本からのもの-日本はなぜ米軍をもてなすのか

著書名;日本はなぜ米軍をもてなすのか
著作者:渡辺 豪
出版社;旬報社


 作者の渡辺豪さん(以下、渡辺とする)は、最初に、このように指摘します。


「おおざっぱに言えば、占領期に米軍をもてなしてきた主な機関が『特別調達庁』であり、その任務が『調達庁』、『防衛施設庁』へと引き継がれてきたのです。そもそも、連合国の日本占領は『間接統治』が原則でした。」

 つまり、日本占領は米国の間接統治が原則とされたが、、防衛施設庁はそのための米軍おもてなし機関であるということ。ただし、「一九四八四年四月の神戸事件で示されたように日本の『間接統治』下でも直接軍政(直接統治)を試行する体制を整えていた。」(荒敬「占領支配の構造とその変容」)ということを押さえておく必要がある。
 このおもてなし機関の意味を次のように説明します。



「防衛施設庁の源流は、米軍による占領期にさかのぼり、組織そのものが占領の名残だということが見えてきたからです。調達庁の前身の『特別調達庁』という組織は文字通り、占領軍ご用達の『調達機関』として誕生しました。」
「もう一つ実感したのは、日本はいまだに占領期の状態から実質的には、抜け出せていない、という現実です。旧防衛施設庁が現在の防衛省で行っている業務、たとえば沖縄防衛局の仕事の内容を見ていれば、それが米軍をもてなすための差配であることは一目瞭然です。結局、『日本はアメリカに占領統治されたままなんだなあ』という感慨をあらためて深くしました。」


 この上で、渡辺は、防衛施設庁の役割が「米軍をもてなすための差配」でしかないことと、一方では、「在日米軍の有り様に無関心な人が多くを占める」ようになった現在の日本の状況を受けた中で、この本書の主題を次のように書き込みます。


「在日米軍の駐留は、日本国憲法の最大の特色である『平和主義』と密接に絡んでいます。戦争放棄や軍備撤廃をうたう憲法九条がなければ、日本が七十年以上にわたって『戦争をしない国』ではいられなかったのと同時に在日米軍の駐留がこれほど長期にわたって続くということもなかったと言えると思います。平和憲法は世界の恒久平和という理念を体現し、日本の『平和』の維持装置としてもプラスに機能してきた半面、沖縄をはじめとする特定地域に外国軍隊の駐留という『犠牲』を強いる負の面を併せ持つ現実を直視する必要があります。そのうえで、平和憲法の意義をあらためて問い直したい、というのが本書の主題です。」


 だから、政権側が日本国憲法を強権を持ってして改悪しようとする今、日本国憲法をきちっと捉え直す必要があると、こう書き加えます。
 例えばそれは、一つには、日本と沖縄のねじれとして表れている状況を解くために。


「沖縄が在日米軍専用施設の七四%を背負うことで、ほとんどの国民が米軍基地の負担を感じることなく暮らしてきました。憲法九条のおかげで日本の平和は保たれた、という本土側の主張は、沖縄で聞くと違和感が募ります。『憲法九条と沖縄の米軍基地負担のおかげ』ではないのか、と言いたくなるのです。日米安保のかなめとしての役割を担わされてきた沖縄は、憲法九条の影の部分を背負わされてきた、とも言えます。」


 この日本のねじれ、日本本土と沖縄のねじれについて、渡辺は、次のように指摘します。


「沖縄に対する本土側の偏見や侮蔑、差別に通じる現実がそのまま凝縮されているからです。沖縄側に非があると信じ込むことで、沖縄に過重な基地負担を負わせる側の当事者であるという罪悪感から逃れたいという幼稚な心理、現実と正面から向き合おうとしない精神の弱さや狡さが反映しているように思えます。沖縄の民意を切り捨て、辺野古への新基地建設を強引に進めることによって、『われわれ』は何と失いつつあるのか。目を背けたり、思考停止したりせずに本質を問わなければなりません。同じ時代に、同じ価値観を共有する社会に属しながら、大半の日本人は、沖縄を見放している、という自覚もないまま、沖縄を追い込んでいます。日本人が沖縄を見放すことによって、じつは日本人が沖縄の人々から見放されつつあるのです。後になって、『なぜこうなったのか』と嘆いても遅いのです。国民国家という制度や、『領土』という概念は、将来も不変ではありません。人びとの意識や価値観によって変容していくことは歴史が証明しています。沖縄がもう一度戦場になれば、沖縄の人たちは二度と日本を許さないでしょう。」


 だから、渡辺は、日本と沖縄のネジレの解消に向けて、次のように提起します。

「民意を無視された沖縄の不満が沸点に達し、憲法九条をなし崩し的に形骸化する安全保障政策の改変が加速化する今だからこそ、いかにして平和憲法を守り抜くのか、という覚悟と戦略が問われているように思います。そのためには、無自覚のままアメリカに隷従していく関係の是正と、国際社会の中での日本のアイデンティティとは何か、を見据える作業が不可欠です。」


 さて、この渡辺の「日本と沖縄のネジレのの解消に向けての提起」は、「日本はなぜ米軍をもてなすのか」ということを考えるうえでも基本となります。
 渡辺は、「従属の源流」としてのもてなし機関、つまり「占領軍=米軍をおもてなしする機関」である防衛施設庁の役割のイメ-ジを、外務省の岡崎勝男の「戦後二十年の遍歴」から引きます。


「われわれは、いかにして連合国の信用を獲得して、早期講和の実現に近づくかということにあらゆる努力を傾けたわけである。ちょうどそれは明治のころ、不平等条約撤廃を目指して日本の文明開化を諸外国に認識させるため、鹿鳴館のダンスなどをやった気持ちと似通っているように思う。すなわち、今度は、文明開化の代わりに日本に民主主義を確立し、これを連合国に認識させて早期講和に以て向うというのである。」


 渡辺は、「このときの『不平等条約』に相当するのは、ポツダム宣言に基づく占領体制」、と規定し、「戦後の日本と国際社会の関係は、ポツダム宣言に由来しているとも言えます。」、と指摘します。
 そして、このポツダム宣言の意味を、「ポツダム宣言は、敵対行動の全面禁止という降伏を受諾させるのにとどまらず、占領体制の基本原則についても同時に提示しているのが特徴です。」、と説明します。(七の「連合国による占領」と十二の「占領軍の徹底」)
 つまり、このポツダム宣言の意味は、本来、「日本の戦争遂行能力が完全に失われたという確信が得られるまで、連合国=米軍による占領体制は続けることになる。さらに、日本から軍国主義が一掃され、民主主義にのっとって平和的傾向をもつ責任能力のある政府が樹立された暁には、占領軍は撤退させましょう」、というこであったはずでした。
 しかし、渡辺が次に指摘するの日本の姿が実像であったわけです。


「しかし結果的には、一九五二年四月の講和条約発効とともに本来徹底するはずの占領軍は『駐留軍』と名を変え、日本の『独立』後も居座ることになります。講和条約と同時にアメリカと結んだ安保条約とその細則を定めた日米行政協定は『不平等』そのものでした。行政協定で与えられた在日米軍基地と米軍人関係者の特権は、日米地位協定に引き継がれ、とくに米軍基地が集中する沖縄県でさまざまな軌轢を生んでいます。」


 また、渡辺は、このポツダム宣言受入の日本側の唯一の条件が、「天皇の国法上の地位を変更しないこと」であったことと(ここでは深く触れない)、GHQの間接占領に必要だったものは、「官僚機構」にあった、と指摘します。実は、岡崎の言う「日本に民主主義を確立」にあったのでは決してなかったわけです。
 つまり、日本の官僚機構は、「使い勝手のよい、『間接統治』の道具として機能している」からこそ、必要とされたわけです。そして、その役割は、現在も続いて貫徹されているわけです。
 逆に、渡辺は、岡崎勝男の回想録に示された気概は、初めからなかったのではないかと、このように指摘します。


「『アメリカ(GHQ)の仲介役』として官僚が果たした役割の基調は、日本が講和条約を締結して『独立』を果たした後も、官僚機構の中枢にDNAとして組み込まれ、アメリカの意向を忖度し、自動的に隷従していく官僚の行動原理に違和感なく結びついていったのではないでしょうか。『独立国としての体裁は保ちつつ、内実はアメリカに従属』するシステムは政府官僚組織の既得権益とも辛み、維持強化されているのが現代日本の実像のように思います。」


 だから、渡辺は、「『不平等』を是正する気概は日本人から失われてしまったのでしょうか。戦争に負けたことも、戦後ずっとアメリカに従属してきたことも、日本人の意識からは消えつつあるようです。なぜそうなったのでしょうか。時間の経過だけが要因でしょうか。」、と投げかけるわけです。


 次に、渡辺は、「日本はなぜ米軍をもてなすのか」を解き明かすために、補償型政治について次のように指摘します。


「しかしあえて付言すれば、基地の負担を受け入れる自治体側の要望に沿うかたちで使い勝手がよくなった交付金や補助金の有様は一見、地元に寄り添う『民主的』な経緯で進化を遂げたようにも映りますが、じつはそうではありません、国策に逆らわないことを前提とする『あきらめ』を地元に浸透させるために有為と判断したがゆえに、防衛施設庁はすすんで自治体の要望を取り入れてきたのだと思います。」


 だから、渡辺は、自治体側の補償型政治への取り組み方の前提として、「誰のための『恩恵』なのか、問うことです。」、ということが重要だと押さえ、次のように指摘します。


「自治体側は、こうしたカネで本来の自治の発展や住民の真の幸福につながるのか、と絶えず自問しなければ、『麻薬』を手放せなくなることに十分注意すべきだと思います。」


 渡辺はここで、日本の補償型政治を見極めるために、次のように紹介します。


「日本の対米軍援助額は国際的にも突出しています。アメリカの政治学者ケント・カルダ-は『アメリカの戦略目標に対して日本ほど一貫して気前のいい支援を行ってきた国はない』と指摘しています。具体的には、『二〇〇二年の日本の米軍援助総額は、四六億ドルを超えている。これは世界各国からアメリカが受けている受入国支援総額の六〇パ-セント以上にあたる。日本に配置された兵士一人あたりに対する援助額は、ドイツと比べると五倍近い』(『米軍再編の政治学』)」と数字を挙げて説明しています。」


 また、渡辺は、日本の補償型政治を次のように分析します。

「ケント・カルダ-は『防衛施設長が一定の成功を収めてきたことは、解放という意図を持った占領政策を隅々まで行き届くように慎重に練りあげれば、その結果として残った制度が基地制度を安定させ、末端で資源が移動するようなしくみができて、基地政治が占領終結後も長続きする証左だろう』と分析しています。」


 このことを渡辺は、「日本の補償型政治が成り立つには単にアメをばらまいたり、タ-ゲットとなる地元のリ-ダ-の政治家を籠絡したりすれば済むのではなく、民意をくみとるだけの器量や政治力が必要だということです。『受け入れる共同体の民意に敏感であること』が地元にも政府にも必須に求められます。」、とも言い換えています。
 一方、日本の補償型政治の断片を、井原氏の「岩国に吹いた風-米軍再編・市民と共にたたかう」から、次のように引用します。


「日本の政府には当事者能力がないのではないか。アメリカとの関係があまりにも従属的で、二国間で決めたことは少しも動かせない。アメリカと決めたことを、ただ地方自治体に押し付けることだけしか方法をもっていない。いくら政府と交渉しても、彼らには当事者能力がなく、拉致があかない。われわれの政府なのだから、地元住民の不安や反発を受けて、厳しいかもしれないがアメリカと交渉してみようではないか、その結果をうまくいかなければその状況を説明し、どうしても厳しいから何とか理解してくれという姿勢が少しでもあれば、われわれの印象は全然違うものになる。しかし、そんな気持ちは微塵もない、というか、その力も意欲もないというのが現実のようである。」


 このことについて渡辺は、おもてなし機関の役割について、「防衛局の業務は、自治への介入や地域社会の分断という側面があります。米軍基地は周辺住民の多くにとっては『負担』ですから、掘っておけば派対する人が増えます。それをいかにして防ぎ、協力あるいは黙認する人を増やして手名づけるか、という『懐柔のスキル』が不可欠なのです」、と「米国へのおもてなし」の正体が、「補償型政治」と「懐柔のスキル」であると指摘しています。


 最後に、渡辺は、「日本はなぜ米軍をもてなすようになったのか。それは明白です。戦争に負けたからです。ではなぜ、日本は米軍をもてなし続けているのでしょうか。『日本人が平和憲法を失いたくなかったから』だと想います。」、と示します。
 このことについて、逆に、次のように問いかけます。

「九条をもちながら自衛隊を認めることも牽強付会的な憲法解釈と言えますが、九条があるからこそ、かろうじて日本の軍事行動はこれまで『専守防衛』の看板を下ろさずに維持できたのだとも言えると思います。アメリカの占領終結後、ひゃいだんかいで憲法九条が『実態に合わせて』改正され、日本が『普通の国』になっていれば、在日米軍は徹底し、重武装した『国防軍』が日本防衛を担う国になっていた可能性もあります。政権を担ってきた自民党は結党以来、『憲法改正』を党是に掲げてきました。アメリカも、日本が忠実な同盟国として信頼に足ると判断できる限り、九条改定を制止することはなかったでしょう。しかし、歴代の為政者は憲法改正に手をつけませんでした。改正できる見込みが立たなかったのです。国民が平和憲法を失いたくない、と考えていたからです。」


 「国民が平和憲法を失いたくない」という思いが、確かに一面では、「日本は米軍をもてなし続けている」、ということに繋がっています。
 渡辺は、では、「今後はどうでしょう」、と続けます。


「ケント・カルダ-は、日本の駐留経費負担の消長が在日米軍の駐留と密接につながる予見しています。『万一アメリカが日本を去るとすれば、それは日本が【明かりを消す】からだろうというアナリストもいる。正面切って撤退を求めるのではなく、支援を打ち切るという意味である。この分析には真実実がある。日本の戦略が変わり、その結果もっと広範な(高くつく)国外の安全保障活動が増え、いまの日米間の戦略の一致が崩れれば、明かりを消す要因が増える。日米の戦略の一致は、防衛力拡大のための予算を確保することを求める圧力がないことで、強固になっている。予算確保がもっと強く求められれば、在日米軍と自衛隊は、その予算をめぐる競争相手になる。きわめて原始的で荒々しい競争関係になるだろう。(『米軍再編の政治学』)。アメリカ政府の思考はシンプルです。アメリカの国益にとってプラスかマイナスか、という冷徹な判断がすべてだと思います。在日米軍の駐留に関しても、『カネの切れ目が縁の切れ目』になる可能性は十分ある、とカレンダ-は見ているようです。」


 さらに、渡辺は、「日本は在日米軍の駐留経費負担だけでなく、集団的自衛権の行使容認に踏み込み、カネと人の両面で、アメリカに忠誠を示そうとしています。集団手自衛権の行使容認で日本負担は確実に増大しますが、アメリカが失うものは何もありません。アメリカが日本に示し期待と、日本がアメリカに寄せる信頼は、果たして等価と言えるでしょうか。日米の主従バランスが崩れるきっかけが、自衛隊の国外での活動の増大と防衛予算の拡大であるとすれば、その潮流はすでに現れています。」、と続けます。


「私が見る限り、日本のアメリカに対する『もてなし度』あるいは『従属度』は、安倍政権の集団的自衛権の行使容認によって極限に達しようとしています。沖縄では、民意の反対を押し切って海兵隊の新基地を造り、日米地位協定の特権で在日米軍人を保護し続け、在日米軍駐留にともなう巨額の経費負担を継続し、なおかつアメリカの兵器を買い上げる世界屈指のお得意様である自衛隊は、世界規模で米軍を支えるため血と汗を流そうとしています。それでもなお、日本政府は米軍をもてなすのでしょうか。答えは『イエス』です。」


 渡辺は、このような日本の安倍晋三政権の現状を受けて、「日本はどう対応すべきなのでしょうか。」という、根本的な問いに、こうその答えを、示します。


「日本は専制主義国家ではありません。民主主義国家です。である以上、国民が容認し続けなければ、こうした態勢は長続きしないはずです。日本人は今後も米軍をもてなし続けるのか、と問うべきでしょう。」


 そして、渡辺は「日本はなぜ米軍をもてなすのか」、ということに関して、答えを出します。


「答えは、『国民次第です。』」


by asyagi-df-2014 | 2016-01-25 06:16 | 本等からのもの | Comments(0)

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