沖縄-沖縄タイムスの【検証・在沖海兵隊】を読む。

 沖縄タイムスは、2016年6月12日、【検証・在沖海兵隊】という特集を組んだ。
この【検証・在沖海兵隊】、【検証・在沖海兵隊(1)】、【検証・在沖海兵隊(2)】を要約する。


Ⅰ.【検証・在沖海兵隊】で、沖縄タイムスは、この特集を「本土から姿消した海兵隊 沖縄集中の歴史」とし、次の問題意識を提示した。


「海兵隊は1950年以降に岐阜や山梨・静岡などから沖縄に移ってきた。米軍がらみの事件、事故で本土側に高まった反基地感情が要因の一つといわれる。しかし、そのころも、その後も、今も、沖縄では事件や事故が相次いで起きている。沖縄に部隊のほか、基地や訓練区域を集中させることで軍事的な重要度が増し、逆に地上戦闘部隊が姿を消した本土では基地問題に無関心が広がったのではないか。沖縄戦から現在、そして未来に向けて、沖縄の海兵隊の動きを検証する。」


 そして、【1945年~57年】【1957年~72年】【1972年~95年】【1995年~2016年】【2016年~未来】、という時代区分に分けてまとめる。

(1)【1945年~57年】は、「50年代沖縄に続々 県内反発は無視部隊移転」として。特に、「なぜ沖縄だったのか」ということについて。
 まず、経過は次のものであった。
①「1945年4月1日、沖縄戦で沖縄本島に上陸した米軍は、本土決戦に必要な土地を占領し、基地建設を進めた。本島の14%にあたる約1万8千ヘクタールを確保したといわれる。」                                   ②陸軍と空軍が中心だった沖縄に海兵隊が移駐したのは50年代だ。朝鮮戦争の後方支援で、53年に岐阜や山梨・静岡に配備された第3海兵師団のうち、第9連隊が55年、司令部が56年、第3連隊が57年に次々と沖縄に移った。」
③「53年の朝鮮戦争休戦後、米政府は軍事費削減に着手。海外の陸軍や海兵隊の撤退を始めた。一方、軍側は日本への海兵隊1個師団配備を要求。ウイルソン国防長官は54年8月、第3海兵師団の沖縄移転を決めた。」
 ここで、「なぜ沖縄だったのか」についてこのように説明する。
①「大きな理由は54年5月の第一次台湾海峡危機の勃発だ。ただ、55年に第9連隊が移った後、沖縄では56年6月以降、基地拡張や地代の一括払いに反対する住民が『島ぐるみ闘争』を展開。米政府は移転先を再検討、インドシナ有事に即応できるグアム案を模索していた。」
②「ところが57年1月に群馬県の演習場内で薬きょうを拾っていた女性を米兵が射殺する『ジラード事件』が発生。米軍への批判が相次ぎ、岸信介政権は、米軍の陸上兵力の撤退を要求。アイゼンハワー大統領が岸政権に配慮し、金武町や名護市辺野古で基地建設の進んでいた沖縄への移転を急いだ。」
 結局、この次期に起こったことは、「52年のサンフランシスコ講和条約発効で日本から切り離された沖縄では55年に6歳の少女が殺害される事件が発生、住民の反発は同様に高まっていたが、顧みられることはなかった。」、ということだった。

(2)【1957年~72年】は、「米『普天間』撤退検討も本土事故続き一転強化」として。 沖縄をめぐる状況の変化とそこで起こされる事件、事故。
①「沖縄に配備された海兵隊の兵力は増強され、1964年に1万6千人を超えた後、65年に7千人台に減る。ベトナム戦争への出兵だ。沖縄から司令部も地上部隊もベトナムへ移動した。」
②「軍事費削減を迫られた米国防総省は68年12月、在日米軍再編計画で普天間飛行場閉鎖を含めた海兵隊撤退を検討していたことが、元近畿大講師川名晋史さんの研究で分かった。60年に空軍から海兵隊に移管された普天間について、米公文書では『海兵隊の航空機は朝鮮有事の際、到着まで時間がかかるため、決定的な役割を果たせない』と理由を挙げていた。しかし、68年5月の佐世保での米原子力潜水艦放射能漏れ事故、6月の福岡県でのF4ファントム機墜落事故が起き、ベトナム戦争の反対運動と合わせ、日米関係が揺らいでいた。」
③「最終的に国防総省は69年9月、住宅の密集する首都圏の航空基地を縮小する中で、厚木基地(神奈川県)のヘリコプターを普天間に移設する計画に修正。米国のアジアにおける防衛計画では沖縄の基地を使用することが前提となり、ベトナムに渡った第3師団の部隊は69年8~11月、沖縄に戻り、第36海兵航空群が普天間を本拠地とするなど機能強化が進んだ。」
 こうした中で、起こったことことが、「沖縄では59年6月、空軍のジェット戦闘機が制御不能となり、石川市(現うるま市)の宮森小学校の校舎を直撃、炎上し、児童11人を含む17人が死亡、62年12月、具志川村(同)川崎に米軍ジェット機が墜落し、住民2人が死亡している。いずれのパイロットもパラシュートで脱出した。」、ということだった。

(3)【1972年~95年】は、「基地残し沖縄返還、在沖海兵隊重視へ日本政府」として。巨大な米軍基地が残されたままの沖縄返還と、日本本土と沖縄海兵隊の存在の大きさ違いの拡大。
①「『核抜き本土並み』を求めた沖縄の願いはかなわず、巨大な米軍基地が残されたまま、1972年5月の沖縄返還。それ以降、米軍基地が大幅縮小された日本本土と対照的に、日本政府は在沖海兵隊の存在を重視するようになった。」
②「東アジアの緊張緩和が進んだ72年10月、米国防総省が海兵隊を沖縄やハワイなどの太平洋地域から撤退させる案を検討していたことが、豪外務省の公文書で明らかになっている。」                                   ③「米側は『米本土の基地に統合した方が安上がりで効率的』と説明したという。」
④「日本側は翌73年7月の日米安全保障条約運用協議会で、『アジアにおける機動戦力の必要性を踏まえると、海兵隊は維持されるべきだ』と主張し、引き留めた。」                                                           ⑤「駐日米大使館は、日本政府内の海兵隊重視が強まれば『交渉上のテコが強化される』とワシントンに報告を上げている。」
⑥「73年1月に日米合意した関東平野の空軍基地を横田に統合する『関東計画』や那覇空港の完全返還などでは、日本側が多額の費用を負担。78年には日本が米軍駐留経費を負担する『思いやり予算』が始まった。米側にとって、基地再編に影響する財政負担が減った形になる。」
⑦「75年のベトナム戦争終結後、沖縄の米陸軍は削減され、在沖米軍トップの四軍調整官を海兵隊が務めることになった。岩国の第1海兵航空団司令部も沖縄に移転、訓練区域の多い沖縄で空、陸の一体運用が可能となった。」
 そして、「89年の冷戦終結後も沖縄の米軍基地は大幅に縮小されることはなかった。72年の沖縄返還時に58・7%だった在日米軍専用施設面積に占める沖縄の割合は、73年で73%、95年で75%。70年代初めに日本本土の米軍基地が大幅に縮小される一方、沖縄では基地が海兵隊を中心に維持・強化されることで、沖縄への基地の集中が進み、その構図が現在まで続いている。」、という結論だけが残された。

(4)【1995年~2016年】は、「暴行事件、県民怒り、返還・負担軽減進まず」として。暴行事件の度に沖縄県民の怒りは爆発するが、返還・負担軽減は進まないこと。
①「1995年の米兵3人による暴行事件を受け、県内の反発は一気に爆発した。日米地位協定で容疑者の身柄の引き渡しを拒否されたこともあり、怒りは大きなうねりとなり県民大会に8万5千人が集まった。」
②「日米両政府は、在沖米軍基地の整理縮小・統合と日米同盟の強化を目的とした日米特別行動委員会(SACO)を設置。橋本龍太郎首相(当時)が先頭に立って交渉し、翌96年の中間報告では普天間飛行場を含む11施設、5002ヘクタールの返還を明記した。 しかし、5~7年を目指した普天間返還が名護市辺野古への移設で難航しているように、北部訓練場、那覇港湾施設、牧港補給地区などは県内移設を条件としていることから、返還は実現していない。」
③「2005~06年の在日米軍再編では、辺野古移設とグアム移転、嘉手納より南の基地返還を『パッケージ(一体)』とした。辺野古に新基地ができない限り負担軽減は進まないと、「脅し」に使われたが、12年の民主党政権でパッケージを見直し。
④「13年4月に日米合意した統合計画では、大まかな返還時期を示したが、『22年度またはその後』とされた普天間をはじめ、多くの基地で返還の見通しが立っていない。」
 結局、沖縄にのもたらされたのは、「SACO合意後、在日米軍専用施設面積に占める沖縄の割合は1995年の75%から2014年の74・4%と0・6ポイントの減少にとどまり、目に見えた負担軽減が進んでいない現状が浮かび上がる。その間も、沖縄では米兵による連続放火や女性暴行、航空機の墜落などが相次いでいる。」、ということでしかないう。

(5)【2016年~未来】は、「統合計画なお重い負担。豊かな将来像描けず」として。 また、日米両政府が持ち出す負担軽減策について。
①「米軍基地の集中する沖縄の今後の負担軽減策として、日米両政府が持ち出すのが、嘉手納基地より南の6施設・区域の『統合計画』だ。人口の密集する本島中南部地域の基地面積の68%、1048ヘクタールを返還する予定。そのほとんどは海兵隊基地で、1996年のSACO最終報告で返還合意しながら20年以上実現せず、積み残した課題に大まかな返還時期と条件を定めた内容にとどまっている。1048ヘクタールは東京ドーム220個分の広さだが、北部地域を含めた県全体の基地面積のわずか4・5%にすぎない。逆に北部地域に機能を集約し、使い勝手が良くなることで、基地の固定化、負担の固定化につながるのではないか、という懸念も根強い。」                                    ②「統合計画に合意した2013年4月以降、返還されたのは浦添市の牧港補給地区(キャンプ・キンザー)北側進入路1ヘクタールと宜野湾市のキャンプ瑞慶覧西普天間住宅地区52ヘクタールの計53ヘクタール。残り995ヘクタールのうち85%にあたる841ヘクタールは、県内での機能移転が条件になっている。宜野湾市の普天間飛行場はSACO最終報告では01~03年の返還を目標としていたが、統合計画では辺野古移設が完了することを条件に22年度以降に返還することになっている。そのほか、浦添市の牧港補給地区は倉庫群を沖縄市や読谷村へ移転後の24年度以降、那覇港湾施設は浦添市へ移設できれば28年度以降の返還となっている。」
③計画のすべてが完了しても、在日米軍専用施設面積に占める沖縄の割合は13年の73・8%から73・1%と0・7ポイントの減少にとどまると予測されている。全国に比べ、過重に負担する不平等は解消されない。

 結局、「計画のすべてが完了しても、在日米軍専用施設面積に占める沖縄の割合は13年の73・8%から73・1%と0・7ポイントの減少にとどまると予測されている。全国に比べ、過重に負担する不平等は解消されない。」ということが沖縄の現実でなる。
 だから、「28年度以降の返還計画は立っておらず、大幅な整理縮小にはほど遠い。沖縄21世紀ビジョンの『基地のない平和で豊かな沖縄』の将来像は見えない。」、と沖縄タイムスは指摘する。



Ⅱ.【検証・在沖海兵隊(1)】で、「海兵隊撤退は、『建白書』を逸脱するものではない。知事も乗れる」、と6.19県民衆会とも絡めた具体的な話となる。
 この県民集会で、「事件に対する県民の怒りをどう表現するか」、とその議論の様子を紹介する。


 繰り返される事件、事故に対する県民の怒りをどう表現するか-。
 議論は動いた。
 「基地がある故の事件、事故」。元自民県議の仲里利信衆院議員は「全基地撤去だ」と口火を切った。
 賛同もあったが、まとまったのは「海兵隊撤退」だった。正式名称は「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾!被害者を追悼し、沖縄から海兵隊の撤退を求める県民大会」と決まった。
 「オール沖縄」を掲げる翁長雄志知事は普天間飛行場の名護市辺野古移設反対とオスプレイの県内配備撤回を訴えてきた。2013年1月に県内41市町村の代表や県議が安倍晋三首相に手渡した建白書の内容だ。
 一方、ことし6月に県議会が「海兵隊撤退」を盛り込む抗議決議案を可決した際には「(自分の思いとは)紙一重の差ですから、政治的にどう表していくか、議論をしたい」と慎重に言葉を選んだ。
 知事の考えと差異があるように見えるが、出席者の1人は「辺野古移設もオスプレイ配備も根源は海兵隊の沖縄駐留。撤退すればすべてが解決するので建白書を逸脱しないと判断した」と強調。「事件、事故がなくならない現状を見ればそこに踏み込むのは当然」と付け加えた。


 沖縄タイムスは、「全基地撤去」ではなく、『海兵隊撤退』にまとまった経過(理由)について、次のように伝えた。


①「 海兵隊は在沖米軍の兵力の6割、面積の7割を占める。さらに10~20代の若い隊員が数年のローテーションで配備される。幹事会では『事件、事故を起こすのはいつも海兵隊員』との指摘が上がった。具体的な数値はないが、県民の肌感覚かもしれない。
②「沖縄戦で軍事占領した土地をきっかけに駐留を続ける米軍だが、海兵隊はもともと沖縄に存在したわけではない。戦後に撤退し、朝鮮戦争の後方支援のために岐阜や山梨・静岡に配備された部隊が50年代に沖縄に移ってきた。ベトナム戦争時にいったん移動したが、再配備され、増強された。
③「在沖海兵隊に関する研究が進み、米国の軍事戦略以外に、日米の財政や政治のバランス、本土の反基地運動などの要因が大きく影響していることが分かってきた。さらに専門家の間で抑止力や地理的優位性といった機能面でも沖縄駐留の必要性に疑問を投げ掛ける意見が相次いでいる。」


 このように、「全基地撤去」ではなく「海兵隊撤退」にまとまったのは、「全基地撤去に比べれば、海兵隊撤退は単なるスローガンではなく、『現実的』になりつつある。」、であるからだとする。


Ⅲ.【検証・在沖海兵隊(2)】で、「100本のねじがあれば、どうしても2本くらいの不良品が含まれる」、という米軍の思惑にどうやってけじめをつけるか。

「100本のねじがあれば、どうしても2本くらいの不良品が含まれる」は、元海兵隊員による暴行殺人事件を捜査する県警幹部が、数年前に米軍幹部から聞いた話だという。
 政府の「犯罪抑止対策推進チーム」が県内で警察官100人、パトカー20台を増やすといった対策については、沖縄県の幹部の『警察官の増員は事件・事故の発生を前提とする措置』と指摘。『基地の集中する沖縄がミサイル攻撃に遭いそうだから、迎撃ミサイルを配備しようというのと同じ発想。そこに基地があることで生じる不安は解消されない』」、との声で反論する。だから、「『海兵隊撤退を求める意見が出てくるのは当然』と語った。」、と続ける。
 次に、次の二つの具体的な事例を突きつける。


①「県は民主党政権だった2011年6月と12年6月の2度、在沖海兵隊の意義と役割について、防衛省に質問状を送った。『沖縄は米本土やハワイ、グアムに比べ、朝鮮半島や台湾海峡といった潜在的紛争地域に近い(近すぎない)位置にある』という防衛省の説明に『他の都道府県ではなく、なぜハワイやグアムとの比較か』『近い(近すぎない)とは具体的に何キロメートルか』と追及した。
 防衛省の回答は県にとって曖昧なままで『なぜ、日本の中で沖縄なのか』という問いに納得できる説明はなかったという。当時の担当者は『沖縄ありきの理由付けが目立ち、質問を繰り返してもらちが明かないと感じた』と振り返る。」
②「一方、県が2次回答を得た直後の12年12月、当時の森本敏防衛相は、海兵隊の司令部と陸上、航空、後方支援の各部隊をまとめることができれば『沖縄でなければならないという地政学的、軍事的な理由はない』と発言した。つまり全部隊を本土に移転できれば、海兵隊は沖縄以外でも役割を果たすことができる。それができないのは地政学的な理由でも、軍事的な理由でもなく、他に移設先を探せない政治的な理由だ、と現役防衛相が認めたことになる。」


 最後に、米軍の沖縄の基地問題について、「県内では基地の過重負担が事件・事故の根源という見方が広がるが、解決策には『全基地撤去』『海兵隊撤退』『基地の大幅縮小』などと温度差がある。県幹部は『いつ、何を、どうステージに載せるかは今後の展開次第ではないか』と見通しを示している。」、と沖縄タイムスは報告する。
 つまり、日本政府の出方次第ではないかと。


 以下、沖縄タイムスの引用。








沖縄タイムス-本土から姿消した海兵隊 沖縄集中の歴史【検証・在沖海兵隊】-2016年6月12日 12:10


 海兵隊は1950年以降に岐阜や山梨・静岡などから沖縄に移ってきた。米軍がらみの事件、事故で本土側に高まった反基地感情が要因の一つといわれる。しかし、そのころも、その後も、今も、沖縄では事件や事故が相次いで起きている。沖縄に部隊のほか、基地や訓練区域を集中させることで軍事的な重要度が増し、逆に地上戦闘部隊が姿を消した本土では基地問題に無関心が広がったのではないか。沖縄戦から現在、そして未来に向けて、沖縄の海兵隊の動きを検証する。(特別報道チーム・福元大輔)
【1945年~57年】50年代沖縄に続々 県内反発は無視部隊移転
 1945年4月1日、沖縄戦で沖縄本島に上陸した米軍は、本土決戦に必要な土地を占領し、基地建設を進めた。本島の14%にあたる約1万8千ヘクタールを確保したといわれる。陸軍と空軍が中心だった沖縄に海兵隊が移駐したのは50年代だ。朝鮮戦争の後方支援で、53年に岐阜や山梨・静岡に配備された第3海兵師団のうち、第9連隊が55年、司令部が56年、第3連隊が57年に次々と沖縄に移った。

 なぜ沖縄だったのか。沖縄国際大学の山本章子非常勤講師によると、53年の朝鮮戦争休戦後、米政府は軍事費削減に着手。海外の陸軍や海兵隊の撤退を始めた。一方、軍側は日本への海兵隊1個師団配備を要求。ウイルソン国防長官は54年8月、第3海兵師団の沖縄移転を決めた。

 大きな理由は54年5月の第一次台湾海峡危機の勃発だ。ただ、55年に第9連隊が移った後、沖縄では56年6月以降、基地拡張や地代の一括払いに反対する住民が「島ぐるみ闘争」を展開。米政府は移転先を再検討、インドシナ有事に即応できるグアム案を模索していた。

 ところが57年1月に群馬県の演習場内で薬きょうを拾っていた女性を米兵が射殺する「ジラード事件」が発生。米軍への批判が相次ぎ、岸信介政権は、米軍の陸上兵力の撤退を要求。アイゼンハワー大統領が岸政権に配慮し、金武町や名護市辺野古で基地建設の進んでいた沖縄への移転を急いだ。

 52年のサンフランシスコ講和条約発効で日本から切り離された沖縄では55年に6歳の少女が殺害される事件が発生、住民の反発は同様に高まっていたが、顧みられることはなかった。
【1957年~72年】米「普天間」撤退検討も 本土事故続き一転強化
 沖縄に配備された海兵隊の兵力は増強され、1964年に1万6千人を超えた後、65年に7千人台に減る。ベトナム戦争への出兵だ。沖縄から司令部も地上部隊もベトナムへ移動した。

 軍事費削減を迫られた米国防総省は68年12月、在日米軍再編計画で普天間飛行場閉鎖を含めた海兵隊撤退を検討していたことが、元近畿大講師川名晋史さんの研究で分かった。

 60年に空軍から海兵隊に移管された普天間について、米公文書では「海兵隊の航空機は朝鮮有事の際、到着まで時間がかかるため、決定的な役割を果たせない」と理由を挙げていた。

 しかし、68年5月の佐世保での米原子力潜水艦放射能漏れ事故、6月の福岡県でのF4ファントム機墜落事故が起き、ベトナム戦争の反対運動と合わせ、日米関係が揺らいでいた。

 最終的に国防総省は69年9月、住宅の密集する首都圏の航空基地を縮小する中で、厚木基地(神奈川県)のヘリコプターを普天間に移設する計画に修正。米国のアジアにおける防衛計画では沖縄の基地を使用することが前提となり、ベトナムに渡った第3師団の部隊は69年8~11月、沖縄に戻り、第36海兵航空群が普天間を本拠地とするなど機能強化が進んだ。

 沖縄では59年6月、空軍のジェット戦闘機が制御不能となり、石川市(現うるま市)の宮森小学校の校舎を直撃、炎上し、児童11人を含む17人が死亡、62年12月、具志川村(同)川崎に米軍ジェット機が墜落し、住民2人が死亡している。

 いずれのパイロットもパラシュートで脱出した。
【1972年~95年】基地残し沖縄返還 在沖海兵隊重視へ日本政府
 「核抜き本土並み」を求めた沖縄の願いはかなわず、巨大な米軍基地が残されたまま、1972年5月の沖縄返還。それ以降、米軍基地が大幅縮小された日本本土と対照的に、日本政府は在沖海兵隊の存在を重視するようになった。

 沖縄国際大学の野添文彬准教授の研究によると、東アジアの緊張緩和が進んだ72年10月、米国防総省が海兵隊を沖縄やハワイなどの太平洋地域から撤退させる案を検討していたことが、豪外務省の公文書で明らかになっている。米側は「米本土の基地に統合した方が安上がりで効率的」と説明したという。

 日本側は翌73年7月の日米安全保障条約運用協議会で、「アジアにおける機動戦力の必要性を踏まえると、海兵隊は維持されるべきだ」と主張し、引き留めた。駐日米大使館は、日本政府内の海兵隊重視が強まれば「交渉上のテコが強化される」とワシントンに報告を上げている。

 73年1月に日米合意した関東平野の空軍基地を横田に統合する「関東計画」や那覇空港の完全返還などでは、日本側が多額の費用を負担。78年には日本が米軍駐留経費を負担する「思いやり予算」が始まった。米側にとって、基地再編に影響する財政負担が減った形になる。

 75年のベトナム戦争終結後、沖縄の米陸軍は削減され、在沖米軍トップの四軍調整官を海兵隊が務めることになった。岩国の第1海兵航空団司令部も沖縄に移転、訓練区域の多い沖縄で空、陸の一体運用が可能となった。

 89年の冷戦終結後も沖縄の米軍基地は大幅に縮小されることはなかった。72年の沖縄返還時に58・7%だった在日米軍専用施設面積に占める沖縄の割合は、73年で73%、95年で75%。70年代初めに日本本土の米軍基地が大幅に縮小される一方、沖縄では基地が海兵隊を中心に維持・強化されることで、沖縄への基地の集中が進み、その構図が現在まで続いている。
【1995年~2016年】暴行事件 県民怒り 返還・負担軽減進まず
 1995年の米兵3人による暴行事件を受け、県内の反発は一気に爆発した。日米地位協定で容疑者の身柄の引き渡しを拒否されたこともあり、怒りは大きなうねりとなり県民大会に8万5千人が集まった。

 日米両政府は、在沖米軍基地の整理縮小・統合と日米同盟の強化を目的とした日米特別行動委員会(SACO)を設置。橋本龍太郎首相(当時)が先頭に立って交渉し、翌96年の中間報告では普天間飛行場を含む11施設、5002ヘクタールの返還を明記した。
 しかし、5~7年を目指した普天間返還が名護市辺野古への移設で難航しているように、北部訓練場、那覇港湾施設、牧港補給地区などは県内移設を条件としていることから、返還は実現していない。

 2005~06年の在日米軍再編では、辺野古移設とグアム移転、嘉手納より南の基地返還を「パッケージ(一体)」とした。辺野古に新基地ができない限り負担軽減は進まないと、「脅し」に使われたが、12年の民主党政権でパッケージを見直し。

 13年4月に日米合意した統合計画では、大まかな返還時期を示したが、「22年度またはその後」とされた普天間をはじめ、多くの基地で返還の見通しが立っていない。

 SACO合意後、在日米軍専用施設面積に占める沖縄の割合は1995年の75%から2014年の74・4%と0・6ポイントの減少にとどまり、目に見えた負担軽減が進んでいない現状が浮かび上がる。その間も、沖縄では米兵による連続放火や女性暴行、航空機の墜落などが相次いでいる。
【2016年~未来】統合計画 なお重い負担 豊かな将来像描けず
 米軍基地の集中する沖縄の今後の負担軽減策として、日米両政府が持ち出すのが、嘉手納基地より南の6施設・区域の「統合計画」だ。人口の密集する本島中南部地域の基地面積の68%、1048ヘクタールを返還する予定。そのほとんどは海兵隊基地で、1996年のSACO最終報告で返還合意しながら20年以上実現せず、積み残した課題に大まかな返還時期と条件を定めた内容にとどまっている。

 1048ヘクタールは東京ドーム220個分の広さだが、北部地域を含めた県全体の基地面積のわずか4・5%にすぎない。逆に北部地域に機能を集約し、使い勝手が良くなることで、基地の固定化、負担の固定化につながるのではないか、という懸念も根強い。

 統合計画に合意した2013年4月以降、返還されたのは浦添市の牧港補給地区(キャンプ・キンザー)北側進入路1ヘクタールと宜野湾市のキャンプ瑞慶覧西普天間住宅地区52ヘクタールの計53ヘクタール。残り995ヘクタールのうち85%にあたる841ヘクタールは、県内での機能移転が条件になっている。

 宜野湾市の普天間飛行場はSACO最終報告では01~03年の返還を目標としていたが、統合計画では辺野古移設が完了することを条件に22年度以降に返還することになっている。そのほか、浦添市の牧港補給地区は倉庫群を沖縄市や読谷村へ移転後の24年度以降、那覇港湾施設は浦添市へ移設できれば28年度以降の返還となっている。

 計画のすべてが完了しても、在日米軍専用施設面積に占める沖縄の割合は13年の73・8%から73・1%と0・7ポイントの減少にとどまると予測されている。全国に比べ、過重に負担する不平等は解消されない。

 28年度以降の返還計画は立っておらず、大幅な整理縮小にはほど遠い。沖縄21世紀ビジョンの「基地のない平和で豊かな沖縄」の将来像は見えない。



沖縄タイムス-「知事も乗れる」動き出した海兵隊撤退論【検証・在沖海兵隊(1)】-2016年6月12日 12:01



 「海兵隊撤退は、『建白書』を逸脱するものではない。知事も乗れる」

 元米海兵隊員の軍属による女性遺体遺棄事件に抗議する19日の沖縄県民大会について、主催団体の代表らは6日夜、那覇市内の幹事会で方向性を確認した。

 繰り返される事件、事故に対する県民の怒りをどう表現するか-。

 議論は動いた。

 「基地がある故の事件、事故」。元自民県議の仲里利信衆院議員は「全基地撤去だ」と口火を切った。

 賛同もあったが、まとまったのは「海兵隊撤退」だった。正式名称は「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾!被害者を追悼し、沖縄から海兵隊の撤退を求める県民大会」と決まった。

 「オール沖縄」を掲げる翁長雄志知事は普天間飛行場の名護市辺野古移設反対とオスプレイの県内配備撤回を訴えてきた。2013年1月に県内41市町村の代表や県議が安倍晋三首相に手渡した建白書の内容だ。

 一方、ことし6月に県議会が「海兵隊撤退」を盛り込む抗議決議案を可決した際には「(自分の思いとは)紙一重の差ですから、政治的にどう表していくか、議論をしたい」と慎重に言葉を選んだ。

 知事の考えと差異があるように見えるが、出席者の1人は「辺野古移設もオスプレイ配備も根源は海兵隊の沖縄駐留。撤退すればすべてが解決するので建白書を逸脱しないと判断した」と強調。「事件、事故がなくならない現状を見ればそこに踏み込むのは当然」と付け加えた。

 海兵隊は在沖米軍の兵力の6割、面積の7割を占める。さらに10~20代の若い隊員が数年のローテーションで配備される。幹事会では「事件、事故を起こすのはいつも海兵隊員」との指摘が上がった。具体的な数値はないが、県民の肌感覚かもしれない。

 沖縄戦で軍事占領した土地をきっかけに駐留を続ける米軍だが、海兵隊はもともと沖縄に存在したわけではない。

 戦後に撤退し、朝鮮戦争の後方支援のために岐阜や山梨・静岡に配備された部隊が50年代に沖縄に移ってきた。ベトナム戦争時にいったん移動したが、再配備され、増強された。

 在沖海兵隊に関する研究が進み、米国の軍事戦略以外に、日米の財政や政治のバランス、本土の反基地運動などの要因が大きく影響していることが分かってきた。さらに専門家の間で抑止力や地理的優位性といった機能面でも沖縄駐留の必要性に疑問を投げ掛ける意見が相次いでいる。

 全基地撤去に比べれば、海兵隊撤退は単なるスローガンではなく、「現実的」になりつつある。(特別報道チーム・福元大輔)
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 これ以上の事件、事故を許さないと、19日の県民大会で「海兵隊撤退」を求めることが決まった。これまでの研究や報道をもとに、在沖海兵隊の歴史や意義、役割などを検証する。



沖縄タイムス-全基地撤去選択肢に 過重な負担根拠曖昧【検証・在沖海兵隊(2)】-2016年6月13日 10:10



 「100本のねじがあれば、どうしても2本くらいの不良品が含まれる」

 元海兵隊員による暴行殺人事件を捜査する県警幹部は、数年前に米軍幹部から聞いた話を思い出していた。米軍や日米両政府が再発防止に取り組む矢先の今月5日、米海軍兵の女が嘉手納町内の国道58号を飲酒運転の車で逆走し、2台の車と衝突する事故を起こしたからだ。

 政府の「犯罪抑止対策推進チーム」が県内で警察官100人、パトカー20台を増やすといった対策をまとめた2日後だった。

 別の県幹部は「警察官の増員は事件・事故の発生を前提とする措置」と指摘。「基地の集中する沖縄がミサイル攻撃に遭いそうだから、迎撃ミサイルを配備しようというのと同じ発想。そこに基地があることで生じる不安は解消されない」

 そして「海兵隊撤退を求める意見が出てくるのは当然」と語った。

 県は民主党政権だった2011年6月と12年6月の2度、在沖海兵隊の意義と役割について、防衛省に質問状を送った。

 「沖縄は米本土やハワイ、グアムに比べ、朝鮮半島や台湾海峡といった潜在的紛争地域に近い(近すぎない)位置にある」という防衛省の説明に「他の都道府県ではなく、なぜハワイやグアムとの比較か」「近い(近すぎない)とは具体的に何キロメートルか」と追及した。

 防衛省の回答は県にとって曖昧なままで「なぜ、日本の中で沖縄なのか」という問いに納得できる説明はなかったという。当時の担当者は「沖縄ありきの理由付けが目立ち、質問を繰り返してもらちが明かないと感じた」と振り返る。

 一方、県が2次回答を得た直後の12年12月、当時の森本敏防衛相は、海兵隊の司令部と陸上、航空、後方支援の各部隊をまとめることができれば「沖縄でなければならないという地政学的、軍事的な理由はない」と発言した。

 つまり全部隊を本土に移転できれば、海兵隊は沖縄以外でも役割を果たすことができる。

 それができないのは地政学的な理由でも、軍事的な理由でもなく、他に移設先を探せない政治的な理由だ、と現役防衛相が認めたことになる。

 県内では基地の過重負担が事件・事故の根源という見方が広がるが、解決策には「全基地撤去」「海兵隊撤退」「基地の大幅縮小」などと温度差がある。県幹部は「いつ、何を、どうステージに載せるかは今後の展開次第ではないか」と見通しを示している。(特別報道チーム・福元大輔)


by asyagi-df-2014 | 2016-06-17 06:21 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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