徳田靖之弁護士の2016年11月17日の意見陳述を読む。

 徳田靖之弁護士は、大分地方裁判所第1号法廷での意見陳述を次のように始めた。
 「私は先ず、私自身が今回の訴訟に代理人として関与するに至った経緯を、自省込めてお話したいと思います。」。
 傍聴者としての私自身は、自省込めてと始まったこの意見陳述を、生の意味を根本的に問う言葉として受け止めた。
 言はば、本来、理論として受け止められるものを、決意として受け止めることができた。だからこそ、熱い思いをつかみ取ることができた。
 徳田弁護士の自省とは次のものであった。


 この点を明らかにすることが、264名もの大分県民が、本件訴訟に原告として参加するに至った理由と本件訴訟の意義を明らかにすることにつながると思う からです。 私は、原発問題に決して無関心であった訳ではありません。スリーマイル島の 事故も、チェルノブイリの大事故も関心を持って、その事故報告書等を読んできました。そして、5年前の福島第一原子力発電所の事故についても、その詳細を 知るにつれ、二度とこのような事故を許してはならないとの思いを深くしたのです。
 しかしながら、この福島の事故を受けて、九州で、玄海原発と川内原発の差止めを求める訴訟が提起され、弁護団への参加を誘われた時、私は、手を上げるということはいたしませんでした。
 もちろん、名前だけの参加はしないという私自身の考え方もありはしたのですが、手を上げられなかった理由としては、私の手に余るという思いとともに、自らに被害が及びうる問題なのだという把え方が出来なかったという点があったのだと思います。


 徳田弁護士は、今回の自省を迎え入れることができた経過、自らの問題として捉えることができたことを、次に述べる。


 去る4月16日、震度6弱の地震に襲われ、自宅の棚が落ち、食器類の割れてい く中で立往生するという経験をした私が、最初に感じたのは、これ以上の地震が発 生したら、伊方原発はどうなるのかということでした。
 私の事務所は、伊方原発から70km、自宅は80kmの距離にあります。伊方原発に、福島第一原発と同程度の「レベル7」以上の事故が発生すれば、自宅と事 務所も放射性物質により直接的に汚染されることは明らかです。
 文字通り、他人事ではない! 原発問題に及び腰だった私がまさに鞭打たれたのでした。


 そして、徳田弁護士は、「本件訴訟に原告として参加するに至った理由と本件訴訟の意義」について、こう説明する。


本件訴訟の264名もの原告らは、まさしく、私と同じく、自らとその家族そして子孫の健康と故郷の大地を守りぬくために、この訴訟に参加したのだということを、裁判所にも、被告にも、是非とも胸に刻み込んでおいていただきたいのです。
 日本の近現代史において、私が最も尊敬する田中正造翁は、足尾銅山とこれを擁護する明治政府とのたたかいに生命をかけた偉人ですが、その晩年の日記に、「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」と書き付けています。
 私は、この言葉にこそ、今回の原発問題を考えるうえで、私たちが等しく、立ち帰るべき原点があるのではないかと思います。


 徳田弁護士は、「本件訴訟の中心的争点と真理のあり方」の中核部分を、次のように述べます。


 その中核は、訴状の36頁以 下に「本件における司法判断のあり方について」と題して論述したところにある のではないかと考えています。 要約すれば、①原発に求められる安全性の程度は、福島第一原発事故のような 過酷事故を二度と起こさないという意味での「限定的」絶対的安全性(深刻な事 故が万が一にも起こらない程度の安全性)であり、②その安全性の判断基準は、必ずしも高度の専門的技術的な知識・知見を要するものではなく、一般の経験則 あるいは基本的な科学技術的知識・知見に照らして、判断すれば足りるのであり、③深刻な「災害を二度と起こさない」という観点から、被告が原告らの指摘する 科学的、合理的な疑問に対して、当該原発が過酷事故を起こす可能性がないこと を被告において主張・立証されない限り、運転(操業)を許さないという判断 のあり方こそが求められるということです。


 この上で、福島第一原発事故以前、原発問題に関するわが国の司法判断に欠落していた
ものと保険裁判の意味を位置づけます。


 福島第一原発事故以前、原発問題に関するわが国の司法判断に欠落していたの は、まさしく、こうした視点でした。 言わば、日本の司法が、原発問題は高度の専門技術的な判断を前提とする政策 的判断事項であるという隠れ蓑に逃げ込み続けたことが、福島第一原発事故のよ うな過酷事故を防ぎえなかった一因であるということです。


その意味で、本件訴訟において裁判所に問われているのは、従来のような姑息 な司法判断の枠組みに拘泥して、司法が果たすべき責任を放棄するのか、あるい は、福島第一原発事故以後の司法における本流となりつつある、大飯原発3、4 号機に関する福井地裁平成26年5月21日判決、高浜原発3、4号機に関する 福井地裁平成27年4月14日決定、同原発に関する大津地裁平成28年3月9 日決定の立場の正当性を認めて、これを司法判断として定着させるのかという点 にあるのだと思うのです。


 本件訴訟においては、このような視点の下で、伊方原発が、南海トラフ巨大地 震の震源域上に位置するだけでなく、中央構造線断層帯と別府-万年山断層帯と いう長大な活断層の極近傍に位置しており、大地震の発生が具体的に懸念される という私たち原告らの主張に対し、被告が、そのような過酷事故が生じる可能性 はないことを立証しえたと言えるのかどうかが判断されるべきだと私は考えます。


 徳田弁護士は、意見陳述(2016年11月17日)の最後を、結びにかえてと、このようにまとめます。
その声は、日本の司法のあり方を問い直すだけでなく、人々の生きるということの意味を見つめ直す時期に来ていると聞こえてきました。


 
 前述の田中正造翁は、また、「人権に合するは法律にあらずして天則にあり」とも述べています。私たちは、あの「法律」によって人権が侵害され続けた明治の時代にではなく、法治主義を大原則とし、人権の尊重を中核的な基本原理とする日本国 憲法下に生きています。
 「人権に合するは法律にあり」と公言できるような歴史を私たち法律家は歩んできたと果して言えるでしょうか。 確かに、戦後、日本の司法は、四大公害訴訟、数々の薬害訴訟、ハンセン病訴訟等々において、画期的な解決をもたらしてはきました。しかしながら、これらは、まさに、発生した深刻な被害に対して、過去の基準点 を定めて、損害賠償を命じたにとどまっています。生命や健康そして環境の破壊が、金銭によっては回復しがたいことを、誰もが熟知していながら、この限度でしか被害回復を図れなかったというのが、戦後の司法の限界でした。
 けれでも、原発訴訟は、こうした限界を超えて、深刻な被害の発生を未然に防ぐという課題を担っています。
 「原発訴訟が社会を変える」とは、本件訴訟弁護団の共同代表である河合弁護士の名言ですが、私は、原発訴訟は司法を変えるのだと思っています。裁判官の皆さん、私たちとともに、司法を変えていこうではありませんか。


徳田弁護士の声は、日本の司法のあり方を問い直すだけでなく、人々の生きるということの意味を見つめ直す時期に来ていると聞こえてきました。
 だから、「原発訴訟は、こうした限界を超えて、深刻な被害の発生を未然に防 ぐという課題を担っています。」、と。


by asyagi-df-2014 | 2016-11-27 09:58 | 書くことから-原発 | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


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