyagi-df-2014 | 2014-06-14 18:30 | 書くことから-憲法 | Comments(0)

残業代ゼロ問題を考える02


残業代ゼロ問題を考える02

  残業代ゼロ問題は、いよいよ次のステージに進もうとしている。、6月12日の朝日新聞の記事の「『残業代ゼロ』対象は年収1千万円以上、政府が方針決定」は、まさに、そのことを伝えている。
以下その記事。

 
働いた時間と関係なく成果で賃金が決まる新制度について、政府は11日、対象者を「少なくとも年収1千万円以上」の高年収者に限定する方針を決めた。「残業代ゼロ」で長時間労働を強いられる恐れがある働き方が、管理職以外にも導入されることが固まり、「働き過ぎを助長する」との批判が高まりそうだ。

 11日夕、官邸で菅義偉官房長官ら関係大臣が集まり、大筋で合意した。田村憲久厚生労働相は会合後、「少なくとも対象者が年収1千万円を割り込むことはなくなった」と述べた。「職務範囲が明確」「高度な職業能力を持つ」との条件もつける。

 この制度をめぐっては、「全労働者の10%は適用を受けられる制度に」(経団連の榊原定征会長)など経済界や経済産業省が年収を問わず働き手を幅広く対象にするよう主張してきた。一方、労働規制を担当する厚労省は「働き手を守る規制がなくなる」と譲らず、平行線が続いてきた。

 甘利明経済再生相は会合後、「すりあわせをして両方にとって合格点になったのではないか」と語り、規制緩和への道がひらけたことを強調した。

 新制度は、今月末にまとめる成長戦略に盛り込まれる。厚労省は、来年の通常国会での労働基準法改正をめざして、年内をめどに審議会での議論を進める。年収1千万円未満の人についても、現行の裁量労働制の拡大を検討する。

 労働時間と賃金を切り離す働き方は、第1次安倍政権で年収900万円以上を対象に検討され、世論の反発で断念した経緯がある。(山本知弘)


 始めからつるんでいるからこそ、経団連会長が「残業代ゼロ『対象限定せず制度化を』」と応援歌を。朝日新聞2014年6月12日の記事が語る。


 働いた時間と関係なく成果で賃金が決まる新制度の対象を、政府が「少なくとも年収1千万円以上」の働き手に限る方針を決めたことに対し、経団連の榊原定征会長は12日、「あまり限定せず、対象職種を広げる形で制度化を期待したい」と述べた。今後、厚生労働省が詳細を詰めるが、できるだけ幅広い働き手を対象にすべきだとの考えを改めて強調した。

 官邸で報道陣の取材に答えた。榊原氏は9日の会見でも「研究技術職などの専門職やキャリアアップを望む女性らは新しい働き方を希望している。全労働者の10%ぐらいは適用される制度に」と述べ、対象を極力絞り込もうとする厚労省の姿勢を批判していた。

 新制度は、今月末に政府がまとめる成長戦略に盛り込まれる。来年の通常国会での労働基準法改正をめざし、厚労省の審議会で制度の詳細を議論していく。労働界には、「残業代ゼロ」で長時間労働を強いられかねないと反発が強い。(稲田清英)


やはり、ここで反論となるものを掲載する。
 以下、引用。

弁護士 佐々木亮の労働ニュース)


「残業代ゼロ」制度を考える(その2)~年収1000万円は長時間労働地獄へのカウントダウンの始まり
           佐々木亮 | 弁護士・ブラック企業被害対策弁護団代表

 ついに「新しい労働時間制度」の政府案が明らかになりました。
 「残業代ゼロ」対象は年収1千万円以上 政府が方針決定
上記の朝日新聞の報道によると、田村憲久厚生労働相は会合後、「少なくとも対象者が年収1千万円を割り込むことはなくなった」と述べた。「職務範囲が明確」「高度な職業能力を持つ」との条件もつける。
とのことです。
「な~んだ。年収1000万円か。オレ、関係ねえや。よかったぜ。ふぅ。」とか思う方もおられるやもしれません。
しかし!
安心してはいけません。1000万円なんて最初だけです。
「ちょ、待てよ。お、お前、まさか田村厚生労働大臣様が言ってることを、信じないって言うのか?! 正気か?!」とか思う方もおられるやもしれません。
ここで、山井和則衆議院議員のツイートをどうぞ。

残業代ゼロ制度「年収要件が1000万円以上との議論があるが3年、5年後も変わらないのか」と私。田村大臣は「年収要件が永遠に変わらないことはない」と答弁。1度、残業代ゼロ法案が成立すれば、簡単に年収要件は引き下げられます。

ほら。このように、年収要件なんて、簡単に下がっていくのですよ。どうですか。もうお分かりでしょう。
「いや、まさか、そんなはずはない。お、お、俺たちの安倍内閣が、そんなご無体なことをするはずがない。そうだ! 年収要件は上がる方に変わるんだよ。そうに違いない。よかった。やっぱり、よかった。ふぅ。とにかく、ふぅ。」とか思う方もおられるやもしれません。
ここで、2005年の経団連のレポートをどうぞ。

ホワイトカラーエグゼンプションに関する提言(2005年)
ホワイトカラーエグゼンプションとは、今、まさに議論されている「残業代ゼロ」制度のことです。
彼らの考えている年収はというと・・・
当該年における年収の額が 400万円(又は全労働者の平均給与所得)以上であること。

・・・400万円。ボーナスなしだと額面で1カ月33万円。手取りだと20万円台半ばから後半といったところでしょうか。
平均以上の所得だと、もう残業代は出さなくてもいいんだ、というのが経団連のお歴々の本音なのでしょう。
「で、でも・・・。まさか、平均より下なら、大丈夫だよね? いくらなんでも平均より下なら大丈夫でしょ。よ、よかった。ふ、ふぅ。強引に、ふぅ。」と思う方もおられるやもしれません。
ここで産業競争力会議の出している「新しい労働時間制度」をどうぞ。
個人と企業の持続的成長のための働き方改革
ここには、「職務・成果に応じた適正な報酬確保、効率的に短時間で働いて報酬確保」とあるだけで、なんと年収要件さえないのです・・・。
そうです。本音は、年収なんかで区分けしたくもないのです。
結局、本当の狙いは年収に関係なく残業代を払わなくてもよい労働者層を作り出すことです。
初めは1000万円でも3000万円でも何でもいいのです。
あとはカウントダウンを始めればいいのですから。

絶対に実現させてはならない
残業代の制度は長時間労働をささやかに規制するものです。
この程度では長時間労働が規制しきれていないのは、多くの過労死・過労自殺が発生している悲しい事実が証明しています。
このささやかな規制さえも外そうというのでしょうか。
労働法制の規制緩和は、まずはアリの一穴から入り、そこからじわじわ広げて、いつの間にか原則・例外が逆転するというのがパターンです。これは派遣法の改正の歴史を見ればよく分かります。
ですから、1000万円というところに惑わされないで、収入がそれに達しない人もみんなで反対しないと、気づいたら自分も「残業代ゼロ」制度の対象だった・・・なんてことは、冗談ではなく起こり得ると思います。

ですので、こんな制度を絶対に実現させてはなりません。
ぜひ、皆様も、このような制度を実現させないために、声を上げていただければと思います。

このことについては、朝日新聞は2014年6月13日の社説で、一定の反論を加えている。
以下、引用。


[働き方と賃金―長時間労働は許されぬ]

 年収が高いからといって、健康を損なうような長時間労働をさせていいはずがない。それが大原則だ。

 働いた時間と関係なく賃金を決める制度の新設が決まった。新制度では、残業代という考え方がなくなる。政府の産業競争力会議で民間議員の経営者が提案し、厚生労働省も同意した。

 対象は、最低でも年収1千万円以上で、職務内容がはっきりしている人。労使が参加する審議会で議論し、年内にも具体的な制度を決める。

 今の法律では、上級の管理職をのぞくと、労働時間を厳格に把握することが企業に求められている。高い能力を持つホワイトカラーの働き方にそぐわない面があることは確かだ。

 しかし、議論の過程には疑問が残る。会議に労働界の代表はおらず、民間議員の提案も目的や効果がはっきりしなかった。

 最初の提案には二つのタイプがあった。導入が決まった「高収入型」と、見送られた「労働時間上限型」だ。

 後者は、労使合意で労働時間の上限を決める方式。女性や高齢者、若者の活用がうたわれたが、一般労働者まで会社が一方的に上限や賃金を決めてしまう恐れがあった。後に対象は「幹部候補」に変わったものの、若者を使いつぶすブラック企業に乱用される不安がぬぐえなかった。見送りは当然だ。

 では、「高収入型」には問題はないのだろうか。

 新制度で、働く人の職務内容が明確化されるのは望ましい。ただ、「残業代をなくせば長時間労働がなくなる」という主張は根拠が薄い。企業側に仕事量を決める権限があるなら、長時間労働を余儀なくされる。

 新制度の対象は、仕事量を決める裁量があり、会社と交渉する力がある労働者に限るべきだ。休日を強制的にとらせるといった規制も欠かせない。

 いったん制度ができれば、なしくずしに対象が広がる心配も残る。年収1千万円超の勤労者は全体の4%未満とされるが、経団連会長が「全労働者の10%程度は適用を」と発言するなど、経済界には対象拡大の思惑がにじむ。簡単に変更できないよう、年収条件を法律で決めることも必要だろう。

 今ある制度との整合性も考えてほしい。例えば、残業代がいらない管理職は「管理監督者」と呼ばれ、本来は経営者に近い立場の管理職に限られている。ところが、経営側に恣意(しい)的に使われる「名ばかり管理職」の問題が絶えない。廃止を検討していいのではないか。


by asyagi-df-2014 | 2014-06-14 06:05 | 書くことから-労働 | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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