沖縄-辺野古- 高江-から-2017年6月23日

 沖縄で起こっていること、その現場の事実をきちんと確認すること。
 2017年も、琉球新報と沖縄タイムスの記事を、「沖縄-辺野古-高江-から」を、報告します。


 2017年6月23日。
 沖縄は、72回目の「慰霊の日」を迎えた。
沖縄は、「沖縄のこころ」を、平和を編んでいく。
 石垣市立大本小学校とうるま市立宮森小学校の児童が平和学習交流会を開く。
兵士・住民目線で戦争記録を公開する。
 沖縄全戦没者追悼式で朗読した平和の詩『みるく世がやゆら』を刻んだ記念碑を、具志川アシビナーに建立。詩は『今の世は平和でしょうか』と問いかける。
 対馬丸の悲劇、生存者の84歳は「命ある限り語り継ぐ」。


 2017年6月23日、沖縄-辺野古-高江の今を、沖縄タイムス、琉球新報は次のように表した。


(1)琉球新報-沖縄、きょう慰霊の日 戦没者のみ霊を慰め、恒久平和願う-2017年6月23日 06:00


 沖縄は23日、「慰霊の日」を迎えた。20万人余の尊い命が失われた沖縄戦から72年がたった。糸満市摩文仁の平和祈念公園では午前11時50分から沖縄全戦没者追悼式が開かれ、戦没者のみ霊を慰め、世界の恒久平和を希求する。式には安倍晋三首相、関係閣僚、衆参両院議長らも参加する。

 追悼式では宮古高校3年の上原愛音(ねね)さん(17)が「平和の詩」に選ばれた「誓い~私たちのおばあに寄せて」を朗読する。翁長雄志知事は慰霊の日に合わせて「『命どぅ宝』という平和を願う沖縄のこころを世界に発信し、平和な未来を築いていく」との知事メッセージを出した。「平和の礎」には本年度の追加刻銘を含め24万1468人の名前が刻まれている。


(2)琉球新報-平和、地域の歴史から学びあう 大本小・宮森小-2017年6月23日 05:00


 琉球新報は、標題について次のように報じた。


①「23日の慰霊の日を前に、石垣市立大本小学校とうるま市立宮森小学校の児童が20日、インターネットテレビ電話『スカイプ』を使い、平和学習交流会を開いた。両校とも初めての試みで『地域で起こったことを、多くの人に知ってもらいたい』との思いから、大本小が宮森小に提案して実現した。各地域の特徴的な歴史を相互に発表し合い、平和の尊さや命の大切さなどについて考えた。大本小は戦争マラリア、宮森小は米軍ジェット機墜落事故について発表した。発表前には『月桃』を合唱し、戦没者の冥福を祈った。」
②「うるま市立宮森小学校5年1組の約30人は、1959年6月30日に起こった『宮森小米軍ジェット機墜落事故』について発表した。担任の嘉陽哲子教諭は『記憶を風化させないためには、まず自分たちの中で再認識させることが大切。そうしないと他者への発信はできない』と、交流会の意義について説明した。児童は図書館にある資料や証言集などを読み込み、6グループに分かれて事故の被害状況や慰霊碑『仲よし地蔵』などについて、絵や紙芝居を使って説明した。」
③「兼本青空(そら)さん(11)は、大本小の発表を聞き『マラリアにかかったら、1週間で死んでしまうなんて怖かった』と感想を述べた。」
④「大本小学校の全児童9人は、八重山で多くの犠牲を出した『戦争マラリア』について発表した。低学年の児童4人は避難先でマラリアにかかり両親を失った体験を描いた紙芝居で、戦争マラリアの悲惨さを伝えた。高学年の5人は八重山平和祈念館で学習したマラリアの歴史や症状などを報告した。5年生の小林はなさん(10)は『ジェット機墜落を初めて知り、戦争の後にもこのようなことが起こったことに驚いたし、すごく残念だと感じた。八重山の戦争も、他の地域の人にも知ってほしい』と話した。」
⑤「漢那ひとみ校長は『お互いの地域の戦争体験を知る良い機会になった。戦争マラリアについての児童の理解も深まった』と交流授業の成果を語った。」


(3)琉球新報-沖縄から鉄道が消えた理由 慰霊の日に考える-2017年6月23日 06:00


 琉球新報は、標題について次のように報じた。


①「沖縄戦で奪われたものは、住民の命だけではなかった。戦前から沖縄の人々の暮らしを支えてきた重要な公共交通だった県営の県軽便鉄道(ケービン)や「ちんちん電車」も空襲などで破壊された。それらは戦後の米施政権下でも復興されず、日本復帰後も鉄軌道が敷設されることなく沖縄の車社会が形成され、深刻な交通渋滞を引き起こしている。現在はかつての鉄道に代わって、県都那覇市に沖縄都市モノレールが敷かれて新たな県民の足として利用されている。戦後72年がたつ現在は那覇市に隣接する浦添市へのモノレール延伸が着々と進められている。さらには那覇と名護の沖縄本島を南北で結ぶ鉄軌道の検討も進む。」
 戦争で消えたレール 米軍は再建せず
②「沖縄県内の鉄道は明治時代から民間資本での建設が計画されてきたが、資金不足などで計画倒れになってきた。民間敷設が困難な中で県による敷設が模索され、1914年(大正3年)に機関車が走る県軽便鉄道(後に県鉄道)の那覇―与那原線が開通。民間会社の沖縄電気軌道による電車も同じ年に走り始めた。」
③「軽便鉄道の敷設は、国が地方の鉄道網整備を目的に法規制を緩和した軽便鉄道法を制定したことで実現に拍車がかかった。那覇―与那原線に次いで那覇―糸満、那覇―嘉手納も開通し、営業距離は47・8キロ。本来は『ケイベン』と読むが、県民には『ケービン』『ケービングヮー』の呼称で親しまれた。那覇―与那原間の運賃は2等で18銭。定期もあり、通勤、通学の足としても利用された。高めの価格設定ということで無賃乗車もあったという。高学年の生徒が乗ると優先して席に座ることになっていたと、学生だった住民は語っている。当時の与那原町は、沖縄本島のやんばるからの船が入港する一大物流拠点。通常は機関車に、3両ほどの客車のほか、後ろに貨車も接続され、物流網としても機能していた。」

④「それが沖縄戦に入ると軍事物資の輸送路として活用されることになる。通常列車の合間に兵員や軍事補給物資を輸送する臨時列車が走った。軍事物資を載せた車両が爆発し、犠牲者を出す事故も起こった。1944年10月10日の大空襲『10・10空襲』で那覇駅が焼失。唯一のコンクリート製の駅舎だった与那原駅も損壊した。嘉手納線は米軍の沖縄本島上陸を目前に控えた1945年3月23日ごろ、与那原、糸満線が28日ごろを最後に運行を停止した。」
⑤「15歳で沖縄戦を体験した具志堅貞子さん(86)=与那原町=は『毎週ケービン(軽便鉄道)に乗るのが一番の楽しみだった。那覇まで行って買い物をした。終戦後、ぼろぼろに崩れた与那原駅を見たときは何も言葉が出なかった』と小さな声で語った。」
⑥「戦後、沖縄を占領した米軍政府は、新たな輸送手段として鉄道復興を計画していた。
志喜屋孝信・沖縄民政府知事からの要請に対し、ウィリアム・H・クレイグ軍政府副長官が『沖縄本島の運輸機関の欠乏は深刻で、軍政府も鉄道再建に必要な資材を獲得する特別な努力を続けている』と建設へ前向きな姿勢を示していた。しかし米側が鉄道を再建することはなかった。」
 沖縄県民待望のモノレール ウチナータイムに影響も?
⑦「この沖縄に鉄軌道が〝復活〟するのは2003年の沖縄都市モノレール開通まで待たなければならない。那覇空港駅から首里城のある首里駅までを結ぶ沖縄都市モノレール(通称・ゆいレール)。かつての県軽便鉄道のように、沖縄県民の通勤・通学の足として活用されているほか、増加する観光客の利用もめざましい。2016年度の乗客数は、前年度比116万7086人増(7・22%増)の1732万3988人を記録、2003年の開業以来の過去最高を更新した。年間乗客数は7年連続で増えている。それに伴い2016年度決算では、売上高に当たる営業収益が過去最高となり、純損益は2億2053万円の黒字で開業以来で初めての単年度黒字となった。ゆいレールの定時運行が、時間のルーズさを表す『ウチナータイム』への影響を指摘する声も出るなど、県民生活に大きく影響を与えている。」
⑧「2014年10月には沖縄初のIC乗車券『OKICA(オキカ)』を導入した。SUICAなど全国的な交通系ICカードとは連携していない『独立系ICカード』だが、乗客の約4割が使用している。今後SUICAなどがゆいレールでも使える仕組みも検討されている。」
 それでも深刻な交通渋滞 新たな鉄軌道はできるか
⑨「戦後72年がたった現在、沖縄県内では南北を骨格軸とし、那覇―名護間を1時間で結ぶ鉄軌道の導入が検討されている。県が7つのルート案を提示していて、利用者数や事業費などから最終的に1ルートに絞って計画案としてまとめ、国に整備を求める予定だ。
鉄軌道導入により、県は①県土の均衡ある発展②県民や観光客の移動利便性向上③中南部都市圏の交通渋滞緩和④駐留軍用地跡地の活性化―などが図れると期待している。とりわけ交通渋滞は深刻で、平日の渋滞時の交通速度(混雑時旅行速度)の2012年度調査時に那覇市は時速16・9㌔で、全国県庁所在地の中で最も遅かった。」
⑩「県は計画案をまとめるまでの工程を5段階に分類していて、現在、4段階目まで進めている。導入に当たり、初期費用が多額に上ることから、県は全国の新幹線で採用された公設民営による『上下分離方式』での事業着手を内閣府や国土交通省などに要望している。県は当初、2016年度中に計画案をまとめて国に提出する予定だったが、事業費などの比較に時間がかかり、ルートの絞り込みも含めていまだ決定しきれていない。」


(4)琉球新報-兵士・住民目線で戦争記録 伊佐さん、祖父の雑記帳公開へ-2017年6月23日 06:30


 琉球新報は、標題について次のように報じた。


①「幸地さんは1907年に生まれた。雑記帳は、2度目となった38年の中国出征の記述から始まり、『上海陥落』『首を斬つて』『涙』といった言葉が断片的に書き付けられている。39年に帰還。第32軍が沖縄に配備された後は、南風原村新川で供出係を務めた。雑記帳には『豚供出割当』『山羊(やぎ)九三羽』などの文字が、個人名と共に記されている。」
②「45年3月23日、米軍の沖縄本島上陸を前に『戦争其(そ)ノ日ヨリ毎日戦戦デス』の記述。さらに『四月一日ヨリハ毎日防空ゴ生活になりました』(4月4日)、『朝カラバクダンニオイマワサレテ』(5月6日)と続く。」
③「幸地さんの三男、賢造さん(81)=西原町=によると、5月上旬に新川の自宅を出た。山道を歩き、中旬には現在の糸満市に到着。一家は幸地さんを含め8人だった。長女の伊佐良子さん(89)=那覇市=は『父は手帳と鉛筆を胸ポケットに入れて、避難先で時間ができると書いていた』と振り返る。」
④「最後の記述は6月4日。『我等(ら)と共命がけ話し さあ此(こ)れからだ 運命』。その9日後の6月13日、幸地さんは米軍の爆撃で亡くなった。一家で唯一の犠牲者だった。」
⑤「生前、幸地さんは良子さんに対し『自分の形見だから、あなたが持っておきなさい』と雑記帳を手渡していた。あれから72年。雑記帳はカバーと共に3分の2ほどが消失し、現在60ページが残っている。記述を全てパソコンで打ち直した伊佐さんは『戦争中は書くこと自体が大変だった。公開する意味があると思う』と話す。沖縄国際大学の吉浜忍教授(沖縄近現代史)も『軍と住民の関係が分かり、住民の記録として非常に価値がある』と評価した。」(真崎裕史)


(5)沖縄タイムス-「今の世は平和でしょうか」 2年前の沖縄慰霊の日で朗読された詩 石碑に刻む10代の問い-2017年6月22日 20:00


 沖縄タイムスは、標題について次のように報じた。


①「沖縄県うるま市具志川区は、戦後70年の2015年に同区出身の知念捷(まさる)さん(19)が沖縄全戦没者追悼式で朗読した平和の詩『みるく世がやゆら』を刻んだ記念碑を、具志川アシビナーに建立した。詩は『今の世は平和でしょうか』と問い、戦争の惨めさを詠む。25日の式典で2年ぶりに詩を朗読する知念さんは『慰霊塔とともに具志川から静かに平和を訴える礎になってほしい』と願う。」(中部報道部・大城志織)
②「県平和祈念資料館によると、平和の詩を刻銘した碑は県内で初めて。碑の建立は、老朽化した区の慰霊塔の改修とともに、1年前の区民総会で全会一致で決定。戦争で夫を失った祖父の姉をつづった詩に感銘を受けた区民から建立の提案が相次いだという。元うるま市長で碑建立実行委員長の知念恒男さん(76)は『平和を希求する県民の思いがこもった素晴らしい詩だ。戦争の惨禍を忘れることなく、慰霊塔と碑を大切にしていきたい』と語る。」
③「当時、与勝高校3年生だった知念さんは現在、東京の大学に通う。『慰霊塔に刻まれている名前の奥には、具志川で生活を営み、喜怒哀楽を経験したであろう方々のそれぞれの物語がある。詩を通して少しでもその物語を感じてもらえればうれしい』と期待した。」
④「慰霊塔は1947年に具志川グスクに建てられ、57年に現在の場所に移転した。今回、追加刻銘した102人と合わせ、沖縄戦などで犠牲になった具志川出身者271人の名が刻まれている。知念さんの祖父の姉の夫、故義雄さんも刻銘されている。慰霊塔の改修と碑建立の費用は約1千万円で、ハワイとブラジルの字具志川同志会からの支援金約100万円や、区出身者の寄付金などを充てた。」
⑤「同区は25日午後3時から、具志川アシビナーで記念式典と慰霊祭を開く。問い合わせは具志川公民館、電話098(973)3407。」


(6)沖縄タイムス-忘れたかった対馬丸の悲劇、でも今は… 生存者の84歳「命ある限り語り継ぐ」-2017年6月23日 05:19


 沖縄タイムスは、標題について次のように報じた。


①「1944年8月22日の夜、米軍潜水艦の魚雷を受けて沈没した『対馬丸』。生存者の久高将吉さん(84)=沖縄県南城市つきしろ区=は『事件が風化しないうちに戦争を知らない世代に話しておきたい』と体験を語り継ぐ活動を始めた。11日につきしろ公民館であった平和講演会では区内外の約70人の聴衆を前に、初めて自身の体験を語った。」
②「当時11歳の久高さんは疎開のため、父、母、兄の一家4人で宮崎に向かう途中で事件に遭遇した。魚雷が命中した船が沈みゆく中、父母と一緒にいかだにしがみついた。兄も隣のいかだにつかまっており『全員大丈夫だ』と思った。夜が明けると、そこら中にあったいかだは周囲に一つもなく、兄も行方知れずとなった。3人は飢えや喉の渇きに苦しみながら6日間漂流。『水が飲みたくて、水がめが浮いている幻覚を何度も見た』。台風にも遭遇し、10メートルを超える高波にもまれ、必死でいかだのロープを握りしめて耐え抜いた。一家は警戒中の日本軍の爆撃機に発見され、対馬丸沈没から6日後の28日に救助された。」
③「戦後、兄は奄美大島の宇検村に遺体で流れ着き、他の犠牲者と一緒に埋められたことを知った。『一緒のいかだに乗せていれば』。父は幾度となくつぶやいた。他の遺族と共に、父は奄美に渡り遺骨を収集、糸満市米須の魂魄(こんぱく)の塔に納めた。」
④「久高さんは毎年8月22日に那覇市若狭の小桜の塔で開かれる慰霊祭に参加した後、魂魄の塔に行き手を合わせる。しかし、生存者も高齢化し、慰霊祭に参加するのは4、5人までに減ったという。『今までは対馬丸のことは忘れたいと思っていた』という久高さん。体験者が減っていく現実の中で、自身が語り部として次世代に伝えていかなければと思うようになった。『戦後72年がたち、喉元過ぎれば熱さを忘れる。戦争を知らない世代に悲惨な体験を伝えないと、戦前のような国に戻るのではと心配だ』」
⑤「久高さんと親交の深い、つきしろ自治会の新城辰夫自治会長(77)は『今の基地問題につながる原点は沖縄戦にある。体験者の話を聞くことで平和の尊さをつなぐことができる』と語った。」
⑥「久高さんは「戦争は二度とあってはいけない。命ある限り、この体験を語り継いでいきたい」と力強く誓った。」


(7)琉球新報-島包む祈り 世界平和 誓う-2017年6月23日 12:30


琉球新報は、標題について次のように報じた。


①「沖縄は23日、沖縄戦の組織的戦闘の終結から72年となる『慰霊の日』を迎えた。沖縄戦で犠牲になった20万人余のみ霊を慰め、世界の恒久平和を誓う『沖縄全戦没者追悼式』(県、県議会主催)が23日午前11時50分から、最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園で開催された。」
②「平和祈念公園には早朝から多くの遺族らが訪れ、2017年度に新たに追加刻銘された54人を含む24万1468人の名前が刻まれた『平和の礎』に手を合わせた。県内各地で慰霊祭が開かれ、沖縄は鎮魂の祈りに包まれている。」
③「追悼式には安倍晋三首相をはじめ、関係4閣僚、衆参両院議長らが参列した。参列者らは正午の時報に合わせて黙とうした。追悼式で翁長雄志知事は平和宣言を読み上げ、米軍専用施設面積の70%が集中する不条理な現実を訴え、日米地位協定の抜本的な見直しや米軍基地整理縮小による過重な基地負担軽減を求めた。12日に他界した大田昌秀元知事が平和の礎を建立したことに触れ、平和の尊さを次世代に受け継ぐ決意を語った。」
④「平和宣言の後、県立宮古高校3年の上原愛音さん(17)が平和の詩『誓い~私達の


おばあに寄せて」を朗読した。県遺族会が主催する平和祈願慰霊大行進は午前9時に糸満市役所を出発し、追悼式に合流した。」


(8)琉球新報-鎮魂の祈りに包まれ 戦後72年の慰霊の日-2017年6月23日 08:09


 琉球新報派、「沖縄は23日、沖縄戦の組織的戦闘の終結から72年となる『慰霊の日』」を迎えた。沖縄戦で犠牲になった20万人余のみ霊を慰め、世界の恒久平和を誓う『沖縄全戦没者追悼式』(県、県議会主催)が23日午前11時50分から、最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園で開催される。」、と報じた。
 また、「平和祈念公園や魂魄の塔などには早朝から多くの遺族らが訪れた。2017年度に追加刻銘された人々を含む24万1468人の名前が刻まれた『平和の礎』には早朝から遺族らが次々と訪れ、石版に刻まれた亡き肉親らの名前に向かって手を合わせた。沖縄は鎮魂の祈りに包まれている。」、と報じた。


(9)沖縄タイムス-戦後72年の「慰霊の日」 沖縄戦20万人超の犠牲者悼む-2017年6月23日 12:27


 沖縄タイムスは、標題について次のように報じた。


①「戦後72年の「慰霊の日」を迎えた23日、県内では沖縄戦で亡くなった20万人を超える犠牲者を追悼し、恒久平和を希求する祈りに包まれた。」
②「糸満市摩文仁の平和祈念公園内にある「平和の礎」や、同市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」などには、朝早くから多くの戦争体験者や遺族らが訪れ、亡き肉親や友人らの魂を慰めた。子や孫らと一緒に線香や花を手向け、祈りをささげる姿もみられた。」
③「同公園では、午前11時50分から、沖縄全戦没者追悼式(主催・県、県議会)が執り行われた。安倍晋三首相や衆参両院議長のほか外務、防衛、厚生労働、沖縄担当の関係閣僚らが出席。正午の時報に合わせて黙とうした。」
④「沖縄には戦後72年たっても、全国の米軍専用施設の約70%が集中し、県民生活や経済活動に影響を及ぼしている。過重な基地負担に抗議し、平穏な暮らしを求める県民の思いに反し、昨年は米軍関係者による凶悪事件や、米軍普天間飛行場所属MV22オスプレイの名護市安部海岸での墜落事故が発生。県民が負担軽減を実感することのないままに、名護市辺野古では県民の民意を顧みず、政府による新基地建設が強行されている。」
⑤「沖縄戦では一般県民約9万4千人と、日米軍人・軍属などを合わせて20万人余が亡くなった。敵味方を問わず、沖縄戦の戦没者らの名を刻む平和の礎には、今年新たに54人(県内31人、県外8人、海外15人)が加わり、計24万1468人が刻銘されている。」




by asyagi-df-2014 | 2017-06-23 17:22 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
画像一覧