「土人」「シ「ナ人」発言を考える。(38)

 大阪府警の機動隊員による「土人」「シナ人」発言を考える。
 「差別する側の意識が変わらないと問題は解決しない」、と識者は評する。
 つまり、差別する側の植民者の自覚がなされるのかどうかだ。
 人種差別撤廃条約に違反する問題なのだ。


 沖縄タイムスは2016年11月12日、朝日新聞社「月刊Journalism2016年11月号」の「沖縄・高江での記者拘束問題を考える 「土人」暴言も飛び出す憎悪の現場」、との阿部岳記者の記事を掲載した。
読む者は、事の重要性をあらためて突きつけられる。
それは、安倍晋三英検の愚昧な強権政治が、「高江で、私たちは民主主義の危機を見ている。」、との状況を生みだしてきていることを知ることになる。
 実は、「戒厳令状態だ。」、と。
 阿部岳記者は沖縄・高江の現況について、、「高江には日本の本当の姿がある。本土から遠く、沖縄の中心地である那覇市からさえ遠い山の中で、むき出しの権力が行使されている。」、と告発する。
 記事は、「身をもって知った『書き続ける意義』」、事実の重みの報告をまず始める。


(1)「報道の自由って分かるよな?」と、沖縄タイムスの男性記者は何度も聞いた。「仕事で写真を撮っているだけです」と、琉球新報の女性記者は何度も伝えた。しかし、警察官たちは一言も発しない。ただ両腕をつかみ、背中を押した。そうやって、取材中の記者2人が拘束された。
(2)8月20日、東村高江。那覇空港から約80キロ、沖縄本島北部の山中で、この日も米軍のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)建設に対する抗議行動が続いていた。現場となったのは一本道の県道にかかる小さな橋。砂利を積んだダンプを止めようと、市民約50人が座り込んでいた。
(3)午前10時26分、機動隊が市民のごぼう抜きを始めた。すぐに、取材していたタイムス記者が機動隊員4人に囲まれた。背中を強くこづかれ、市民と一緒に「仮留置場」に放り込まれた。「後ろから背中を強く押された。機動隊員の顔も見ていない。あっという間の出来事だった」という。仮留置場は橋のすぐ南側につくられていた。機動隊のバス2台とガードレール、それに機動隊員の人垣が四方をふさいでいた。2012年、沖縄県警が編み出した手法だ。事故の多い新型輸送機オスプレイの配備強行に怒った市民が普天間飛行場のゲートを封鎖した時のこと。県警は強制排除した市民がまた座り込みに戻らないように、拘束し続けておくことを決めた。
(4)権力が「悪いことをするかもしれない」と判断しただけで市民の身体の自由を奪う。戦前の治安維持法で悪名高い予防拘禁と本質的に変わらない。だが、沖縄県警はそんな批判を意に介さず、名護市辺野古、そして高江で同じ手法を繰り返し使ってきた。
(5)タイムス記者はその場に15分ほど閉じ込められていた。社員証を示し、取材中であることを告げても、若い機動隊員たちはやはり何も答えなかった。そこへ、沖縄県警の腕章を着けた私服警官が通りがかった。「仕事にならない。出してほしい」と交渉し、ようやく解放される。だが、自由だったのはものの1~2分にすぎなかった。10時45分ごろ、現場の橋に戻ろうと歩いていくと、新報の記者が同じように連行されようとしているのを見た。思わず「新報の記者ですよ」と声を上げた。すると自分も再び捕まった。10時58分ごろまで、また約15分。2回でおよそ30分にわたって行動の自由を奪われた。
(6)外ではまだ市民の強制排除が続いていた。首を伸ばして現場を見ようとするが、機動隊員の列が邪魔で見えない。そうしている間に、自分がいる仮留置場に市民が運ばれてくる。「現場で何が起きているのか分からない。空白ができてしまった。読者に完全に伝えられなかったのが悔しかった」と振り返る。新報記者もいったん拘束されかけた後、何とか現場に戻り、機動隊員による強制排除の様子を撮っていたところだった。その場にいた機動隊幹部は「プレスの方ですよね」と確認し、特にとがめなかった。
 しかしその後、沖縄県警の私服警官がやってきた。「下がって。危ないですよ」。正面から向き合う形で両肩をつかんだまま無理やり下がらせた。最後は機動隊員2人が両腕をつかみ、別の1人は背中を押して、約40メートル移動させた。タイムス記者や市民と同じ仮留置場に押し込んだ。
(7)新報記者は移動させられる間、ずっと「新報です。何の権限があるんですか」と問い続けた。ここでも説明はない。拘束された約15分の間、ノートに書き殴っていた。「かんきんされた 不当かんきん」「なぜ弾圧されるのか おかしいよな 報(道)の自由を 表(現)の自由を犯している」「戦の足音がきこえる、というのは まちがっていない (機動隊員に理由を)きいてもこたえない」「この悔しさを忘れてはいけないと思って」書いた。記者2人が解放されたのは、全てが終わった後だった。


 こうした一連の警察の対応を暴く。


(1)沖縄県警は記者だとは分からなかった、と主張した。県議会で追及された池田克史本部長は「腕章をしておらず、抗議参加者と見分けがつかない状況だったこともあり、抗議参加者との認識で移動させた。記者だと名乗ることもなかった。狙い撃ちで行動を制限しているものではなく、また取材中の記者と認識した上で規制することもない」と答弁した。だが、これは事実に反している。
(2)確かにタイムス記者は腕章をしていなかったが、顔写真入りの社員証を示し、何度も記者だと伝えている。新報記者は肩から提げたカメラのストラップに腕章を付けていたが、それを警官の顔の高さまで上げて示し、繰り返し「新報です」と声を上げた。
(3)池田本部長は「報道各社に腕章を識別できるよう、腕への装着を徹底することを申し入れた」と記者側の問題にすり替えようとした。だが、公道上で腕章をするかどうか、どこに着けるかは個人の選択だ。腕に着けなかった結果、記者だとすぐ分かってもらえず、排除されかけたとしてもそれはいい。問題は、記者と認識した後も拘束を続けたことにある。その説明はなかった。


 この後の抗議の動きは次のものだった。


(1)事件を受け、タイムスは石川達也編集局長が声明を出した。「本紙記者は市民らの抗議活動を通常通りに取材し、県民の知る権利に応えようとしていたもので、こうした警察権力による妨害は、憲法で保障された報道の自由を侵害するものであり、断じて許すことはできない」
(2)新報は普久原均編集局長名で抗議の談話を発表した。「現場には県民に伝えるべきことがあった。警察の妨害によって、その手段が奪われたことは大問題だ。警察官が記者を強制的に排除し、行動を制限した行為は報道の自由を侵害するもので、強く抗議する」
(3)本土メディアでは神奈川新聞の記者が拘束が起きた直後の現場を取材した。新報記者の「私たちが取材しなかったら、高江の人々の声が伝わらない。何もなかったかのようにされてしまう」という話を、連載の中で紹介した。
(4)力ずくの記者排除は「遠い国での出来事とばかり思っていた」と書いたのは北海道新聞のコラム。信濃毎日新聞の社説は「政府に対して批判的な報道を続ける地元紙に対する政府、自民党の敵意が隠れていないか」と懸念した。高知新聞の社説は「記者と分かっても解放しなかった理由、再発防止策も示さなければならない」と要求した。東京新聞は「警察の権限を強化しようとする大きな動きがある」との識者の見方を紹介した。ほかに知る限り朝日新聞、毎日新聞、共同通信が事実関係を報じた。
(5)労働組合も一斉に抗議した。新聞労連は「実力行使で報道を妨害する行為は、絶対に認めるわけにはいかない」、放送局を含む沖縄の報道機関労組でつくる沖縄県マスコミ労働組合協議会は「国家権力が都合の悪いことを隠す行為だ」と批判した。


 この事件前にも「高江では以前から取材規制」が行われていた。この実態について。
また、「警官個人の裁量が幅を利かせる。そんな状態は今も続いている。」、と。


(1)8月20日の記者拘束は、最悪のケースだった。だが、ここまで発展しないまでも、これに類する取材規制は高江で日常的に起きてきた。一番多いのは、県道封鎖だ。ダンプが砂利を運んでいる時間帯、現場手前の2キロ弱の区間を警察が毎日のように通行止めにしている。抗議の市民を近づけないためだが、通りすがりの市民も記者も同様に規制される。車を置いて徒歩なら規制区間に入れる日もあるし、それすら許されない日もある。ここでも警察は何のための規制か、いつまで続くのかなど、一切説明しない。
(2)ヘリパッド建設工事が再開された初日、7月22日の現場はさらに混乱していた。県道から建設予定地に続く工事用道路の出入り口前。日付が変わる前から集まっていた市民約200人は、午前6時半ごろまでには約500人の警察官によってほとんど排除されていた。残るのは出入り口をふさぐ形で止めた2台の車と、その屋根の上に陣取った市民15人ほど。機動隊員が引きずり下ろそうとしていて、さらなる混乱が予想された。その場にいた私を含む記者は、警官から繰り返し退去を求められた。一部の機動隊員は別の記者の背中を押した。だが、抵抗すると引き下がった。結局、記者はそれぞれの持ち場に食らいついて、車の屋根の上から、道の反対側から、強制排除の様子を見届けた。肋骨を折る市民まで出た荒れた現場。警官が市民にパンチを繰り出すニュース映像を見た人もいるのではないか。この日は全国メディアも多数集まっていて、実情が広く報道された。夕方になっても混乱は尾を引いていた。午後4時、交代の時間になっても同僚が来てくれない。現場は山の中で、商店はおろか、自動販売機すらない。食料も水も底を突いた。現場に午前0時前に集合した取材班のうち、最後まで残っていた私と同僚の2人は疲労がピークに達していた。聞くと、交代要員の同僚は現場の手前で警察に止められていた。警官は「出ることはできるが、入ることはできない」と主張しているという。この日は、道路管理者の県職員まで警官に追い返されていた。私たちが出てしまうと、タイムスの記者が現場に誰もいなくなってしまう。7月の沖縄の太陽が照りつけていた。目まい、頭痛、手のしびれ、と熱中症の症状を自覚しながら、規制が解除されるまで1時間以上、ただ待つしかなかった。この日の規制は連続11時間に及んだ。
(3)翌23日は、現場の手前で検問に出くわした。「どこに行くんですか?」「何をしに?」と尋ね、免許証を提示させて住所や名前を書き留める。抗議行動から人を遠ざけようとする嫌がらせなのは明らかだった。車から降り、写真撮影を始める。機動隊員が「ここに車を止めないでください」と取材を妨害しにきた。「駐車禁止じゃないでしょう。何でですか」「とにかく危ないから止めないでください」の繰り返し。現場責任者は最後には「あなたの会社に連絡しますよ!」と激高したが、「どうぞお願いします」と返すと変な顔をして黙ってしまった。
(4)警察は沖縄を含む7都府県の混成部隊だ。沖縄県警のある警官は漏らした。「誰が誰だか、警官同士でも分からない。どこで何をしているのかも把握できない。後になって、警察がそんなことをしたのか、と驚くことも多い」。責任を持って説明できる者がいないまま、警官個人の裁量が幅を利かせる。そんな状態は今も続いている。


 阿部 岳記者は、この事件の本質である新基地建設について、「新施設建設が返還条件 小中学生が眠れず学校を休む事態も」、と語りかける。
 それは、民主主義の危機について。


(1)ここであらためてヘリパッド建設問題について説明したい。舞台は国頭村と東村の山岳地帯にまたがる北部訓練場。米軍にとって世界で唯一のジャングル戦闘訓練センターだ。面積は7824ヘクタールと沖縄で最も大きい。そのうち半分をやや上回る3987ヘクタールを返還することになっている。
(2)1995年、米兵3人による暴行事件をきっかけに、積年の基地被害への県民の怒りが噴き出した。沖縄の基地維持に危機感を抱いた日米両政府は日米特別行動委員会(SACO)を設置、最終報告で普天間飛行場の全面返還などと共に、北部訓練場の一部返還をうたった。返還面積を膨らませる狙いがあった。
(3)問題は普天間と同様、新たな施設の建設が条件とされたこと。北部訓練場の場合は、返還する部分にあるヘリパッド7カ所から1つ減らし、継続使用する部分に6カ所建設することになった。この6カ所は、高江集落を取り巻くように配置された。途中からオスプレイが使うことも明らかになった。人口140人ほどの小さな集落は、反対に立ち上がった。理由はシンプルだった。危ないし、うるさいから。2度、反対決議をしている。
(4)2007年に工事が始まると、現場で抗議行動が展開された。当初09年の完成予定だったが遅れに遅れ、14年7月に2カ所が完成したにとどまる。完成した2カ所では今年6月、オスプレイが連日午後11時すぎまで低空飛行し、小学生や中学生が眠れずに学校を休む事態があった。母親は「通り過ぎた後も、子どもたちは胸がバクバクして眠れない。落ちてくるのでは、と思うと怖い」と訴えた。親子は一時、隣の国頭村に「疎開」を余儀なくされた。こんな地域が、日本のどこにあるだろう。
(5)沖縄防衛局は今年7月、2年間の中断を経て、残るヘリパッド4カ所の工事に着手した。以来連日、2紙の記者は現場に張り付いている。高江は私が勤める北部報道部の管轄だが、4人の記者ではとても足りない。政治、経済、文化、あるいは遠く本島南部地域の担当記者も交代で来てくれる。さかのぼれば14年7月、辺野古新基地建設が始まった時からずっとこの態勢が続いている。辺野古の工事が止まり、高江が始まったので、行き先が変わったわけだ。
(6)高江で、私たちは民主主義の危機を見ている。防衛局が最初に動いたのは7月11日の早朝午前6時。建設予定地近くの北部訓練場に資材を運び込んだ。前日10日は参院選。沖縄選挙区では、辺野古や高江の新基地建設に反対する候補が自民党の現職大臣に大勝していた。投票箱のふたが閉まってからわずか10時間。全国ではまだ開票が続いていた。政府が見ていたのは民意の行方ではなかった。投票さえ終わってしまえば何でもできる、とただただ時計の針を見つめていたのだろう。
(7)高江では、法治主義が揺らぐさまも目撃している。政府は自身を縛る法律という鎖を引きちぎり、意のままに振る舞っている。一言で言えば、戒厳令状態だ。例えば、工事用道路の出入り口、県道の路肩に市民が立てた監視テントがある。座り込みが始まって以来9年間、活動の拠点にしていた。それを防衛局は7月22日、工事再開と同時に撤去した。防衛局は事前に「要請」と題した紙をテントに貼り付け、19日までに撤去しない場合「所有権が放棄されたものとみなします」と主張してはいた。だが、勝手にみなしてはいけない。そもそも、テントが立っていたのは沖縄県が管理する県道用地だ。弁護士は「防衛局には何の権限もない。窃盗だ」と指摘した。
(8)経済産業省の敷地内という明らかな国有地に立つ脱原発テントを撤去する時でさえ、政府は司法に訴える必要があったのだ。そのために約5年がかかった。最終的に撤去したのは東京地裁の執行官だった。高江では、行政の一員にすぎない防衛局職員が数時間で持ち去った。東京の都心と沖縄の山中では、法の保護にもこれだけの差がある。テント撤去の法的根拠を問われた稲田朋美防衛相は、防衛省設置法を持ち出した。米軍基地提供を省の仕事と定めた規定がある、と。だが、規定は単なる「お仕事リスト」にすぎない。設置法は国民の権利を制限できる行政作用法ではなく、単なる行政組織法にすぎない。弁護士である稲田氏自身が、よく知っているはずだった。ところが、この設置法が9月13日、再び登場する。陸上自衛隊のCH47大型輸送ヘリが、トラックや重機をつり下げ、工事現場まで運んだ。今度はその根拠に使われたのだ。トラックなどは本来自走すればいいのだが、市民の抗議に加え、地元東村の村長が工事に村道を使わないよう申し入れていた。万策尽きた防衛局が民間ヘリで空輸し、それでも重すぎて運べない物を陸自ヘリで運ばせた。自衛隊法は自衛隊が行動できる場合を列挙し、厳密に縛りをかけている。岡部俊哉陸上幕僚長は空輸について「自衛隊法にうたわれている任務ではない」と認めざるを得なかった。言うまでもなく、自衛隊は究極の実力組織である。それを根拠もあいまいなまま、「大臣命令だから」というだけで市民の反対がある事業に差し向けたのだ。


 ここで、高江で横行しているのは圧倒的な強制力について言及する。


(1)もう一つ、高江で横行しているのは圧倒的な強制力だ。工事再開に先立ち、東京、千葉、神奈川、愛知、大阪、福岡の6都府県から派遣された機動隊員は約500人。沖縄県警と合わせて約800人が投入された。高江の人口約140人の5倍以上に上る。市民がいくら集まっても、力の差は歴然としている。けが人が相次いでいる。87歳の女性は、右手小指を5針縫うけがを負った。仮留置場に入れられそうになり、車いすに座ったまま機動隊バスにしがみついていた。後ろから機動隊員が「触るな!」と怒鳴りながら右腕をつかみ、強く振り下ろした。右手がバスのどこかに当たり、深く裂けた小指から血が流れた。「骨が見えた」という。
(2)抗議行動中の逮捕も多い。防衛局が工事の準備に着手した7月11日から3カ月の間に6人。「車を急発進させて警官をのけぞらせた」という公務執行妨害容疑など、軽微なものが大半だ。6人中5人は検察が初めから勾留を請求しないか、請求しても裁判所に却下され、すぐに釈放されている。弁護士によると2014年、全国で勾留が認められた率は86%。高江では6人中1人で17%。「統計的にも高江で不当逮捕が行われていることは明らかだ」と批判する。
(3)暴言は全国ニュースになった。10月18日、大阪府警の機動隊員が市民に対して「どこつかんどんじゃボケ。土人が」と言い放った。本土による沖縄差別の長い歴史を呼び覚ます言葉だ。同じ日、大阪府警の別の機動隊員は「黙れ、こら、シナ人」と威嚇した。松井一郎・大阪府知事が「売り言葉に買い言葉」と擁護したことと合わせ、沖縄では怒りと失望が広がった。
(4)二つの発言はたまたまビデオ撮影されていたから警察庁長官が遺憾を表明し、発言者も処分された。だが、カメラのない所での暴言は日常茶飯事だ。私自身、警官が目の前で市民に「ばか」と3回続けて言うのを聞いたことがある。強制力を行使する警官が差別や怒りの感情に支配されている。率直に言って恐ろしい。要するに、高江には日本の本当の姿がある。本土から遠く、沖縄の中心地である那覇市からさえ遠い山の中で、むき出しの権力が行使されている。だからこそ、それを監視し、記録し、発信するジャーナリズムの目が必要だ。政府にとっては邪魔な存在であり、その目をふさぎたいと考えるのも必然だと言えるだろう。
(5)それにしても、記者の体に直接手を掛け、拘束し続けるというのは完全に一線を越えている。たがが外れたと言うべきか。報じられたら不都合なことをしている自覚があって、しかもそのことについて批判を受け止める気がない。だから報道されるのを実力で阻止する。異常事態の上にまた異常事態を塗り重ねている。当然ながら、記者が特別なわけではない。市民の拘束も同じように問題だ。ただ、記者が拘束されれば、市民が拘束されてもそれを広く知らせる者がいなくなる。知る権利に応えることができなくなってしまう。
(6)最近では誰もがカメラやスマートフォンを持ち、会員制交流サイト(SNS)で即座に発信できるようになった。記者がいなくても、「なかったこと」にはできないだろう。だが、少なくともダメージは小さく抑えられる。記者が少ない高江ならばできる。沖縄の2紙相手ならば構わない。政府はそう考えたのではないか。


 実は、沖縄県の琉球新報と沖縄タイムスは、自らの歴史の検証の結果、その責任において常に「決意」を求められている。
 だからこそ、今回も、「住民に背中を押された歴史 手遅れにならないために書く」、と決意表明する。


(1)沖縄2紙は「偏向」していると批判されることが多い。私はいつも「昔は米軍寄りだったんですよ」と説明することにしている。敗戦後、本土から切り離された沖縄で、米軍は絶対の権力者だった。琉球新報は米軍の準機関紙として出発した。沖縄タイムスは民間の新聞だったが、やはり紙やインクの供給を米軍に握られ、検閲されていた。1959年、米軍機が石川市(現うるま市)の住宅地に突っ込み、児童と市民17人(後に後遺症で1人)が死亡する宮森小ジェット機墜落事故が起きた。パイロットはパラシュートで脱出して無事だった。この時のタイムス社説は「不可抗力なできごととはいえ(略)残念なことといわなければなるまい」と腰が引けている。民間地上空での訓練中止に触れ「万止むを得ない場合を除いて(略)配慮してもらえば」。敗戦から14年もたって、戦後最大の米軍機事故に直面しても、ここまでしか書けなかった。
(2)2紙の論調が米軍に厳しくなるのは、あまりにも多い事件や事故に住民が怒り、背中を押されたからだった。60年代に入ると復帰運動が高まり、住民が本土渡航の自由、行政主席の選挙など一つ一つ権利を勝ち取っていく中で、表現の自由も一緒に押し広げてきた。日本国憲法施行と共に表現の自由が空から降ってきた本土とは、成り立ちが根本から違う。だから、それを脅かす動きには常に敏感でいたいと思っている。
(3)反ナチ運動の指導者マルティン・ニーメラー牧師の有名な言葉がある。ナチが共産主義者を襲った時、自分は共産主義者ではないので何もしなかった。社会主義者、学校、新聞、ユダヤ人が襲われた時も同じだった。そして教会が攻撃された時、初めて立ち上がった。「しかしその時にはすでに手遅れであった」。沖縄2紙の次は本土のメディアが標的になるかもしれない。
(4)いつも真っ先に沖縄が狙われるのは差別だと言わなければならない。だが、いずれ本土でも周回遅れで同じ事態が起きるのではないか。改憲で新設が議論される緊急事態条項は、緊急事態を名目に権限を内閣に集中させ、人権の制限を可能にする。
(5)記者の拘束も、政府は正当化している。国会議員の質問主意書を受け、「現場の混乱や交通の危険防止のための必要な警備活動」として追認したのだ。この答弁書は閣議決定されている。理論的には、全国どこで「現場の混乱や交通の危険」があっても、記者の拘束があり得ることになる。きょうの沖縄はあすの本土。そんな懸念も現場から伝えたい。
(6)拘束された沖縄タイムスの男性記者は「政府は本当に何でもやるんだな」と、実感したという。市民への暴力も続いている。「次は見逃さない。萎縮もしない」と語る。拘束が批判された後、現場では取材中の行動の自由が確保されるようになった。琉球新報の女性記者は「警察が拘束は間違っていたと認めたようなもの。逆に黙っていたら、拘束が今も繰り返されていたのではないか」とみる。「沖縄ではこれからも攻防は生まれる。闘う姿勢を忘れちゃいけない。書かなくちゃいけない。そのことを身をもって知った」


 私たちは、今回の事件で、知らなけねばならないことは次のことである。


「いつも真っ先に沖縄が狙われるのは差別だと言わなければならない。だが、いずれ本土でも周回遅れで同じ事態が起きるのではないか。改憲で新設が議論される緊急事態条項は、緊急事態を名目に権限を内閣に集中させ、人権の制限を可能にする。」
「記者の拘束も、政府は正当化している。国会議員の質問主意書を受け、『現場の混乱や交通の危険防止のための必要な警備活動』として追認したのだ。この答弁書は閣議決定されている。理論的には、全国どこで『現場の混乱や交通の危険』があっても、記者の拘束があり得ることになる。きょうの沖縄はあすの本土。」


 以下、沖縄タイムスの引用。








沖縄タイムス-沖縄・高江での記者拘束問題を考える 「土人」暴言も飛び出す憎悪の現場-2016年11月12日 09:01




身をもって知った「書き続ける意義」

 「報道の自由って分かるよな?」と、沖縄タイムスの男性記者は何度も聞いた。「仕事で写真を撮っているだけです」と、琉球新報の女性記者は何度も伝えた。しかし、警察官たちは一言も発しない。ただ両腕をつかみ、背中を押した。そうやって、取材中の記者2人が拘束された。

 8月20日、東村高江。那覇空港から約80キロ、沖縄本島北部の山中で、この日も米軍のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)建設に対する抗議行動が続いていた。現場となったのは一本道の県道にかかる小さな橋。砂利を積んだダンプを止めようと、市民約50人が座り込んでいた。

 午前10時26分、機動隊が市民のごぼう抜きを始めた。すぐに、取材していたタイムス記者が機動隊員4人に囲まれた。背中を強くこづかれ、市民と一緒に「仮留置場」に放り込まれた。「後ろから背中を強く押された。機動隊員の顔も見ていない。あっという間の出来事だった」という。

 仮留置場は橋のすぐ南側につくられていた。機動隊のバス2台とガードレール、それに機動隊員の人垣が四方をふさいでいた。2012年、沖縄県警が編み出した手法だ。事故の多い新型輸送機オスプレイの配備強行に怒った市民が普天間飛行場のゲートを封鎖した時のこと。県警は強制排除した市民がまた座り込みに戻らないように、拘束し続けておくことを決めた。

 権力が「悪いことをするかもしれない」と判断しただけで市民の身体の自由を奪う。戦前の治安維持法で悪名高い予防拘禁と本質的に変わらない。だが、沖縄県警はそんな批判を意に介さず、名護市辺野古、そして高江で同じ手法を繰り返し使ってきた。

 タイムス記者はその場に15分ほど閉じ込められていた。社員証を示し、取材中であることを告げても、若い機動隊員たちはやはり何も答えなかった。そこへ、沖縄県警の腕章を着けた私服警官が通りがかった。「仕事にならない。出してほしい」と交渉し、ようやく解放される。

 だが、自由だったのはものの1~2分にすぎなかった。10時45分ごろ、現場の橋に戻ろうと歩いていくと、新報の記者が同じように連行されようとしているのを見た。思わず「新報の記者ですよ」と声を上げた。すると自分も再び捕まった。10時58分ごろまで、また約15分。2回でおよそ30分にわたって行動の自由を奪われた。

 外ではまだ市民の強制排除が続いていた。首を伸ばして現場を見ようとするが、機動隊員の列が邪魔で見えない。そうしている間に、自分がいる仮留置場に市民が運ばれてくる。「現場で何が起きているのか分からない。空白ができてしまった。読者に完全に伝えられなかったのが悔しかった」と振り返る。

 新報記者もいったん拘束されかけた後、何とか現場に戻り、機動隊員による強制排除の様子を撮っていたところだった。その場にいた機動隊幹部は「プレスの方ですよね」と確認し、特にとがめなかった。

 しかしその後、沖縄県警の私服警官がやってきた。「下がって。危ないですよ」。正面から向き合う形で両肩をつかんだまま無理やり下がらせた。最後は機動隊員2人が両腕をつかみ、別の1人は背中を押して、約40メートル移動させた。タイムス記者や市民と同じ仮留置場に押し込んだ。

 新報記者は移動させられる間、ずっと「新報です。何の権限があるんですか」と問い続けた。ここでも説明はない。拘束された約15分の間、ノートに書き殴っていた。

 「かんきんされた 不当かんきん」「なぜ弾圧されるのか おかしいよな 報(道)の自由を 表(現)の自由を犯している」「戦の足音がきこえる、というのは まちがっていない (機動隊員に理由を)きいてもこたえない」

 「この悔しさを忘れてはいけないと思って」書いた。記者2人が解放されたのは、全てが終わった後だった。

腕章装着で、記者側の問題にすり替えようとする警察

 沖縄県警は記者だとは分からなかった、と主張した。県議会で追及された池田克史本部長は「腕章をしておらず、抗議参加者と見分けがつかない状況だったこともあり、抗議参加者との認識で移動させた。記者だと名乗ることもなかった。狙い撃ちで行動を制限しているものではなく、また取材中の記者と認識した上で規制することもない」と答弁した。だが、これは事実に反している。
 確かにタイムス記者は腕章をしていなかったが、顔写真入りの社員証を示し、何度も記者だと伝えている。新報記者は肩から提げたカメラのストラップに腕章を付けていたが、それを警官の顔の高さまで上げて示し、繰り返し「新報です」と声を上げた。
 池田本部長は「報道各社に腕章を識別できるよう、腕への装着を徹底することを申し入れた」と記者側の問題にすり替えようとした。だが、公道上で腕章をするかどうか、どこに着けるかは個人の選択だ。腕に着けなかった結果、記者だとすぐ分かってもらえず、排除されかけたとしてもそれはいい。問題は、記者と認識した後も拘束を続けたことにある。その説明はなかった。

「報道の自由の侵害」と2紙は沖縄県警に抗議声明

 事件を受け、タイムスは石川達也編集局長が声明を出した。「本紙記者は市民らの抗議活動を通常通りに取材し、県民の知る権利に応えようとしていたもので、こうした警察権力による妨害は、憲法で保障された報道の自由を侵害するものであり、断じて許すことはできない」

 新報は普久原均編集局長名で抗議の談話を発表した。「現場には県民に伝えるべきことがあった。警察の妨害によって、その手段が奪われたことは大問題だ。警察官が記者を強制的に排除し、行動を制限した行為は報道の自由を侵害するもので、強く抗議する」

 本土メディアでは神奈川新聞の記者が拘束が起きた直後の現場を取材した。新報記者の「私たちが取材しなかったら、高江の人々の声が伝わらない。何もなかったかのようにされてしまう」という話を、連載の中で紹介した。

 力ずくの記者排除は「遠い国での出来事とばかり思っていた」と書いたのは北海道新聞のコラム。信濃毎日新聞の社説は「政府に対して批判的な報道を続ける地元紙に対する政府、自民党の敵意が隠れていないか」と懸念した。高知新聞の社説は「記者と分かっても解放しなかった理由、再発防止策も示さなければならない」と要求した。東京新聞は「警察の権限を強化しようとする大きな動きがある」との識者の見方を紹介した。ほかに知る限り朝日新聞、毎日新聞、共同通信が事実関係を報じた。

 労働組合も一斉に抗議した。新聞労連は「実力行使で報道を妨害する行為は、絶対に認めるわけにはいかない」、放送局を含む沖縄の報道機関労組でつくる沖縄県マスコミ労働組合協議会は「国家権力が都合の悪いことを隠す行為だ」と批判した。

高江では以前から取材規制 混成部隊で警官個人の裁量か

 8月20日の記者拘束は、最悪のケースだった。だが、ここまで発展しないまでも、これに類する取材規制は高江で日常的に起きてきた。

 一番多いのは、県道封鎖だ。ダンプが砂利を運んでいる時間帯、現場手前の2キロ弱の区間を警察が毎日のように通行止めにしている。抗議の市民を近づけないためだが、通りすがりの市民も記者も同様に規制される。車を置いて徒歩なら規制区間に入れる日もあるし、それすら許されない日もある。ここでも警察は何のための規制か、いつまで続くのかなど、一切説明しない。

 ヘリパッド建設工事が再開された初日、7月22日の現場はさらに混乱していた。県道から建設予定地に続く工事用道路の出入り口前。日付が変わる前から集まっていた市民約200人は、午前6時半ごろまでには約500人の警察官によってほとんど排除されていた。
 残るのは出入り口をふさぐ形で止めた2台の車と、その屋根の上に陣取った市民15人ほど。機動隊員が引きずり下ろそうとしていて、さらなる混乱が予想された。その場にいた私を含む記者は、警官から繰り返し退去を求められた。一部の機動隊員は別の記者の背中を押した。だが、抵抗すると引き下がった。

 結局、記者はそれぞれの持ち場に食らいついて、車の屋根の上から、道の反対側から、強制排除の様子を見届けた。肋骨を折る市民まで出た荒れた現場。警官が市民にパンチを繰り出すニュース映像を見た人もいるのではないか。この日は全国メディアも多数集まっていて、実情が広く報道された。

 夕方になっても混乱は尾を引いていた。午後4時、交代の時間になっても同僚が来てくれない。現場は山の中で、商店はおろか、自動販売機すらない。食料も水も底を突いた。現場に午前0時前に集合した取材班のうち、最後まで残っていた私と同僚の2人は疲労がピークに達していた。

 聞くと、交代要員の同僚は現場の手前で警察に止められていた。警官は「出ることはできるが、入ることはできない」と主張しているという。この日は、道路管理者の県職員まで警官に追い返されていた。私たちが出てしまうと、タイムスの記者が現場に誰もいなくなってしまう。7月の沖縄の太陽が照りつけていた。目まい、頭痛、手のしびれ、と熱中症の症状を自覚しながら、規制が解除されるまで1時間以上、ただ待つしかなかった。この日の規制は連続11時間に及んだ。

 翌23日は、現場の手前で検問に出くわした。「どこに行くんですか?」「何をしに?」と尋ね、免許証を提示させて住所や名前を書き留める。抗議行動から人を遠ざけようとする嫌がらせなのは明らかだった。

 車から降り、写真撮影を始める。機動隊員が「ここに車を止めないでください」と取材を妨害しにきた。「駐車禁止じゃないでしょう。何でですか」「とにかく危ないから止めないでください」の繰り返し。現場責任者は最後には「あなたの会社に連絡しますよ!」と激高したが、「どうぞお願いします」と返すと変な顔をして黙ってしまった。

 警察は沖縄を含む7都府県の混成部隊だ。沖縄県警のある警官は漏らした。「誰が誰だか、警官同士でも分からない。どこで何をしているのかも把握できない。後になって、警察がそんなことをしたのか、と驚くことも多い」。責任を持って説明できる者がいないまま、警官個人の裁量が幅を利かせる。そんな状態は今も続いている。

新施設建設が返還条件 小中学生が眠れず学校を休む事態も

 ここであらためてヘリパッド建設問題について説明したい。舞台は国頭村と東村の山岳地帯にまたがる北部訓練場。米軍にとって世界で唯一のジャングル戦闘訓練センターだ。面積は7824ヘクタールと沖縄で最も大きい。そのうち半分をやや上回る3987ヘクタールを返還することになっている。

 1995年、米兵3人による暴行事件をきっかけに、積年の基地被害への県民の怒りが噴き出した。沖縄の基地維持に危機感を抱いた日米両政府は日米特別行動委員会(SACO)を設置、最終報告で普天間飛行場の全面返還などと共に、北部訓練場の一部返還をうたった。返還面積を膨らませる狙いがあった。

 問題は普天間と同様、新たな施設の建設が条件とされたこと。北部訓練場の場合は、返還する部分にあるヘリパッド7カ所から1つ減らし、継続使用する部分に6カ所建設することになった。

 この6カ所は、高江集落を取り巻くように配置された。途中からオスプレイが使うことも明らかになった。人口140人ほどの小さな集落は、反対に立ち上がった。理由はシンプルだった。危ないし、うるさいから。2度、反対決議をしている。

 2007年に工事が始まると、現場で抗議行動が展開された。当初09年の完成予定だったが遅れに遅れ、14年7月に2カ所が完成したにとどまる。完成した2カ所では今年6月、オスプレイが連日午後11時すぎまで低空飛行し、小学生や中学生が眠れずに学校を休む事態があった。母親は「通り過ぎた後も、子どもたちは胸がバクバクして眠れない。落ちてくるのでは、と思うと怖い」と訴えた。親子は一時、隣の国頭村に「疎開」を余儀なくされた。こんな地域が、日本のどこにあるだろう。

参院選投票終了の10時間後 高江への資材運びが始まった

 沖縄防衛局は今年7月、2年間の中断を経て、残るヘリパッド4カ所の工事に着手した。以来連日、2紙の記者は現場に張り付いている。高江は私が勤める北部報道部の管轄だが、4人の記者ではとても足りない。政治、経済、文化、あるいは遠く本島南部地域の担当記者も交代で来てくれる。さかのぼれば14年7月、辺野古新基地建設が始まった時からずっとこの態勢が続いている。辺野古の工事が止まり、高江が始まったので、行き先が変わったわけだ。

 高江で、私たちは民主主義の危機を見ている。防衛局が最初に動いたのは7月11日の早朝午前6時。建設予定地近くの北部訓練場に資材を運び込んだ。前日10日は参院選。沖縄選挙区では、辺野古や高江の新基地建設に反対する候補が自民党の現職大臣に大勝していた。

 投票箱のふたが閉まってからわずか10時間。全国ではまだ開票が続いていた。政府が見ていたのは民意の行方ではなかった。投票さえ終わってしまえば何でもできる、とただただ時計の針を見つめていたのだろう。

自衛隊法で認められないヘリでのトラック輸送を実施

 高江では、法治主義が揺らぐさまも目撃している。政府は自身を縛る法律という鎖を引きちぎり、意のままに振る舞っている。一言で言えば、戒厳令状態だ。例えば、工事用道路の出入り口、県道の路肩に市民が立てた監視テントがある。座り込みが始まって以来9年間、活動の拠点にしていた。それを防衛局は7月22日、工事再開と同時に撤去した。

 防衛局は事前に「要請」と題した紙をテントに貼り付け、19日までに撤去しない場合「所有権が放棄されたものとみなします」と主張してはいた。だが、勝手にみなしてはいけない。そもそも、テントが立っていたのは沖縄県が管理する県道用地だ。弁護士は「防衛局には何の権限もない。窃盗だ」と指摘した。

 経済産業省の敷地内という明らかな国有地に立つ脱原発テントを撤去する時でさえ、政府は司法に訴える必要があったのだ。そのために約5年がかかった。最終的に撤去したのは東京地裁の執行官だった。高江では、行政の一員にすぎない防衛局職員が数時間で持ち去った。東京の都心と沖縄の山中では、法の保護にもこれだけの差がある。

 テント撤去の法的根拠を問われた稲田朋美防衛相は、防衛省設置法を持ち出した。米軍基地提供を省の仕事と定めた規定がある、と。だが、規定は単なる「お仕事リスト」にすぎない。設置法は国民の権利を制限できる行政作用法ではなく、単なる行政組織法にすぎない。弁護士である稲田氏自身が、よく知っているはずだった。

 ところが、この設置法が9月13日、再び登場する。陸上自衛隊のCH47大型輸送ヘリが、トラックや重機をつり下げ、工事現場まで運んだ。今度はその根拠に使われたのだ。トラックなどは本来自走すればいいのだが、市民の抗議に加え、地元東村の村長が工事に村道を使わないよう申し入れていた。万策尽きた防衛局が民間ヘリで空輸し、それでも重すぎて運べない物を陸自ヘリで運ばせた。

 自衛隊法は自衛隊が行動できる場合を列挙し、厳密に縛りをかけている。岡部俊哉陸上幕僚長は空輸について「自衛隊法にうたわれている任務ではない」と認めざるを得なかった。言うまでもなく、自衛隊は究極の実力組織である。それを根拠もあいまいなまま、「大臣命令だから」というだけで市民の反対がある事業に差し向けたのだ。

警察の圧倒的強制力 市民に「ばか」暴言も

 もう一つ、高江で横行しているのは圧倒的な強制力だ。工事再開に先立ち、東京、千葉、神奈川、愛知、大阪、福岡の6都府県から派遣された機動隊員は約500人。沖縄県警と合わせて約800人が投入された。高江の人口約140人の5倍以上に上る。

 市民がいくら集まっても、力の差は歴然としている。けが人が相次いでいる。87歳の女性は、右手小指を5針縫うけがを負った。仮留置場に入れられそうになり、車いすに座ったまま機動隊バスにしがみついていた。後ろから機動隊員が「触るな!」と怒鳴りながら右腕をつかみ、強く振り下ろした。右手がバスのどこかに当たり、深く裂けた小指から血が流れた。「骨が見えた」という。

 抗議行動中の逮捕も多い。防衛局が工事の準備に着手した7月11日から3カ月の間に6人。「車を急発進させて警官をのけぞらせた」という公務執行妨害容疑など、軽微なものが大半だ。6人中5人は検察が初めから勾留を請求しないか、請求しても裁判所に却下され、すぐに釈放されている。弁護士によると2014年、全国で勾留が認められた率は86%。高江では6人中1人で17%。「統計的にも高江で不当逮捕が行われていることは明らかだ」と批判する。

 暴言は全国ニュースになった。10月18日、大阪府警の機動隊員が市民に対して「どこつかんどんじゃボケ。土人が」と言い放った。本土による沖縄差別の長い歴史を呼び覚ます言葉だ。同じ日、大阪府警の別の機動隊員は「黙れ、こら、シナ人」と威嚇した。松井一郎・大阪府知事が「売り言葉に買い言葉」と擁護したことと合わせ、沖縄では怒りと失望が広がった。

 二つの発言はたまたまビデオ撮影されていたから警察庁長官が遺憾を表明し、発言者も処分された。だが、カメラのない所での暴言は日常茶飯事だ。私自身、警官が目の前で市民に「ばか」と3回続けて言うのを聞いたことがある。強制力を行使する警官が差別や怒りの感情に支配されている。率直に言って恐ろしい。

 要するに、高江には日本の本当の姿がある。本土から遠く、沖縄の中心地である那覇市からさえ遠い山の中で、むき出しの権力が行使されている。だからこそ、それを監視し、記録し、発信するジャーナリズムの目が必要だ。政府にとっては邪魔な存在であり、その目をふさぎたいと考えるのも必然だと言えるだろう。

 それにしても、記者の体に直接手を掛け、拘束し続けるというのは完全に一線を越えている。たがが外れたと言うべきか。報じられたら不都合なことをしている自覚があって、しかもそのことについて批判を受け止める気がない。だから報道されるのを実力で阻止する。異常事態の上にまた異常事態を塗り重ねている。

 当然ながら、記者が特別なわけではない。市民の拘束も同じように問題だ。ただ、記者が拘束されれば、市民が拘束されてもそれを広く知らせる者がいなくなる。知る権利に応えることができなくなってしまう。

 最近では誰もがカメラやスマートフォンを持ち、会員制交流サイト(SNS)で即座に発信できるようになった。記者がいなくても、「なかったこと」にはできないだろう。だが、少なくともダメージは小さく抑えられる。記者が少ない高江ならばできる。沖縄の2紙相手ならば構わない。政府はそう考えたのではないか。

住民に背中を押された歴史 手遅れにならないために書く

 沖縄2紙は「偏向」していると批判されることが多い。私はいつも「昔は米軍寄りだったんですよ」と説明することにしている。

 敗戦後、本土から切り離された沖縄で、米軍は絶対の権力者だった。琉球新報は米軍の準機関紙として出発した。沖縄タイムスは民間の新聞だったが、やはり紙やインクの供給を米軍に握られ、検閲されていた。

 1959年、米軍機が石川市(現うるま市)の住宅地に突っ込み、児童と市民17人(後に後遺症で1人)が死亡する宮森小ジェット機墜落事故が起きた。パイロットはパラシュートで脱出して無事だった。この時のタイムス社説は「不可抗力なできごととはいえ(略)残念なことといわなければなるまい」と腰が引けている。民間地上空での訓練中止に触れ「万止むを得ない場合を除いて(略)配慮してもらえば」。敗戦から14年もたって、戦後最大の米軍機事故に直面しても、ここまでしか書けなかった。

 2紙の論調が米軍に厳しくなるのは、あまりにも多い事件や事故に住民が怒り、背中を押されたからだった。60年代に入ると復帰運動が高まり、住民が本土渡航の自由、行政主席の選挙など一つ一つ権利を勝ち取っていく中で、表現の自由も一緒に押し広げてきた。日本国憲法施行と共に表現の自由が空から降ってきた本土とは、成り立ちが根本から違う。だから、それを脅かす動きには常に敏感でいたいと思っている。

 反ナチ運動の指導者マルティン・ニーメラー牧師の有名な言葉がある。ナチが共産主義者を襲った時、自分は共産主義者ではないので何もしなかった。社会主義者、学校、新聞、ユダヤ人が襲われた時も同じだった。そして教会が攻撃された時、初めて立ち上がった。「しかしその時にはすでに手遅れであった」。沖縄2紙の次は本土のメディアが標的になるかもしれない。

 いつも真っ先に沖縄が狙われるのは差別だと言わなければならない。だが、いずれ本土でも周回遅れで同じ事態が起きるのではないか。改憲で新設が議論される緊急事態条項は、緊急事態を名目に権限を内閣に集中させ、人権の制限を可能にする。

 記者の拘束も、政府は正当化している。国会議員の質問主意書を受け、「現場の混乱や交通の危険防止のための必要な警備活動」として追認したのだ。この答弁書は閣議決定されている。理論的には、全国どこで「現場の混乱や交通の危険」があっても、記者の拘束があり得ることになる。きょうの沖縄はあすの本土。そんな懸念も現場から伝えたい。

 拘束された沖縄タイムスの男性記者は「政府は本当に何でもやるんだな」と、実感したという。市民への暴力も続いている。「次は見逃さない。萎縮もしない」と語る。

 拘束が批判された後、現場では取材中の行動の自由が確保されるようになった。琉球新報の女性記者は「警察が拘束は間違っていたと認めたようなもの。逆に黙っていたら、拘束が今も繰り返されていたのではないか」とみる。「沖縄ではこれからも攻防は生まれる。闘う姿勢を忘れちゃいけない。書かなくちゃいけない。そのことを身をもって知った」

(初出:朝日新聞社「月刊Journalism2016年11月号」)


by asyagi-df-2014 | 2016-12-17 17:27 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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