本からのもの-日本にとって沖縄とは何か

著書名;日本にとって沖縄とは何か
著作者:新崎 盛暉
出版社;岩波書店


 新崎盛暉さん(以下、新崎とする)は、まず最初に、「辺野古新基地建設は、単に米軍基地の建設をめぐる問題ではなく、戦後七〇年の日米沖関係史の到達点として存在する。」、と規定する。
 また、新崎は、この日米沖の枠組みを下支えするその構造を次のように指摘する。


 一九四五年、沖縄は地上戦を経て、米軍の軍事占領下で戦後史の第一歩を踏み出した。日本はポツダム宣言の受諾による連合国への降伏によって戦後史の第一歩を踏み出した。連合国、実質的には米国の占領政策は、天皇制の利用、日本の非武装化、沖縄の分離軍事支配という三点セットを基本として出発した。その後の国際情勢の変化の中で、「日本の非武装化」は、「目下の同盟国家」へと変化したが、基本的枠組みは変わらなかった。
 この基本的枠組みは、対日平和条約と日米安保条約によって、日本の主権回復後も引き継がれる。そしてこの枠組みは、「対米従属的日米関係の矛盾を沖縄にしわ寄せすることによって、日米関係(日米同盟)を安定させる仕組み」として、日米政府によって利用されることになった。六〇年安保条約改定に至る本土米軍基地の沖縄へのしわ寄せは、その具体的一例といっていいだろう。この仕組みは、「構造的沖縄差別」と呼ぶことができる。

 沖縄問題への理解に向けて、現在の「オール沖縄」の動きについて、続ける。


 沖縄には、できるだけ中央政府とは事を荒立てたくないと考える保守的政治家や経済人も少なくなかったため、たとえば普天間代替施設については、一九九九年一二月、「一五年使用期限付き、軍民共用空港を辺野古沖に建設する」ということで、沖縄県知事、名護市長と政府の合意が成立し閣議決定が行われた。だが、この閣議決定は、在日米軍再編協議の過程で、沖縄の頭越しに一方的に破棄され、日米両政府によって現行案が押しつけられることになった。
 この時期から、「日本にとって沖縄とは何か」という問い返しが、保守的立場の政治家や経済人をも巻き込んで広がり始める。それは、自らが歩んできた戦後史、現代史を踏まえた、自治、民主主義、平和に関する根底的問い返しでもあった。「オール沖縄」とも呼ばれるようになるこうした動きに拍車を掛けたのが政権交代やオスプレイの強行配備であった。


 これまで、新崎の本は、現実ときちっと向き合う中で、緻密にかつ論理的に組み立てられてきた。私にとっては、常に、沖縄問題を理解する上での指標であった。
 ただ、この本は、いささかダイジェスト版的な趣が強いと思われる。それでも、その価値が薄められるわけではない。
 新崎は、この本で、「辺野古新基地建設の問題が、日米沖関係史の戦後七〇年の総括点であり、その今後を考える起点でもある」、と示すのである。


 さて、新崎の指摘する「今後を考える起点」の理解のために、一六点の項目を引用する。


(1)日本の戦後史のなかの三位一体の占領政策(象徴天皇制・非武装国家日本・沖縄の米軍支配)における、沖縄の分離軍事支配ということ。


 天皇制の存続(象徴天皇制)と戦争放棄(絶対平和主義)の不可分な関係については、当時から一定の認識はあったが、沖縄の分離軍事支配と非武装国家日本の関係については、ほとんど認識されていなかった。

 四七年六月のマッカーサー発言におもねるかたちで、この年九月にGHQに伝えられたのがいわゆる沖縄に関する天皇メッセージである。天皇は、側近の寺崎英成を通してGHQに、アメリカが日本に主権を残し租借する形式で、二五年ないしは五〇年、あるいはそれ以上、沖縄を軍事支配することは、アメリカの利益になるのみならず日本の利益にもなるというメッセージを伝えた。寺崎から天皇の考えを伝えられたGHQの政治顧問シーボルトは、このことを米国務省に伝達した報告文の中で、このメッセージは、疑いもなく天皇の私的利益に基づくものであると指摘している。・・・・。
 天皇は日本独立後の米軍駐留、すなわち安保条約の問題についても、その政治的意志をアメリカ側に伝えていたことが指摘されており、「内閣の助言と承認」によって限られた国事行為しか行えないはずの天皇の政治的発言は、主権在民を旨とする憲法上の重大な問題であった。
 いずれにせよ、マッカーサーを中心とする占領者にとって、天皇制の利用・軍事国家日本の非武装化・米軍による沖縄の分離軍事支配は、三位一体の関係にあった。

 沖縄を長期的に保持するという方針を、大統領の諮問期間として設置された国家安全保障会議が決定するのは、四九年初めのことである。すでに中国大陸における国共内戦は、共産党の圧倒的優位のもとに展開し、米ソの対立も深刻化しつつあった。
 アメリカ政府は、四九年七月に始まる一九五〇会計年度に、初めて本格的な沖縄基地建設予算を計上した。四九年七月四日の米独立記念日に際し、マッカーサーは、「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明した。「非武装国家日本」は、「アメリアの目下の同盟国」として位置づけ直されることになった。


(2)日本の戦後史のなかの非武装国家の再軍備ということ。


 GHQの占領政策は、中華人民共和国の成立が視野に入ってくる段階で、修正を余儀なくされた。「非武装国家」日本を、アメリカの「目下の同盟国」として保護育成するという政策への転換である。具体的には、日本を再武装・再軍備させるとともに、アメリカ市場の開放などによって、経済的にも一定の支援を行うことがそれである。
 非武装国家日本の再軍備は、五〇年八月、GHQの指示による警察予備隊令(いわゆるポツダム政令)の公布(即日施行)によって始まった。・・・。警察予備隊は、二年後、保安隊になり、さらに二年後、自衛隊になった。
 非武装国家日本を「反共の防壁」に転換するための次の政策は、米軍の恒久的な日本駐留であった。朝鮮戦争は、攻撃基地、後方支援基地としての日本の米戦略上の重要性を認識させることになった。一方、朝鮮戦争は、「朝鮮特需」とか「朝鮮ブーム」ということばにも象徴されているように日本経済に大きな利益をもたらした。疲弊しきっていた戦後日本経済は、アメリカの戦争に協力することによって、その後の発展の足がかりを掴むことになった。こうした日米の相互利用・相互依存関係を土台として、戦後の新たな日米関係がスタートすることになる。・・・。
 ところで、日本の再軍備が始まり、米軍が日本全土を基地化することが可能になった段階でも、沖縄の米軍事支配は強化されこそすれ、解消されることはなかった。主権国家となった日本に基地が置けるのは親米的政権が存続し続ける間だが、米軍の排他的支配下に置かれた沖縄の基地は、アメリ政府の意志一つで、維持・強化することができ、軍事行動も、なんらの制約も受けずに行うことが可能だからであった。


(3)日本の戦後史のなかの日米安保条約。


 対日平和条約が締結された同じ日の午後、日米両国の間で、日米安保条約が締結された。この安保条約は、軍隊を持たない日本の希望によって米軍が日本に駐留する権利を与えられた基地貸与協定ともいうべきもので、米軍には、日本防衛の義務はなかった。それぐんとでいて、日本における内乱鎮圧のため出動することができた。条約の期限も定められていなかった。
 米軍の恒久的な日本駐留は、この条約によって根拠を与えられることになった。対日平和条約の第六条によって、連合国軍(占領軍)は、条約を効力を発生して90日以内に日本を撤退することになったが、占領軍の大部分を占めていた米軍は、日米安保条約に基づく駐留米軍として日本に居座り続けることととなったのである。
 「目下の同盟国」日本と、沖縄の米軍支配という一体不可分の関係は、占領政策の延長線上に、サンフランシスコ二条約として国際関係の上でも定着することになったのである。


(4)日本の戦後史のなかの「忘れられた島」。


 五二年のサンフランシスコ体制の成立から六〇年安保改定交渉が始まるまでの期間は、戦後初めて、沖縄タイムス謹話の問題が日本全体の問題としてクローズアップされた時代であった。・・・。アメリカの「目下の同盟国」日本と、それを支える米軍事要塞として日本から分離され、米軍政下に置かれている沖縄の関係については、ついに可視化され得なかった時代でもあったともいえる。

 五二年四月二八日、日本にとっての「主権回復の日」を、沖縄は米軍政下に取り残された寂寥感と共に迎えた。一方、対日平和条約によって沖縄支配を正当化したと考える米軍は、軍事支配をより一層合憲的なものとした。
 まず、基地建設を本格化した米軍は、農民の必死の懇願や抵抗を「銃剣とブルドーザー」で排除して、軍用地として必要な土地を取りあげた。復帰運動やその組織的中心になった教職員会には国際的秩序を破壊する「共産主義」のレッテルを貼って、これを弾圧した。選挙では、劣勢な親米勢力を有利にするため、露骨な選挙干渉も行った。「主権回復の日」から数カ月もたたないうちに、沖縄には「暗黒時代」が訪れていた。

 実は、対日平和条約発効の時点で、日本(ヤマト)には、沖縄の約八倍の米軍基地が存在していた。したがって、全国各地で、反米版基地闘争が続発しており、五〇年代の日米関係、サンフランシスコ体制は、決して安定したものではなかった。
 では、沖縄の実情は、どの程度ヤマトに知られていただろうか。敗戦以来、沖縄はまったく「忘れられた島」であった。


(5)日本の戦後史のなかの「島ぐるみ闘争」の爆発とその終止符。


 島ぐるみ闘争の爆発は、ただちに全国紙の一面トップで伝えられることになった。朝日報道が人権問題としての視点から沖縄の現実に光を当てたのに対し、島ぐるみ闘争は日米関係の再検討を迫ることになりかねない政治問題として報じられた。
 島ぐるみ闘争は軍用地問題にとどまらず、過去一〇年の米軍支配に対する「島ぐるみ」の総反撃であった。もう一つ、この島ぐるみ闘争は日本復帰運動としての側面を持っていた。日本政府や本土関係団体に対する要請文だけでなく、あらゆる団体の内部的な意思確認のための決議や方針にも、「領土権の死守」「国土防衛」がうたわれていた。「日本人としての魂と誇りを堅持して戦い抜こう」などというスローガンもあった。

 しかし、ここに集まった数十団体の「沖縄問題解決」のイメージはまちまちであった。社会党や共産党も、サンフランシスコ体制における沖縄の位置づけを正確に認識して独自の闘い、たとえば沖縄返還闘争を組織するというよりは、沖縄の闘いも砂川闘争も同一次元でとらえがちであった。自民党などは、経済闘争の枠内に問題を閉じ込めるのに躍起になっていた。
 また、論壇におけるオピニオン・ローダーたちも、この問題を日本の戦後責任の問題として位置づけ、これに主体的にどう取り組み家については論じようとはしなかった。・・・・。
 島ぐるみ当闘争は二年余りの間、さまざまな紆余曲折を経て、結局、一括払いの撤回と、軍用地料の引き上げによって終止符を打つことになるのである。


(6)日本の戦後史のなかの「構造的沖縄差別」の積極的利用。


 島ぐるみ闘争は、沖縄問題を施政権返還問題として性格付け、岸首相も五七年六月の日米首脳会談では一応沖縄返還を要望したが、結局日本政府はアメリカの排他的沖縄支配を承認したうえで日米協力体制を前進させる道を選択したのである。
 沖縄の排他的軍事支配を前提とする「目下の同盟国」日本という仕組みは、象徴天皇制、非武装国家日本、沖縄の分離軍事支配を三点セットとする占領政策として出発し、サンフランシスコ体制として確立していた。それは、構造的沖縄差別のうえに築かれた日米関係といってもいいだろう。すでに、「はじめに」で述べてように、「構造的沖縄差別」とは、「対米従属的日米関係の矛盾を沖縄にしわ寄せすることによって、日米関係(日米同盟)を安定させる仕組み」である。「基地のしわ寄せ」から六〇年安保改定の段階において、日本政府自体が、占領政策として出発した構造的沖縄差別を積極的に利用し始めたのである。

 アメリカがベトナム内線に直接介入して以来、横須賀、岩国、佐世保などの在日米軍もベトナムに出動した。明らかに、「日本国から行われる戦闘作戦行動」であった。しかし、沖縄を経由することによって、それは事前協議の対象にされなかった。「沖縄への移動は戦闘作戦行動ではなく、沖縄からベトナムへの出撃は、沖縄が安保条約の適用地域ではないから事前協議の対象にはならない」という国会答弁が、何回も、判を押したように繰り返された。
 安保適用地域の外におけれた沖縄が果たさせられたきた役割の一つは、在日米軍の自由な軍事行動を保障することであった。沖縄は、安保体制を外から強化する役割を担わされていたのである。


(7)日本の戦後史のなかの九五年までの国際情勢の変化。


 一九五〇年代後半の島ぐるみ闘争、七〇年前後の沖縄闘争に次いで、沖縄の民衆運動に転機を画したのは、戦後五〇年に当たる九五年である。
 沖縄を取り巻く返還前後の国際情勢の変化や民衆運動の特徴について整理しておきたい。
 国際情勢の変化の第一は、中国との国交正常化である。
 第二のニクソンショックは、訪中発表の翌月の七一年八月、ニクソン米大統領によって発表されたドル防衛非常事態宣言であった。

(8)日本の戦後史のなかの沖縄返還。

 沖縄返還は、七二年沖縄返還政策反対闘争の、そして安保反対闘争としての沖縄闘争の敗北の結果としてあった。沖縄民衆の最低限の要求は、「本土並み」の米軍基地の整理縮小であったが、政府のいう「本土なみ」は、「本土なみ」の自衛隊配備であった。


(9)沖縄の基地の実態。


 普天間のみならず、沖縄中南部の基地の多くは、こうして住民が収容所に入れられている間に、まるで白地図に線を引くようにして米軍基地に追い込まれたのである。
 その後の基地建設過程で不要になった土地は返還され、逆に必要になった土地は、「銃剣とブルドーザー」によって接収された。翁長知事が、普天間問題の原点は、土地の強制接収にあると強調するのはこのことを指している。

 沖縄返還に伴う第二段階の基地のしわ寄せによって、普天間基地の機能は強化された。具体的にいえば、沖縄返還に際して、那覇空港にいた米海軍対潜哨戒機P3の移転先について福田赳夫外相(後の首相)が、「岩国や三沢に移転されれば、政治問題を惹き起こす」と述べ、「日本本土ではなく沖縄の別の基地に移転」するようロジャーズ米国務長官に要請した結果、嘉手納移転が決まったのである。こうした交渉経過を明らかにしたアメリカ側の公文書が明らかになるのは沖縄返還から二〇年以上も経過した九六年のことである。

 SACO合意が、まず普天間返還に言及せざるを得なかったのは土地利用の面から沖縄県などの返還要望が強かったからであり、危険性の除去を重視したからではない。同時にこの基地が半世紀も前に造られ、老朽化が著しかったからである。戦場における勝者の権利として作られた基地を閉鎖・返還せよ、という権利回復の声が抑えきれなくなったとき、返す代償として新基地を要求するなどというのは、まさに「盗っ人猛々しい」というほかはない。


(10)なぜ辺野古なのか。そして、次の動きへ。


 実は日本政府が辺野古にこだわるのは、米軍が、六〇年代に、大浦湾のキャアプ・シュワブ沖を埋め立てて、現在と同様な基地建設を計画していたからである。ベトナム戦争当時の沖縄の政治情勢やアメリカの財政事情もあって、この計画は実現しなかったが、普天間返還の代替施設として、この基地建設計画がよみがえったのである。しかも経費はすべて日本が負担する。
 「撤去可能な海上ヘリ基地」から、「辺野古沿岸沖二キロのリーフ上の一五年使用期限付き軍民共用空港」へ、そして「大浦湾から辺野古沿岸を埋め立てて、v字型に二本の滑走路を持ち、強襲揚陸艦接岸可能な港湾施設や弾薬搭載場も持つ」現在の案へ、計画は軍事的観点から見れば理想的な形に近づきつつある。
 米国防総省の報告によれば、この基地は、「運用年数四〇年、耐用年数二〇〇年」といわれている。「埋め立て」といっても、海面から10メートルもある、見上げるような基地がジュゴンの餌場の上にそびえたつ。沖縄の未来は闇に閉ざされる。このころになると、基地容認、安保容認の現実主義者たちも、安保が必要なら日本全体で考えてほしい、負担間基地の代替施設が必要なら県外へ、と主張せざるをえなくなったのである。


(11)世代を超えた沖縄の歴史的体験の共有。


 とくに、報道機関や教育現場には、直接の戦争体験者は、もはや一人もいない。にもかかわらず、教科書の記述が、修正・削除されようとしていることの意味を、もっとも敏感にとらえたのは、報道機関や教育現場にいる直接的な戦争体験を持たない世代であった。なぜいま教科書の記述が変えられようとしているのか。それは、今現在の政治的動向と固く結びついているはずである。教科書検定意見に直ちに反応できたか否かは、直接的戦争体験者の数の問題ではなく、現実感覚の差であった。歴史的体験は、現実の課題を通して、はじめて社会全体に共有化される。それが戦争体験の風化現象を押し戻す。
 沖縄社会が。改めて「沖縄戦とは何か」、「日本軍とは何か」を大衆的に問い返すきっかけになったのは、沖縄返還の際の自衛隊の強行配備である。ⅱ度目が二年の教科書検定、3度目が07年度だといえよう。そのつど、新しい証言者が口を開き、その証言が記録され、複雑で多面的な戦争の実相が明らかになっていく。証言者と記録者の共同作業を通じて戦争体験の共有化は進む。


(12)銀座羽パレードでの経験。


 集会参加者による銀座のパレードに対しては、「日の丸」や星条旗を掲げた在特会などの右翼団体が、「売国奴」、「日本から出て行け」などの罵声を浴びせた。一九五〇年代中期から現在に至るまで、さまざまな要請・要求を持った沖縄からの行動団が全国各地に出かけているが、ヘイト・スピーチを浴びたのは、初めての体験だったろう。日本は、こんな時代になっているのである。行動団に参加した県議の一人は、「日本から出て行け」という罵声に対して、「じゃ、そうしましょうか。と言いたくなるね」と漏らしていた。


(13)「オール沖縄」体制を形成するもの。


 歴史的に例を見ない幅広い「オール沖縄」体制は、保守の分裂と革新的党派の衰退と、さまざまな市民・住民運動の担い手たちの自立的活動を前提として形成されたとも言える。


(14)辺野古新基地建設の意味するもの。


 こうしてアメリカを後ろ盾にして強大化する中国に対抗しようとする安倍政権と、集団的自衛権容認という形での日本の軍事協力の拡大を歓迎するアメリカ側の利害が一致することになった。
 新しい軍事機能を持つ新基地の提供も、軍事協力強化の重要な一環であった。日本側は、将来的な共同利用、さらには、単独利用も視野に入れているかもしれない。いずれにせよ、安全関連法案の国会審議と辺野古新基地建設は、密接な関係を持ちながら、同時並行で進むことになる。というよりも、辺野古新基地建設は、新たな安保法制準備の核心的で具体的なテーマであることを浮き彫りにしつつあった。



(15)「構造的沖縄差別」の基で起こっていることの確認。


 戦後日本の政治、とりわけその根幹をなす対米従属的日米関係を支えてきたのは、構造的沖縄差別であった。その仕組みは、戦傷者=占領者でもあるアメリカによって創り出され、日本の独立後も引き継がれた。
 この仕組みを積極的に利用しながら、日米関係を安定させたのは、日米の、とりわけ日本の国家権力だった。60年安保改定に至る基地のしわ寄せは、その一つである。戦後日本最大の民衆運動といわれる60年安保闘争は、沖縄を全く視野に入れていなかった。沖縄もまた、本土と沖縄の溝は意識し始めたが、安保体制、あるいはサンフランシスコ体制全体における沖縄の位置について明確な認識があったとは必ずしもいえない。

 沖縄返還によって、米軍の直接支配は解消したが、対米従属的日米関係を支える構造的沖縄差別は、基地問題の沖縄への集中という形で維持された。国土面積の0.6%の沖縄に在日米軍基地の75%が集中することになる沖縄返還によって生みだされた現実が、そのことを象徴的に示している。米兵の凶悪犯罪を契機に爆発した民衆の怒りを逸らすために、老朽化した普天間基地を返還する代わりに新基地を提供するのみならず、安保再定義によって日米同盟を強化するという政策は、沖縄返還を利用して、沖縄への基地政策の強化・集中と日米関係の強化を実現したやり方とあまりにも類似する。



(16)「イデオロギーよりアイデンティティー」ということ。



 アイディンティティーという言葉が、民族的アイディンティティーに狭く限定的に使われると、危うささえ持ちかねない。
 だがこの言葉は、より広い意味に使われている。田中優子法政大総長は、翁長知事の「慰霊の日」における平和宣言の中の「私たち沖縄県民がその目や耳、肌に戦のもたらす悲惨さを鮮明に記憶している」という言葉に言及し、「その身体的な体験が世代を超えて伝えられ、アイディンティティーとして醸成され、それで闘おうとしている。これは民族や地域を超えて非戦につながるアイディンティティーです」(『世界』一五年九月号)と受け止めている。確かにこの言葉は、政治党派的立場の違いを乗り越えながら、米軍政下から現在に至る、「平和」、「自治」、「民主主義」を求める闘いの積み重ねを多様なひとびとのの紐帯にしようという意図が込められていた。



(17)辺野古新基地建設阻止の闘いがもたらすもの。



 辺野古新基地建設阻止の闘いは、戦後七〇年、軍事的意味での「太平洋の要石」としての役割を押しつけられてきた沖縄が、構造的沖縄差別を打ち破り、自らを、平和な文化的経済的交流の要石に転換させるための「自己決定権」の行使にほかならない。

 安保法制(戦争法制)反対の運動は、六〇年安保闘争、七〇年安保闘争を超えられるだろうか。それは、次期国政選挙に至る過程での辺野古新基地建設阻止闘争の広がりにかかっているように思われる。辺野古新基地が建設された場合、そして阻止された場合の二つをイメージしてみれば明らかなように、辺野古新基地建設が阻止できるか否かは、沖縄のみならず、日本の、そして世界の、少なくとも東アジアの将来を左右する。

 辺野古新基地阻止を、集団的自衛権容認や新しい軍事基地建設による抑止力強化(軍拡競争)に抗う日本国民に突きつけられた眼前の実践的課題として捉えることが、必要なのではあるまいか。そしてそれこそが、構造的沖縄差別克服の第一歩になるだろう。



 最後に、新崎は、このようにまとめる。


 構造的沖縄差別は、日本の対米従属が生みだした結果でもある。日本の論者は、日本が惰性的対米従属の仕組みから離脱することに主体的責任を感じ、行動すべきではないのか。まさに、「日本にとって沖縄とは何か」が問われているのである。


 辺野古新基地建設阻止こそ、構造的沖縄差別の第一歩であることを、深く自覚するときが、今なのである。


by asyagi-df-2014 | 2016-02-28 06:30 | 本等からのもの | Comments(0)

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