「秩父事件130年 民権の新たなうねりを」との社説を読む

  NPJで信濃毎日新聞の社説に「秩父事件」の文字を見つけた。

 「今から130年前の1884(明治17)年。11月1日、埼玉・秩父の椋(むく)神社に秩父困民党の農民ら数千人が集結。明治政府の圧制に抗議して武装蜂起した。」、秩父事件は、確かに、「歴史家の井上幸治さん(故人)は、秩父事件を「自由民権運動の最後にして最高の形態」と位置づけている。」というに相応しいものであった。
 「蜂起軍には、北相木から菊池貫平と井出為吉の2人が幹部として加わっていた。」という菊池貫平と井出為吉という名前も、また懐かしいものである。
 私自身が秩父事件に興味を抱いたのは、秩父事件100年の顕彰を前にした時期であったことを覚えている。

信濃毎日は、秩父事件130年について、次のように主張した。
 「自由民権運動の最後にして最高の形態」であるにもかかわらず、「暴徒」として鎮圧され、歴史の表舞台からは政治的に消されてしまった「事件」であった。
 「特定秘密保護法の強行成立、集団的自衛権の行使容認…。福島原発事故の収束も見えぬまま原発再稼働の動きは進み、米軍基地が集中する沖縄は新たな負担を強いられようとしている。この国の政治に、主権者、住民の意思はどれだけ反映されているのだろう。
 民主主義は、選挙や代議制といった形式を言うのではない。130年前に立ち上がった人々にあった、われわれこそが政治の主体だという意識を私たちは持っているだろうか。権力の横暴に抗する人たちに連帯し、支えていく動きは広がっているだろうか。
 秩父事件や自由民権の歴史に目を向けることは、今の社会、政治に私たち自身がどう向き合うかを問い直すことでもある。現代に民権の新たなうねりを起こしたい。」

 この主張には、三〇年前に日本の民主主義の行く末を考える上で秩父事件を参考にしたいと考えた私自身の当時の思いと繋がる部分がある。
 いやむしろ、状況はより厳しくなっている。
 民権の新たなうねり。
 自己決定権の確立。
 先人達の想いにあらためて繋がっていくことを。

 以下、信濃毎日の引用。






信濃毎日新聞社説秩父事件130年 民権の新たなうねりを -2014年11月3日

 「自由民権の雄叫(おたけ)び」 南佐久郡北相木村の諏訪神社境内にその碑は立つ。秩父事件に参加した村人たちのことを後世に伝えようと建立されたものだ。

 事件が起きたのは、今から130年前の1884(明治17)年。11月1日、埼玉・秩父の椋(むく)神社に秩父困民党の農民ら数千人が集結。明治政府の圧制に抗議して武装蜂起した。

 蜂起軍には、北相木から菊池貫平と井出為吉の2人が幹部として加わっていた。警官隊や鎮台兵(政府軍)との戦いは、秩父から県境を越えて佐久に及んだ。

   <村ぐるみで参加>

 「暴徒」として鎮圧され、事件は終息するが、日本の民主主義の源流を成す自由民権運動の一つの到達点を示した。その意義をあらためて胸に刻みたい。

 背景にあったのは、農民の困窮だ。大蔵卿の松方正義が進めた緊縮財政は、軍拡のための増税と相まって深刻な不況を招いた。生糸価格が暴落し、世界不況による輸出の激減が加わって、養蚕を生業とする農民の生活は大打撃を被る。高利貸からの借金を返せずに破産する農民が続出した。

 借金の据え置きと年賦返済を高利貸に認めさせるよう、秩父の農民たちは前年末から再三、郡役所などに請願している。けれども全く聞き入れられない。高利貸との直接交渉でも拒否された。

 同じ時期、自由民権の主張は山深い秩父の村々にもこだましていた。自由と権利の拡張、立憲政体の樹立を掲げる自由党に入党した村人たちが、農民らを組織。民衆に根を下ろした体制変革の動きが形づくられていく。

 それは一地域を越え、群馬や信州の人々とも結び合う広がりを持った。歴史家の井上幸治さん(故人)は、秩父事件を「自由民権運動の最後にして最高の形態」と位置づけている。

 困民党軍は高利貸の家を打ち壊して借金の証文類を焼却。郡役所を占拠し、「革命本部」を置いた。続々と蜂起に加わった民衆は1万人に達したともいわれる。

 一時は地方権力を掌握するものの、鎮台兵らに包囲されて指導部は解体する。参謀長だった菊池貫平がこの時、推されて総理となった。信州に活路を求めた彼らは、十石峠を越えて佐久に転戦する。

 「雄叫び」の碑文によると、北相木からは200人が挙に応じ、村ぐるみで加担。郡内14カ村からも500人ほどが参加したという。しかし、東馬流(小海町)での鎮台兵らとの激戦で困民党軍は13人の死者を出し、敗走。追撃に遭って四散し、壊滅した。

   <近代日本の分岐点>

 事件に先立つ1880年代初め、民権派による憲法草案が全国各地で作られている。高知の民権家、植木枝盛が起草した「日本国国憲案」は、基本的人権を国家に優越するものとし、圧制に対する人民の抵抗権を明記した。王制を倒したフランスをはじめ近代市民革命を支えた考え方が、秩父事件にもくっきりと表れている。

 当時、自由民権運動の激化事件と呼ばれる武装蜂起は各地で散発し、秩父に呼応する動きもあった。「困民党軍が持ちこたえていれば、群発的な蜂起につながったかもしれない」。秩父事件研究顕彰協議会事務局長の黒沢正則さん=群馬県藤岡市=は話す。

 だが、可能性は現実にならなかった。民権を求める動きを弾圧して明治政府は国権を強めていく。天皇大権の下、「臣民」の権利を制限する大日本帝国憲法が発布されたのは、5年後の1889年。朝鮮に出兵して日清戦争が起きるのは、さらに5年後のことだ。

 その道筋の先に、昭和の戦争がある。秩父事件は、日本の近代を方向づける分岐点でもあった。

   <政治の主体として>

 敗れたとはいえ、明治維新から20年を経ない時期に、自由や平等、民主主義を求めて国家権力に立ち向かった人々がいたことに、目を見張る思いがする。そこには、民衆の自由でたくましい精神が息づいていた。

 今、私たちは国民主権を定める憲法を持ち、基本的人権を保障されてもいる。しかし、当たり前のもののように思っている民主主義は、空洞化し始めていないか。

 特定秘密保護法の強行成立、集団的自衛権の行使容認…。福島原発事故の収束も見えぬまま原発再稼働の動きは進み、米軍基地が集中する沖縄は新たな負担を強いられようとしている。この国の政治に、主権者、住民の意思はどれだけ反映されているのだろう。

 民主主義は、選挙や代議制といった形式を言うのではない。130年前に立ち上がった人々にあった、われわれこそが政治の主体だという意識を私たちは持っているだろうか。権力の横暴に抗する人たちに連帯し、支えていく動きは広がっているだろうか。

 秩父事件や自由民権の歴史に目を向けることは、今の社会、政治に私たち自身がどう向き合うかを問い直すことでもある。現代に民権の新たなうねりを起こしたい。


by asyagi-df-2014 | 2014-11-05 05:38 | 書くことから-いろいろ | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


by あしゃぎの人
画像一覧