沖縄「慰霊の日」20170623を考える。

 2017年6月23日、沖縄は、72回目の「慰霊の日」を迎えました。
沖縄から発信される『悲痛』『悲嘆』の訴えは、「沖縄戦が引き起こし、そのまま継続されてきたものについて考えることが、沖縄の問題を解く鍵の一つである」、と日本全国に投げかかけています。もちろん、沖縄からは正義についての問い掛けも。
2017年のこの時に、あらためて「沖縄『慰霊の日』20170623」を考えます。


Ⅰ.「慰霊の日」の実写


 琉球新報は、「島包む祈り 世界平和 誓う」、と「沖縄のこころ」について次のように伝えます。


(1)沖縄は23日、沖縄戦の組織的戦闘の終結から72年となる「慰霊の日」を迎えた。沖縄戦で犠牲になった20万人余のみ霊を慰め、世界の恒久平和を誓う「沖縄全戦没者追悼式」(県、県議会主催)が23日午前11時50分から、最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園で開催された。
(2)平和祈念公園には早朝から多くの遺族らが訪れ、2017年度に新たに追加刻銘された54人を含む24万1468人の名前が刻まれた「平和の礎」に手を合わせた。県内各地で慰霊祭が開かれ、沖縄は鎮魂の祈りに包まれている。
(3)追悼式には安倍晋三首相をはじめ、関係4閣僚、衆参両院議長らが参列した。参列者らは正午の時報に合わせて黙とうした。
(4)追悼式で翁長雄志知事は平和宣言を読み上げ、米軍専用施設面積の70%が集中する不条理な現実を訴え、日米地位協定の抜本的な見直しや米軍基地整理縮小による過重な基地負担軽減を求めた。12日に他界した大田昌秀元知事が平和の礎を建立したことに触れ、平和の尊さを次世代に受け継ぐ決意を語った。
(5)平和宣言の後、県立宮古高校3年の上原愛音さん(17)が平和の詩「誓い~私達のおばあに寄せて」を朗読した。県遺族会が主催する平和祈願慰霊大行進は午前9時に糸満市役所を出発し、追悼式に合流した。
(6)平和祈念公園や魂魄の塔などには早朝から多くの遺族らが訪れた。2017年度に追加刻銘された人々を含む24万1468人の名前が刻まれた「平和の礎」には早朝から遺族らが次々と訪れ、石版に刻まれた亡き肉親らの名前に向かって手を合わせた。沖縄は鎮魂の祈りに包まれている。


 また、沖縄タイムスは、「慰霊の日」を「沖縄戦から72年『戦争はもう嫌だ』 慰霊の日、島を包む平和の祈り」、と次のように描き出します。


(1)戦後72年の「慰霊の日」を迎えた23日、沖縄県内では沖縄戦で亡くなった20万人を超える犠牲者を追悼し、恒久平和を希求する祈りに包まれた。
(2)糸満市摩文仁の平和祈念公園内にある「平和の礎(いしじ)」や、同市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」などには、朝早くから多くの戦争体験者や遺族らが訪れ、亡き肉親や友人らの魂を慰めた。子や孫らと一緒に線香や花を手向け、祈りをささげる姿もみられた。同公園では、午前11時50分から、沖縄全戦没者追悼式(主催・県、県議会)が執り行われた。安倍晋三首相や衆参両院議長のほか外務、防衛、厚生労働、沖縄担当の関係閣僚らが出席。正午の時報に合わせて黙とうした。
(3)沖縄戦では一般県民約9万4千人と、日米軍人・軍属などを合わせて20万人余が亡くなった。敵味方を問わず、沖縄戦の戦没者らの名を刻む平和の礎には、今年新たに54人(県内31人、県外8人、海外15人)が加わり、計24万1468人が刻銘されている。
(4)「多くの死を見た。戦争はもう嫌だ」-◆仲村渠ヨシ子さん(79)=南城市:南風原町宮城に暮らしていたが、ここは家族全滅したところが多かった。だから戦死した父の名前を探すのも一苦労。父は沖縄のどこかで戦っていたらしいけど、詳しくは何もわからない。最後はけがして南風原の軍病院にいたらしいとだけ聞いていて、お骨もなくかわいそうね。私は当時国民学校1年生。米軍が上陸したというから、母と弟とやんばるを目指したが、どうやって逃げたか覚えていない。母は食料や布団など背負って、私は弟をおぶっていた。今の大宜味村あたりで空襲があり、弟は私の背中で死んでしまった。むごかったのは那覇にいた時の10・10空襲。もう死体で足の踏み場もない。その時避難していた壕(ごう)の中から、たくさんの若い人がおじいやおばあを背負って、一緒に撃たれて死んでいくのを見ていた。戦争はもう二度と嫌だ。基地は全く無いのも困るけど、やはり戦争の時に狙われるのではと怖い。どっちがいいのかわからない。
(5)「兄が生きていたら…何度も願った」-◆大城盛助さん(85)=豊見城市:毎年、兄の大城成教(せいきょう)の冥福を祈るため「平和の礎」を訪れている。兄が今生きていたら92歳。先日亡くなった大田昌秀元知事と同じ年齢だ。大田元知事が平和の礎を建ててくれたことにとても感謝している。今年は大田元知事の冥福も一緒にお祈りしたいと思って来た。兄がいつ、どこで亡くなったかは今も分からない。沖縄戦のとき、兄は20歳、私は13歳だった。兄は小禄の飛行場で航空整備兵として働いていた。戦争が始まる前はよく遊んでくれた。戦争で行方がわからなくなり、戦後もどこかで生きていたらと思い続けてきた。だが何年たっても便りがない。仕方なく、飛行場近くで祈祷(きとう)師に小石を拾ってもらい、骨の代わりとして墓におさめた。兄は生前、小学生だった私に「勉強しなさい」と手紙をくれたことがあった。私はそれを遺言だと思い、一生懸命勉強し、小学校の教員になった。豊見城小学校の校長をして退職した。私の人生は兄のおかげでやってこれたと思っている。
(6)「いっそ死んだ方が楽とさえ思った」-◆當山キク子さん(83)=豊見城市:戦時中はどこにいたのか分からない。ただ、昼夜問わず砲弾が降り注ぐ中、葉っぱをかさ代わりにして身を隠しながら、叔父に手を引かれ、泣きながら必死に走り回ったことを覚えている。とにかくひもじくて、水や食べ物を求めてさまよった。辺りは歩く場所もないほどの死体が転がり、その上を歩くしかなかった。そしてまた、爆撃機の音が近づく。「また来る」と恐怖し、両手で耳をふさいで地面にしゃがみ込んだ。夜はヤギ小屋で寝た。臭いもあったが、雨さえしのげればよかった。だが、衣服にはシラミが沸き、かゆくてたまらない。こんな毎日の繰り返し。いっそ死んだ方が楽とさえ思えた。平和の礎には、戦争で亡くした兄といとこの名が刻まれており、毎年食べ物や花を手向けに来る。元気なうちは、ここで手を合わせ続けたい。今の世の中、食べ物もあるし、生きているだけでありがたいと思う。あの戦争を二度と繰り返してはいけない。
(7)「吹き飛ばされた女性の首、今も…」-◆新里トヨ子さん(80)=八重瀬町:今日は夫の祖母、新里ウトさんに会いに来た。面識もないし、顔も知らないけど、夫がかわいがってもらったので感謝し、毎年参拝に来ている。沖縄戦当時、私は8歳だった。家族4人で逃げていたが、どうせ死ぬなら浜で死のうと話し、暗闇の中、八重瀬町の新城から糸満市の大渡海岸まで歩いた。途中、道ばたで負傷した日本兵に足をつかまれ、「助けてくれ」と言われたのを覚えている。忘れられない光景がある。とてもきれいなお姉さんが、爆撃で首が吹き飛ばされ、笑顔のままで顔が塀にくっついていた。私はそれを指さして、母親に「おっかー、見て」と言うと怒られた。平和で豊かな世の中になったが、殺人など凶悪な事件が起きている。戦争を体験していたら、そんなことできるはずがない。戦争の話はあまりしたくないけど、若い人たちには相手を思いやり、物を大切にする気持ちを学んでほしい。


Ⅱ.「慰霊の日」の発言


 「慰霊の日」の追悼式で行われる沖縄県知事による「平和宣言」は、広島市長や長崎市長の「平和宣言」とともに、その宣言内容が常に注目されてきました。
 特に、沖縄は、日本政府のあり方と鋭く対峙させられてきただけに、近年その意味合いは、より大きいものとなっています。
 翁長雄志沖縄県知事は、「慰霊の日に当たり、戦争の犠牲になった多くの御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げるとともに、平和を希求する沖縄のこころを世界へ発信し、恒久平和の実現に向け取り組んでいくことをここに宣言します。」、と会場の参加者の拍手の中で、宣言しました。


 では何故、沖縄は権力政権と対峙させられてきたのか。
その答えは、この宣言の中にあります。
 知事は、「72年前、ここ沖縄では、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられました。昼夜を問わない凄(すさ)まじい空襲や艦砲射撃により、自然豊かな島の風景、貴重な文化遺産、そして何より尊い20数万人余りの命が失われました。戦争の不条理と残酷さを体験した沖縄県民は、何をおいても命こそが大切であるという『命(ぬち)どぅ宝』の思いを胸に、戦争のない、平和な世の中を希求する『沖縄のこころ』を強く持ち続けています。」、と宣言しています。
 実は、この宣言こそが、日本政府を問い詰めています。
 問題は、日本政府が、この「沖縄のこころ」の原点を、政策としてあたりまえに活かすことができていないということから起こってきています。
むしろ、日本政府が、米国の目下の政府として、対米従属政策を「国是」とする中では、沖縄問題は、必然化せざるを得ないものであると言えます。
 しかも、日本政府は、表向きは、庇護者のふりを常に振る舞うとしています。
 したがって、「戦後72年を経た今日においても、この沖縄には依然として広大な米軍基地が存在し、国土面積の約0・6%にすぎない島に、米軍専用施設面積の約70・4%が集中しています。復帰すれば基地負担も本土並みになるという45年前の期待とは裏腹に、いまだに私たちは、米軍基地から派生する事件・事故、騒音・環境問題などに苦しみ、悩まされ続けています。しかし、昨年(2016年)起こった痛ましい事件の発生、オスプレイの墜落をはじめとする航空機関連事故の度重なる発生、嘉手納飛行場における米軍のパラシュート降下訓練や相次ぐ外来機の飛来、移転合意されたはずの旧海軍駐機場の継続使用の問題などを目の当たりにすると、基地負担の軽減とは逆行していると言わざるをえません。」、という沖縄県知事からのこの問い掛け(告発)は、日本政府にとって、自らの根底を揺るがすものになっています。
また、米国の目下の政府として、対米従属政策を「国是」としてきた日本政府は、「沖縄のせいにする」とか「沖縄をしずめとする」という倒錯的手法を常套手段としてきました。この意味からも、この知事からの告発は、日本政府としての政治的必然であり、受け取るしかないものなのです。
 しかし、「普天間飛行場の辺野古移設について、沖縄の民意を顧みず工事を強行している現状は容認できるものではありません。私は辺野古に新たな基地を造らせないため、今後も県民と一体となって不退転の決意で取り組むとともに、引き続き、海兵隊の削減を含む米軍基地の整理縮小など、沖縄の過重な基地負担の軽減を求めてまいります。国民の皆様には、沖縄の基地の現状、そして日米安全保障体制の在り方について一人一人が自ら当事者であるとの認識を深め、議論し、真摯(しんし)に考えて頂きたいと切に願っています。」、という切実な想いは、現在の安倍晋三政権には全く届きません。
 とは言え、日本人としてのこころに」「沖縄のこころ」を届かせることはできるはずです。
 実は、日本という国の実情は、この「沖縄のこころ」を、深く捉え直す次期に来ていると言えます。もしかしたら、引き返す機会は今しかないという状況に、たどり着かされているのかもしれません。
 また、この間沖縄は、世界への平和の訴えを失わずに来ました。
今回の宣言でも、「世界では、依然として地域紛争や、人権侵害、難民、飢餓、貧困、テロなどが人々の生活を脅かしており、また、国際情勢はめまぐるしく変化し、予断を許さない状況にあります。今こそ世界中の人々が民族や宗教の違いを乗り越え、協力して取り組んでいくことが求められています。今年は、日本国憲法が施行されて70周年、沖縄県に憲法が適用されて45周年になりますが、この節目に、憲法の平和主義の理念を再確認し、私たち一人一人が世界の恒久平和を強く願い求め、その実現に向け努力を続けなければなりません。」、と高らかに謳い上げています。

 
  さて、こうした知事の平和宣言と対称的に捉えられてきたのが、首相の挨拶です。
 その挨拶はこれまでも、常に、場当たり的な実態論でしかなく、沖縄の人々の心に響くものであはりませんでした。
 考えてみると、「米国の目下の政府として、対米従属政策を『国是』としてきた日本政府」という規定の中では、当然の帰結ではあるのですが。
 例えば、2017年の「慰霊の日」に、安倍首相は次のような発言をしています。


 「我が国は、戦後一貫して、平和を重んじる国として、ひたすらに歩んでまいりました。戦争の惨禍を決して繰り返してはならない。この決然たる誓いを貫き、万人が心豊かに暮らせる世の中を実現する。そのことに不断の努力を重ねていくことを、改めて、御霊にお誓い申し上げます。
 沖縄の方々には、永きにわたり、米軍基地の集中による大きな負担を担っていただいており、この現状は到底是認できるものではありません。政府として、基地負担軽減のため、一つ一つ確実に結果を出していく決意であります。
 昨年12月には、20年越しの関係者の御努力により、県内の米軍施設の約2割に相当する北部訓練場の過半、本土復帰後最大の返還が実現しました。今後、地元の皆様の御意見を伺いながら、地域振興に向けて、基地の跡地利用を政府として最大限支援してまいります。
 これからも、『できることはすべて行う』。沖縄の基地負担軽減に全力を尽くしてまいります。」

 
 こうした「できることはすべて行う」といった発言が、沖縄の基地負担軽減にはほとんど結果をもたらしていないために、沖縄からは、怨嗟の声か「否」という声しか出されていません。
 逆に、安倍政権で目立つのは、「米国の目下の政府として、対米従属政策を『国是』としてきた日本政府」が、自らの使命を果たすために、脅迫や暴行も含めて人権を無視した強行策を取り続ける姿勢です。
 今回の安倍首相の発言に対しての沖縄県側の反応について、琉球新報は、「安倍晋三首相が23日の沖縄全戦没者追悼式に出席後、記者団に辺野古移設について『(昨年3月の)和解に従って誠実に対応する』と述べたことに対し、翁長雄志知事は同日、『解釈が全然違う』と強く反発した。」、と伝えています。
 確かに、安倍晋三政権の強行かつ姑息な手段に裏打ちされた「沖縄の負担軽減」を自慢げに語る挨拶は、沖縄からの平和宣言の質とは、その「差」があまりにも大きいと言えます。


Ⅲ.「平和の礎」が想起させるもの


 この「平和宣言」の中で、「平和の礎」の位置づけを、「先日お亡くなりになった大田昌秀元沖縄県知事は、沖縄が平和の創造と共生の『いしずえ』となり、再び戦争の惨禍を繰り返さないことの誓いとして、敵味方の区別なく沖縄戦で命を落とされたすべての方々を追悼する『平和の礎(いしじ)』を建立されました。私たちは、沖縄に暮らす者として、この『平和の礎』に込められた平和の尊さを大切にする想(おも)いを次世代へ継承するとともに、未来を担う子や孫のため、安全・安心に暮らせるやさしい社会、いつまでも子ども達(たち)の笑顔が絶えない豊かな沖縄の実現に向けて、絶え間ない努力を続けてまいります。」、と知事は説明しています。
 この目的の中で、「平和の礎」は、世界に向けた平和のメッセージを発信し続けてきました。
 例えば、沖縄タイムスは2017年6月21日、「平和の礎」の果たしてきている意味について、「刻銘、最後の一人まで 平和の礎に朝鮮半島出身の戦没者15人追加」と題して、次のように報じています。


 「沖縄戦犠牲者の名前を刻む糸満市摩文仁の『平和の礎』で20日、沖縄戦に強制動員された朝鮮人犠牲者の刻銘板の前に支援者らが集い、哀悼会がしめやかに開かれた。本年度は平和の礎に朝鮮人犠牲者が7年ぶりに追加刻銘された。参加者らは名前が刻まれた刻銘板の前で、朝鮮人犠牲者の強制動員の実態解明を進める決意を新たにした。」


 このように、「平和の礎」は、「朝鮮人犠牲者の強制動員の実態解明」という地平をも含んだ平和へのメッセージとしての役割を担っています。


Ⅳ.「慰霊の日」が語りかけること


 この「慰霊の日」が語りかけることを、日本人としてどのように捉えることができるのか。この社説で、「沖縄『慰霊の日』20170623」を考えます。


琉球新報は、このことに関しての社説で、「沖縄全戦没者追悼式 『積極的平和』を次世代に」(2017年6月24日)、「慰霊の日 新たな『戦前』にさせない」(2017年6月23日)、と投げかけています。
 そこには、「憲法の前文に示された理念は、平和学者のガルトゥング氏が唱える軍事力に頼らない『積極的平和』である。平和宣言で翁長知事は、人権侵害、難民、飢餓、貧困、テロなどに対し世界中の人々が民族や宗教の違いを乗り越え、協力して取り組むことを呼び掛けた。まさに『積極的平和』」宣言である。米国との軍事的一体化に前のめりで、憲法に抵触する集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法を成立させた安倍晋三首相の『積極的平和主義』の対極にある。」、という考え方が貫かれています。
 その上で、「沖縄のこころ」の問題として、沖縄戦から新基地建設までを次のように取りあげます。


(1)沖縄戦から72年、慰霊の日が巡ってきた。体験者が年々減る中、次世代へどう継承していくか模索が続く。一方で政府は世論の反対をよそに戦争ができる国づくりへと法整備を進める。多くの国民の命を奪った国策の誤りを二度と繰り返させてはいけない。
(2)沖縄戦は決して歴史上の出来事だけではない。今につながる米軍基地問題の原点であり、不発弾や遺骨収集、戦争トラウマなど、今を生きる私たちにも影響する問題だ。
(3)今年の慰霊の日は「共謀罪」法が強行成立した中で迎えた。民主主義の手続きを放棄し、数の力で押し切るやり方は権力の暴走だ。
(4)沖縄戦の目的は沖縄の住民を守ることではなく、国体護持、本土防衛のための捨て石作戦だった。多数の住民を根こそぎ動員で国策に協力させた末に、軍民混在となった戦場で死に追いやった。


 続いて、琉球新報は、辺野古の新基地建設を含めた沖縄の現状について触れます。


(1)平和宣言は辺野古新基地建設をはじめとする米軍基地問題に半分近くさいている。これが沖縄戦から72年、施政権の返還から45年たった沖縄の現状だ。
(2)米軍基地の源流は沖縄戦にある。普天間飛行場は米軍が沖縄本島上陸後、住民を収容所に隔離した上で土地を奪って建設された。1945年8月4日時点で、1本の滑走路の71%が完成している。
(3)安倍首相は追悼式のあいさつで「県内の米軍施設の約2割に相当する北部訓練場の過半、本土復帰後最大の返還が実現した」と実績を強調した。しかし、北部訓練場が返還されても、米軍専用施設面積からすると、これまでの74・4%から70・4%に微減したにすぎない。北部訓練場の過半返還に伴い、ヘリパッドが集約された結果、東村高江に騒音が集中している。


 琉球新報は、2017年6月23日の「慰霊の日」を受け、「政府は今も、沖縄で国策優先の辺野古新基地建設を強行している。大のために小を切り捨て、沖縄に犠牲を強いる構図は当時と変わらない。戦前の空気が漂う中、戦争につながるあらゆるものを拒否し、今を新たな『戦前』にはさせないと改めて決意する日としたい。『軍隊は住民を守らない』という沖縄戦の教訓を胸に刻み、この地を二度と戦場にさせてはいけない。」、との決意表明を行っています。
また、安倍晋三政権に、「平和宣言で知事が指摘したように、現状はオスプレイの墜落、嘉手納飛行場でのパラシュート降下訓練や相次ぐ外来機の飛来、移転合意されたはずの旧海軍駐機場の継続使用など『基地負担の軽減とは逆行している』のである。首相は負担軽減を印象操作せず、沖縄の現実を直視しなければならない。安倍首相は『できることはすべて行う』と述べた。ならば辺野古新基地建設の断念、日米地位協定の抜本的見直し、海兵隊の撤退に向けて有言実行すべきである。」、との具体的要求を突きつけます。


 このように、沖縄の沖縄タイムスと琉球新報の二紙は、ジャーナリズムの気概を決意とともに示しています。


Ⅴ.最後に


 「沖縄『慰霊の日』20170623」を考える時、私たちは、まず最初に、「米軍基地の源流は沖縄戦にある。普天間飛行場は米軍が沖縄本島上陸後、住民を収容所に隔離した上で土地を奪って建設された。1945年8月4日時点で、1本の滑走路の71%が完成している。」、ということを理解する必要があります。
 また、安倍晋三政権が喧伝する沖縄の基地負担の軽減について、そのまやかしに気づく必要があります。例えば、それは、北部訓練場の返還がもたらしたものは、74.4%が70.4%に微減されたに過ぎないこと、ヘリパッドの集約によって東村高江に騒音が集中させられているという真実を見つめ直すということです。
 「沖縄『慰霊の日』20170623」は、日本という国が「米国の目下の政府として、対米従属政策を『国是』とする」としても、「0.06%なのに70.4%」であるという結果を多くの日本人が許容しているとしても、『このことの見直しは可能であるという地平に立つ』ことを、私たちに、強く語りかけています。





by asyagi-df-2014 | 2017-07-04 05:43 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
画像一覧