沖縄から-三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記第26回

 沖縄の地で、体を張って新しい歴史を作ろうとしている人たちがいる。
 そこには、その煌めきの記録を残そうとしているジャーナリストがいる。
だとしたら、その生きざまの瞬間を私たちは受け取る必要がある。

三上知恵の沖縄撮影日記。
 
  今回の報告は、「戦没者の祭壇に向かい、あれ程おざなりに頭を下げた人物が歴代総理の中にいただろうか。1秒も留まらずにフイっと振り返り、席に戻った安倍総理。」で、始まる。
 また、「沖縄の慰霊の集いは何もここだけではない。県が把握しているだけでなんと全島で440もの慰霊碑があり、その数だけ手を合わせる場所がある。島々全体でどれだけ多くの地獄があったのかを物語る数である。」とも。
 さらに、沖縄本島北部に住む14歳から18歳の少年たちを山岳地帯に潜ませてゲリラ戦を闘わせた秘密部隊「護郷隊」のことを語る。

「故郷の山々に潜んで米軍と戦っていた兄。山を下りれば母や弟がいるという状況で闘った少年兵がこの国にいたことを、どれだけの国民が知っているだろうか。14、15歳でも、家族や故郷を守りたい必死の気持ちで、背丈より長い銃を背負って野山を這いずり回り、死んでいったのだ。護郷の名のもとに、故郷を守りたいという少年の気持ちを利用したこの秘密作戦は明らかに人権に反する行為であり、日本の戦史に類例はないと思う。闇に葬り去ることは絶対に許さないし、その戦争責任は追及するとしても、私はこの歌にあるように、地上戦だったからこそ味わうことになる『70年の悲劇』をここで全国の人に問いたい。」と。

 「国の安全のために、真っ先に捨て石になってしまったこの島で、再び『国防上の重要拠点だ』として軍港と弾薬庫と滑走路が一体になった出撃基地が造られようとしている。集団的自衛権を行使する国になるのなら、間違いなくここは標的だ。それが国の言うように『普天間基地の代替施設』などではなかったことは、もう沖縄県民にはとっくにバレてしまっているのだ。例年、この日は慰霊碑に手を合わせて『戦争のない平和』を漠然と祈る人が多かったが、今年は各地で『基地を押し返して平和な島にしますから、力を下さい』『沖縄の闘いを見ていて下さい』という生き残ったものとその子孫の覚悟が語られていた。戦後70年目の慰霊の日は、かつてない決意に満ちた日になったようだ。」

 この三上の言葉を、どう受け取ることができるか。

 以下、三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記の引用。






第26回 戦世(いくさゆ)は終わらず ~戦後70年 怒りと決意の慰霊の日~


 戦没者の祭壇に向かい、あれ程おざなりに頭を下げた人物が歴代総理の中にいただろうか。1秒も留まらずにフイっと振り返り、席に戻った安倍総理。
 「嘘をつけ!」「基地もって帰れ!」「口だけで言うな!」言葉を読み上げる間、あちこちから飛んでくる怒りの声に、完全に気を悪くしていたのであろう。
 こんなことはかつてなかった。代々、総理を迎えてきたこの日、沖縄県民は腹に据えかねることはあっても「慰霊」の日であることに遠慮して、簡単にヤジは飛ばしてこなかった。1人、2人でも声を上げる人がいたらぎょっとするほど、式典は式典として静かに進められてきた。しかし、今回は違った。去年7月から辺野古の基地建設を強行して1年、知事選挙を始め反対の民意をいくら示しても一顧だにしない安倍政権に対し、「守礼の邦」の礼もとっくに枯れ果てたのだろう。総理の挨拶が終わっても、拍手は前列の政府や米軍関係者の場所からしか聞えなかったという。ケネディ駐日大使も、沖縄の心がどれだけ政府から離れてしまっているのか、今回はひしひしと感じた事だろう。
 
 糸満市摩文仁の平和祈念公園で行われる式典は、必ず毎年中継で全国に届けられる。参列する県知事と総理大臣の言葉、「平和の礎」の前で涙にくれる遺族の姿が決まって映し出されるが、沖縄の慰霊の集いは何もここだけではない。県が把握しているだけでなんと全島で440もの慰霊碑があり、その数だけ手を合わせる場所がある。島々全体でどれだけ多くの地獄があったのかを物語る数である。

 私はこの日の午後、名護市の小学校の丘の上にひっそり立っている「少年護郷隊」の碑に手を合わせに行った。沖縄本島北部に住む14歳から18歳の少年たちを山岳地帯に潜ませてゲリラ戦を闘わせた秘密部隊「護郷隊」のことは、未だに県内でもよく知られていない。 
 旧制中学の生徒を中心に1780人が防衛召集された「鉄血勤皇隊」の存在はご存じの方も多いと思うが、同じ年頃で学校に通っていなかった北部の少年たち、およそ1000人が「護郷隊」として特殊な教育を受け、162人が命を落としたことは長く語られてこなかった。それは、この部隊が「沖縄玉砕」のあとに、アメリカの手に堕ちたこの島に潜伏し、遊撃戦を展開する秘密部隊として組織されたためであり、隊長はいずれも陸軍中野学校の生え抜きだった。
 北部の少年たちは、毒の調合や爆雷の作り方を習い、民間人に扮して収容所に入って諜報活動をし、銃を持って白兵戦を闘った。通信兵だった鉄血勤皇隊よりも苛酷なゲリラ戦を強いられた少年スパイ部隊だったのだ。

 「護郷隊」については何度か特集をつくって放送してきたが、できるだけ早い時期に、もっと広範囲に映像で証言を記録したいと思っている。ここではとても全貌を語れないのでさわりを紹介するだけにとどめ、今日の慰霊祭の様子の動画をご覧いただこうと思う。

 年々、元護郷隊員の慰霊祭への参加が少なくなっている。大声で歌っていた「護郷隊の歌」も、今年は1番で終わってしまった。この曲も、彼らは護郷隊の歌だと教わって毎日歌っていたそうだが、陸軍中野学校の歌「三々壮途(わかれ)の歌」の歌詞の一部を変えただけ。もちろん隊員たちは、戦争中その存在自体が最高機密だった陸軍中野学校の名前も知らなかったし、戦後ずいぶん経ってからスパイ養成機関のエリートが隊長だったことを聞かされたという。正式な軍隊ではないので補償もきちんとされないまま、闇に葬られつつある護郷隊だが、遺族らの中には「あの立派に飾られた平和祈念式典の花の一本でも、国は護郷隊の碑に手向けたことはあるのか」と吐き捨てた母親もいたという。

 動画後半の歌は、兄を護郷隊に奪われた悔しさを弟が歌った歌である。
 兄を思って書いた、久高榮一さんの詞の一部をご紹介する。

「ヤッチー ヤーカイ」(兄貴、家に帰ろう)
  ※節は屋嘉節、作詞 久高榮一

2.十四、五の童わらびが 戦に駆出んじゃさりてぃ
 〈14,15の少年が 戦争に駆り出されて〉
  今なまの今なままでぃ 音沙汰無ねえらん 音沙汰無ねえらん
 〈どんなに待っても 音沙汰がない〉

3.鉄の暴風 艦砲ぬ雨嵐
 〈鉄の暴風が吹き荒れ 艦砲射撃の雨が降り〉
  守禮の沖縄が 何の罪犯ちゃがなー
 〈守礼の邦 沖縄が〉
         何の罪犯ちゃがなー
 〈一体何の罪を犯したというのだろうか〉

4.兄貴やっちー 捜とぅめてぃ 山々叫たしが
 〈兄貴を捜して 山々を叫び回ったが〉
  合図すうしや
 〈合図を返してくれるのは〉
  山ぬ響ちびけん 山ぬ響ちびけん
 〈山のこだまだけ〉

5.護郷ぬ戦 勤みん済まちゃしが
 〈護郷隊の務めは 済んだはずなのに〉
  兄貴ぬ軍服 何時いちまでぃ着しらりが
 〈兄貴は軍服を〉
        何時いちまでぃ着しらりが
 〈いつまで着せられているのだろうか〉

6.雨風あみかじに 打ってぃ 白骨しらくちになてぃん
 〈雨風にさらされ 白骨になっても〉
  捜とぅめてぃ  帰すしどぅ
 〈野山を探して家に帰すまでが〉
  国ぬ責務ちとぅみやしが 国ぬ責務ちとぅみやしが
 〈国のつとめではないのか〉

 故郷の山々に潜んで米軍と戦っていた兄。山を下りれば母や弟がいるという状況で闘った少年兵がこの国にいたことを、どれだけの国民が知っているだろうか。14、15歳でも、家族や故郷を守りたい必死の気持ちで、背丈より長い銃を背負って野山を這いずり回り、死んでいったのだ。護郷の名のもとに、故郷を守りたいという少年の気持ちを利用したこの秘密作戦は明らかに人権に反する行為であり、日本の戦史に類例はないと思う。闇に葬り去ることは絶対に許さないし、その戦争責任は追及するとしても、私はこの歌にあるように、地上戦だったからこそ味わうことになる「70年の悲劇」をここで全国の人に問いたい。

 久高さんはいう。「兄貴は軍服を脱いでいない」。
 沖縄で亡くなった人の言葉を聞く能力があるとされている「ユタ」の言によると、お兄さんは「着る服がない」と山で嘆いているという。それを聞いた母は、どこで死んだかわからないまま、服をもって山に捧げに行ったそうだ。次には、兄が「裸足で寒い」と泣いているという。母はまた、靴をもって山に入る。亡くなった長男のために何でもしたいと胸がかきむしられるような思いで、久高さんの母はユタに頼ったのだろう。

 今で言う中学生の息子が自宅の裏の山で闘って、骨の一片も拾えない。その母親の苦しみは、海の向こうで戦死した兵士の母とはまた違った、常に実生活の延長線上にある空間に「お母さん」と呼ぶ息子を感じて生きていくという生き地獄である。私なら正気ではいられない。島がいくさ場になったということは、そういうことなのだ。土地に絡みついた狂気を振り払えないまま、そこで生活を続けるしかなかった沖縄。ラジオで戦争が終わったと聞いた時から戦後が始まった本土の感覚とはかなりかけ離れて、「戦後」など今もって実感できないと話す体験者の言葉は真実だと思う。

 国の安全のために、真っ先に捨て石になってしまったこの島で、再び「国防上の重要拠点だ」として軍港と弾薬庫と滑走路が一体になった出撃基地が造られようとしている。集団的自衛権を行使する国になるのなら、間違いなくここは標的だ。それが国の言うように「普天間基地の代替施設」などではなかったことは、もう沖縄県民にはとっくにバレてしまっているのだ。例年、この日は慰霊碑に手を合わせて「戦争のない平和」を漠然と祈る人が多かったが、今年は各地で「基地を押し返して平和な島にしますから、力を下さい」「沖縄の闘いを見ていて下さい」という生き残ったものとその子孫の覚悟が語られていた。戦後70年目の慰霊の日は、かつてない決意に満ちた日になったようだ。


by asyagi-df-2014 | 2015-06-28 06:15 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


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