本からのもの-「沖縄の米軍基地」

著書名;沖縄の米軍基地
著作者;高橋 哲哉
出版社;集英社新書



 私たちは、この間の辺野古新基地建設の動きの中で、1995年に「本土」に突きつけられた「沖縄からの異論」が、実際は「沖縄の構造的差別」を表すものであったことに気づかされてきた。
だから、沖縄の米軍基地問題が、「安全保障を求めるなら、また平和や『安保廃棄』を求めるなら、基地を引き取りつつ自分たちの責任でそれを求めるべきである」ということにたどり着かざるを得ないことについて、どこかの場面では薄々は気づいていたのではないか。
 実は、高橋哲哉(以下、高橋とする)は、この本で、このことを整理してみせたのである。

 高橋のこの本での結論は、次のものである。
 「県外移設は、平和を求める行為と矛盾しないのはもとより、『安保保障』の主張と矛盾するものではない。『本土』の人間が安全保障を求めるなら、また平和や『安保廃棄』を求めるなら、基地を引き取りつつ自分たちの責任でそれを求めるべきであり、いつまでも沖縄を犠牲にしたままでいることは許されない。県外移設が『本土』と沖縄、『日本人』と『沖縄人』の対立を煽るとか、『連帯』を不可能にするなどという批判は当たらない。県外移設で差別的政策を終わらせてこそ、『日本人』と『沖縄人』が平等な存在としてともに生きる地平が拓けるのである。」、と。
 つまり、沖縄からの県外移設の要求に答えるのが「本土」の人としての責任ではないか、と。
 「『本土』の人間が安全保障を求めるなら、また平和や『安保廃棄』を求めるなら、基地を引き取りつつ自分たちの責任でそれを求めるべきである」、と説くのである。
 高橋は、もういいかげんにして、構造的差別を沖縄に押しつけたままにするのを見直せと、言っているのである。


また、高橋はこの本で、本土の人間は「基地を引き取りつつ自分たちの責任でそれを求めるべきである」であること述べるとともに、このことについての「本土」の側と沖縄からの批判を取りあげ、明快にきちっと反論してみせる。
まずは、「私は、沖縄に向き合うために、すなわち『憲法九条を守る』というだけではどうしても足りない現実があることを認めざるを得ない。」、と視点を定める。その上で、沖縄の構造的差別について、それをもたらしてきた「本土」の側の考え方を、例として、沖縄戦における参謀本部作戦課長・服部卓四郎大佐の言葉を引く。
 「沖縄は本土のためにある!それを忘れるな。本土防衛が遅れている今、沖縄のために本土の兵力を割くわけにはいかん。」。
 これは、日本が沖縄に対してとり続けてきた対応を、単に戦後という枠組みだけでなく、象徴的に現した言葉である、と紹介する。
 そして、この言葉を高橋は、「日米安保体制、自衛隊、憲法九条の三者セットで成り立ってきた戦後日本の『平和』は、沖縄を犠牲とすることで初めて可能だったのではないか。戦後の『平和』の『現状維持』論は、沖縄の米軍基地問題を放置することにならないか。」、という指摘に結びつける。
 一方、戦後の沖縄の側の思いは、「保守は基地容認、革新は安保廃棄・基地即時撤去という従来の政治地図のなかでは、基地負担の異常な不平等の解消を理由に『本土』への移設を求める意見は、なかなか形になりにくかっただけではない。基地被害の実態を知ればこそ、嫌がる『本土』の人々に基地引き取りを要求するには勇気がいる。」ということにあった、と指摘する。
 そして、現在の沖縄の人々の思いを、「そのあとの日本政府や日本人の対応を見て、自分達がそう考えても、『本土』の人間は沖縄の基地問題にまったく関心がない、というのがよく分かった。だから今では、『本土』に持っていけばいいんじゃないか、という意見が当たり前のように出るようになっている。『本土』のことを思いやっても、向こうはそれを利用して踏みつけにするだけだ、というのがよく分かったわけです。・・・『本土』の人間の無関心に応じて沖縄人も変わってきていると思います。」という目取真俊の言葉として指摘する。


 高橋は、今までの沖縄と「本土」の関係を理解するために、社会学者野村浩也氏の「ポジショナリティ」分析から、その考え方を発展させる。
 一つには、「日本人は、植民者であり、沖縄人は被植民者である。沖縄に米軍基地を押しつけてきたのは、日本人だから、日本人は、植民地支配者であり、差別者であるという自分の政治的権力的な位置-『ポジショナリティ』と呼ばれる-を離れるためには、沖縄に押しつけてきた米軍基地を引き取らなければならない。」、と。
 もう一つは、「日本人は、自らの植民地主義を暴露されるような問いを向けられたとき、沈黙するだけで現状を維持し、自分達の利益を守ることができる、と野村氏は言う。それが、植民者の被植民者に対する『権力的沈黙』である。この場合の『沈黙』は、無視であったり、はぐらかしであったり、居直りであったり、種々の形態をとることができる『応答の拒絶』である。」、と。

 高橋は、こうして、「安保が必要だと言うなら、『本土』も応分の負担をすべきではないのか。基地は全国で平等に負担すべきではないのか。安保を必要としている『本土』に引き取るべきではないのか。日本人は、安全保障の代価を沖縄人に押しつけず、自らの責任において引き受けるべきではないのか」、と米軍基地の県外移設の意味を説明する。
いやむしろ、「なぜ沖縄だけは、『政治的に許容できるところ』になってしまうのか。それは、沖縄に対して圧倒的な権力を有する日本政府と『本土』の日本人が、沖縄の人々の声をまさに、『権力的沈黙』によって無視しているのではないか。」と、問い返す。


また、高橋は、在日米軍基地をめぐる根本的な矛盾について、次のように言い当てる。
「在日米軍基地を必要とし、それを置くことの利益を享受しながら(日米安保条約は『日本の平和と安全に役立っている』と感じながら)、米軍基地を置くリスクを負うことは拒絶する。これは端的に言って、無責任、ということではないだろうか。もしも『本土』の日本国民が米軍基地を必要とし、それを置いているならば、それを置くことに伴うリスクは、自らこれを引き受ける責任があるはずだ。その責任を負わずに、リスクは他者に、その大きな部分を沖縄という小さな他者に負わせて、利益を享受している。基地のない『本土』の地域住民が享受している利益は、『日本の平和と安全』という利益だけではない。沖縄の人々が集中的に負わされている基地負担を免れる、という利益をも享受しているのである。」、と。

 こうした論理展開の中で、高橋は、米軍基地の県外移設の意味について、次のように更に明確に位置づける。
 「沖縄にある米軍基地は、本来、『本土』の責任において引き受けるべきものなのに、『本土』はその責任を果たしていない。県外移設要求は、その責任を果たすことを求めているのである。日米安保条約下では、沖縄にある米軍基地は、本来『本土』にあるべきものなのだ。日米安保体制を成り立たせている『本土』にではなく、小さな沖縄にその意に反して多くの基地が置かれているところに、在日米軍基地をめぐる根本的な矛盾がある。県外移設とは、この矛盾を解消し、在沖米軍基地を、安保体制下において本来あるべき場所に戻すという意味を持っているのである。」、と。

 続いて、高橋は、米軍基地の県外移設を阻むものに、「反戦平和運動」の限界からくるものがある、と次のように提起をする。
 「反戦平和運動は、日米安保条約を廃棄すれば在日米軍基地を撤去でき、したがって沖縄の米軍基地もなくすことができる、と主張してきた。だが実際には、『安保廃棄、全基地撤去』を金科玉条のように唱え続けることで、むしろ県外移設に反対する側に立ち、『県外移設』という考え方をタブ-化する傾向さえあった、というのが現実である。現在の『護憲派』(「リベラル左派)」などという表現もある)に位置する人びとは、今やこの点で根本的な自己点検を求められている、と言わざるをえない。」、と。
 何故なら、「反戦平和運動」として唱えられてきたこうした考え方は、「問題は、その何十年の間、米海兵隊の今普天間基地にある軍団は、どこに置けばいいのだろうか、ということだ。」という問いに答えきれないでいるから。
 つまり、沖縄にとっての「いつまで待たせるのか」という根本的かつ切実な問いに、答えきれていないのが、日本『本土』の歴史であったのではないか、と高橋は説くのである。。

 あわせて、県外移設要求に関して、「連帯ができなくなるからよくない」や「運動の分裂を招くからよくない」といった批判について、「県外移設要求が連帯を困難にするとしたら、それは『本土』が県外移設を拒むからにほかならない。その責任は『本土』の側にあるはずなのに、『連帯できなくなるからよくない』と言うならば、県外移設を要求すること自体に問題があるかのようにして、県外移設要求を封殺する結果を招いてしまうことになる。」、ときちっと反論する。
 その上で、戦後の護憲運動や平和運動が、ある種の差別性を内在していたという指摘を次のように展開する。
 「『本土』では停滞を余儀なくされている反戦平和運動が、自らにとっての『カンフル剤』として、場合によっては『アリバイ』として、沖縄の運動との『連帯』を利用し、沖縄を『反戦平和の聖地』に祭り上げていく傾向があったのではないか。そこに真摯な意図がある場合でも、沖縄の運動を日本の運動の『前衛』と称し、日本の運動を存続させる目的でそれを利用してきた傾向はなかったか。」、と。
 そして、こうした構図への違和感を、「私が違和感を持つのは、多くの日本人が、沖縄が『基地の島』であることを当然視しているだけでなく、日本の反戦平和運動家の多くが、お謹話に反基地運動があることを当然視していることである。まるで沖縄は『反基地運動の島』であるかのように。まるで沖縄は反戦平和運動のためにあるかのように。」、と吐露する。


 こうして、高橋は、論理展開の帰結として、次のことを、結論づける。
 「運動家であれ、ジャーナリストであれ、市民であれ、『本土』の側がおとぎ話の反基地運動を賞賛したり、その存在を自明視したりするのはおかしい。『本土』の側がなすべきことは、とりわけ反戦運動家であればなおさらなすべきことは、沖縄を反基地運動の必要がない島に戻すこと、沖縄の人びとが普通の生活者として安心して暮らしていけるようにすること、すなわち、沖縄の米軍基地問題を『本土』の責任で解消することである。」、と。
 高橋は、「安保条約をどうするかは、」『本土』の有権者の意志にかかっているのであって、『本土』の国民の責任なのだ。日本の反戦平和運動は、県外移設を受け入れたうえで、『安保廃棄』は『本土』で自分たちの責任で追及するのが筋なのである。」、と。

 高橋は、これまでも、「日米安保体制は沖縄の犠牲のうえにのみ成り立ってきた『犠牲のシステム』であると論じてきた。
 県外移設はこの犠牲を沖縄から『本土』に写すだけで、『犠牲のシステム』の解消にならないのではないか」という予想される意見にも、このように答える。
 まず第一に、「沖縄の米軍基地と『本土』の米軍基地を同じ『犠牲』という言葉で語ってよいのかどうか。『天皇メッセージ』の言葉を想起すれば、『米国の利益』と『日本の防衛』のために『軍事占領』状態が継続されてきたのであり、『本土』の国民はそこから利益を得る一方、沖縄は犠牲を払わされてきたのである。しかし『本土』にとっては、安保も米軍基地も押しつけられたものではない。日米安保条約を維持して在日米軍に安全保障を託すべく、多数の国民が政治的選択をして今日に至っているのである。『本土』の国民にとって米軍基地負担は、自らの政治的選択の結果として、本来引き受けるべき責任と言うべきのではなかろうか。もしも県外移設によって米軍が沖縄から『本土』に移転し、それによって耐えがたい犠牲を生じるというのであれば、それは『本土』が自らの責任で除去すべきののではないか。」、と。
 第二に、「沖縄の犠牲を『本土』に移転してよいのか、と言うとき、具体的に、県外移設によって、『本土』にどれだけの負担が生じると考えられているのか。これほど大きな格差のある負担を、同じ『犠牲』の移転だと言って拒んでよいのだろうか。」、と。

 「本土の沖縄化」という言葉にも、「『本土』で米軍の基地機能や訓練が強化されると、計画等が報じられると、『本土』の運動家や知識人から、「『本土の沖縄化』に反対する」という声がしばしば聞かれる。・・・『本土の沖縄化に反対』という言葉は、沖縄の負担は仕方がないが『本土』の負担は困るという『本土』の意識を批判せず、それを助長してしまうのではないか。米軍の沖縄集中(『隔離』)を自明とし、その被害が内包されているのではないか。」、とその違和感を指摘する。
 その上で、「県外移設は『本土の沖縄化』ではないし、ありえない、と付け加えたい。何故ならすでに見たように、在日米軍基地の七割以上が集中する沖縄の全基地を『本土』に移設したとしても、現在の沖縄のようになることはありえないからである。」、と言い切る。

 高橋は、こうした理論の延長上で、石田武氏と新城郁夫氏への反論を展開しているが、このことについては、これまで触れてきたことと重なることになるので割愛する。

 さて、高橋は最終的に、次のように二つの押さえをする。
 一つ目は、「何よりも重要なことは、野村氏が言うように、ポジショナリティとしての『日本人』は『やめることができる』ということである。ポジショナリティとしての『日本人』をやめるとは、『沖縄人』に対する差別者、意識的・無意識的な植民地主義者であることをやめる、ということにほかならない。差別者と被差別者として対立することは、不幸なことである。県外移設要求は、そうした差別・被差別の関係を平等な関係に変え、不幸な関係を終わらせようという『沖縄人』からの、『呼びかけ』なのである。」、と。
 二つ目は、「『日本人』と『沖縄人』のポジショナリティ(政治的権力的位置)を問題にすると、『二項対立』だと言って、ただちに問題の無効を宣言する人びとがいる。それも、しばしばデリダの名前をちらつかせながら。・・・日本人と沖縄人という政治的権力的位置の違いから、前者が後者を差別したり支配したるする構造があるとき、両者の『対立のかなたにただちに飛躍』して『連帯』しようとしたり、日本人でも沖縄人でもない『ある種の中立化にあまりにてっとり早く移行すること』は『以前の領域を元のまま放置する』結果になってしまう。デリダの言う『転倒の局面』は、差別されてきた沖縄人として平等の権利を要求して立ち上がること、声を上げること、差別してきた者を『日本人よ!』と名指し、『今こそ基地を引き取れ』と要求すること、と理解することもできるだろう。このようにして権力関係の領野に『介入』し、これを『変形』し支配・従属の関係とは別の関係に向けて両者を解放していく、そうした行為こそ、『日本人/沖縄人』の二項対立を脱構築することであり、『日本人/沖縄人』の概念を最初から無効として切り捨てるのは、現に存在する権力関係を否認することにほかならない。」、と。
 あわせて、「中国脅威論」と沖縄問題について、「『日本を取り巻く安全保障環境の変化』として、南西方面への中国軍の進出の活発化を強調し、沖縄に基地を置かざるを得ないと主張する議論が目につく。」と分析し、このことについては、「この論理は、まさに沖縄を『日本防衛』のための軍事要塞としてもっぱら『本土』のために利用してきた、従来の論理の反復ではないか。沖縄を『皇土防衛』のための『捨て石』にした沖縄戦の発想とどこが本質的に違うのか。」、と喝破し、次のようにまとめる。
 「沖縄が、米軍基地の存在ゆえにミサイル攻撃や空爆の標的になることは十分考えられる。沖縄の人びとがそれを認めないのは当然で、『中国の脅威』に対抗して米軍の日本駐留が必要だと言うなら、そのリスクと負担は『本土』で引き受けるべきだろう。『中国の脅威』を理由に沖縄に軍事基地を押しつけるのは、かっての韓国併合の論理と瓜二つである。ロシアの南下に対抗するためには朝鮮半島が必要であり、そのためには併合しかなかった、日本に併合されたほうが朝鮮半島の人びとにとってもよかったのだ、云々。中国の進出に対抗するためには沖縄の軍事拠点化が必要であり、そのためには米軍駐留もやむをえない。そのほうが沖縄の人びとにとっても安全なのだ、云々。これらの論理がそっくりなのは、両者とも本質的に植民地主義の論理だからである。韓国併合の場合も沖縄の軍事拠点化の場合も、日本にとって重要なのは『本土』の利益・国益であって、朝鮮半島も沖縄も、大江氏の言う『日本の【中華思想】的感覚』『本土の日本人のエゴイズム』に奉仕させられているのである。」、と。

 高橋の「沖縄の米軍基地」を受けとめるとすれば、「今、求められているものは、この高橋の問題提起を、緊急な課題として、「本土」の一人ひとりが真摯に受けとめることである。」、ということになる。


 最後に、高橋は、本書の中で、「県外移設」に関わって、「熟慮したいのは、日本の安全保障のために米軍に便り、その米軍の駐留先として沖縄を利用するという構図が、この『天皇メッセージ』から今日の日米安保体制に至るまで貫かれているのではないか、ということだ。一方は天皇の意志、他方は日本政府とそれを成り立たせる主権者・国民の意思という違いを超えて、共通の構図がここには存在している。この構図を崩さない限り、私もその一人である現在の日本国民は、戦後直後の昭和天皇の発想から何ほども抜け出られていないということになるだろう。」、ともう一つの大事な提起をしている。
このことについて、この書のなかでは詳細には言及されていないが、是非とも今後、理論展開してほしいものである。




by asyagi-df-2014 | 2015-10-11 05:50 | 本等からのもの | Comments(0)

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