日本の今を考える(1)-The Huffington Post-沖縄・高江の現場にいたカメラマンは、ある日突然逮捕された。狙われた「報道の役割」-

日本というものを考えてみる。
日本の今を見つめ直す機会に。
自分自身の厭世観やだらしなさと向き合うために。
「人らしく」少しでも進んで行くために。
2017の初頭に。


 The Huffington Posは2016年12月26日、フリージャーナリストの木村元彦氏(以下、木村とする)のリポートを掲載した。
 このレポートで、それぞれの「決意」について受け取ることができた。
 今、その「決意」を試される時代背景が目の前にある。
 だとしたら、2017の初頭に、自分としての「決意」の意味を確認する。
このレポートを通して。


木村は、カメラマンの島崎ろでぃーの「逮捕劇」を、次のように紹介した。


(1)(2016年)11月16日朝6時45分。アルバイトに行こうとアパートから外に出ると、声をかけられた。「もう、出て来たのか。早いな」。神奈川県警の警官だった。家宅捜査の令状を見せられた。驚きながらも部屋にいる妻を心配した。「連れ合いが家にいます。何でも出しますから、手荒なガサ入れは辞めて下さい」。乱暴に荒らされるようなことはなかったが、沖縄で撮影した画像の入ったメモリーカードとハードデイスクがすべて押収された。
(2)「逮捕のフダ(令状)もあるけど、それは車の中で見せる」。容疑は約3ヶ月前の8月25日に高江で起きたとされる「公務執行妨害」と「傷害」。防衛局の職員に対して暴行を働いたというものである。ろでぃーには全く身に覚えがなかった。カメラマンはこうして突然逮捕された。
(3)沖縄での取り調べのためにパトカーに乗せられ、羽田空港に移送される。手錠と腰縄を付けられていた。当然、空港ロビーでは衆目を集める。警官は「(手錠を)隠すか?」と聞いて来たが、「悪いことをしていないので恥ずかしいと思わない。隠さなくていいです」と答えた。沖縄の彫刻家金城実の作品で胸を張って刑場に行く死刑囚があったのを思い出していた。
(4)13時過ぎの便で那覇に渡り、与那原署に収監されて取り調べが始まった。拘留中は弁護士以外の接見は禁止され、1日2時間から4時間の調べが続いた。「3ヶ月前の事件でなぜ、カメラマンの自分がやってもいない『公妨』で逮捕されなければならなかったのか」。納得はできなかった。何度聞かれてもずっと否認していた。
(5)取り調べに出てきた刑事は紳士的な態度であったが、ひとりの女性検事にこう言われた。「私はあなたをジャーナリストと思っていない。あなたは活動家だ」。2回目の検事調べで、現場で自分が映っている動画をズームアップ編集で見せられた。そこにはヘリパッドに反対する高江のプロテスターを励まし、ときに抗議行動の情報や方針を大声で伝達する姿が映っていた。検事はこれらの素材を前にして、「あなたはカメラマンではなく活動家だ」と断じたのである。


 次に、ジャーナリストのあり方、その立ち位置はどのようにあるべきかを、島崎ろでぃーの言葉、文章で伝える。


(1)これに対してろでぃーは今、こう反論する。「現場においてどの立場でシャッターを切るのかということが重要じゃないですか。僕の場合はそれは明確で、あくまでも抗議する市民の側ですよ」。
(2)カメラは武器である。人を傷つけることもあれば守ることもある。市民運動の場で権力の監視というのはカメラマンの仕事の一つではないかと思っている。差別・排外デモに抗議する市民と警察の間に立って不当な逮捕をさせないのはとても大事なことで、たとえ証拠不十分で不起訴になったとしても、逮捕されるのは市民にとって大きなダメージになる。実際、そこにカメラがあることで警官が落ち着きを取り戻すといったシーンが何度もあった。沖縄ではそんな役割をマスメディアのカメラマンも当然のようにやっているのを見て、自分が間違っていないことを確信もした。


 さらに、木村は、島崎ろでぃーのジャーナリストのあり方に関しての「決意」について、次のように触れる。


(1)現場においてどの立場でシャッターを切るのかということが重要じゃないですか。僕の場合はそれは明確で、あくまでも抗議する市民の側ですよ。
(2)ろでぃーはこの信念を曲げない。尊敬する写真家としてユージン・スミスと土門拳の名前を挙げる。「水俣病患者を撮影し続けたユージン・スミスさんだって、チッソに対する抗議行動に自分も参加したし、土門さんも筑豊炭田での失業と貧困の問題を訴えるために生活に入り込んだじゃないですか。それらは取材対象に向かって写真を撮る上で必要な信頼関係だと思うんです」。


 木村は、島崎ろでぃーの「逮捕劇」を通して、報道の自由の意味やジャーナリズムのあり方について、次の二つのことを投げかける。


(1)当事者との信頼が無いアジテーション有りきの薄っぺらなやらせやプロパガンダは写真ではない。カメラは武器であるということを自覚した上で、武器を何のためにどう行使するのか。それは彼の作品群を見れば瞭然であろう。「あなたはジャーナリストではなく活動家だ」と面罵した検事は報道写真を理解していないのではないか。
(2)8月20日には東高江村で、アスファルトに座り込んだ住民を機動隊が引きずって排除する様子を琉球新報と沖縄タイムスの記者が写真撮影していたところ、腕や背中を捕まれて強制的に拘束されるという事件が起きていた(二紙は報道の自由を侵害と抗議声明を出す)。権力を前にした非対称の弱者を避けて撮影することが中立な報道とでも言うのであろうか。


 最後に、木村は、島崎ろでぃーの今を、「ろでぃーは起訴か不起訴か、未だ処分保留のままである。『(逮捕されて移送される際の)帰りの航空券は自費負担なんですよ。仕事が出来ない中での5万円は痛かった』。帰京後は早々にまたバイトに出かける毎日である。」、と伝える。


この木村のレポートは、沖縄の今を映し出すとともに、日本の民主主義の底の浅さを抉り出すものである。また、あわせて、人としての「立ち位置のあり方」を、それは引いては「決意」をどこに位置づけるのかということについて問うている気がする。
例えば、沖縄の琉球新報と沖縄タイムスの二紙は、米軍基地問題について、沖縄の基地負担の問題について、その立ち位置をどこに置くかを常に求められるなかで、記事を書いている。それは、木村の言葉を借りれば、「権力を前にした非対称の弱者を避けて撮影することが中立な報道」ではないことへの反証としての実践である。
 もちろん、二紙は常に、自らの負の歴史を乗り越えることを求められている。したがって、二紙の記者は、逃げの曖昧さが許されない厳しい現場に自らの足で立ち、自らの目で見た事実を基に、乗り越えなけねばならない問題の原因は何かを問い詰めるなかで、真実を書くことが「仕事」なのである。だから、時として、沖縄の二紙を読む時、その記事からは「決意」を感じることができる。
その「決意」は、報道の自由やジャーナリズムのあり方を、自分の立ち位置を明確にする中で、真実を刻み込もうとする行為として現れる。
日本の今を見つめ直すとは、実は、こうした「決意」の中で自分の立ち位置を考えるとともに、現状を検証し、何ができるかを考えることであるという気がする。
この意味で、2017を位置づける。



以下、The Huffington Postの引用。








The Huffington Post-沖縄・高江の現場にいたカメラマンは、ある日突然逮捕された。狙われた「報道の役割」- 2016年12月26日 16時05分


【フリージャーナリスト・木村元彦氏のリポート】


12月8日、不当逮捕を「取材・報道行為に対する侵害」として訴えていたカメラマンの島崎ろでぃーが、沖縄での勾留期限を終えて東京に戻って来た。いったい、彼はなぜ逮捕されたのか。取調べでは何があったのか。不可視にされていたジャーナリストの拘束事件を改めて検証する。

okinawa
11月16日朝6時45分。アルバイトに行こうとアパートから外に出ると、声をかけられた。「もう、出て来たのか。早いな」。神奈川県警の警官だった。家宅捜査の令状を見せられた。驚きながらも部屋にいる妻を心配した。「連れ合いが家にいます。何でも出しますから、手荒なガサ入れは辞めて下さい」。乱暴に荒らされるようなことはなかったが、沖縄で撮影した画像の入ったメモリーカードとハードデイスクがすべて押収された。

「逮捕のフダ(令状)もあるけど、それは車の中で見せる」。容疑は約3ヶ月前の8月25日に高江で起きたとされる「公務執行妨害」と「傷害」。防衛局の職員に対して暴行を働いたというものである。ろでぃーには全く身に覚えがなかった。カメラマンはこうして突然逮捕された。

沖縄での取り調べのためにパトカーに乗せられ、羽田空港に移送される。手錠と腰縄を付けられていた。当然、空港ロビーでは衆目を集める。警官は「(手錠を)隠すか?」と聞いて来たが、「悪いことをしていないので恥ずかしいと思わない。隠さなくていいです」と答えた。沖縄の彫刻家金城実の作品で胸を張って刑場に行く死刑囚があったのを思い出していた。

kaneshiro
13時過ぎの便で那覇に渡り、与那原署に収監されて取り調べが始まった。拘留中は弁護士以外の接見は禁止され、1日2時間から4時間の調べが続いた。「3ヶ月前の事件でなぜ、カメラマンの自分がやってもいない『公妨』で逮捕されなければならなかったのか」。納得はできなかった。何度聞かれてもずっと否認していた。

取り調べに出てきた刑事は紳士的な態度であったが、ひとりの女性検事にこう言われた。「私はあなたをジャーナリストと思っていない。あなたは活動家だ」。2回目の検事調べで、現場で自分が映っている動画をズームアップ編集で見せられた。そこにはヘリパッドに反対する高江のプロテスターを励まし、ときに抗議行動の情報や方針を大声で伝達する姿が映っていた。検事はこれらの素材を前にして、「あなたはカメラマンではなく活動家だ」と断じたのである。

これに対してろでぃーは今、こう反論する。「現場においてどの立場でシャッターを切るのかということが重要じゃないですか。僕の場合はそれは明確で、あくまでも抗議する市民の側ですよ」

rody
ろでぃーが北海道新聞に記した、よく引用される象徴的な一文がある。

カメラは武器である。人を傷つけることもあれば守ることもある。市民運動の場で権力の監視というのはカメラマンの仕事の一つではないかと思っている。差別・排外デモに抗議する市民と警察の間に立って不当な逮捕をさせないのはとても大事なことで、たとえ証拠不十分で不起訴になったとしても、逮捕されるのは市民にとって大きなダメージになる。実際、そこにカメラがあることで警官が落ち着きを取り戻すといったシーンが何度もあった。沖縄ではそんな役割をマスメディアのカメラマンも当然のようにやっているのを見て、自分が間違っていないことを確信もした。

ろでぃーはこの信念を曲げない。尊敬する写真家としてユージン・スミスと土門拳の名前を挙げる。「水俣病患者を撮影し続けたユージン・スミスさんだって、チッソに対する抗議行動に自分も参加したし、土門さんも筑豊炭田での失業と貧困の問題を訴えるために生活に入り込んだじゃないですか。それらは取材対象に向かって写真を撮る上で必要な信頼関係だと思うんです」

okinawa
スミスはチッソの工場で会社の雇った右翼に襲われて片目を失明している。土門は「筑豊のこどもたち」を撮る際、弁当を持って来られない子、床が抜けた家で酒乱の父を相手にする子どもと親密になってからシャッターを切っている。当事者との信頼が無いアジテーション有りきの薄っぺらなやらせやプロパガンダは写真ではない。カメラは武器であるということを自覚した上で、武器を何のためにどう行使するのか。それは彼の作品群を見れば瞭然であろう。「あなたはジャーナリストではなく活動家だ」と面罵した検事は報道写真を理解していないのではないか。

8月20日には東高江村で、アスファルトに座り込んだ住民を機動隊が引きずって排除する様子を琉球新報と沖縄タイムスの記者が写真撮影していたところ、腕や背中を捕まれて強制的に拘束されるという事件が起きていた(二紙は報道の自由を侵害と抗議声明を出す)。権力を前にした非対称の弱者を避けて撮影することが中立な報道とでも言うのであろうか。

okinawa
ろでぃーは起訴か不起訴か、未だ処分保留のままである。「(逮捕されて移送される際の)帰りの航空券は自費負担なんですよ。仕事が出来ない中での5万円は痛かった」。帰京後は早々にまたバイトに出かける毎日である。

写真集「引きがね」を出した版元「ころから」の支援のチャリティー通販は終了したが、もちろん販売は継続している。


by asyagi-df-2014 | 2017-01-01 02:19 | 書くことから-いろいろ | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
画像一覧