沖縄-「サンフランシスコ講和条約」から沖縄基地問題を考える。

 サンフランシスコ講和条約(以下、「講和条約」とする)が発効した1952年4月28日(以下、「4.28」とする)を、私たちはどのように捉えているだろうか。
 安倍晋三政権は、2013年4月28日を「主権回復の日」とする、政府主催の式典を東京で開催した。
 しかし、沖縄では同日に、「4.28『屈辱の日』沖縄大会」が開催され、宜野湾市海浜公園の屋外劇場に1万人も参加者が集まり、日本政府に「がってぃんならん」と怒りの拳を突き上げた。
この沖縄の怒りを、日本人は、果たして真から理解できていただろうか。
 ただ単に、異質なものとしてしか頭に過ぎらなかったのではないだろうか。
 現在の沖縄と日本の関係を見た時、はっきりしていることは、「講和条約」が「構造的沖縄差別」の底流にあることを把握できなくて現代の沖縄の問題を理解することはできない、ということである。
 だから、管官房長官の「沖縄の基地問題は基本人権問題でなない」との認識は、多くの日本人の 認識と重なっている。
 まして、多くの日本人にとって、「植民者」としての自覚から沖縄への植民地主義を克服する過程には全く届かない。
 現在の辺野古新基地建設の問題は、こうした構造的なこれまでの在り方から派生している。
こうした状況を、新崎盛暉(以下、)新崎とする)は、「この数十年にわたえる思考停止状態の中での『沖縄の米軍基地に対する存在の当然視』こそ、構造的沖縄差別にほかならない」(「新崎盛暉が説く構造的沖縄差別」)と、構造的沖縄差別を指摘する。いやむしろ、新崎は、「いまや、『(構造的)差別』という言葉を使うことなくして、基地が集中する沖縄の現実を説明するのは難しい」、と言及する。
 今、沖縄問題を考える上で、例えば、辺野古新基地建設を阻止するためには、一つには、「4.28」を、きちっと捉え直す必要がある、と言える。


(1)「講和条約」と沖縄、「講和条約」と日本、について。

 「沖縄の『岐路』」(沖縄タイムス社)は、「講和条約と沖縄」という問題を次のように描写する。もちろんこれは、「講和条約」と日本を説明するものでもある。


「講和条約は、第2次大戦による日本と連合国との戦争状態を終結させるため、両者間で締結された平和条約。戦後に未解決となっていた諸問題を解決するため、51年9月に署名、52年4月28日に発効された。
 連合国と日本との領域、安全、政治、経済条項などについて網羅的な取り決めが定められたが、とりわけ沖縄に大きな影響を与えたのは、第3条で北緯29度以南の領域が、日本から行政分離され、奄美、小笠原諸島などと共に、米国の信託統治下に置かれることになったが、それまで暫定的に米国が施政権を保持したことだった。
 条約の発効後は日本が独立国として国際社会に復帰し、目覚ましい戦後復興を遂げた一方、沖縄では強制的な土地接収などで軍事基地が拡大。米兵による多くの事件・事故も頻発し、基本的人権がないがしろにされるなど、沖縄の人々は理不尽な社会状況下に置かれ続けた。」


 この「講和条約」第3条の規定は次のようになっていた。


「日本国は、(沖縄・奄美や小笠原を)合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる民衆にも同意する。このような提案が行われかつ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」


 このように、「講和条約」は、日本と沖縄の間に、「条約の発効後は日本が独立国として国際社会に復帰し、目覚ましい戦後復興を遂げた」日本と、「沖縄では強制的な土地接収などで軍事基地が拡大。米兵による多くの事件・事故も頻発し、基本的人権がないがしろにされるなど、沖縄の人々は理不尽な社会状況下に置かれ続けた」沖縄、という非常に大きな格差をもたらした。
 それは、「命の問題」というレベルで。


(2)「4.28」を考える。-沖縄タイムスの特集「講和条約を考える(上)(下)」から。このことを個人としてどのように受け取ってきたのかについて

 沖縄タイムスは特集(2016年4月27・28日)で「講和条約を考える(上)(下)」を組んだ。
 この中で、作家、沖縄大学客員教授の仲村清司さんと沖縄国際大学准教授の桃原一彦さんに、「あらためて4.28の意味をどのように考えるか。」と問うている。
 幾つかの話を、「4.28」理解のために、採り上げる。


①講和条約発効の意味をどう考えるか。(仲村清司さん)
「講和条約が無ければ単純に日本人だったが、条約発効で自分たちの故郷である沖縄が日本ではなく外国になってしまった。それによって僕は失われた故郷があるらしいということに気がつき、両親は戦前以上に自分たちが沖縄出身であることを隠すようになった。自分のアイデンティティを考える出発点になったのが講和条約の発効した4月28日。大げさに言えばそれから僕は『在日』になった」
「沖縄に対する情報が何も無く、沖縄がアメリカと思われていた時代の大阪で差別や偏見をじかに受けた。日本が起こした戦争によって多くの沖縄の住民が犠牲になったにもかかわらず、沖縄人がなぜ民族的な差別をされるのか。自分にとっての沖縄問題は差別問題であり、その出発点が4.28だった」
②敗戦後から米軍占領下の27年間をどう捉えるか。(仲村清司さん)
「条約発効の52年は沖縄戦が終わってから7年目で、防空壕にも不発弾や人骨が放置され、戦後処理もなされていない状態。このような中で当時の沖縄の人々が講和条約をどう見ていたのか。沖縄タイムスなどの地元紙を見ると、日本の独立を祝福し、沖縄も後に復帰していくと信じて込んでいる様子がうかがえる。差別や偏見の当事者だった僕とは、この点で大きなズレがあった。沖縄戦であれだけ血を流したにもかかわらず、この日を祝福し、それでもまだ日本を祖国として追いかけていることが理解できなかった」
「4.28を『屈辱の日』と呼んだのは復帰協で、61年の4月8日。条約発効の9年後で、後付けの言葉。銃剣とブルドーザーによる米軍の蛮行が続き、読み替えが行われたのだろう。条約発行当時の住民の心情を推し量ると4.28は『落胆の日』だったと思う」「講和条約発効から72年の復帰までの20年間を考えると、沖縄は日米にとっての『軍事植民地』であったと同時に沖縄の人たちににとっては日本への『同化運動』の時代だった。軍事植民地にされた人々が平和憲法のある日本に帰りたいという気持ちは分からないではない。だが、復帰運動ではその日本が沖縄にこれまで何をし、どんな存在であったのかを問う歴史的分析や思考の転換が必要だった。それをやらないまま、沖縄返還条約は日米安保の再編強化=沖縄への基地固定化・集中化の取引にされてしまった。」
③現在の沖縄で「4.28」について考える意味は。(仲村清司さん)
「3年前に政府が『主催者の日』式典をやったことで、逆に沖縄には4.28,5.15,辺野古の問題まで含めて、歴史の結節点にきちんと向き合い、日本の尻尾ではない行き方を模索するようになった。沖縄の声が本土になかなか伝わらない理由には、本土側も追うべき負担を分かっていながら、見て見ぬふりをしている背景がある。これに対して沖縄側には『憎しみ』が生まれる。しかし、互いが感情的になるとそこから生まれてくるのはさらなる恨みで、希望は見えてこない。『恨みベース』ではなく、互いがどうやって生きて行くかという『希望ベース』の議論を沖縄側から主張していかなければいけない」
④講和条約発効は沖縄にとってどんな意味を持つか。(桃原一彦さん)
「先日、法事で親戚が集まった際、他愛のない雑談から70~80歳の高齢者が「日本は沖縄を切り捨てた」という話をし始めた。講和条約発効が『屈辱の日』」ということが時折感情に沸き起こってくる。自分たちが切り捨てられたという思いはいまだ根強く、沖縄戦との連続性で講和条約の経験が『2度も捨て石にされた』という思いになっている。沖縄の一般の人々の意識で、講和条約が傷痕として今でも残り、身近に感じられている意味は大きい。背景には辺野古の新基地建設やオスプレイ配備をはじめ、現在の沖縄の状況が、過去の記憶を呼び起こしている側面があるのではないか」
「人種主義や民族主義的な問題意識だと感情論で『血の論理』に基づく先住民族の論理になってしまう。だが、沖縄の問題は血の論理だけでは説明できない。基地を押しつけられているという先住民族の自己決定権を求める政治的な立ち位置において表明される主体性や、政治的な迫害、抑圧のもとでの権利要求の基準が重要になる」
「基地問題が深刻な戦後沖縄では植民地主義という観点が必要になる。日本には植民地主義はないという議論もあるが、沖縄と日本の関係は、単純に人種主義や民族主義だけの問題ではなく、経済や政治構造、国民の社会意識の面でも、植民地主義の権力関係であり、差別、搾取だ」
⑤講和条約後、米軍占領下に置かれた沖縄の27年間をどう捉えるか。(桃原一彦さん)
「戦後日本で特殊な状況に置かれた歴史経験を振りかえるという意味では、植民地主義の視点で誰によって沖縄が切り捨てられ、問題が引き起こされたのかを明確にしなければいけない。だがその一方で、米軍占領下の経験を未来志向的に考えるならば、度重なる米軍の事件・事故、人権も保障されていない中で、自治、自立や独立、自己決定権まで含めて、さまざまな権利や思想を自分たちで獲得してきた経験は大きい。政治交渉で国際社会に訴える手法を身につけており、今後もその経験を糧にすることができる」
⑥沖縄にとって「主権」とはどんな意味を持つか。(桃原一彦さん)
「主権は暴力的に作用する場合もあり、沖縄島中心主義になってしまう危険性がある。主権の問題を沖縄側から主張する場合、宮古や八重山など周辺の島々との関係があり、沖縄も一つではない。自己決定権の主張についても島々で違いはあるだろう。私は独立学会にも関わっており、独立論は一つの選択肢として重要にはなると思うが、単純に琉球・沖縄の独立ではなく、誰がどこから、どんな形で独立するのか、常に問いながら議論することが重要だ」
「精神の植民地主義を乗り越える上で、沖縄の米軍基地をヤマトが引き取るべきだとする県外移設論は、人種主義、民族主義を相対化するために主張されている側面がある。沖縄人が日本人に遠慮し、日米安保や基地負担についてはっきりした意思表示や議論をしない状況では、まだ沖縄と日本とが対等な関係になっていない。県外移設論は対話を開き、同じ土俵に立つためのステップだと思う」
⑦現在の沖縄で「4.28」について考える意味は。(桃原一彦さん)
「植民地主義は沖縄だけの問題ではなく、台湾やグアムなど太平洋上、東アジアにも広がる課題であり、ポスト・コロニアル(植民地主義は終わらない)状況が続く場所が多くある。沖縄はそのような状況を考える上で、大変重要な位置にあり、日本という植民国家を相対化する視点を与える場所。そのことと同時に、国内的には県外移設を含めた沖縄と日本との関係を組み直す主張もひつよう。4.28を巡っては、太平洋の島々や東アジア地域と連携しながら、日本との関係において、沖縄が非植民地の立場や精神の植民地主義を乗り越えるという二つのベクトルが重要になると思う」


 沖縄タイムスは、「あらためて4.28の意味をどのように考えるか。」、と問うているのであるが。これは、日本にとってどうなのか、という問いでもある。
桃原一彦さんの「沖縄戦との連続性で講和条約の経験が『2度も捨て石にされた』という思いになっている。沖縄の一般の人々の意識で、講和条約が傷痕として今でも残り、身近に感じられている意味は大きい。背景には辺野古の新基地建設やオスプレイ配備をはじめ、現在の沖縄の状況が、過去の記憶を呼び起こしている側面があるのではないか」、という投げかけは、「4.28」を考える上での大きな示唆を与えている。
 仲村清司さんの「4.28,5.15,辺野古の問題まで含めて、歴史の結節点にきちんと向き合い、日本の尻尾ではない行き方を模索するようになった。」という指摘は、まさに、「4.28」が今の日本に突きつけているものである。
 また、桃原一彦さんの「基地問題が深刻な戦後沖縄では植民地主義という観点が必要になる。日本には植民地主義はないという議論もあるが、沖縄と日本の関係は、単純に人種主義や民族主義だけの問題ではなく、経済や政治構造、国民の社会意識の面でも、植民地主義の権力関係であり、差別、搾取だ」、という指摘にどのように答えることができるのかが、本当の意味で問われている。


(3)戦後の占領政策について

 「講和条約」の果たした意味を理解するためには、戦後の占領政策そのものについて、あわせて、把握する必要がある。
 渡辺豪(以下、渡辺とする)は、「日本はなぜ米軍をもてなすのか」の中で、このことを次のように説明している。


「戦後の日本と国際社会の関係は、ポツダム宣言に由来しているとも言えます。・・ポツダム宣言は、敵対行動の全面禁止という降伏を受諾させるのにとどまらず、占領体制の基本原則についても同時に提示しているのが特徴です。本書では、七の『連合国による占領』と、一二の『占領軍の撤退』に留意していただきます。
 七 「このような新秩序が建設され、かつ日本国の戦争遂行能力が破砕されたことの確証があるまで、連合国が指定する日本国内の諸地点は、われわれがここに示す基本的目的の達成を確保するため占領せられるであろう」
 一二 「以上の諸目的が達成され、かつ日本国民の自由な意思表明に従って平和的な傾向を持つ責任ある政府が樹立されたときは、連合国の占領軍はただちに日本国より撤収されるであろう」
 つまり、日本の戦争遂行能力が完全に失われたという確信が得られるまで、連語王国軍=米軍による日本本土を対象とする占領体制は続けることになる。さらに、日本から軍国主義が一掃され、民主主義にのっとって平和的傾向をもつ責任能力のある政府が樹立された暁には、占領軍は撤退させましょう、というのです。」


 渡辺は、次のように続けます。


「しかし、結果的には、一九五二四月の講和条約発効とともに本来撤退するはずの占領軍は「駐留軍」と名を変え、日本の『独立』後も居座ることになります。講和条約と同時にアメリカと結んだ安保条約と、その細則を定めた日米行政協定は『不平等』そのものでした。
 行政協定で与えられた在日米軍基地と米軍人関係者の特権は、日米地位協定に引き継がれ、とくに米軍基地が集中する沖縄県でさまざまな軋れつを生んでいます。沖縄をはじめとする全国の基地所在地域は地位協定の抜本的改正を求めていますが、政府は及び腰のままです。」


 新崎は「新崎盛暉が説く構造的沖縄差別」の中で、このような状況を、「占領政策における日本・沖縄の位置づけ」として、次のように具体的に読み解く。


「日本占領当初、米国、少なくとも米軍部は、占領政策の円滑な遂行のために、日本国民の中に根強く根を下ろす天皇制の維持・利用を図った。そして、日本国民の天王信仰・天皇への忠誠心それ自体に軍事的脅威を感じるフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなどの太平洋地域の連合国の懸念を払拭するためにも、日本を非武装国家とする方針をとった。アメリカと太平洋地域で覇を争った日本帝国主義の牙を抜いたのである。同時に、日本を監視し、非武装国家日本への周辺諸国の影響力の浸透を防ぐためにも、沖縄を日本から分離し、米国の軍事的拠点として、排他的な支配下に置こうとした。・・・こうして、象徴天皇制、日本の非武装化、沖縄の(分離)軍事支配は、占領政策の上で、三位一体の関係になったのである。」


 また、新崎は同書で、「構造的沖縄差別」の始まりを次のように指摘した。

「構造的沖縄差別の上の成り立つ対米従属的日米関係は、ここから始まる。一九四七年の、『沖縄を二五年ないし五〇年、米軍統治に委ねることに異存はない』といういわゆる天皇メッセージや、講和後も米軍の駐留を希望するという天皇のGHQへの積極的働きかけなどは、天皇がこの仕組みの中で自らに与えられた役割を果たしたものといえるだろう。日本の非武装化は、日本国憲法にも明記され、それは平和憲法と呼ばれるようになった。」

 新崎は、「講和条約」により日本と沖縄で生じたもののこの違いは、「平和憲法は、沖縄を除外することによって成立した。」、ということによる違いであると結論づける。


 この上に、新崎の「非武装国家の再軍備」についての指摘を、沖縄について考える際は、次の点を押さえておく必要がある。


「GHQの占領政策は、中華人民共和国の成立が視野に入ってくる段階で、修正を余儀なくされた。『非武装国家』日本を、アメリカの『目下の同盟国』として保護育成するという政策への転換である。具体的には、、日本を再武装・再軍備させるとともに、アメリカ市場の開放などによって、経済的にも一定の支援を行うことがそれである。非武装国家日本の再軍備は、五〇年八月、GHQの指示による警察予備隊(いわゆるポツダム政令)の公布(即日施行)によって始まった。・・・警察予備隊は二年後、保安隊になり、、さらに二年後自衛隊になった。非武装国家日本を『反共の防壁』に転換させるための次の政策は、米軍の恒久的な日本駐留であった。」


 この「非武装国家日本を『反共の防壁』に転換させるための次の政策は、米軍の恒久的な日本駐留であった。」という政策こそが、戦後の沖縄に貫かれた日米両政府共通の方針だったのである。


(4)米軍の恒久的な日本駐留のなかで起こったこと。


 戦後の占領政策において、沖縄への米軍基地の集中が何故起きたのか、前泊博盛さん(以下、前泊とする)は「沖縄と米軍基地」の中で、次のように説明する。


「沖縄の海兵隊の主力部隊である第3海兵師団は、終戦後1956年まで、実は岐阜県と山梨県に駐留していました。それが、沖縄県に移駐することになったのは、沖縄が戦略上の重要な地域だったからではありません。移駐の原因は、海兵隊の「素行の悪さ」にありました。」

「50年代には日本全国の米軍基地を抱える地域で、反米基地運動が激化していました。このため、アイゼンハワー米大統領の特命を受けたバンフリート元陸軍大将が54年に米軍再編のために極東地域を視察し、その結果として、『沖縄は大きな潜在力を有している。戦略的予備軍2個師団の訓練場や施設を作ることができる』と報告。在日米軍基地の移転先として、米軍統治下にあった沖縄が脚光を浴びることになります。」

「海兵隊の移駐が計画された55年当時、沖縄では、米軍による大規模な土地の接収が始まっていました。沖縄を統治していた陸軍を中心とする琉球列島米国民政府(USCAR)は、沖縄住民の土地を強制的に採り上げることを合法化する『土地収用令』を布告して、旧・真和志村(現・那覇新都心)を皮切りにカービン銃で威圧して、住民を当該地域から追い出し、ブルドーザーで家屋を壊し、畑を埋めてならし、鉄条網とフェンスを張り巡らして、次々に米軍基地を建設していました。日本国内にある米軍基地の多くが、旧日本軍の基地跡地や国有地を利用して建設されたのに比べ、沖縄の場合は、民有地を強制的に接収して基地が建設されました。沖縄でよく使われる『銃剣とブルドーザーによる強制接収』という言葉が、沖縄の基地問題の源流とその歴史を象徴しています。」


 沖縄への米軍基地の集中について、前泊は、「第3海兵師団に属する下級部隊の部隊史には『日本から米軍の地上部隊を撤退させるという日米合意に基づいて、沖縄に移駐した』と、海兵隊の移駐理由が記されています。つまり、本土の負担軽減や本土住民の激しい反基地運動に対応するために米軍統治下にあった沖縄に基地を移転・移駐させたというのが史実です。」、と事実を示す。
 結局、何故、沖縄へ米軍基地が集中できたのかについては、新崎の「日本においては、対米従属的な安保体制下においても、米軍基地の建設や運用は、国内法や国民世論の制約を受けざるを得なかったのに対して、沖縄においては、米軍の布令・布告が法であり、米軍政に批判的な世論は直接弾圧の対象にすることができたからである。」(「新崎盛暉が説く構造的沖縄差別」)、という説明に尽きる。
 その結果は、「そのことは、住民が全くの無権利状態におかれることを意味した。」(新崎「新崎盛暉が説く構造的沖縄差別」)、という沖縄の現実になったのである。


(5)最後に。


 新崎は「新崎盛暉が説く構造的沖縄差別」の中で、東日本大震災に関して、次のように触れている。


「東日本大震災は、『安全神話』を打ち壊し、もう一つの構造的差別を浮き彫りにした。日本(国民)は、沖縄に在日米軍基地の圧倒的多数を押し付け、『偽りの平和』を享受していたばかりでなく、東北の僻地に危険な原発を押し付け、そこから得られる電力で、『偽りの豊かさ』を教授していたのである。『安全神話』が強調されていた段階でも、放射性廃棄物の処理技術は確立しておらず、しtがって使用済み核燃料のゴミは増加し続けていた。福島第一原発の事故による放射能被害の拡大を見て、ドイツやイタリアは、原発依存を離脱する方向を選択した。にもかかわらず日本は、震災後も、日米でモンゴルに使用済み核燃料の最終処分場を押し付けようなどと画策をしたり、原発輸出政策を継続している。
 これでいいのだろうか。東日本大震災は、日本人の生活様式、生き方とともに、日本という国家の在り方を問い直している。経済成長優先、効率優先の社会の見直しが迫られている。」


 安倍晋三政権の「戻したがり病」のなかで、「3.11」も残念ながら、元の「安全神話」にに戻されつつあるのが実態である。
 現在の辺野古新基地建設も、こうした筋書きの中に嵌めこまれている。
「4.28」を正しく把握することは、実は、「日本人の生活様式、生き方とともに、日本という国家の在り方を問い直している。」、ということに繋がる。


by asyagi-df-2014 | 2016-05-06 05:14 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
画像一覧