宮城晴美さんの「百田氏発言」の意味するもの。

沖縄タイムスは「『百田氏発言』インタビュー」を掲載している。このインタビューの宮城晴美さんの2015年7月3日のインタビュー記事(「戦前の情報一元化想起」という題目)に気になる部分がありました。
 それは、次のような記述でした。

 「彼のような発言を学生でも日常的に口にするようなっていると感じる。今年の初めごろ、沖縄を訪れた県外大学の学生と話した時に『沖縄の新聞が偏向していることに対してどう思いますか』と質問された。その際に『どの新聞の、どういう点が変更していると想ったのか』と聞くと『読んでいない』と答えていた」

 このことに関して、宮城さんは、「このように、自分自身が事実確認をしなくても批判することが許されると若者たちに想わせる危険性を、百田氏の言動に感じてならない」と、指摘しています。

 このような状況が生まれていることについて、どういうことなのかと考えてしまう。
 確かに、私自身がこのブログを作成するには、例えば、自分なりの考え方を出すために、特定のページを探し、そこで一定の記事を選択している。そこには、まず、その特定のページをすでに「事実」として認めている。
 また、特定の団体の「声明」等を、まとめ直すとしても、その「声明」等の主張が正しいことを前提にして、その考え方を紹介していることになる。

 私自身にとっては、ブログの容易さは、インターネットでの資料収集が容易にできることにある。また、本来、オープンなものであるにもかかわらず、どこかで限定されたものであるという思い込みも、ブログの気安さとして一方ではある。
 さらに、これまでも、対外的な検証が必要とされるものではないことに、一抹の不安を覚えながら、その容易さに、一人でもできることの「軽さ」に慣れてきている面もある。

 「百田氏発言」への徹底的な抗議とは別次元で、この宮城さんの指摘、「自分自身が事実確認をしなくても批判することが許されると若者たちに想わせる危険性を、百田氏の言動に感じてならない」という指摘の問題の本質を、自分自身の問題として捉えていく必要を感じている。


by asyagi-df-2014 | 2015-07-07 05:08 | 書くことから-いろいろ | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
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