沖縄から-朝日新聞とともに米兵暴行事件1995を振りかえる。

 朝日新聞は、「沖縄が本気で怒った日」として、1995年を振りかえる記事を掲載した。
 1995年10月21日に宜野湾市で開催された沖縄県民総決起大会は、8万5千人とも言われた大きな怒りのうねりとなって、私たちを圧倒した。
 特に、この大会で壇上に上がった普天間高校の3年生の仲村清子(すがこ)さん=現在は改姓=の決意表明は、沖縄の生き苦しさの現状を、日本という国のいびつさのすべてを、凛と張った清冽な声で、私たちの魂を揺さぶった。


基地が沖縄に来てから、ずっと加害はくり変えされてきました。
基地がある故の苦悩から、私たちを解放してほしい。
今の沖縄はだれのものでもなく、沖縄の人々のものだから。
私たちに静かな沖縄を返してください。
軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください 。


 この時の様子を、「当時18歳で、宜野湾市の普天間高校の3年生。所属していた演劇部の顧問から何人かの生徒に話があり、私があいさつを引き受けた。事件は衝撃だった。米兵の起こした事件に県民は怒り、日米地位協定をたてに(起訴前に容疑者の米兵の)身柄を引き渡さない米軍の対応で、また打ちのめされた。戦後50年を迎えて平和とか未来を考えようとしている時に、沖縄がまだ占領下にいるような理不尽さを、ゴンと突き付けられた感じだった。原稿には、沖縄の『普通の高校生』が日々感じている矛盾を書いた。友人とも話して思ったのは、『基地あるがゆえの苦悩』は、ほとんど地位協定から生まれているということ。だから、その弊害をあいさつでは強く訴えた。」、と伝えた。
 また、朝日新聞は、1児の母となり、今では米軍普天間飛行場から約1キロの場所に住みその上空をオスプレイが飛ぶという、その後の20年を経験した彼女の今の声を伝えた。

「沖縄の基地をめぐる状況は、少しずつ良くなっていると思う。でも、大きくは変わらなかった」、と。
 また、次のように伝える。
 「大会の次の年、地元の普天間飛行場の返還が決まった。『違う、本質はそこじゃないよ』と思った。返還は結構だけど、問題は基地の面積じゃなくて米軍のあり方。全廃されず、県内で移すだけなら、地位協定の理不尽さは繰り返される。その後、地位協定は運用の改善はあったが、根本的には見直されなかった。今も宜野湾市に住んでいるが、深夜にヘリが飛ぶのを止められない。事件を起こして基地に逃げ込む米兵もいて、残念でならない。18歳のときは、理不尽がなくなる世界が来ると信じていたけど、現実は厳しい。」、と。
 さらに、「翁長雄志知事が名護市辺野古の埋め立て承認を取り消した。20年前のように沖縄は国と対立するかもしれない。でも、それを分かって県民は今の知事を選んだ。二度と沖縄が戦場にならないように、新しく基地を造らせたくない人が多いんだと思う。大会でも言ったが、沖縄の人はあきらめてはいけないし、絶対にあきらめないですよ。」、と。

 この決起集会で、もう一つ記憶に残っているのは、次の太田知事の挨拶である。


「まず最初に、県民の皆さまにお詫び申し上げたいことは、行政の責任者として、一番大事な幼い子どもの人間としての尊厳を守ることができなかったことについて、心の底から、お詫び申し上げたいと思う。本当に申しわけありませんでした。」


 この「行政の責任者として、一番大事な幼い子どもの人間としての尊厳を守ることができなかったこと」への表明は、現在の翁長沖縄県知事の「普天間飛行場代替施設建設事業に係る公有水面埋立ての承認の取消し」に繋がる痛烈な思いである。
 この決起集会では、「米当局者と軟弱外交ぶりを露呈したわが国政府に、満腔(まんこう)の怒りを表明する」などとする決議文が採択された。
 沖縄の「満腔(まんこう)の怒り」は、新たに辺野古新基地建設や高江ヘリパット建設問題等を抱えたなかで、増幅されこそすれ全く解決されていない。

 以下、朝日新聞及び沖縄県民総決起大会での決意表明(挨拶)の引用。







朝日新聞-沖縄が本気で怒った日 米兵暴行契機、95年の県民大会-2015年10月18日

 1995年10月21日、沖縄県宜野湾市で8万5千人が参加する県民大会が開かれた。米兵による少女暴行事件への怒りが大きなうねりとなり、結果として米軍普天間飛行場を返還する日米合意につながった。ただ、返還は今も実現せず、政府と沖縄県が普天間の移設をめぐり激しい対立を続ける。これまでの20年の軌跡を振り返る。

 95年10月21日。宜野湾市で開かれた県民大会に駆けつけた沖縄県の大田昌秀知事は熱気に圧倒された。8万5千人(主催者発表)が同市の海浜公園を埋め尽くしていた。「子連れの母親が目立つのが印象的だった。県民の憤りが凝縮されていた」

 憤りが日米安保そのものに向かうのを恐れた両政府は同年11月、在沖米軍基地の整理・縮小を協議する日米特別行動委員会(SACO)を設置。翌96年、村山富市政権を継いだ橋本龍太郎首相は2月18日、親しい財界人を大田氏の元に派遣した。大田氏は要望を問われ、「普天間です」と答える。5日後の日米首脳会談で橋本氏は「沖縄の要求」を伝える形で、米軍普天間飛行場の返還をクリントン大統領に持ちかけた。

 2カ月後の4月12日、両政府は返還に合意した。ただし、普天間のヘリ基地機能を県内に移設することが条件。地元紙の論評は当初から難航を予想していた。96年12月のSACO最終報告は、移設先を「沖縄本島の東海岸沖」とした。

 受け入れ議論は曲折を繰り返した。98年の知事選で大田氏を破って初当選した稲嶺恵一知事は、99年11月に移設候補地を「辺野古沖」として受け入れを表明し、名護市の岸本建男市長も同意した。しかし、両氏は「15年の使用期限」などの条件をつけ、移設はなかなか進まなかった。

 計画自体も、米軍の世界戦略の見直しを経て06年、辺野古沿岸部にV字形滑走路を造る現行案に衣替えする。同年の知事選で初当選した仲井真弘多(ひろかず)知事は滑走路の位置を沖合に修正するよう求め、膠着(こうちゃく)が続いた。その後、09年に「最低でも県外移設」を掲げる民主党の鳩山由紀夫政権が誕生し、沖縄では辺野古移設反対の声が沸騰した。

 12年末に政権に返り咲いた自民党の安倍晋三首相は安保環境の変化を強調し、辺野古移設を進める。仲井真氏は10年の知事選で「県外移設」を公約に盛り込んで再選していたものの、13年末に辺野古沿岸の埋め立てを承認した。そして14年11月の知事選で、「辺野古移設阻止」を掲げる翁長雄志(おながたけし)氏に大敗する。

 「95年の事件と県民大会がなければ、日米が普天間返還に動くことはなかっただろう」。今年90歳の大田氏は言う。「返還合意はそもそも対症療法だった。沖縄の意向をくまない県内移設ありきの日米合意だった時点で、この20年の混乱を生むボタンの掛け違いがあった」(松川敦志、山岸一生)

■米政府「再びパンドラの箱を開けたくない」

 米政府はこの20年をどのように受け止め、普天間移設をめぐる問題にどう向き合おうとしているのか。

 普天間飛行場の返還問題が日米交渉で取り上げられたのは、96年2月に米西海岸のサンタモニカであった日米首脳会談だった。当時のクリントン政権は、前年の米兵による少女暴行事件をきっかけに沖縄で生じた米軍基地反対運動のうねりに危機感を抱き、普天間の返還を決断した。

 日米安保が揺らぎかねないとの懸念が双方にあり、返還合意を弾みとして、日米両政府は安保強化を推し進めた。クリントン大統領の来日に合わせ、周辺事態における日米協力の研究などを盛り込んだ「日米安保共同宣言」が96年4月に発表されたほか、97年9月には日米防衛協力の指針(ガイドライン)が改定された。返還合意と引き換えに、日本側が米軍との防衛協力の強化を約束した格好となった。

 日本政府が名護市辺野古地区への海上ヘリポート建設計画の基本案を地元に提示したのは、97年11月だった。移設先をめぐる議論は曲折を経ながら、辺野古への移設計画はその後も大筋で維持されている。

 ただ、米側には、沖縄県の翁長知事が辺野古埋め立ての承認取り消しに踏み切り、安倍政権との対立を深めていることに懸念もある。米議会調査局が最近まとめた報告書は「東京と沖縄の論争は新たな段階に入ったように思われる。激しい政治闘争につながる可能性がある」と指摘した。

 とはいえ、米政府が移設見直しへ動き出す気配はない。翁長氏が今年5月末から6月初旬にかけて訪米した際も、米政府関係者は一様に「(辺野古への)代替施設建設が運用的、政治的、経済的、戦略的にも、米海兵隊普天間飛行場の継続使用を避けるにも、唯一の解決策」との立場を強調した。かつて沖縄の立場に理解を示し、辺野古移設に慎重だった共和党の重鎮・マケイン上院議員らも、13年末に仲井真前知事が辺野古の埋め立て申請を承認したことで現行計画の支持に転じた。

 日米ガイドラインは今年4月、18年ぶりに改定され、安倍政権は9月、集団的自衛権の行使容認を含む安全保障関連法を成立させた。普天間移設問題が日米同盟を揺るがす要因になっているという認識は、米側にはない。むしろ、移設先をめぐり幾つもの案が取りざたされながらいずれも消滅した経緯があり、「現状には懸念を抱くが、再び『パンドラの箱』を開けたくない」(米政府関係者)というのが本音だ。(ワシントン=佐藤武嗣)

■普天間返還合意時の首相秘書官、江田憲司氏に聞く

 橋本龍太郎首相は、少年時代に自分をかわいがってくれたいとこを沖縄戦で亡くしている。それが、橋本氏の沖縄問題に対する原点だった。95年に沖縄で起きた米兵による少女暴行事件にはかなり胸を痛め、96年1月に首相に就いた直後から毎日、公邸で沖縄の資料を読んでいた。政務秘書官だった私が「沖縄以外のことも考えて下さい」と口をはさんだほどだ。

 96年2月下旬、クリントン米大統領との初会談に向けて訪米する直前、財界人を通じて大田昌秀沖縄県知事のメッセージが首相のもとに届いた。「首脳会談で普天間基地の返還に触れてほしい」との内容だった。でも、当時の外務省は「米国が普天間を返還するはずがない。安全保障の『あ』の字も知らないと思われる」と猛反対した。

 橋本氏は首脳会談の最後で、普天間に触れた。クリントン大統領から「沖縄問題で何か言い残したことはあるか」と水を向けられ、「大変難しいことだとは分かっているが、沖縄県民の要望として、普天間を返してもらえればありがたい」と伝えた。

 「江田君、普天間出したよ」

 「大統領の耳に入っただけで、大成功ですよ」

 会談直後、橋本氏とはそんな言葉を交わした。

 クリントン大統領はその3日後、国防長官に返還に向けた調整を指示した。4月8日、橋本氏はモンデール駐日米大使と会談した。私の日記に「(大使から)『今後5~7年のうちに返還したい。ただし、適当な代替施設の完成後だ』という話」とある。12日、官邸で橋本氏と大使が記者会見し、返還合意に達したと発表した。

 その後、橋本氏は粘り強く地元の理解を得ようと努力した。大田知事と計17回、数十時間にわたりひざ詰めで会談した。あの時、県内移設を容認する知事がいたら普天間は返還され、この問題は解決していただろう。

 私は今年4月、沖縄で現在の翁長雄志知事と会談した。翁長氏は「普天間の移設を強行すれば、反対する人との衝突で流血事故になる。日米同盟のためにも決してよくない」と話していた。6月に菅義偉官房長官と会食した際、その言葉を伝えた。「安倍晋三首相はなぜ翁長知事ともっと会わないのか。橋本首相は地をはいつくばってやった」と疑問も投げかけた。沖縄の人たちの感情や歴史を考慮しない対応を続ければ、対立はいつまでも解消されないのではないか。(聞き手・藤原慎一)
     ◇
 〈95年10月21日の沖縄県民総決起大会〉 同年9月に起きた米兵3人による少女暴行事件で、米軍は日米地位協定を根拠に3人の起訴前の身柄引き渡しを拒否。県議会全会派などの呼びかけで、地位協定見直しや基地の整理縮小などを求めて同県宜野湾市の海浜公園で開かれた。米軍基地問題をめぐる集会では沖縄の本土復帰後、最大規模。「米当局者と軟弱外交ぶりを露呈したわが国政府に、満腔(まんこう)の怒りを表明する」などとする決議文を採択した。

 〈米軍普天間飛行場〉 沖縄県宜野湾市にある米海兵隊基地。面積は約480ヘクタールで同市の面積の約4分の1を占める。市街地に隣接し、「世界一危険な基地」とも言われる。04年8月、近くの沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した。12年10月からは新型輸送機オスプレイが順次配備されている。95年9月に起きた米兵による少女暴行事件を機に反米軍基地の県民世論が高まり、日米両政府は96年4月、県内移設を条件として5~7年以内の返還に合意。その後、同県名護市辺野古への移設問題が迷走し、現在も米軍が運用している。


朝日新聞-反基地の象徴だった高校生「沖縄の苦悩、今も変わらず」-2015年10月18日

 米兵による少女暴行事件に抗議する沖縄県民総決起大会が同県宜野湾市で開かれてから、21日で丸20年を迎える。党派を超えて8万5千人(主催者発表)が集まった大会。一人の高校生のスピーチが「反基地」に立ち上がった沖縄の象徴として強い印象を残した。

 「基地があるゆえの苦悩から私たちを解放してほしい。沖縄を本当の意味で平和な島にしてほしいと願います」。仲村清子(すがこ)さん(38)=現在は改姓=は当時、壇上に制服姿で立った。真っすぐな訴えに会場は静まり返った。

 あれから20年。会場になった公園近くで会った仲村さんは1児の母になっていた。「沖縄の基地をめぐる状況は、少しずつ良くなっていると思う。でも、大きくは変わらなかった」。今も米軍普天間飛行場から約1キロの場所に住み、オスプレイが上空を飛ぶ。

 大会はうねりを起こし、日米両政府は翌年に普天間返還で合意した。だが、その後も迷走。同県名護市辺野古への移設計画をめぐって対立が続く。宜野湾の基地は、今も街の真ん中にある。「基地問題はずっと『辺野古に移すか否か』に明け暮れた感じがする。なぜこうなってしまったのか」。「平和な島」の実現を訴えた仲村さんは、疑問を抱き続けている。(奥村智司)

■仲村清子さん「問題は基地の面積じゃなくて米軍のあり方」

 「私たちに静かな沖縄を返して下さい。軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返して下さい」

 20年前の県民総決起大会で、私が高校生代表としてスピーチした言葉です。会場の広場の隅々まで、人があふれていた。当時18歳で、宜野湾市の普天間高校の3年生。所属していた演劇部の顧問から何人かの生徒に話があり、私があいさつを引き受けた。

 事件は衝撃だった。米兵の起こした事件に県民は怒り、日米地位協定をたてに(起訴前に容疑者の米兵の)身柄を引き渡さない米軍の対応で、また打ちのめされた。戦後50年を迎えて平和とか未来を考えようとしている時に、沖縄がまだ占領下にいるような理不尽さを、ゴンと突き付けられた感じだった。

 原稿には、沖縄の「普通の高校生」が日々感じている矛盾を書いた。友人とも話して思ったのは、「基地あるがゆえの苦悩」は、ほとんど地位協定から生まれているということ。だから、その弊害をあいさつでは強く訴えた。

 大会の次の年、地元の普天間飛行場の返還が決まった。「違う、本質はそこじゃないよ」と思った。返還は結構だけど、問題は基地の面積じゃなくて米軍のあり方。全廃されず、県内で移すだけなら、地位協定の理不尽さは繰り返される。

 その後、地位協定は運用の改善はあったが、根本的には見直されなかった。今も宜野湾市に住んでいるが、深夜にヘリが飛ぶのを止められない。事件を起こして基地に逃げ込む米兵もいて、残念でならない。18歳のときは、理不尽がなくなる世界が来ると信じていたけど、現実は厳しい。

 幼い頃からお芝居をしたくて、上京して劇団に入った。でも、才能がなかったかな。沖縄に戻って結婚して、働きながら子育て中です。大会で「自分の子どもたちに、こんな生活をさせたくない。私も一歩一歩行動する」と訴えた。基地の問題を周りの人と話し、考える。それが「普通の人」の自分ができる一歩。

 翁長雄志知事が名護市辺野古の埋め立て承認を取り消した。20年前のように沖縄は国と対立するかもしれない。でも、それを分かって県民は今の知事を選んだ。二度と沖縄が戦場にならないように、新しく基地を造らせたくない人が多いんだと思う。大会でも言ったが、沖縄の人はあきらめてはいけないし、絶対にあきらめないですよ。(聞き手・奥村智司)


沖縄県民総決起大会での決意表明(挨拶)。


「ヘリコプターはもう、うんざりです」
私はごく普通の高校3年生です。
たいした言(こと)は言えないと思いますが、ただ思ったことを話します。
この事件を初めて知った時、これはどういうこと、理解できない。こんなことが起こっていいものかと、やりきれない思いで胸がいっぱいになりました。
この事件がこのように大きく取り上げられ、(95年)9月26日、普天間小学校で、10月5日には普天間高校で抗議集会が開かれました。
高校生の関心も高く、大会に参加したり、様子を見守っていた生徒も少なくありません。
そんな中、私はこの事件について友人たちと話をするうちに、疑問に思ったことがあります。 
 米兵に対する怒りはもちろんですが、被害者の少女の心を犠牲にしてまで抗議するべきだったのだろうか。彼女のプライバシーは、どうなるのか。
 その気持ちは、今でも変わりません。 
 しかし今、少女とその家族の勇気ある決心によってこの事件が公にされ、歴史の大きな渦となっているのは事実なのです。
 彼女の苦しみ、彼女の心を無駄にするわけにはいきません。私がここに立って意見を言うことによって少しでも何かが変われば、彼女の心がかるくなるかもしれない。そう思いここに立って います。
沖縄で米兵による犯罪を過去までさかのぼると、凶悪犯罪の多さに驚きます。
戦後50年、いまだに米兵により犯罪は起こっているのです。
このままの状態でいいのでしょうか。
どうしてこれまでの事件が本土に無視されてきたのかが、私には分かりません。
まして、加害者の米兵が罪に相当する罰を受けていないことには、本当に腹が立ちます
米軍内に拘束されているはずの容疑者が、米国に逃亡してしまうこともありました。
 そんなことがあるから今、沖縄の人々が日米地位協定に反発するのは当然だと思います。
 それにこの事件の容疑者のような動物にも劣る行為をする人間をつくりだしてしまったのは、沖縄に存在する「フェンスの中の人々」、軍事基地内の人々 すべての責任だと思います。基地が沖縄に来てから、ずっと加害はくり変えされてきました。基地がある故の苦悩から、私たちを解放してほしい。
 今の沖縄はだれのものでもなく、沖縄の人々のものだから。  
私が通った普天間中学校は、運動場のすぐそばに米軍の基地があります。普天間小学校は、フェンス越しに米軍基地があります。
基地の周りには7つの小学校と、4つの中学校、3つの高校、1つの養護学校、2つの大学があります。ニュースで爆撃機 やヘリコプターなどの墜落事故を知ると、いつも胸が騒ぎます。私の家からは、米軍のヘリコプターが滑走路に降りていくのが見えます。
それはまるで、街の中に突っ込んでいくように見えるのです。
機体に刻まれた文字が見えるほどの低空飛行、それによる騒音、私たちはいつ飛行機が落ちてくるか分からない、そんな所で学んでいるのです。 
私は今まで、基地があることはしょうがないことだと、受け止めてきました 。
 しかし今、私たち若い世代も、あらためて基地の存在の位置を見返してます。学校でも意外な人が、この事件について思いを語り、皆をびっくりさせたりもしました。それぞれ口にはしなかったけれど、基地への不満が胸の奥にあったことの表れだと思 います。
 きょう、普天間高校の生徒会は、バスの無料券を印刷して全生徒に配り、「みんなで行こう。考えよう」と、大会への参加を呼び掛けました。浦添高校の生徒会でも同じことが行われたそうです。
 そして、今ここにたくさんの高校生や大学生の人が集まっています。若い世代もこの問題について真剣に考えはじめているのです 。
今、このような痛ましい事件が起こったことで、沖縄は全国にこの問題を訴えかけています。私は今、決してあきらめてはいけないと思います。私たちがここであきらめてしまうことは、次の悲しい出来事を生みだすことになるのですから。   
いつまでも米兵に脅え、事故に脅え、危険にさらされながら生活を続けていくことは、私は嫌です。
未来の自分の子供たちにも、そんな生活はさせたくありません。私たち生徒、子供、女性に犠牲を強いるのはもうやめてください。 
私は戦争が嫌いです。
 だから、人を殺すための道具が自分の周りにあるのも嫌です。
 次の世代を担う、私たち高校生や大学生、若者の一人ひとりが本当に嫌だと思うことを口に出して、行動していくことが大事だと思います。
 私たち若い世代に新しい沖縄のスタートをさせてほしい。
 沖縄を本当の意味で平和な島にしてほしいと願います。
 そのために私も、一歩一歩行動していきたい。
私たちに静かな沖縄を返してください。
軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください 。


by asyagi-df-2014 | 2015-10-19 16:31 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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