沖縄から-毒ガス移送 日米極秘合意

 朝日新聞は、2014年7月25日、「 毒ガス移送経費、極秘の日米合意 71年、沖縄側に隠し」と報じた。
 「沖縄のため」というフレーズの傲慢さやまやかしのやり方は現在も変わらない。

「普天間移設にからむ振興策など、沖縄の不満をかわし、要求を逆手にとって日米の政策を実現していく構造は今も同じだ。」との我部政明さんの指摘が、当を得ている。
 また、「当時、毒ガス移送問題に取り組んだ有銘政夫さん(82)は、住民に知らされないまま化学兵器が持ち込まれたことが大きな問題だという。『基地内に何があるのか今も分からない』」とも報じている。

 さらに、今月20日未明、防衛省は米軍普天間飛行場の移設予定地、名護市辺野古のキャンプ・シュワブ内に移設工事のための資材を搬入。県民を欺いたとの批判もあがった。有銘さんは言う。「沖縄は犠牲にし、米国の要求には応じる日本政府の姿勢は、少しも変わらない」と。
 以下、朝日新聞引用。


 沖縄返還の前年、米軍基地に貯蔵されていた大量の毒ガス兵器を米領内に移送する際、日本政府が経費の一部を負担することを、当時の琉球政府には隠したまま米側と合意していたことが明らかになった。24日に公開された外務省の極秘文書に記されていた。沖縄では毒ガスの移送ルートをめぐって反発が続いており、日本政府が方針を押しつけたとの批判を避けるための筋書きを「口裏合わせ」していた。

 問題の文書は、1971年4月、沖縄に派遣されていた高瀬侍郎大使にあてた外務省からの公電。

 69年に米紙の報道で、沖縄の米軍基地で毒ガス漏出事故が起き、米兵が搬送されたことが明らかになり、地元で撤去を求める声が高まった。71年1月からハワイ南西の米ジョンストン島へ船で運ばれることになったが、桟橋までの輸送経路になった美里村(現・沖縄市)を中心に反対運動が強まり、2回目以降の輸送は住民地域を迂回(うかい)して軍用地内を通ることに決まった。だが基地内の道路建設費20万ドルを米政府は支出せず、最終的に日本政府が負担することになった。

 文書は、山中貞則総務長官(当時)の言葉として「日本側がこれを負担することについて腹を決めた次第であるが、過早(かそう)に沖縄側に内示することは外部に洩(も)れる公算が大きく、新ルートを受諾させるために琉政(琉球政府)に加担したのだという左翼の宣伝に乗ることになるので、控えてきた次第」とし、「御膳立てが整った時」に沖縄の行政組織、琉球政府の屋良朝苗(やらちょうびょう)主席に伝えるのが「最も好ましい」としている。

 「御膳立て」とは、①屋良主席が新ルートについて地元の納得を得る②主席が、沖縄を統治する米国民政府の最高責任者・ランパート高等弁務官に、費用負担を要請する③弁務官は断る④主席が日本政府に負担を要請する――との筋書き。弁務官がその前に屋良氏に日本負担が決まっていることを明かさないように「十分打ち合わせおくよう配慮願いたい」と指示している。

 同様の記載は、米国が公開している弁務官と米陸軍省の電文にもあり、日本側の手法を「歌舞伎の台本」などとしている。(川端俊一)
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 〈我部政明・琉球大教授(国際政治学)の話〉 沖縄への毒ガス配備は60年代前半に始まった。非人道的な兵器であり、米国外での貯蔵はほとんどなく、基地として自由に使用できる沖縄に置かれたのだろう。移送に際し、沖縄に恩を売るような形で「口裏合わせ」をしたやり方は実に巧妙だ。普天間移設にからむ振興策など、沖縄の不満をかわし、要求を逆手にとって日米の政策を実現していく構造は今も同じだ。


「沖縄は犠牲、変わらぬ政府」 毒ガス巡る外交文書

 24日公開された政府の外交文書に、沖縄からの毒ガス移送に関する日米の「口裏合わせ」が記されていた。経費支出を沖縄から要望させる形をつくり、批判をかわそうとした日本政府。関係者は40年以上前の不安の記憶とともに、現在につながる問題の根深さを思い知らされている。

 「日本の外交姿勢に気が抜けるようだ」。沖縄県沖縄市に住む仲宗根正雄さん(75)は言う。1971年、陸上輸送の経路となった沖縄本島中部の旧・美里村登川地区で地元の対策委員を務めた。

 69年7月、米紙ウォールストリート・ジャーナルが、沖縄の米軍知花弾薬庫で致死性の神経ガスが漏出し、米兵が病院に搬送された事故を特報。日本のメディアも報じた。「やはりあったか」。仲宗根さんは思った。弾薬庫内で働く母から不思議な話を聞いていたからだ。作業中に突然、避難の指示が出る。敷地内でなぜか動物が飼われている。「危険な兵器があるのでは」。疑問は的中した。

 琉球政府の屋良朝苗主席は「沖縄は世界最悪の基地」と発言し、早急な撤去を要求。米政府は、GBガス(サリンなど)の漏出を認め、撤去を表明した。

 だが米国内の移転候補地では反対が強まる。ようやくジョンストン島への移送が決まり、70年12月に輸送経路が発表されると、再び衝撃が広がった。トラックで運ぶ桟橋までの沿道には小学校もある。中学教師だった仲宗根さんも、この経路での移送に反対する運動の先頭に立った。

 米側は「安全」を強調。早期撤去を求める屋良主席は現地を訪れ、移送への理解を求めた。屋良氏は米国民政府の任命ではなく、沖縄の人々が初めて選挙で選んだ主席だ。仲宗根さんら教職員が支援の中心だった。説明会で安全対策はこれから考えるという主席に、仲宗根さんは「無責任では」と詰め寄る。「あの時だけは屋良さんが『米軍を守る主席』に見えた」

 2回目以降は経路を変えることなどを条件に地域は阻止行動を思いとどまる。

 移送が行われた71年1月13日、学校は休校となり、住民は地区外に避難。仲宗根さんら委員は家畜の管理や出火警戒のため地域に残った。毒ガスを積んだ車列が学校の前を通る時、道沿いで写真を撮ろうとすると、上空のヘリコプターが急に近づいてきたという。

 2回目の移送は7月。反対運動が強い地域を迂回(うかい)するための道路建設費をめぐり、「口裏合わせ」は行われた。

 屋良主席は山中貞則・総務長官(当時)に陳情。屋良氏の日誌によると、山中氏は目の前で他省に電話し、20万ドル支出を決める。「山中大臣でなければできぬ芸当」と称賛するが、日米の合意はすんでいた。政府が金で計画を押しつけるのではなく、沖縄の要請を受け入れる形をつくったことがうかがえる。

 当時、毒ガス移送問題に取り組んだ有銘政夫さん(82)は、住民に知らされないまま化学兵器が持ち込まれたことが大きな問題だという。「基地内に何があるのか今も分からない」

 今月20日未明、防衛省は米軍普天間飛行場の移設予定地、名護市辺野古のキャンプ・シュワブ内に移設工事のための資材を搬入。県民を欺いたとの批判もあがった。有銘さんは言う。「沖縄は犠牲にし、米国の要求には応じる日本政府の姿勢は、少しも変わらない」


 


by asyagi-df-2014 | 2014-07-26 05:31 | 沖縄から | Comments(0)

壊される前に考えること。そして、新しい地平へ。「交流地帯」からの再出発。


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