本からのもの-プリモ・レーヴィへの旅 アウシュビッツは終わるのか?

著書名;【新版】プリモ・レーヴィへの旅 アウシュビッツは終わるのか?
著作者:徐 京植
出版社;晃洋書房


 徐京植さん(以下、徐とする)の「プリモ・レーヴィへの旅」は、いろんなことを私自身に示唆する。
 プリモ・レーヴィルの著作を知らなかったこと、余りにもアウシュビッツに無意識であったこと。
 アウシュビッツが示していたことは、今の日本のあり方を問うということだったこと。
「新版プリモ・レーヴィへの旅」は、「ドイツ人」の問題から、あらためて「日本人」の問題を、深く問いかけてくる。
 もう一つ言えば、徐の文章は、詩的にまたは理知的にリズムを刻む。こんな文章が書けたらと、つい思ってしまう。

 さて、次の「オデュッセウスの死」からの引用が、この本のすべてを表しているような気がします。


 彼を苛み続けた「思い出としての恥」「生き残ったことの恥」「人間としての恥」が、危険水域を越えて溢れ出したのだろうか。
 ジャン・アメリーにも共通する、「同化ユダヤ人」としての引き裂かれたアイデンティティが、ついに彼の生命そのものまでも引き裂いたのか。
 「ドイツ人」を理解しようとする努力に、ついに疲れ果ててしまったのか。
 果てしなく繰り返され増殖する愚行と流血に、とうとう「人間」への希望を失ったのか。
 「誰もがカインである」という強制収容所の真実が、実は収容所の外においても真実であったこと、しかも、そのことをユダヤ人の国イスラエルが証明しているという現実を前にして、底知れぬ虚無にとらわれたのか。
 「アウシュヴィッツ」を執拗に相対化しようとする人びとの台頭、その図々しい声を歓迎する多くの大衆の存在に耐えがたいまでの不安と恐怖を覚えたのだろうか。・・・・
 これ以外にも、自殺の原因には個人的な事情も当然からんでいるであろう。死の数ヶ月前、レーヴィは老いた母親が脳卒中の発作で倒れるという不幸にみまわれ、また、自分自身も抑鬱症に苦しんでいたという友人の報告がある。アメリカ合衆国に住むその友人は、一九八七年三月二九日すなわち自殺二週間前の日付のあるレーヴィの手紙を受け取っている。そこには、自分は今ひどい抑鬱症に苦しんでおり、それから逃れようと無益な戦いを続けている、回復への意志は強いが、現在の状況はアウシュヴィッツ時代を含めて最悪である、と書かれていた。
 いや、彼の自殺はそもそも、不安、恐怖、失意、絶望、あるいは倦怠のゆえではなく、自己の最後の尊厳を守るための、そして「証人」としての最後の仕事をやり遂げるための、静かな選択だったのかもしれない。
 彼はなぜ自殺したのか。私にはむしろ、その理由を知ろうとするべきでなく、理解しようとするべきでない、という思いが強い。ただ、死者の残した沈黙に凝然と頭をたれるべきなのだ。

  あなたがたが知りたいのは、理解したいのは、きりがついたしてページを繰
 るためではないのか。(中略)死者たちがあなたがたを救援しに来るなどとは、
 期待しないでいただきたい。彼らの沈黙は彼らのあとまで生きのびるであろう。
           (エリ・ヴィーゼル「死者のための弁護」『死者の歌』)

 プリーモ・レーヴィは私たちの未来のための証人だった。それなのに、「こちら側」の世界、私たちの世界は証人の声に耳を貸さないばかりか、証人を敬意をもって遇するすべすら知らないのである。



 私は、徐のこの声に、日本というものを真剣に考えざるるを得ない。
 徐は、そのためにこのように指摘する。


 冷血や残酷は、いまも世界を覆っている。「人間という尺度」は破壊されたままだ。アウシュヴィッツによって曝け出された「断絶」を、私たちは越えることができるだろうか。 アウシュヴィッツ以後、私たち「人間」は生還の期し難い「オデュセウスの航海」に投げ出されてしまったのだ。大海原は荒れて暗く、水先案内人もなく羅針盤もないままに、航海はあてどむなく続いている。


 徐の「ドイツ人」という章から、最後に引く。「ドイツ人」という投げかけは、「日本人」でもあるということを確認しながら。


 アーレントは後年に書いた「集団の責任」という論文で、「罪」と「責任」の概念を明確に区別している。「私たち全員に罪がある」という叫び声は現実には、実際に罪のあるものを無罪放免するはたらきしかしなかった、と彼女はいう。「罪」は法的な概念であり、「厳密な意味で一個人にかかわっている」。その一方で、政治共同体の成員なら誰もが負わねばならない、政治的な意味での「集団的責任」があるのだ。いいかえれば、「ドイツ人」という集団の中に「罪」のある個人はいるが、「ドイツ人」総体に「罪」があるのではない。「ドイツ人総体の罪」という考えはむしろ、罪のある個人を隠匿する結果に繋がるだろう。しかし、ドイツ国民なら誰でもドイツという政治的共同体がなした行為について「集団的責任」があるのである。こうした「集団的責任」を免れるのは、難民や亡命者など「国家なき人々」だけなのだ。
 ところで、「ドイツ人」であることを恬として恥じないドイツ人に出会った時には、ハンナ・アーレントは何と言うのだろうか?興味深い問題である。
 大切なことは、誰が、どの立場で語るかということ、そして、語られた言葉が誰によって、どう利用されるか、ということであろう。亡命ユダヤ人であるハンナ・アーレントが「人間であることを恥じる」と言う時、彼女の前に立ったドイツ人が「そうだ、そのとおり」と、肩の荷を降ろして胸を反らせるとすれば、その光景はグロテスクというほかない。彼はやはり、仮に個人として「罪」がない場合でも、「それでもドイツ人であることを恥じる」と応じるべきなのだと私は思う。そうしてこそ初めて、被害者と加害者とが同じ平面で向かい合って「人間」共通の責任を論じることも可能になるだろう。


 「ドイツ人」という投げかけは、「日本人」でもあるということを確認する行為とは、仮に個人として「罪」がない場合でも、「それでも日本人であることを恥じる」と、応じるべきなのだということである。
 徐は、このことが何故必要なのかについて、次のように述べる。


 自分たちが慣れ親しんだ生活様式や思考方式がどこかでナチズムの基盤を用意したのかもしれないという疑念や居心地の悪さは捨て去られてはならないだろう。ナチズムを産み、育て、黙認し、支持し、そこから利益を引く出しさえしたドイツ国民の一員としての恥辱間、その感覚に可能なかぎり敏感であるべきだ。そのような姿勢こそが、「人間としての原則的な恥ずかしさ」をさまざまな国籍の人々と共有し、感情の上で国際連帯を可能にするための前提なのである。ところで、「日本軍国主義と日本人は別だ」という言葉を中国人戦争被害者から聞く時の、日本人たちはどうだろう?「そんなことは当たり前だ」としか思わず、平然としているのではないか。


 徐は、「二〇一一年三月一二日に起きた福島第一原発の爆発事故後、あらためて考えさせられたことは、私たちの『想像力が試されている』ということである。」、と記している。
 私も、「3.11」及び「3.12」の意味を問いつづけていきたい。


by asyagi-df-2014 | 2016-02-25 05:52 | 本等からのもの | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
画像一覧