沖縄から-三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記第47回

沖縄の地で、体を張って新しい歴史を作ろうとしている人たちがいる。
そこには、その煌めきの記録を残そうとしているジャーナリストがいる。
だとしたら、その生きざまの瞬間を私たちは受け取る必要がある。
三上知恵の沖縄撮影日記。

 今回の報告は、「20年間果たせない約束」、について。
 三上さんは、このように今回の報告を始めなければならなかった。


 人間、人生の中でコツコツと長い年月打ち込める仕事に出会うことは幸いである。失敗も成功も山あり谷あり。腐っている時期も、達成感を味わう時期もあるだろう。それこそ人生の醍醐味だ。しかし中には消せないシミのような「汚点」を抱える人もいるだろう。あのことさえなければ、と振り返ったときに、ズキッと傷むような出来事。私にとっては、それが1996年4月12日に伝えたこのニュースだ。
 20年前のこの日の夕方、当時の橋本総理がアメリカのモンデール駐日大使と共に発表した日米合意。前年に起きた少女暴行事件以降、沖縄全土が怒りで荒れ狂っていたさなか、ついに日米両政府は大幅に沖縄に譲歩した。と思った。動かなかった大きな山が動いた、と思った。朗報だと色めき立って、以下の発表をビッグニュースとして伝えてしまった。


橋本総理「普天間飛行場は、今後、5年ないし7年ぐらいに、 これから申し上げるような措置が取られた後に、全面返還されることになります」


 すぐに街頭インタビューに飛び出す記者たち。報道部全体も浮き足立っていた。感慨深げに受け止めるデスクの言葉を聞いて、歴史的な瞬間に立ち会っているようで胸が熱くなった。
 あの不幸な事件から半年、今度こそ本気で基地を無くすんだ、もしくは減らすんだという沖縄県民の本物の怒りと抗議の声が基地の重圧を跳ね返した。報道もかなり貢献できたのかも知れない、なんて思い上がりも手伝って、その夜はきっと久茂地あたりでおいしいお酒でも飲んだのではなかったか。


 だから、三上さんは、自問自答を繰り返すことになる。


「もしもあの日に、県内移設が条件ならこんな合意は無意味だ! 県民同士でいがみ合わせるつもりか? と地元局のキャスターの一人でも気炎を吐いていたら、世論を少しは変えられたのではないか。」

「もう少し早く、米軍がベトナム戦争当時に計画していた大浦湾の軍港と滑走路の複合基地について情報をつかみ、取材を進めていたら、サミットなんかで煙に巻かれる前に、政府の欺瞞を白日のもとにさらせたのではないか。」

「MV22オスプレイありきで、その正体は移設という名の新基地建設計画だったとずいぶん県内では報道したが、それをちゃんと全国ネットにできていたら、2013年に6機のオスプレイ飛来を中継するハメにならずに済んだのではないか。」


 三上さんにとって、「普天間返還合意20年」とは、「まるで沖縄県民の悲しみに応え、誠意を持って普天間基地を返してくれたかのように伝えてしまった20年前の自分と、そのあとの努力、成果の足りなさをこの20年何度呪ったかわからない。それを暴き、伝える最前線にいたのに何をやってきたのか。それを思うと自分に対しても奥歯がすり減るほど悔しいのだ。」、「そんな自分の報道生活の汚点のために、今私は放送局を抜けてまでこの問題に向き合うハメになっている。責任を感じているし、逃げてはいけないし、悔しいと思ってる人間にしかできないと思うことがあるからだ。」と。


 最後に、三上さんは、このように括った。


「20年前のあれは、まさに県民を愚弄する合意だった。繰り返すが、そのことに気づくのに、時間がかかってしまった自分が悔しい。しかし、この悔しさで20年経っても同じことに執念を燃やしている自分を滑稽にも不器用にも思える。
 消せないシミの上からカバーをして次のことに取り組むのも人生だったと思う。でも私は汚点さえ原動力にしたい。目をそらそう、逃げようとする自分にだけは勝ちたい。
 1996年の4月12日から20年目の今日、20年経ったことが受け入れられない自分と向き合いながら、そんな確認をした。」


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 以下、三上智恵の沖縄(辺野古・高江)撮影日記第47回の引用。







第47回 20年間果たせない約束


 人間、人生の中でコツコツと長い年月打ち込める仕事に出会うことは幸いである。失敗も成功も山あり谷あり。腐っている時期も、達成感を味わう時期もあるだろう。それこそ人生の醍醐味だ。しかし中には消せないシミのような「汚点」を抱える人もいるだろう。あのことさえなければ、と振り返ったときに、ズキッと傷むような出来事。私にとっては、それが1996年4月12日に伝えたこのニュースだ。

 20年前のこの日の夕方、当時の橋本総理がアメリカのモンデール駐日大使と共に発表した日米合意。前年に起きた少女暴行事件以降、沖縄全土が怒りで荒れ狂っていたさなか、ついに日米両政府は大幅に沖縄に譲歩した。と思った。動かなかった大きな山が動いた、と思った。朗報だと色めき立って、以下の発表をビッグニュースとして伝えてしまった。


橋本総理「普天間飛行場は、今後、5年ないし7年ぐらいに、 これから申し上げるような措置が取られた後に、全面返還されることになります」

 すぐに街頭インタビューに飛び出す記者たち。報道部全体も浮き足立っていた。感慨深げに受け止めるデスクの言葉を聞いて、歴史的な瞬間に立ち会っているようで胸が熱くなった。
 あの不幸な事件から半年、今度こそ本気で基地を無くすんだ、もしくは減らすんだという沖縄県民の本物の怒りと抗議の声が基地の重圧を跳ね返した。報道もかなり貢献できたのかも知れない、なんて思い上がりも手伝って、その夜はきっと久茂地あたりでおいしいお酒でも飲んだのではなかったか。

 その日は金曜日だった。翌日私は勤務で、土曜日のデスクと共に朝刊を広げ掲載されていた会見の全文をあらためてゆっくり読んで、初めて引っかかった。後ろの方に書かれていた「沖縄県内に代替施設を建設」という下りだ。「返還」ではなく「移設」なのか? 県内に新たに作るということ? 今ある米軍基地に統合するということ? この点はもしかすると、厄介な話になるのかも知れない。嫌な予感が一瞬頭をかすめた。しかし、ほぼすべてのメディアが「全面返還」を日米両政府の英断のように伝え、沖縄の地道な抵抗の成果と強調した。「県内移設という条件」について取り上げ、各社が言及し始めたのは、早くて週明け。それでも「条件付きなんてふざけるな!」というトーンではまだまだなかった。

 しかし、間も無く撤去可能なフロート型施設をどこに置くのかという話が始まり、沖合埋め立て案に変わり、北部のどこにするのか? という予定地探しが始まったと思った。これさえ本当に一から探してなどいないことは後からわかる。

 浮かんでは消える候補地はあった。しかし今考えれば全部ダミーに過ぎなかった。1996年末の日米合意の直後、米軍の幹部が「1966年に辺野古に計画されたプランが有効だ」とメールでやりとりしていたこともスクープしたことがあるが、実際に辺野古以外の場所が真剣に検討された痕跡はない。しかし、報道は振り回された。各地で反対集会があり、また振興策次第だと柔軟姿勢を示す人も現れ、県民を分断する負のベクトルも動き始めた。

 もしもあの日に、県内移設が条件ならこんな合意は無意味だ! 県民同士でいがみ合わせるつもりか? と地元局のキャスターの一人でも気炎を吐いていたら、世論を少しは変えられたのではないか。

 もう少し早く、米軍がベトナム戦争当時に計画していた大浦湾の軍港と滑走路の複合基地について情報をつかみ、取材を進めていたら、サミットなんかで煙に巻かれる前に、政府の欺瞞を白日のもとにさらせたのではないか。

 MV22オスプレイありきで、その正体は移設という名の新基地建設計画だったとずいぶん県内では報道したが、それをちゃんと全国ネットにできていたら、2013年に6機のオスプレイ飛来を中継するハメにならずに済んだのではないか。

 まるで沖縄県民の悲しみに応え、誠意を持って普天間基地を返してくれたかのように伝えてしまった20年前の自分と、そのあとの努力、成果の足りなさをこの20年何度呪ったかわからない。それを暴き、伝える最前線にいたのに何をやってきたのか。それを思うと自分に対しても奥歯がすり減るほど悔しいのだ。

 だから、5年から7年で返してくれると言ったのに返してくれなくて20年経っちゃったことを確認し合う集会なんて、個人的には行きたくもない。

 「わかってるよ~っ。どうにかしたいと、初動体制が悪かったことを挽回しようとがむしゃらに20年もがき苦しんできたこの年月の残酷さは、一番自分が知ってるから!」と大人気なく怒鳴りたい気分だ。

 そんな自分の報道生活の汚点のために、今私は放送局を抜けてまでこの問題に向き合うハメになっている。責任を感じているし、逃げてはいけないし、悔しいと思ってる人間にしかできないと思うことがあるからだ。

 普天間基地の大山ゲートの前で開かれた集会には、それぞれに20年悔しい年月を過ごしてきただろう仲間たちの姿があった。20年前のことは覚えていないけど、辺野古にいつも来てくれる若者もいる。3年前のオスプレイ飛来の時に体を張って基地を封鎖する人たちを見て、それから自分の問題になって毎日普天間の前に立つようになった方もいる。

 そうだ。この20年、何もできなかったとか、悔しいとか、凹んだとか、私はネガティブなことばかり言うのが得意だけど、今回の映像でもわかるように「傍観者ではダメなんだ」と動き出した人の数は、気づいたらこんなに増えている。県知事以下、沖縄県民の8割が反対するまでに状況は変化している。

 4月12日の夕方は、県庁前でオール沖縄会議主催の県民集会も開かれた。そこでも悔しさを口にする人もいたが、この20年で県民の意識が変わったこと、全国にそれが伝わったこと、この年月は無駄どころか必要だったといった初老の男性もいた。

 「復帰の時だって、あんなに時間がかかったけど、成し遂げたさ。27年で終わると思わずにやったんだからね」そういわれて軽くめまいがした。

 集会決議は次の言葉で終わった。

 「私たちは、県民を愚弄した日米合意から20年目の今日、全国、全世界の友人と共に次のことを成し遂げることを誓い、日米両政府に強く要求する」

○普天間基地の早期閉鎖と撤去
○オスプレイの配備撤回
○辺野古新基地建設断念

 20年前のあれは、まさに県民を愚弄する合意だった。繰り返すが、そのことに気づくのに、時間がかかってしまった自分が悔しい。しかし、この悔しさで20年経っても同じことに執念を燃やしている自分を滑稽にも不器用にも思える。

 消せないシミの上からカバーをして次のことに取り組むのも人生だったと思う。でも私は汚点さえ原動力にしたい。目をそらそう、逃げようとする自分にだけは勝ちたい。

 1996年の4月12日から20年目の今日、20年経ったことが受け入れられない自分と向き合いながら、そんな確認をした。


三上智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。大学卒業後の1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移り住む。夕方のローカルワイドニュース「ステーションQ」のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年には、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。現在も全国での自主上映会が続く。15年には辺野古新基地建設に反対する人々の闘いを追った映画『戦場ぬ止み』を公開。ジャーナリスト、映画監督として活動するほか、沖縄国際大学で非常勤講師として沖縄民俗学を講じる。『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)を上梓。
(プロフィール写真/吉崎貴幸)


by asyagi-df-2014 | 2016-04-15 05:55 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


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