「国立大学の卒業式等での国旗掲揚・国歌斉唱に関する文部科学大臣の発言の撤回を求める憲法研究者声明」を読む。

 「STOP!違憲の『安保法制』 憲法研究者共同ブログ」では、2016年3月8日、次のように述べています。


「2016年3月8日に、憲法研究者の有志89名が共同で声明を発表しました。本声明は、2月21日と23日に馳浩文部科学大臣が、卒業式などで国歌斉唱をしない方 針を示した岐阜大学の学長の判断を『恥ずかしい』と批判したことに対して、抗議の意思を表明し、当該発言の撤回を求めるものです。
 馳文部科学大臣の当該発言は、各国立大学の自律的な判断を事実上否定するものであり、憲法23条で保障された大学の自治の趣旨に反することは明らかです。学問研究・高等教育機関である大学が、その研究・教育の内容や方法について、政府の意向を過度に忖度して、学問的な専門的知見に基づく判断を歪めることになれば、それは大学だけでなく、社会全体にとって大きな損失をもたらすことになります。なぜなら、その社会では、ある物事の見方や考え方について、学問的知見よりも、時の政府の都合や利益が優先されることになり、果てには、その時に力を持つ者の恣意や専横がまかり通ることになってしまうからです。
 是非、声明本文をお読みください。」


 この「声明」を読む。
(1)事実経過
①馳浩文部科学大臣は、2016 年 2 月 21 日の金沢市での記者会見で、卒業式などで国歌斉唱を しない方針を示した岐阜大学学長に対し、「国立大として運営費交付金が投入されている中であ えてそういう表現をすることは、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」と述べたと報道され、続い て 23 日にも文部科学省での定例記者会見で「日本人として、特に国立大学としてちょっと恥ずか しい」との批判を繰り返しました。
②この問題は、昨年 2015 年 6 月 16 日、下村博文前文部科学大臣が、全国 86 の国立大学の学 長に対し、卒業式や入学式での国旗掲揚と国歌斉唱を求めたことに始まりました。下村氏は、あく までも「お願い」であり、受け入れるかどうかは各国立大学の判断だと述べました。しかし、国立大 学の財政が、文部科学省の裁量に基づく資金配分に大きく委ねられている以上、「お願い」とは 言っても、その事実上の影響力は極めて大きなものです。将来的な資金配分での不利益の可能 性を恐れて、各国立大学の学長が、大臣の意向を過度に忖度し、「お願い」を受け入れざるをえ ないと判断してしまうかもしれない状況が作り出されました。したがって、下村氏の「お願い」自体、 大学の自治の観点からは大きな問題点を含むものでした。
③馳大臣は、下村氏の「お願い」を受け入れず、国歌の斉唱を行わないと決めた岐阜大学を名指 しで批判しました。馳大臣の批判は、下村氏の要請が決して「お願い」にとどまるものではなかっ たことを証明するものです。
④各国立大学がその「お願い」を受け入れない判断をすることがますます難しい状況 になっています。
(2)反論
①安倍内閣による国旗掲揚・国歌斉唱の要請は、事実上の強制力を有するものであると評価せざるをえません。こうした事実上の強制力を伴うものであることが明らかに なった以上は、この要請は、国立大学の自律的な判断を否定しようとするものであり、憲法 23 条 の大学の自治の趣旨に反するものと言わざるをえません。
②憲法 23 条が保障する学問の自由が大学の自治を要請するのは、真理を追究する学問研究が
政治権力から独立して自律的に行われることが、結果として、より善き社会を作っていくことに貢 献するからです。逆に言えば、戦前の滝川事件、天皇機関説事件を引くまでもなく、政治権力が 大学の自治的決定や研究者の学問内容に干渉しようとするとき、その社会は誤った道を進んでい る危険があるのです。だからこそ、この問題には敏感に反応しなければならないと私たちは考えま す。
③憲法学の通説的見解は、戦前の経験を踏まえ、政治権力は学問内容や大学の自治的決定に 絶対に介入してはならないと考えています。その理由は、一旦、政治権力の介入を受け入れてし まえば、それを限定するのは非常に難しくなるからです。
④馳大臣は、「恥ずかしい」という理由に関して、国立大学には国費が投入されているから ということを挙げていますが、この理由は成り立たないものです。なぜなら、そもそも国費を投入さ れていることを理由に、大学は、研究および教育の内容・方法に関する国のお願いを受け入れな ければならないのであれば、それは大学の自治がまったく保障されないのと同じだからです。学 問研究・高等教育機関であることを理由に国費が投入されている以上は、それに関する国民への 責任の果たし方は、大学自身が決めることができなくてはいけません。仮に文部科学大臣の「お 願い」を過度に忖度して、大学が、学問的・教育的な専門的判断を歪めるようなことをするならば、 それこそが学問研究・高等教育機関としての国民に対する責任の放棄です。
⑤国旗・国歌だけは例 外だ、という見解があるかもしれませんが、卒業式等での教育内容・方法の問題である以上は、そ こでの国旗・国歌の取り扱い方も大学の自治の例外ではありません。
 大学がこの要求を受け入れるならば、その他の要求にも従わざるをえません。萎縮した研究者 は、権力に都合の悪い研究はしなくなるかもしれません。それが、日本社会にとって本当によいこ とでしょうか。
(3)結論
 国立大学の入学式・卒業式で国旗を掲揚し、国歌を斉唱するかどうかを決定する 権限は、各国立大学にあります。大学が決定したことを、文部科学大臣は受け入れなければなり ません。馳大臣による批判は、憲法 23 条の趣旨に違反することは明らかです。私たちは、馳大臣 に対し、発言の撤回を求めます。


 この問題ではっきりしていることは、「安倍内閣による国旗掲揚・国歌斉唱の要請は、事実上の強制力を有するものであること」、そしてこれに基づく一連の策動は、「憲法23条で保障された大学の自治の趣旨に反することは明らかであること」、ということである。


以下、「声明」の引用。








国立大学の入学式・卒業式等での国旗掲揚・国歌斉唱に関する文部科 学大臣の発言の撤回を求める憲法研究者声明


 私たち憲法研究者の有志は、馳浩文部科学大臣が、卒業式などで国歌斉唱をしない方 針を示した岐阜大学の学長の判断を「恥ずかしい」と批判したことに抗議し、当該発言の撤 回を求めます。

 馳浩文部科学大臣は、2016 年 2 月 21 日の金沢市での記者会見で、卒業式などで国歌斉唱を しない方針を示した岐阜大学学長に対し、「国立大として運営費交付金が投入されている中であ えてそういう表現をすることは、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」と述べたと報道され、続い て 23 日にも文部科学省での定例記者会見で「日本人として、特に国立大学としてちょっと恥ずか しい」との批判を繰り返しました。私たちは、日本の大学に所属する憲法研究者として、文部科学 大臣によるこのような発言は、以下のような理由で学問の自由と大学の自治を保障した憲法 23 条 の趣旨に反すると指摘せざるをえません。
 この問題は、昨年 2015 年 6 月 16 日、下村博文前文部科学大臣が、全国 86 の国立大学の学 長に対し、卒業式や入学式での国旗掲揚と国歌斉唱を求めたことに始まりました。下村氏は、あく までも「お願い」であり、受け入れるかどうかは各国立大学の判断だと述べました。しかし、国立大 学の財政が、文部科学省の裁量に基づく資金配分に大きく委ねられている以上、「お願い」とは 言っても、その事実上の影響力は極めて大きなものです。将来的な資金配分での不利益の可能 性を恐れて、各国立大学の学長が、大臣の意向を過度に忖度し、「お願い」を受け入れざるをえ ないと判断してしまうかもしれない状況が作り出されました。したがって、下村氏の「お願い」自体、 大学の自治の観点からは大きな問題点を含むものでした。
 馳大臣は、下村氏の「お願い」を受け入れず、国歌の斉唱を行わないと決めた岐阜大学を名指 しで批判しました。馳大臣の批判は、下村氏の要請が決して「お願い」にとどまるものではなかっ たことを証明するものです。もし、本当に「お願い」であったならば、馳大臣は、岐阜大学の学長の 判断に関して、「残念だ」とは言えたとしても、「恥ずかしい」などと批判を投げかけることはできな いはずです。各国立大学がその「お願い」を受け入れない判断をすることがますます難しい状況 になっています。かように、安倍内閣による国旗掲揚・国歌斉唱の要請は、事実上の強制力を有 するものであると評価せざるをえません。こうした事実上の強制力を伴うものであることが明らかに なった以上は、この要請は、国立大学の自律的な判断を否定しようとするものであり、憲法 23 条 の大学の自治の趣旨に反するものと言わざるをえません。
 憲法 23 条が保障する学問の自由が大学の自治を要請するのは、真理を追究する学問研究が
政治権力から独立して自律的に行われることが、結果として、より善き社会を作っていくことに貢 献するからです。逆に言えば、戦前の滝川事件、天皇機関説事件を引くまでもなく、政治権力が 大学の自治的決定や研究者の学問内容に干渉しようとするとき、その社会は誤った道を進んでい る危険があるのです。だからこそ、この問題には敏感に反応しなければならないと私たちは考えま す。
 憲法学の通説的見解は、戦前の経験を踏まえ、政治権力は学問内容や大学の自治的決定に 絶対に介入してはならないと考えています。その理由は、一旦、政治権力の介入を受け入れてし まえば、それを限定するのは非常に難しくなるからです。
 なお、馳大臣は、「恥ずかしい」という理由に関して、国立大学には国費が投入されているから ということを挙げていますが、この理由は成り立たないものです。なぜなら、そもそも国費を投入さ れていることを理由に、大学は、研究および教育の内容・方法に関する国のお願いを受け入れな ければならないのであれば、それは大学の自治がまったく保障されないのと同じだからです。学 問研究・高等教育機関であることを理由に国費が投入されている以上は、それに関する国民への 責任の果たし方は、大学自身が決めることができなくてはいけません。仮に文部科学大臣の「お 願い」を過度に忖度して、大学が、学問的・教育的な専門的判断を歪めるようなことをするならば、 それこそが学問研究・高等教育機関としての国民に対する責任の放棄です。国旗・国歌だけは例 外だ、という見解があるかもしれませんが、卒業式等での教育内容・方法の問題である以上は、そ こでの国旗・国歌の取り扱い方も大学の自治の例外ではありません。
 大学がこの要求を受け入れるならば、その他の要求にも従わざるをえません。萎縮した研究者 は、権力に都合の悪い研究はしなくなるかもしれません。それが、日本社会にとって本当によいこ とでしょうか。
 以上のように、国立大学の入学式・卒業式で国旗を掲揚し、国歌を斉唱するかどうかを決定する 権限は、各国立大学にあります。大学が決定したことを、文部科学大臣は受け入れなければなり ません。馳大臣による批判は、憲法 23 条の趣旨に違反することは明らかです。私たちは、馳大臣 に対し、発言の撤回を求めます。
                        2016年3月7日


by asyagi-df-2014 | 2016-03-12 06:10 | 書くことから-憲法 | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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