沖縄から-三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記第43回

沖縄の地で、体を張って新しい歴史を作ろうとしている人たちがいる。
そこには、その煌めきの記録を残そうとしているジャーナリストがいる。
だとしたら、その生きざまの瞬間を私たちは受け取る必要がある。
三上知恵の沖縄撮影日記。

 
 今回の報告は、「代執行裁判」における稲嶺名護市長の証人尋問の報告について。

 「私たちは、普通の人間として、普通のまちの中で生活がしたい。70年間の沖縄の歴史、そこで行われてきた人権を否定するようなことから、私たちを解放して欲しい」

 稲嶺進市長は苦痛に耐えているかのような震えた声で、このように訴えたという。
もはや、この言葉だけで十分ではないのか。
 日本という国は、そして私たちは、これほどのことをしてきたのだ。
 だから、「私たちはもう、これ以上、我慢ができないんです」、という言葉は、言わせていけない言葉として、私たちがきちっと押さえる必要がある。


 稲嶺進市長について、三上さんは、このように描写する。


「稲嶺市長はそんな名護市の裏側、久志地域の中でも奥まった三原という集落で、沖縄戦の年に生まれた。三原と言えば、地デジになるまで民放が映らなかった最後の地域といわれるほど、山あいの不便なところに位置している。地域のおばあたちの話によれば、進少年は小さな頃から利発で片田舎から琉球大学に進み「神童」とも称される期待の星だった。名護市役所に入ってからも市の教育長を務め、岸本市政を支える重要人物となった。
 人口でわずか8%でしかないこの久志地域から市長が誕生した例はそれまでない。だからこそ、稲嶺市長一期目の当選の時には旧久志村地域は沸きに沸いた。特にお年寄りたちの喜びようは尋常ではなかった。本来、日がのぼるのはこの東海岸からなのだ。名護市を照らす太陽は、この東海岸から上るのだという意味で、「あがいてぃーだ」(東から昇る太陽)は、三原出身の稲嶺市長の代名詞になっていった。」

「しかし、稲嶺さんは条件付きで辺野古移設受け入れを容認した岸本建男市長を支えた名護市の幹部であり、当初から移設反対の人だったわけではない。2006年、キャンプ・シュワブ内の兵舎の解体と移転に先立って埋蔵文化財の調査が必要となったときに、調査を進めようとする名護市と反対する人たちが衝突した。当時教育長だった稲嶺氏の対応は、決して反対運動に理解があるものではなかった。私もそのころ何度も市の対応をただしに行く文子おばあら市民を取材していたので、稲嶺教育長の冷たい態度に対し、おばあたちが『あれは旧久志村の人なのに』と恨めしく語っていたのを覚えている。だから辺野古反対運動に長く関わっている人の中には、稲嶺氏が『海にも陸にも基地は造らせない』を公約に市長選挙に名乗りを上げたときに、『信じていいのだろうか?』と思った人も多かったはずだ。その状況を一変させたのが、辺野古のお年寄たちだった。」

「嘉陽のおじいは戦争で受けた傷の後遺症で足が悪い。しかし頭の回転が早く、人と話すのが大好きで、携帯電話で誰とでも、国会議員とでも直接納得するまで対話する。稲嶺氏が市長候補になった頃、おじいは何度も電話で進さんと話をしていたようだ。もちろん、容認派だった記憶がみんなの中にあるのをよく知っていたので、おじいは『必ず基地に反対する、辺野古の年寄り連中に誓ってそうすると約束してくれんか』と何度も懇願するように話していた。
 ある日、嘉陽のおじいは嬉しそうに私に『証文』を見せてくれた。『辺野古の海にも陸にも基地は造らせません』と書いた色紙に「稲嶺進』と直筆のサインがあった。そしてこう言った。
 『進くんはね、おじいに、ちゃーんと約束をしてくれた。男と男の、固い約束だ。こんなに嬉しいことはないよ、三上さん。おじいはね、進よう、あがいてぃーだになれよう。久志から名護を照らす、あがいてぃーだになれよう、と言ったんだ』」


 そして、今の稲嶺市長について、三上さんはこう語る。


「久志地域のお年寄りたちの黄金言葉(くがにくとぅば・教え)が稲嶺さん本来の善性を磨きだしていったように感じていた。特に二期目の闘いに入る頃の稲嶺さんは、多くの神さまに守られてでもいるかのようなオーラをまとっていた。」

「苦しい思いを強いられてきた沖縄の、その中でも後回しにされてきた人々の悔しさ、でも諦めるわけにはいかない想いを一身に背負って権力にぶち当たっていく。埋め立てを承認してしまった前知事とも対立し、国にも堂々と立ち向かい一歩も引かない。稲嶺さんは『ぼくは、小心者ですから』とよく言っているが、こんなにすごい政治家になっていくとは誰が想像しただろうか。最初は小さく感じた背中だが、先月21日に行われた2万8千人の国会包囲行動の先頭に立つ稲嶺市長はとても大きく、誇り高く見えた。彼の背後には、東の海、大浦湾の向こうから人々を照らし、人々を辛苦から解放する太陽の力が宿っている。一人の政治家をあそこまでまっとうで力ある存在にしていったのは、彼に期待し、応援し続けている地域の人々の正のエネルギーであることは間違いない。」


 最後に、三上さんは、このようにまとめる。


「裁判所前の公園に、濃い桃色のヒカンザクラが咲いていた。名護は桜の名所でもある。
 『名護城(なんぐしく)の桜が応援に来てくれたようだ』と笑顔で語った稲嶺市長。
 『県民の声を届けてきます』というと万雷の拍手が起こり、裁判所に向かった。
 『沖縄の民が育てた政治家』。そんな言葉が頭をよぎった。」


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 以下、三上智恵の沖縄(辺野古・高江)撮影日記第43回の引用。







第43回名護の東(あが)い太陽(てぃーだ)~稲嶺名護市長 証言台へ~


 「私たちは、普通の人間として、普通のまちの中で生活がしたい。70年間の沖縄の歴史、そこで行われてきた人権を否定するようなことから、私たちを解放して欲しい」

 国が沖縄県知事を訴えた「代執行裁判」。証人尋問に臨んだ名護市の稲嶺進市長は苦痛に耐えているかのような震えた声でそう訴えた。そして絞り出すようにこうも言ったそうだ。

 「私たちはもう、これ以上、我慢ができないんです」

 沖縄では東のことを「アガリ」といい、西のことを「イリ」という。文字通り、太陽がのぼる方角だからアガリだし、日が沈む方角だからイリである。東は沖縄では特に吉方、縁起の良い方角だ。日の光が差し、島に恵みをもたらす神のいらっしゃる方角なので人々は「あがいてぃーだ(東の太陽・昇る太陽)」に手を合わせる。一方、日が沈む西側は夜の方角であり、死者のいる場所に向いている。島の西側に墓を作ることが多いのはそのためだ。観光客は真っ赤な太陽が海に沈む姿を見たくて西海岸リゾートに殺到する。家を建てる時にも西側にリビングを配置するのは県外からの移住者と相場が決まっている。沖縄の人ならば西日のきつい西側に開いた家造りなどまずしない。東こそが神聖な方角なのだ。

 「東(あが)い太陽(てぃーだ)になれよう。名護を照らす東(あが)い太陽(てぃーだ)になれよう」

 これは嘉陽という地域のおじいが、まだ市長候補になったばかり(2009年)の稲嶺氏本人に言った言葉である。辺野古のお年寄りが1997年に結成した「命を守る会」で、初期から基地反対に取り組んできたおじいにとって、辺野古と同じ名護市東海岸の青年(沖縄の青年は中年層も含む)が市長候補になったのはとても画期的なことだった。

 名護市は人口の9割が西海岸に集中している。辺野古・二見・嘉陽など東海岸の海沿いの地域は、1970年に合併するまでは久志村(くしそん)という別の行政区だった。クシというのは「後ろ」という意味で、「後原(くしばる)」と言ったら集落の後ろにある原っぱ、と言うような意味だ。だから久志村は美しい字が当ててあるものの、語感からすると「後ろの村、裏側の村」という意味合いもある。
 実際、旧久志村は西海岸と合併して名護市になってからあまり良いことがない。久志村はキャンプ・シュワブやキャンプ・ハンセンを抱え、基地被害もあれば収入もあったが、合併してからは基地被害をほとんど味わっていない西側に基地収入が吸い上げられ、基地の重圧だけが残った。過疎化が進み、なんでも置き去り、後まわしにされてきた。人口が多く発展を遂げた名護市西海岸が表なら、久志地域はまさに裏側だった。

 稲嶺市長はそんな名護市の裏側、久志地域の中でも奥まった三原という集落で、沖縄戦の年に生まれた。三原と言えば、地デジになるまで民放が映らなかった最後の地域といわれるほど、山あいの不便なところに位置している。地域のおばあたちの話によれば、進少年は小さな頃から利発で片田舎から琉球大学に進み「神童」とも称される期待の星だった。名護市役所に入ってからも市の教育長を務め、岸本市政を支える重要人物となった。
 人口でわずか8%でしかないこの久志地域から市長が誕生した例はそれまでない。だからこそ、稲嶺市長一期目の当選の時には旧久志村地域は沸きに沸いた。特にお年寄りたちの喜びようは尋常ではなかった。本来、日がのぼるのはこの東海岸からなのだ。名護市を照らす太陽は、この東海岸から上るのだという意味で、「あがいてぃーだ」(東から昇る太陽)は、三原出身の稲嶺市長の代名詞になっていった。

 しかし、稲嶺さんは条件付きで辺野古移設受け入れを容認した岸本建男市長を支えた名護市の幹部であり、当初から移設反対の人だったわけではない。2006年、キャンプ・シュワブ内の兵舎の解体と移転に先立って埋蔵文化財の調査が必要となったときに、調査を進めようとする名護市と反対する人たちが衝突した。当時教育長だった稲嶺氏の対応は、決して反対運動に理解があるものではなかった。私もそのころ何度も市の対応をただしに行く文子おばあら市民を取材していたので、稲嶺教育長の冷たい態度に対し、おばあたちが「あれは旧久志村の人なのに」と恨めしく語っていたのを覚えている。だから辺野古反対運動に長く関わっている人の中には、稲嶺氏が「海にも陸にも基地は造らせない」を公約に市長選挙に名乗りを上げたときに、「信じていいのだろうか?」と思った人も多かったはずだ。その状況を一変させたのが、辺野古のお年寄たちだった。

 嘉陽のおじいは戦争で受けた傷の後遺症で足が悪い。しかし頭の回転が早く、人と話すのが大好きで、携帯電話で誰とでも、国会議員とでも直接納得するまで対話する。稲嶺氏が市長候補になった頃、おじいは何度も電話で進さんと話をしていたようだ。もちろん、容認派だった記憶がみんなの中にあるのをよく知っていたので、おじいは「必ず基地に反対する、辺野古の年寄り連中に誓ってそうすると約束してくれんか」と何度も懇願するように話していた。
 ある日、嘉陽のおじいは嬉しそうに私に「証文」を見せてくれた。「辺野古の海にも陸にも基地は造らせません」と書いた色紙に「稲嶺進」と直筆のサインがあった。そしてこう言った。

 「進くんはね、おじいに、ちゃーんと約束をしてくれた。男と男の、固い約束だ。こんなに嬉しいことはないよ、三上さん。おじいはね、進よう、あがいてぃーだになれよう。久志から名護を照らす、あがいてぃーだになれよう、と言ったんだ」

 この「証文」は今もおじいの家のリビングに貼ってある。私はおうちを訪ねる度に、この日のことを思い出す。あのころはまだ、稲嶺支持に対して辺野古で頑張ってきた人たちの中に迷いがあったが、おじいが証文をとり、真っ先に信じようと表明したことで、まさか地元のお年寄りとの約束を破ることはしないだろうと、急速に稲嶺さんに対する信頼と期待が拡がっていった。
 そして三原、汀間、嘉陽といった彼の故郷に近い地域のお年寄りたちが口々に稲嶺さんへの期待を語り、褒め称え、炊き出しをし、おにぎりを並べ、総出で選挙を支えた。稲嶺さんも、久志地域に来る度に、表情がみるみる変わっていった。私は、教育長だった頃の稲嶺さんとは全然違う穏やかな表情になっていく過程を感慨深く見ていた。久志地域のお年寄りたちの黄金言葉(くがにくとぅば・教え)が稲嶺さん本来の善性を磨きだしていったように感じていた。特に二期目の闘いに入る頃の稲嶺さんは、多くの神さまに守られてでもいるかのようなオーラをまとっていた。

 苦しい思いを強いられてきた沖縄の、その中でも後回しにされてきた人々の悔しさ、でも諦めるわけにはいかない想いを一身に背負って権力にぶち当たっていく。埋め立てを承認してしまった前知事とも対立し、国にも堂々と立ち向かい一歩も引かない。稲嶺さんは「ぼくは、小心者ですから」とよく言っているが、こんなにすごい政治家になっていくとは誰が想像しただろうか。最初は小さく感じた背中だが、先月21日に行われた2万8千人の国会包囲行動の先頭に立つ稲嶺市長はとても大きく、誇り高く見えた。彼の背後には、東の海、大浦湾の向こうから人々を照らし、人々を辛苦から解放する太陽の力が宿っている。一人の政治家をあそこまでまっとうで力ある存在にしていったのは、彼に期待し、応援し続けている地域の人々の正のエネルギーであることは間違いない。

 映画『プラトーン』『JFK』などで有名なオリバー・ストーン監督は2013年、名護市役所で稲嶺市長に会った途端に、「あなたを尊敬する。あなたはファイターだ」と讃えた。あまり多くを語らない人柄の稲嶺氏に直感的にそう言ったのだから、やはり稲嶺さんの持つ風格や表情に、人を描く監督として卓越したものを感じ取ったのだろう。

 裁判所前の公園に、濃い桃色のヒカンザクラが咲いていた。名護は桜の名所でもある。
 「名護城(なんぐしく)の桜が応援に来てくれたようだ」と笑顔で語った稲嶺市長。
 「県民の声を届けてきます」というと万雷の拍手が起こり、裁判所に向かった。
 「沖縄の民が育てた政治家」。そんな言葉が頭をよぎった。


三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。大学卒業後の1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移り住む。夕方のローカルワイドニュース「ステーションQ」のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年には、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。現在も全国での自主上映会が続く。15年には辺野古新基地建設に反対する人々の闘いを追った映画『戦場ぬ止み』を公開。ジャーナリスト、映画監督として活動するほか、沖縄国際大学で非常勤講師として沖縄民俗学を講じる。『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)を上梓。


by asyagi-df-2014 | 2016-03-05 06:13 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


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