本からのもの-「ライブ講座 徹底分析! 集団的自衛権」

著書名;「ライブ講座 徹底分析! 集団的自衛権」
著作者;水島朝穂
出版社;岩波書店


 水島は、現況を見据えた中で、「憲法9条2項を変えることなく、自衛隊を『専守防衛』のラインまで引き戻すこと、これが当面の課題となります。そのあとは、軍縮の方向に漸進的に向かう。だからこそ、憲法9条2項を決して変えないことが大切」と、この本の趣旨を明確にします。
 このことについては、「今、これ以上『病』を進行させないために、最低限、1954年の政府解釈のライン(「専守防衛」にまで引き戻すことは、立憲主義と平和主義の崩壊を阻止するという観点から重要な意味を持っています。」と、説明します。
 合わせて、「『積極的平和主義を』をおおらかに語りながら、この国の安全保障の枠組みを、時の政権の道具のように軽やかに改変していく安倍式『政局的平和主義』に対峙するためには、還暦を迎えた政府解釈を丁寧にさかのぼって論理的に精査する内在的検討が求められます。」と、加えます。
 つまり、水島のこの本は、1954年の専守防衛ラインという限定のなかではあるが、集団的自衛権についての「論理的に精査する内在的検討」の本だと言えます。
具体的には、水島は本書の中で次のように区分し、その問題点と目指すべき方向性について詳細に分析しています。
(1限目)憲法と平和を考える「モノ」語り
(2限目)集団的自衛権行使が憲法上認められない理由
(3限目)集団的自衛権の事例を徹底分析
(4限目)集団的自衛権行使以外の「武力の行使」に関わる問題
(5限目)いわゆる「グレーゾーン」の問題
(6限目)憲法政策としての「武力なき平和」
 このすべてに渡って、ここに書くことはしませんが、是非とも一読する必要があります。
例えば、集団的自衛権の詳細な事例や「グレーゾーン」などについてです。また、「憲法政策としての『武力なき平和』」をどのように進めていくかということについてです。
 ただ、私的にいくつかの押さえておきたい部分だけまとめることにします。

 水島は、日本国憲法の安全保障のあり方について次のように説明します。
(1)憲法は、国際協調主義をとります(前文、98条)。対外政策、特に安全保障政策の基本は、国連の集団安全保障に置かれています。ただ、その手段として軍事力を用いた方向は遮断されています。(9条)。
(2)「平和を愛する諸国民(peoples)の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(前文)という形で、全世界のpeoplesの連帯とネットワークのなかで、日本自身の安全も守る方向を選択した。
(3)「全世界の国民が、均しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」(前文)と宣言して日本国民だけでなく、世界中の貧困や人権侵害に苦しむ人びとに対して、積極的な援助・協力を行う姿勢を明確にしている。
 そして、日本国憲法の前文に示された平和主義は、「『自国のことのみに専念』する『一国平和主義』でもなければ、軍事力の即効性に傾斜する『一刻平和主義』でもない。ノルウェーの平和学者J・ガルトウングの言う『積極的平和』(構造的暴力からの解放)の実現を目指す非軍事の積極的平和主義そのものです。」と、指摘します。
 だから、「憲法は、国際協力の障害になるどころか、むしろ『積極的平和』の更なる実現を要請しているのです。」と。
 さらに、「憲法を『制約』と感じるのは、武力行使・威嚇を『普通』にできるような国を目指し、米国との軍事的協力関係を濃密化しかたいと考える人でしょう。」と、断罪する。

 また、安倍晋三政権の「積極的平和主義」について、水島は次のように捉えています。
 水島は、このことについて、「安倍首相の言う『積極的平和主義』は平和主義の一類型では断じてありません。国際協調主義(憲法98条)を悪用して、日本が『専守防衛』としてきた軍事機能の枠を一気に対外的に突破することを、憲法の『平和主義』の文言にかこつけ、美しい字面と耳障りの良さで正当化しようとする典型的なダブルスピークであり(ジョージ・オーウェル『1984)』の『戦争は平和である)』を彷彿させる)、真の平和主義に反する政治主義的利用、端的に言えば、『政治的平和主義』です。」と、断定しています。

 水島の説く安倍晋三政権の「政治的平和主義」というこの表現は、何ともすとんと収まります。
 そして、このことに続けて、「アメリカの地域紛争介入戦略に便乗して、世界のどこかの国・地域を『攻めてしまう』可能性が出てきました。その際の論理は『人道的介入』であったり、人道的救援活動であったりします。この動きは、集団的自衛権を容認する閣議決定により、さらに現実的になりました。それが安倍式『積極的平和主義』なのです。いま、自衛隊の装備・組織・運用思想は、『専守防衛』型とは異なる、外洋型、外征軍型へと転換しつつありますが、『積極的平和主義』はこの動きを加速させています。」と、強く警告します。

 水島は、当然ですが、当書で、集団的自衛権についての考え方を説明します。
(1)個別的自衛権と集団的自衛権は、自国に対し、発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において明確に区別されます。
(2)集団安全保障は、集団的自衛権とは別物です。集団安全保障は、主体が国家ではなく国連なので、敵国や仮想敵国という概念がありません。これに対して、集団的自衛権は仮想敵国を持ちます。自国が攻撃されなくとも、仮想敵国を反撃します。この「自国が攻撃されなくとも」というところがポイントです。
(3)「日本が他国の戦争に自ら巻き込まれにいく」のが集団的自衛権の本質です。集団的自衛権行使容認論では、他国から攻撃されたアメリカを日本が「助けるため」とよく言われますが、その他国から見れば、攻撃していない日本から先に攻撃を受けたことになり、現実として日本はそのまま武力衝突の当事国になるのです。「助けるだけ」では済まず、他人の喧嘩の矢面に立つことになります。他国から攻撃を受けていない日本が他国を攻めてしまう、これが集団的自衛権行使の本質です。
(4)集団的自衛権行使のためには、憲法改正が必要。

 あわせて、水島は、「比較衡量」の考え方の問題について次のように触れます。
 高村正彦自民党副総裁の「血が流れる可能性」「戦争に巻き込まれる可能性」について、あるテレビ番組(2014年6月13日)での「心配な点もあります。一方で、それによって守られる日本国民の幸福追求の権利、まあ、経済的なものも含めてあるわけですね。そういうものの比較衡量というのは、ギリギリになれば、それは政治の責任者が判断すべきこと」との発言に対して、「ドイツ基本法1条(憲法上の「人間の尊厳」の不可侵)は、尊厳と尊厳との比較衡量、命と命の比較衡量を許しません。人間は、常に目的それ自体であって、決して手段として扱われてはならないからです。ドイツの例を挙げずとも、ましてや命と「経済」(お金)は比較衡量されてはならず、生命が当然優先します。安易に比較衡量という言葉を持ち出し、「どっちを選ぶかという判断は国民から選ばれた政治家以外ない」と言い切り、それが「歯止めだ」と居直る。もしもその判断が間違っていたら(戦争の悲惨な結果になったら)、そんな政治家を選んだ国民が悪い、ということになる。」と、こうした『比較衡量』そのものの考え方を一蹴しています。
 この水島の説明は、改めて、憲法の立憲主義の意味を痛切にわからせるものです。

 最後に、水島は、「戦争を起こす人間」について次のように書いています。
 「戦争の犠牲者はいつでも、どこでも民衆です。ですが、民衆もまた、熱狂的に戦争指導者を支持する瞬間があります。戦争に向かう前、人びとは理性を失います。」と。
 また、「権力者は、戦争遂行のための国内世論の『熱狂』と『統合』を効果的に創出するための新たな『サプライズ』を必要とするでしょう。これは歴史を眺めれば、無数の事例が確認できます。」と。
そして、次の水島の次の指摘は、最も肝に命じなければならないことかもしれません。

 「『私は戦争を全くするつもりはない』と言う安倍首相は、集団的自衛権行使という憲法違反を平然とやってのけ、いま、この国の『国力を消耗』させ、『国を滅ぼす』方向に、強引に舵を切っています。そして、この最高権力者は、論理も条理も法理も、道理も事理も通用しない最強の人物であることを忘れてはいけません。」


by asyagi-df-2014 | 2015-06-16 05:30 | 本等からのもの | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


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